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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第十話 町を救ったのは、奇跡ではありません

 アンナが目を覚ましたあと、エステルは集会所の長椅子へ強制的に寝かされた。


「寝てください」と頼まれたのではない。


 治療官のエッダに肩を押され、毛布を三枚かけられたうえで、「起き上がったら縛るよ」と脅されたのである。


「調査の途中です」


「だから何だい」


「祈祷塔では、赤い神託墨が今も暖房神託へ干渉しています。アンナさんを連れ去った一節は修正しましたが、町全体の凍結は――」


「殿下と記録官が、壁の文章を全部写している」


「殿下の字は、判読が難しい可能性があります」


「本人の前で言うんじゃないよ。あの男、あれでも少しは気にしているんだから」


「気にしているのですか」


「そこへ食いつくんじゃない」


 エッダは呆れたように言い、エステルの額へ濡れた布を置いた。


 冷たい布が気持ちよかった。


 祈祷塔から戻ったあと、身体は温まったはずなのに、今度は熱が出始めている。枷で傷ついた両手首も赤く腫れ、神託を修正するために刺した指先はじくじくと痛んだ。


「アンナさんは、本当に大丈夫なのですか」


「五回目だよ、その質問」


「四回です」


「数えているなら、もう聞くんじゃない」


「返答が毎回少しずつ違いますので」


「身体が温まるたびに状態は変わるんだよ。治療は文書じゃない。さっきまで正しかった見立てが、十分後には変わることもある」


 エステルは黙った。


 エッダは薬を混ぜる手を止め、横目でこちらを見る。


「何だい。急に大人しくなって」


「勉強になりました」


「そこは反省したと言うところじゃないのかい」


「同じ質問を繰り返したことについては、申し訳なく思っています。ただ、容体が変化するなら、確認自体は必要だったとも思います」


「まったく、折れないねえ」


 エッダは苦笑した。


「アンナは助かるよ。凍傷も軽い。少し肺を冷やしているから、しばらく咳は残るだろうけどね」


「そうですか」


 胸の奥に入っていた力が、ようやく抜けた。


「今度こそ安心したかい」


「はい」


「だったら目を閉じな」


「眠れません」


「眠る努力をしな」


「努力して眠れるものなのでしょうか」


「口を閉じていれば、少なくとも私の頭痛は減る」


 エステルは言われたとおり目を閉じた。


 集会所には、町中から集められた老人や子どもが身を寄せている。薪の燃える音、食器がぶつかる音、誰かの咳。低く抑えた会話の中に、ときおりアンナの声が混ざった。


 リーナが何度も毛布を掛け直しているらしい。


「お母さん、暑い」


「我慢して。さっきまで冷たかったんだから」


「でも暑いよ」


「暑いくらいがいいの」


「よくない。汗かいてる」


「汗が出るなら、生きてるってことよ」


「お母さん、変なの」


 そのやり取りを聞きながら、エステルは少し笑った。


 目を閉じていると、王都でのことが浮かびそうになる。


 父の差し出した供述書。


 母の涙。


 ミレイユの、「どうして私のために我慢してくれないの」という声。


 エステルは目を開けた。


 眠りたくない。


 眠れば夢を見る気がした。


「エッダさん」


「今度は何だい」


「仕事をください」


「病人にさせる仕事はない」


「何もしないでいるほうが、体調が悪くなります」


「そんな身体の仕組みは聞いたことがないよ」


「考える時間が増えますので」


 その一言に、エッダの表情が変わった。


 追及されると思ったが、老治療官は少しだけ目を細め、薬の器を机へ置いた。


「考えたくないことがあるのかい」


「ありません」


「今のは嘘だね」


「殿下の呪いがなくても分かるのですか」


「私を何年、治療官として働いていると思っているんだい。身体より、口のほうが分かりやすい患者もいる」


「私は、分かりやすいでしょうか」


「分かりにくく見せようとして、余計に分かりやすくなっている」


 エステルは毛布の端を指でつまんだ。


「考えたところで、答えが出ないのです」


「答えが出ないことを考えるのも、人間の仕事だよ」


「効率が悪いです」


「人間なんて、だいたい効率が悪いものさ。好きな相手には嫌われるようなことを言うし、謝りたいのに言い訳から始める。捨てられたのに、捨てた相手の事情を考える。効率だけで生きられるなら、治療官の半分は失業してるよ」


