第十一話 十二の神々では、数が合いません
ボルデ副院長の印が押された送熱指定書を前にしても、エステルはすぐには何も言えなかった。
ラウゼンの町に熱が戻ったのは、日が沈んでから一時間ほど経った頃だった。
住民たちは集会所に残り、凍結で壊れた家の修理や、避難者の寝床について話し合っている。通りには久しぶりに人の声が戻り、家々の煙突から上がる煙にも、どこか安堵したような温かさがあった。
そんな町長室の片隅で、エステルは一枚の書類を見つめていた。
机を挟んだ向こうにはアルブレヒトが立っている。
送熱指定書は、北境代理官オルセンが町長へ提出した書類の束から発見された。ラウゼンの住民から奪った熱を、使われていない北部離宮へ送ることを認める文書である。
末尾には、聖王国神託院副院長ボルデの署名と、公印があった。
「偽物です」
長い沈黙のあと、エステルは言った。
アルブレヒトは机へ片手をついた。
「どこを見て、そう判断した」
「判断したのではありません。可能性を述べました」
「今、偽物だと言い切った」
「……言い方が不正確でした」
「珍しいな」
「私も間違えます」
「知っている」
即答されると、少し腹が立つ。
けれど、今は言い返す気になれなかった。
エステルは送熱指定書を持ち上げ、灯りへ透かした。
「印の形は、神託院副院長が使用するものと一致しています。ただし、公印は偽造できます。私の名が刻まれた校正筆が用意されていたように」
「署名は」
「似ています」
「本人のものか」
「分かりません」
エステルは答えながら、署名の線を目で追った。
ボルデは、文字を書く際に右上がりの癖がある。
特に名前の最後にある「デ」の古い綴りを、ほかの者より大きく跳ね上げる。目の前の署名にも、同じ癖があった。
だが、似せることはできる。
エステルの筆跡も似せられたのだ。
「副院長は、赤い神託墨を使用するような方ではありません」
口にした瞬間、アルブレヒトの首筋に赤い傷が浮いた。
エステルは息を止めた。
傷は強く反応したわけではない。
細い赤い線が、一瞬だけ皮膚の上を走った程度だった。
「今のは嘘か」
アルブレヒトが尋ねる。
「嘘をついたつもりはありません」
「ならば、お前自身が信じ切れていない」
言われたくなかったことを、正確に指摘された。
エステルは書類を机へ置いた。
「副院長には、長くお世話になりました」
「だから無実だと?」
「そうは言っていません」
「では、何を言っている」
「分かりません」
自分の口から出た答えに、エステル自身が戸惑った。
アルブレヒトも少し目を細める。
「分からない?」
「副院長が関与したとは思いたくありません。ですが、私を拘束した際の態度には不自然な点がありました。証拠品の封印を拒み、魔力検査も行おうとしなかった」
「お前を信じるとも言わなかった」
「はい」
「あの男が犯人なら、どうする」
「調べます」
「感情の話をしている」
「それは……」
エステルは言葉を探した。
怒るだろうか。
悲しむだろうか。
裏切られたと思うのか。それとも、自分が気づけなかったことを悔やむのか。
「分かりません」
また同じ答えになった。
「ですが、私が知っている副院長と、今回の証拠が示す人物像は一致しません。どちらかが間違っているはずです」
「両方正しい可能性もある」
「どういう意味ですか」
「人間は一つの顔だけで生きているわけではない。お前に親切だった男が、別の場所では罪を犯していたとしても矛盾しない」
エステルは唇を結んだ。
理屈では分かる。
だが、納得したくなかった。
仕事を始めたばかりの頃、エステルは周囲とうまく話せなかった。
間違いを指摘するたび、先輩たちは嫌な顔をした。仕事を覚える前から生意気だと言われ、昼食へ誘われなくなったこともある。
そんなとき、ボルデだけは言った。
――校正官が間違いを見逃せば、誰が見つける。嫌われることを恐れるな。ただし、嫌われた理由を考えることは忘れるな。
その言葉に、エステルは何度も救われた。
「殿下は」
エステルは顔を上げた。
「信じていた方が、ご自分を裏切ったことはありますか」
「ある」
アルブレヒトは迷わなかった。
「そのとき、どうなさいましたか」
「処刑した」
あまりにも簡潔な返事だった。
