第十二話 父は私を売ったのか、それとも隠したのか
凍結した本の表紙には、二つの署名が記されていた。
一つは、神託院副院長ボルデ。
もう一つは、エステルの父、ヴァレリー伯爵の名である。
「……お父さま?」
呟いた声が、自分のものではないように聞こえた。
エステルは氷に覆われた本へ手を伸ばしかけた。
その手首を、アルブレヒトがつかむ。
「触るな」
「確認しなければなりません」
「何が起きるか分からない」
「だから確認するのです」
「お前は、何が起きるか分からない物へ、自分から手を出す癖でもあるのか」
「癖ではありません。仕事です」
「その仕事で昨日倒れた」
「倒れてはいません」
「膝から崩れた」
「その議論は終わったはずです」
「お前が認めなかっただけだ」
エステルは手首をつかんでいるアルブレヒトの指を見た。
「離してください」
「触らないと約束しろ」
「約束できません」
「なら離さない」
「これでは調査が進みません」
「調査員が死ぬよりはましだ」
周囲の騎士たちは、二人を見ないふりをしながら広間を調べている。
だが、聞こえていないはずがない。
エステルは声を少し落とした。
「殿下。皆さんの前です」
「だから何だ」
「皇弟殿下が、女性の手首をいつまでも握っているのは、誤解を招く可能性があります」
アルブレヒトが手を離した。
驚くほど早かった。
「何の誤解だ」
「今、気になさるのですか」
「お前が言い出した」
「調査を優先します」
「待て」
再び触れようとしたエステルの前へ、今度はアルブレヒト自身が立ちはだかった。
「話をそらしたな」
「そらしていません。優先順位を戻しました」
「誤解とは何だ」
「殿下」
護衛騎士の一人が、耐えきれなくなったように咳払いした。
「大変申し上げにくいのですが、今は凍結書の確認を優先されてはいかがでしょう」
アルブレヒトは騎士を睨んだ。
「お前も聞いていたのか」
「聞こえました」
「忘れろ」
「努力いたします」
「その返事は忘れない人間のものです」
エステルが指摘すると、騎士は困った顔をした。
「エステル様まで話を増やさないでください」
「申し訳ありません」
「謝る相手も違います」
このやり取りを続けている場合ではない。
エステルは改めて、凍った本を囲む神託陣へ目を向けた。
十二本の柱から中央へ伸びる線。
そして、壁際にあった十三本目の接続跡。
削られた神の名。
言葉からこぼれたものを拾い、書かれざる真実を守る者。
それが第十三の神だというのなら、なぜ聖王国では存在そのものが消されているのか。
「まず、署名の作成時期を確認します」
エステルは本へ直接触れず、表紙を覆う氷を観察した。
「印と署名は、氷の上ではなく、本の表紙へ直接書かれています。つまり、凍結処置より前です」
「いつ書かれたか分かるのか」
「墨の劣化状態を見なければ、正確には。ただ、少なくとも最近ではありません」
アルブレヒトが本の周囲にある柱へ手をかざす。
「ここへ運び込まれたのは、いつだ」
「調べます」
エステルは広間の端に積まれた帳簿を開いた。
離宮を使っていた者たちは慌てて逃げたらしく、書類の一部は机に残されている。荷物の搬入記録、燃料の管理表、食料の発注書。
ただし、人名はほとんど暗号化されていた。
「搬入記録では、『封印物一号』が三年前に到着しています」
「離宮周辺で、荷馬車が目撃され始めた時期と同じだな」
「はい。しかし、凍結処置そのものは、もっと古い可能性があります。別の場所で封印されていた本を、三年前にここへ移したのでしょう」
「目的は何だ」
「ラウゼンから熱を奪ってまで、凍結状態を維持した。つまり、封印が弱まっていたのだと思います」
「中身が出ようとしている?」
「本です。出るというより、開こうとしているのではないでしょうか」
「自分でか」
「神託書には、意思に似た反応を示すものがあります。長年、人々の祈りや命令を受け続けることで、文章が一つの目的を持つことがあるのです」
「それを意思と呼ぶのか」
「議論があります。神託院では、意思ではなく『継続的な命令反応』と呼びます」
「名前を変えただけに聞こえる」
「私も、そう思います」
アルブレヒトが少し意外そうな顔をした。
「神託院の言葉を否定するのか」
「用語が現象を説明できていない場合は」
「お前は、本当にあの組織で働けていたのか」
「働いていました。ただ、昼食に誘われることは少なかったです」
思わず口にしてから、なぜ今そんなことを話したのだろうと思った。
アルブレヒトは笑わなかった。
「気にしていたのか」
「何をです?」
「誘われないことを」
「仕事に支障はありません」
「それは答えではない」
エステルは帳簿へ視線を戻した。
「少しは、気にしていました」
首筋の傷は反応しなかった。
「なら、最初からそう言え」
「殿下へ申し上げる必要があるとは思いませんでした」
「私が聞いた」
「そうでした」
自分の感情を聞かれ、答える。
それだけのことが、なぜこんなに難しいのだろう。
エステルは書類を一枚ずつ確認した。
やがて、搬入時に使われた古い封印箱の図面が見つかった。箱の寸法は、目の前の本と一致する。
図面の端に、小さな注記がある。
「『旧王都地下保管庫より移送』」
「聖王国の王都か」
「はい。神託院の地下には、一般の校正官が入れない封印区画があります」
「お前も入ったことはない?」