 エステルは返事をしなかった。


 エッダは、それ以上聞かなかった。


 代わりに、机の上から一冊の薄い帳面を取り、エステルの腹の上へ置いた。


「町の臨時避難者名簿だよ。暇なら、人数を数えておくれ。食事の配分に使う」


「年齢別に分けますか」


「できるならね。乳児、子ども、大人、老人。それと持病のある者」


「食物の禁忌も確認すべきです」


「そこまでやるなら、本人たちに聞きな。帳面には書いてない」


 エステルは起き上がろうとした。


 エッダが額を指で押し戻す。


「寝たままやりな」


「聞き取りが必要です」


「自分で歩かず、誰かを呼びな」


「しかし――」


「人を使うことを覚えな。何でも自分でやる人間は、働き者じゃない。ただの迷惑な病人になることもある」


 厳しい言葉だった。


 エステルは反論しかけ、やめた。


「では、お願いしてもよろしいでしょうか」


「誰にだい」


 エステルは集会所を見回した。


 入り口のそばで、町長グスタフが住民たちへ薪の配分を説明している。


 その声は大きいが、誰も素直に従ってはいない。


「町長、アンナを孫と認めなかったって本当なのか」


「今は薪の話をしている!」


「それで、名簿から外された子が凍ったんだろ!」


「町長だけの責任じゃない。俺たちだって知っていた」


「知ってたのは一部だ!」


「知らなかったふりをしてたんじゃないのか!」


 救出の喜びが落ち着いた途端、抑え込まれていた怒りが噴き出している。


 グスタフは顔を赤くし、声を張り上げた。


「責任については、暖房を戻したあとで話す! 今は町を凍らせないことが先だ!」


「都合のいいときだけ、あとで話すのか!」


「お前たちだって、私が町長だから任せてきたんだろう!」


 誰かが椅子を蹴った。


 子どもたちが怯え、母親が耳を塞ぐ。


 エステルは帳面を閉じた。


「エッダさん」


「行かせないよ」


「ですが」


「殿下が戻れば収まる」


「殿下が恐怖で黙らせても、納得したことにはなりません」


「寝台から起きられない女が、町の喧嘩まで校正する気かい」


「喧嘩を直すつもりはありません」


「じゃあ、何をするんだい」


「順番を決めます」


 エステルは息を吸い、声を張った。


「皆さん、申し訳ありません!」


 集会所の視線が、一斉に集まった。


 大勢の前で声を上げることには慣れていない。神託院で説明するときは、相手が数人だった。王宮の会議でも、エステルはジュリアンの後ろで資料を渡す側だった。


 声が少し震えた。


「町長の責任について話し合うことは必要です。ただし、現在の避難者数と食料の配分が確認できていません。このままでは、今夜の食事が足りなくなる可能性があります」


「今、それが関係あるのか?」


 一人の男が言う。


「あります。空腹になれば、今より皆さんの機嫌が悪くなります」


 一瞬の沈黙のあと、何人かが吹き出した。


「そりゃそうだ」


「もう十分悪いけどな」


「うちの旦那は食っても機嫌が悪いよ」


「それは今、関係ないだろ!」


 張りつめていた空気が、ほんの少し緩む。


 エステルは帳面を持ち上げた。


「食事の禁忌や持病について、確認を手伝っていただける方はいませんか。私は現在、立ち上がることを禁止されています」


「禁止されても、立ちそうな顔をしてるよ!」


 エッダが大声で付け加える。


 今度は、はっきりと笑いが起きた。


 中年の女性が手を上げる。


「私が聞いて回るよ。宿屋をやってるから、町の人間の顔はだいたい分かる」


「ありがとうございます。乳児と高齢者を先にお願いします」


「分かった。あんたは寝てな」


 もう一人、若い女性が前へ出る。


「私も手伝います」


「では、集会所に来ていない方がいないか、確認をお願いします。特に住民名簿へ載っていない方がいれば、必ず――」


 言いかけたところで、集会所が再び静かになった。


 住民名簿。


 今、この町で最も痛い言葉である。


「……名簿に載っているかどうかにかかわらず、この町で暮らしているすべての方を確認してください」


 エステルは言い直した。


 グスタフが、苦しげに目を伏せた。


 そのとき、集会所の扉が開いた。


 冷たい風とともに、アルブレヒトたちが戻ってくる。


 彼の後ろには記録官が二人おり、両腕いっぱいに紙を抱えていた。