エステルは数秒、彼を見つめた。
「もう少し、途中の説明はないのですか」
「何を知りたい」
「なぜ裏切ったのか。どのように確かめたのか。処刑するまでに迷わなかったのか」
「兄の食事へ毒を入れ、罪を私の部下になすりつけた。証拠と証言を三度確認した。本人も認めた。処刑は法に従った」
「その方は、殿下にとって」
「乳兄弟だった」
エステルは言葉を失った。
アルブレヒトの表情は変わらない。
だが、首筋の傷とは別に、右手の親指が何度も人差し指の関節を擦っていた。
癖なのだろうか。
落ち着かないときに出る仕草かもしれない。
「悲しかったですか」
「今、関係があるか」
「私の質問には答えたくないとおっしゃれば、それで構いません」
「悲しかった」
傷は反応しなかった。
アルブレヒトは窓の外へ視線を向ける。
「だが、悲しみは判決を変える理由にならない」
「私も、そうしなければなりませんか」
「私のやり方を真似る必要はない」
「では、なぜ話してくださったのです」
「お前が聞いたからだ」
本当に、それだけなのだろう。
相手が欲しがる慰めを考えず、聞かれたことへ答える。
冷たいようでいて、エステルにはありがたかった。
「北部離宮へ行きます」
エステルが言うと、アルブレヒトは即座に首を横へ振った。
「明日だ」
「指定地へ送られた熱が、何に使われているか分かりません。今夜のうちに確認すべきです」
「お前は熱がある」
「下がりました」
「誰が言った」
「自分で分かります」
「治療官は下がっていないと言った」
「エッダさんに聞かれたのですか」
「聞いた」
「私の体調を、本人に無断で?」
「治療官へ確認することに、本人の許可が必要か」
「私の個人的な情報です」
「お前が自分の体調を正しく申告しないからだ」
「申告しています」
「祈祷塔で倒れた」
「倒れたのではなく、膝の力が――」
「同じだ」
「違います」
アルブレヒトは机を指先で叩いた。
「今夜は休め」
「命令ですか」
「そうだ」
「契約に、勤務時間外の行動を制限する条項はありません」
「今から追加する」
「私の同意なしには追加できません」
「ならば雇用主としてではなく、北境の統治者として命じる」
「その権限を、個人の休養へ使うのは越権です」
「自分を壊そうとする女を止めるのに、権限の名前など何でもいい」
アルブレヒトの声が、わずかに大きくなった。
エステルも腹が立った。
「私は壊れようとしていません」
「ならば、なぜ休まない」
「休んでいる間にも、証拠を消されるかもしれないからです!」
言い返した声が、思った以上に部屋へ響いた。
廊下にいた騎士が扉の隙間から中を覗き、アルブレヒトに睨まれて慌てて消えた。
エステルは息を整えた。
「副院長が関わっているなら、私が罪人にされた件ともつながっています。北部離宮に、私の無実を証明できるものがあるかもしれません」
「だから焦っているのか」
「焦ってはいません」
傷が赤くなった。
アルブレヒトは何も言わず、その傷を指で示した。
「……焦っています」
「認めろ」
「認めました」
「ならば、今夜は行かない」
「なぜですか」
「焦っている者は見落とす。お前が最も嫌うことだろう」
それを言われると、反論しづらい。
エステルは送熱指定書を見た。
今すぐ確かめたい。
北部離宮へ行き、ボルデの印がなぜ使われたのか、赤い墨が何のために熱を集めたのか調べたい。
だが、今日の自分はすでに何度も間違えた。
根拠なくアンナが生きていると断言した。身体の限界を無視し、倒れかけた。リーナの事情を知らず、六年間も、と責めるような言葉を使った。
「……朝、夜明けと同時に出発してください」
「夜明けから一時間後だ」
「なぜ一時間後なのですか」
「食事を取るためだ」
「馬車の中でも食べられます」
「落ち着いて食べろ」
「時間が惜しいです」
「三十分だ」
「四十分後では?」
「なぜ増やした」
「殿下が一時間とおっしゃったので、中間を――」
「夜明けから三十分後だ。それ以上は譲らない」
「承知しました」
「それと、今夜は寝ろ」
「努力します」
「眠れ」
「命令で眠れるなら、苦労はありません」
「薬を飲ませるぞ」
「それは脅迫です」
「治療だ」
「本人が望んでいなければ――」
扉が勢いよく開いた。
エッダが立っている。
片手には、湯気の立つ黒い薬が入った杯を持っていた。
「二人とも、うるさいよ」
「エッダさん」
「町長室の外まで聞こえてる。夫婦喧嘩なら、せめて宿へ戻ってからやりな」
「夫婦ではありません」
「そこだけは息が合うねえ」
エッダはエステルの前へ杯を置いた。
「飲みな」
「眠り薬ですか」
「熱冷ましと、少し眠りやすくなる薬だよ」
「少しとは、どの程度です?」
「飲んだら分かる」
「成分を教えてください」
「殿下。この娘の鼻をつまみな」
「なぜ私が」
「口を開けさせるためだよ」
「自分で飲みます!」
エステルは杯を取り、一口で飲んだ。
想像以上に苦く、喉が焼ける。
「苦いです」
「薬だからね」
「蜂蜜を入れても効果は変わらないのでは?」
「蜂蜜は高いんだよ」
「私の報酬から支払います」
「そういう相談は元気なときにしな」
エッダは空になった杯を受け取り、アルブレヒトへ向き直った。
「あんたも部屋へ戻りな。寝ない人間が、他人に寝ろと言っても説得力がないよ」
「私は仕事がある」
「この娘も、さっき同じことを言ってたね」
アルブレヒトは黙った。
「似ていると言ったら怒るかい」
「怒りません」
エステルが答えると、アルブレヒトの傷がわずかに赤くなった。
「怒るらしいね」
エッダが笑う。
エステルは毛布へ顔を埋めたくなった。
◇
翌朝、出発は夜明けから三十五分後になった。
エステルが朝食のパンを半分残し、アルブレヒトが全部食べろと言い張ったためである。
「もう十分です」
「半分しか食べていない」
「普段の朝食も、この程度です」
「普段の話はしていない。昨日、倒れた人間の話だ」
「倒れていません」
「その議論は昨日終わった」
「殿下が勝手に終わらせただけです」
「食べろ」
最後にはエッダがパンへ蜂蜜を塗り、エステルの口へ押し込んだ。
そんなやり取りのせいで五分遅れたことを、エステルは馬車の中で帳面へ記録した。
「何を書いている」
向かいに座るアルブレヒトが尋ねる。
「出発時刻と遅延理由です」
「蜂蜜パンを食べるのに五分かかった、と書くな」
「事実です」
「公式記録へ残す話ではない」
「私的な調査日誌です」
「ならば見せろ」
「私的なものです」
「私のことを書いているだろう」
「殿下の行動も、調査に関係する範囲で記録しています」
「何と書いた」
「『皇弟殿下は、調査員の食事量に過剰に介入した』と」
「過剰ではない」
「適切な量は、誰が決めるのですか」
「治療官だ」
「エッダさんは、食べられるだけでよいと――」
「全部食べさせろと言っていた」
「殿下が頼んだのでは?」
「違う」
傷は反応しなかった。
本当にエッダ自身の判断だったらしい。
エステルは日誌の端へ、その点を書き加えた。
「今、何を訂正した」
「殿下の介入だけではなかったと追記しました」
「そこまで正確に残す必要があるのか」
「あります」
「誰が読む」
「今のところ、私だけです」
「ならば好きにしろ」
アルブレヒトは窓の外へ顔を向けた。
馬車は、雪深い森の中を北へ進んでいる。
ラウゼンを出て二時間ほど。
北部離宮へ続く道には、近年使われた形跡がほとんどなかった。雪の下から伸びた枝が車輪へ絡み、何度も騎士たちが切り払っている。
「本当に使われていない離宮なのですか」
「公式には、十五年間使われていない」
「公式には?」
「三年前から、周辺で正体不明の荷馬車が目撃されている。調べさせたが、何も見つからなかった」
「なぜ、その情報を昨日おっしゃらなかったのです」
「昨日の時点では、今回の件とつながると判断していなかった」
「判断に含めなかったのですね」
「情報を隠したわけではない」
「今のところは、そう記録します」
「今のところ、をつけるな」
昼前、木々の間から黒い屋根が見えた。
北部離宮は、離宮という華やかな名に似合わず、古い要塞のような建物だった。
灰色の石壁。
細く高い窓。
中央に立つ尖塔には、帝国皇室の紋章が残っている。
だが、屋根に積もった雪だけが不自然に溶けていた。
「暖かい」
馬車から降りたエステルは、外套の襟を緩めた。
周囲は凍える寒さなのに、離宮からは春先のような温かな風が流れてくる。