「何をしている」


 アルブレヒトは長椅子から上半身を起こしているエステルを見て、眉間に深い皺を刻んだ。


「避難者名簿を整理しています」


「休めと言った」


「寝たまま行っています」


「起きている」


「上半身だけです」


「子どもの言い訳か」


「契約には、横になる角度まで記載されていません」


 アルブレヒトは何か言おうとした。


 だが、住民たちが見ていることに気づき、口を閉じた。


「あとで話す」


「契約書の追記についてですか」


「お前の休み方についてだ」


「それは業務内容ではありません」


「あとで話すと言った」


 声が低くなる。


 エステルはひとまず黙ることにした。


 これ以上続ければ、町の人々がまた怯える。


 少しは正しい伝え方を考えられるようになったと思う。


「写しを」


 アルブレヒトが記録官へ命じた。


 大量の紙がエステルの前へ置かれる。


「祈祷塔と集熱室にあった文章は、すべて写した。赤い部分には印をつけてある」


「ありがとうございます」


 最初の一枚を開いたエステルは、すぐに顔をしかめた。


「殿下」


「何だ」


「この文字は、どなたが写しましたか」


「私だ」


「こちらの三文字は、原文では同じ文字だったのでしょうか」


「違う」


「同じ形に見えます」


「見えるだけだ」


「原文を正確に写せていなければ、資料として使えません」


 集会所のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。


 アルブレヒトが住民たちを見回すと、全員が慌てて顔をそらす。


「記録官の写しを読め」


「殿下の資料にも、比較できる部分はあります」


「では使え」


「努力します」


「その返事は、できないと言っているのと同じだろう」


「今回は、本当に努力が必要です」


 アルブレヒトの眉間の皺が、さらに深くなった。


 マティアスが紙を覗き込み、思わず吹き出す。


「殿下、この字は何です。熊が歩いた跡ですか」


「鉱山へ戻れなくしてほしいのか」


「読めると言ったわけじゃありません」


「もうよい」


 アルブレヒトは不機嫌そうに自分の写しを取り上げた。


 それでも捨てずに、エステルが読めるよう横へ並べる。


 彼なりに役立てようとしているらしい。


 エステルは記録官の写しと照合しながら、暖房神託の構造を追った。


 赤い墨で加えられた文章は、三箇所。


 一つは、温もりを受ける者を住民名簿の登録者へ限定する条項。


 二つ目は、住民資格を持たない者から熱を回収し、集熱室へ送る条項。


 そして三つ目。


「これは……」


「何か分かったのか」


 アルブレヒトが隣へ座る。


 距離が近い。


 軍服についた雪の匂いと、革の匂いがした。


 エステルは少し横へずれようとしたが、長椅子の端まで毛布が積まれている。


「この一節です」


 エステルは紙を指した。


「『集めた熱は、北境代理官の承認により、指定地へ再分配する』と書かれています」


「町へ戻すのではないのか」


「指定地へ、です」


「指定地とはどこだ」


「本文にはありません。別の契約書で指定する形式です」


 町長グスタフの顔色が変わった。


 アルブレヒトがそれを見逃さない。


「知っているな」


「いえ、私は……」


 首筋の傷が赤く浮かんだ。


 グスタフの視線が傷へ落ちる。


 昨日から、アルブレヒトの前では中途半端な嘘が通じないことを、町の者も理解し始めている。


「三日前、オルセン代理官が町へ来ました」


 グスタフは観念したように言った。


「住民名簿を新しいものへ入れ替えると。北境全体で税の記録を統一するためだと説明されました」


「私の許可は出していない」


 アルブレヒトの声が冷たくなる。


「ですが、代理官は皇都からの命令だと」


「命令書を見たか」


「印がありました」


「内容を読んだか」


「私は古い帝国法の文章には詳しくなく……」


「読めない文書へ署名したのか」


「町のためだと思ったのです!」


 グスタフが声を上げた。


「代理官は、新しい名簿を導入すれば、町へ補助金を出すと言った。暖房神託の出力も改善すると。薪の値段は上がり、鉱山の収入も落ちていた。断れば、ラウゼンは冬を越せないと――」