「ラウゼンから奪われた熱です」
「間違いないか」
「熱の量までは分かりません。ただ、十五年間使われていない建物を温める理由はありません」
正門には鍵がかかっていなかった。
アルブレヒトが先頭に立ち、騎士たちが続く。
玄関扉を開くと、暖かな空気とともに、紙と薬品の匂いが流れ出した。
「誰かいる」
騎士が剣を抜く。
床には新しい足跡があった。
複数人。
奥へ向かっているものと、外へ戻っているものが混じっている。
「昨日まで使われていたようです」
エステルは壁へ手を近づけた。
石の内側を、暖房神託の熱が流れている。
廊下の先には、いくつもの木箱が積まれていた。
箱の一つを騎士が開ける。
中から現れたのは、聖王国神託院の印が押された写本だった。
「神託院の所蔵品です」
エステルは箱へ近づいた。
「なぜ帝国の離宮に」
「知っている文書か」
「目録番号を見れば分かります」
表紙の番号を確認する。
第三封印庫、禁書区分二。
エステル自身、閲覧を許可されたことのない文書だった。
「箱は全部でいくつある」
アルブレヒトが尋ねる。
「この廊下だけで二十七です」
「また数えたのか」
「見れば分かります」
「私には分からない」
「数えれば分かります」
「そういう意味ではない」
騎士たちが各部屋を調べる。
人影はなかった。
使われていた机には、まだ乾き切っていないインクが残っている。彼らがラウゼンから送られた熱を遮断したことで、ここにいた者が逃げたのかもしれない。
「殿下!」
上階から騎士の声がした。
「こちらへ! 大きな祈祷室があります!」
エステルたちは階段を駆け上がった。
最上階の扉は開いていた。
その先には、円形の広間がある。
床には巨大な神託陣が描かれ、中央には、凍結した一冊の本が置かれていた。
ラウゼンから奪われた熱は、その本を囲む十二本の柱へ流れ込んでいる。
「解凍していたのか」
アルブレヒトが呟く。
「いえ」
エステルは神託陣を見つめた。
「本を解凍しているのではありません。凍った状態を維持しています」
「熱を使って、凍らせる?」
「矛盾しています。ですが、神託は熱を反転させ、冷却へ変えている」
十二本の柱。
それぞれに、聖王国で信仰される十二神の名が刻まれている。
光。
水。
火。
大地。
風。
知恵。
生命。
死。
秩序。
慈愛。
戦い。
記憶。
エステルは柱を順番に見た。
何かがおかしい。
床に描かれた神託陣の線を目で追う。
十二本の柱から中央へ向かうはずの線が、一本多い。
「数が合いません」
「何がだ」
「神託陣から伸びている線は十三本です」
アルブレヒトも床を見た。
「柱は十二本だ」
「はい。ですが、ここにもう一本分の接続があります」
壁際。
何も置かれていない場所へ、神託陣の線が伸びている。
エステルが近づくと、壁面に削り取られた跡を見つけた。
余白視を使う。
消された文字が、淡い光となって浮かび上がった。
「十三番目の柱が、ここにありました」
「十三番目?」
「十二神のほかに、もう一柱」
壁へ残された文字を読む。
だが、神の名にあたる部分は、深く削られて判別できない。
その下の文章だけが残っていた。
――言葉よりこぼれしものを拾い、書かれざる真実を守る者。
エステルの背中に、冷たいものが走った。
校正官の役割に似ている。
いや、似ているどころではない。
自分の持つ余白視そのものを説明しているようだった。
「殿下」
エステルは声を抑えた。
「聖王国の建国神託では、女神が従えた星は十二とされています」
「それがどうした」
「ここには、十三番目が存在した痕跡があります」
アルブレヒトが、凍結した本を見る。
「聖王国が神を一柱、消したというのか」
「まだ分かりません」
エステルは答えた。
だが、胸の奥では、別の声がしていた。
第一話の朝に見つけた建国神託の誤字。
――光の女神は十二の星を従え。
あの一画の欠落は、単なる仕立て屋の間違いだったのだろうか。
エステルが凍った本へ近づく。
表紙を覆う氷の下に、赤い神託墨で書かれた文字が見えた。
――第十三神託、永久封印。
その下には、署名が二つあった。
一つは、ボルデ副院長。
もう一つは。
「……お父さま?」
ヴァレリー伯爵。
エステルの父の名だった。