「だから、何を変更するか確認せずに神託へ触れさせたのか」


「神託を変更するとは聞いていませんでした!」


 傷は反応しない。


 そこは本当なのだろう。


 エステルは別の写しへ目を通した。


「新しい住民名簿に、アンナさんが載っていなかっただけではありません。町の外から来た季節労働者、結婚登録を済ませていない夫婦、税を滞納した世帯も除外されています」


 集会所がざわつく。


「税を払えないだけで、家から追い出されるのか」


「うちの夫は秋から鉱山で働いてる。でも正式雇用は来月だ」


「妹夫婦は、神官が逃げたせいで婚姻登録ができてない!」


「じゃあ、次に消えるのは誰だったんだ」


 恐怖が広がっていく。


 エステルは帳面と写しを見比べた。


「除外された者から奪った熱は、指定地へ送られる。三日前に名簿が交換され、同じ日に神託が暴走した」


「指定地を見つければ、熱を取り戻せるか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「可能性はあります。ただし、その前に赤い条項を停止しなければ、熱を戻しても再び奪われます」


「直せるのか」


「一時的には」


「今度は血を使うな」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「先ほどから、私の顔にはいろいろ書かれているのですね」


「分かりやすくなってきた」


 それは褒められているのだろうか。


「今回は、町の人々の言葉を使います」


 エステルは住民たちを見回した。


「暖房神託は、この町で暮らす者の共通認識によって動いています。神託が名簿だけを正しいと判断しているなら、町の皆さん自身で、それを否定してください」


「どうやって」


 マティアスが尋ねる。


「今、ここで新しい住民名簿を作ります」


 グスタフが驚いて顔を上げた。


「町長の許可なく?」


「現行の名簿は、代理官によって交換されたものです。正当な手続きを経たか確認できません」


「しかし、新しい名簿を作るにも規則がある」


「規則を守っている間に、町が凍ります」


「あなたは手続きを重んじる人ではなかったのか」


「重んじます」


 エステルは答えた。


「ですが、手続きは人を守るためにあります。人を見殺しにするため、手続きが存在するのではありません」


 自分で口にしながら、少し驚いた。


 数日前のエステルなら、まず正規の申請書を探していただろう。


 正しい手順を踏むことこそが、公平だと信じていた。


 今も、その信念を捨てたわけではない。


 けれど、正しさを守るために人が死ぬなら、どこかが間違っている。


「名簿には、誰を載せる」


 アルブレヒトが尋ねる。


「この町で今夜を越したいと望む、すべての人です」


「犯罪者でもか」


「犯罪の処罰と、凍死させることは別です」


「旅人は」


「一晩だけでも、温もりを必要とするなら」


「町の住民ではない」


「暖房神託の元の文章には、『この地に温もりを求めるすべての者』とありました」


「分かった」


 アルブレヒトは迷わず立ち上がった。


「紙を集めろ。書ける者は全員、名前を記録しろ。書けない者からは聞き取れ」


 住民たちが動き始める。


 グスタフだけが立ち尽くしていた。


「町長」


 エステルは彼を呼んだ。


「あなたにも、お願いがあります」


「私に何をしろと」


「アンナさんの名前を、最初に書いてください」


 グスタフの顔が歪んだ。


 集会所の奥で、リーナがアンナを抱いている。


 娘を守るように腕へ力を込めたまま、町長を見ていた。


「私が書けば、過去のことまで許されるのか」


「許されません」


 エステルは答えた。


「名簿へ名前を書くことは、謝罪でも償いでもありません。当然行うべきだったことを、今するだけです」


「厳しいな」


「優しい言葉をご希望ですか」


「いや」


 グスタフはゆっくりと、記録用の机へ歩いた。


 ペンを手に取る。


 だが、最初の文字を書こうとして、手が震えた。


「綴りは、これでよかったか」


 彼はリーナへ尋ねた。


 リーナはしばらく黙っていた。


「アンナ・リーナ・ベルクです」


「息子の姓は使わないのか」


「今まで認めなかった人が、今さら簡単に与えないでください」


 グスタフの肩が落ちた。


「……そうだな」


 彼は、言われたとおりの名を書いた。


 アンナ・リーナ・ベルク。


 少女の名前が紙へ記されると、祈祷塔の方向から低い音が響いた。


 地面の下を、何か温かなものが流れていく。


 続いて、住民たちが次々に名前を書き始める。


 税を滞納した老人。


 町の外から働きに来た鉱夫。


 婚姻登録のできなかった夫婦。


 親を失い、誰の家にも正式には属していない子ども。


 一人の名前が加わるたび、床下の水路から氷の砕ける音が聞こえた。


「神託が、新しい名簿を認識しています」


 エステルは写しの赤い文字を見つめた。


 ――住民名簿に記された者。


 その一節は残っている。


 だが、名簿の側を人間が書き直したことで、選別の意味が変わり始めていた。


「まだです」


 エステルは起き上がった。


 エッダが止めようとする。


「今度は必要です」


「何が必要なんだい」


「祈祷塔で、神託へ新しい名簿を読み上げます」


「歩けるのか」


「歩けます」


 アルブレヒトの傷は反応しなかった。


 彼はしばらくエステルを見たあと、外套を手に取った。


「私も行く」


「字を写す必要はありません」


「二度と言うな」


     ◇


 夕暮れの祈祷塔に、町の者たちが集まった。


 エステルは塔の入口へ立ち、新しく作られた名簿を開いた。


 全員分を読み上げれば、長い時間がかかる。


 それでも、省略してはいけないと思った。


 一人一人が、この町にいると認めるための名簿なのだから。


「アンナ・リーナ・ベルク」


 最初の名を読む。


 塔の文字が淡く光った。


「リーナ・ベルク。マティアス・ベルン。グスタフ・ローゼン。エマ・クレイン。ヨハン・クレイン――」


 名前を読み続ける。


 途中で咳が出た。


 アルブレヒトが水筒を差し出す。


「休め」


「まだ半分です」


「喉を壊せば、残りを読めない」


「では、一口だけ」


「好きなだけ飲め」


「その表現では、全部飲んでもよいことになります」


「今、それを気にするのか」


 周囲から笑い声が上がった。


 エステルは水を飲み、再び読み始める。


 最後の名は、今日、雪で足止めされただけの旅商人だった。


「ハインツ・オルガー」


 読み終えた瞬間、祈祷塔全体が震えた。


 赤い文字へ亀裂が走る。


 地下でせき止められていた温泉水が、一気に町へ流れ出した。


 石畳の下から、低い轟音が響く。


 家々の壁を覆っていた霜が溶け、屋根から水滴が落ち始める。


 凍結していた水路から、白い蒸気が立ち上った。


「暖かい……」


 誰かが呟いた。


 幼い子どもが手袋を外し、地面へ手を当てる。


「床があったかいよ!」


 歓声が広がった。


 人々は抱き合い、泣き、笑った。


 マティアスがエステルの肩を叩こうとして、アルブレヒトの視線に気づき、途中で手を止める。


「何ですか、その顔は」


「怪我人を叩くな」


「喜んでるだけですよ!」


「口で言え」


 マティアスは不満そうにしながらも、エステルへ向き直った。


「ありがとう」


「私は文章を読んだだけです」


「そういうところだぞ」


「何がですか」


「素直に礼を受け取れ」


 エステルが困っていると、アンナを抱いたリーナが前へ出た。


「この人が一人で助けたんじゃありません」


 住民たちが静かになる。


 リーナはエステルを見た。


「マティアスも、殿下も、町のみんなも名前を言った。町長も、遅すぎたけどアンナの名前を書いた。この人一人の奇跡じゃない」


「はい」


 エステルはうなずいた。


「奇跡ではありません。皆さんが、自分たちで名簿を書き直した結果です」


「でも」


 リーナは少し迷い、続けた。


「最初に、神託がおかしいと言ってくれたのは、あなたです」


 エステルは返す言葉を探した。


 いつものように、自分一人の功績ではないと訂正すべきだろうか。


 それとも、礼を受け取るべきなのか。


 迷っていると、隣からアルブレヒトの低い声がした。


「礼を言われたら、ありがとうと答えろ」


「命令ですか」


「助言だ」


「……ありがとうございます」


 エステルが言うと、リーナは笑った。


 アンナも母親の腕の中から手を伸ばす。


「お姉ちゃん、ありがとう」


「どういたしまして」


 今度は、少しだけ早く答えられた。


 町に熱は戻った。


 だが、祈祷塔の地下から赤い墨が消えたわけではない。


 奪われた熱の一部も、どこか別の場所へ送られたままだ。


 その夜、帝国兵が代理官オルセンの残した書類を調べると、一枚の送熱指定書が見つかった。


 指定地として記されていたのは、使われていないはずの北部離宮。


 そして署名欄には、オルセンの名ではなく、聖王国神託院副院長ボルデの印が押されていた。


 エステルが、かつて最も信頼していた上司の印だった。


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