「ありません。存在だけは知っていました」
ボルデ副院長なら、入れる。
父がなぜ関係しているのかは分からない。
「署名の下に、日付があります」
エステルは表紙を覆う氷へ顔を近づけた。
白い霜に隠れているが、余白視を使えば、墨の痕跡を拾える。
王国歴七百二十三年、雪月七日。
エステルは息を止めた。
「十九年前です」
「お前はいくつだ」
「二十二歳です」
「三歳の頃か」
「はい」
記憶にはない。
当然だ。
三歳の自分が何をしていたか、断片的にしか覚えていない。
母の膝。
妹が生まれた日の慌ただしさ。
父の書斎に入り、インク壺を倒して叱られたこと。
その程度だ。
「十九年前、父はまだヴァレリー伯爵家の当主ではありませんでした」
「なら、その署名に伯爵位は書かれていないはずだ」
「はい」
署名には、ヴァレリー伯爵ではなく、王立記録院補佐官ラファエル・ヴァレリーとある。
父が若い頃、王立記録院で働いていたことは知っていた。
だが、神託院の封印事業へ関わっていたとは聞かされていない。
「父は、私に記録院の仕事についてほとんど話しませんでした」
「聞かなかったのか」
「何度か尋ねました。昔のことだと言われました」
「諦めた?」
「家族の過去を無理に聞くのは、失礼だと思っていました」
アルブレヒトの目が細くなる。
「他人の記録は一文字まで確かめる女が、家族の言葉だけは疑わなかったのか」
胸を突かれた。
「疑いたくなかったのかもしれません」
「今もか」
「分かりません」
父の署名を見つめる。
この封印に関わっていた。
それは間違いない。
だが、何のために署名したのかは分からない。
危険な神託を閉じ込めるためか。
それとも、何か不都合な真実を隠すためか。
「封印文を読みます」
エステルは表紙へ刻まれた文章を目で追った。
――第十三神託を、永久に閉じる。
――その名、その声、その記憶を、人の世より消す。
――封印を破る者は、十二神すべての敵となる。
「永久封印にしては、文章が不自然です」
「どこがだ」
「通常、封印文には対象の危険性と、解除条件が記載されます。この文章には解除条件がありません」
「永久だからではないのか」
「解除できない封印は、作れません。封印を維持する者が死に、魔力が尽きれば必ず弱まります。その際、正規の解除方法がなければ、暴発します」
「書かなかったのか、消したのか」
「消した可能性があります」
エステルは余白視を深めた。
表面の文章だけではなく、その下。
削られた線。
塗りつぶされた文字。
視界の端が暗くなる。
「無理をするな」
アルブレヒトの声が聞こえる。
「まだ大丈夫です」
傷は反応しない。
だが、目の奥が痛み始めた。
表紙の奥に、別の文章が浮かぶ。
――解除には、失われた名を知る者を要す。
――第十三の声を聞く者。
――余白に生まれし子。
「余白に……生まれし子」
エステルが読み上げた瞬間、凍結した本が脈打った。
どくん、と。
心臓のような音が、広間へ響く。
「離れろ!」
アルブレヒトがエステルの腰を抱え、後ろへ引いた。
十二本の柱から光が噴き上がる。
氷の表面に亀裂が走り、赤い神託墨が血のように溢れ出した。
「殿下、離してください!」
「今は黙れ!」
「本が開きます!」
「だから離している!」
「止めなければ、封印が壊れます!」
「お前が近づいたから壊れたんだろう!」
「それなら、私で止められる可能性があります!」
「可能性で死ぬな!」
アルブレヒトはエステルを抱えたまま、広間の外へ下がろうとする。
だが、扉が勢いよく閉じた。
騎士たちが開けようとしても動かない。
床の神託陣から、十三本目の光が浮かび上がった。
壁際の、失われた柱があった場所へ光が集まる。
そこに、一人の人影が現れた。
幼い少女の姿だった。
白い髪。
裸足。
瞳だけが、インクのように黒い。
少女は凍った本を背にしながら、まっすぐエステルを見た。
「やっと、見つけた」
声は幼い。
しかし、広間全体から響いているように聞こえた。
エステルはアルブレヒトの腕の中で、息を止めた。
「私を、知っているのですか」
少女が首を傾げる。
「知っているよ」
「誰から聞いたのです」
「あなたから」
「私は、あなたに会ったことがありません」
「会ったよ」
少女は微笑んだ。
「あなたが、まだ言葉を話せなかった頃に」
アルブレヒトの腕に力が入った。
「エステル。あれと話すな」
「ですが――」
「質問へ答えるな。名を聞かれても言うな」
少女は楽しそうに笑った。
「その人は、嘘が嫌いなんだね」
アルブレヒトの傷が赤く浮かぶ。
「お前は何だ」
「嘘からこぼれたもの」
「名を答えろ」
「名は消されたよ」
傷は反応しなかった。
少女はエステルへ手を伸ばす。
「でも、この子が返してくれる」
「私が?」
「だって、そのために生まれたんだもの」
凍った本の氷が、さらに大きく割れた。
表紙の下から、古びた革ではなく、小さな銀の板が現れる。
そこには、一人の幼児の手形が刻まれていた。
その下に記された名前を見て、エステルは身体から力が抜けた。
――封印鍵、エステル・ヴァレリー。
「私が……封印の鍵?」
少女はうなずいた。
「あなたのお父さんが、そうしたの」
エステルの脳裏に、供述書を差し出した父の顔が浮かんだ。
家族を守るのは姉であるお前の役目だ。
お前一人が罪を認めれば、すべて収まる。
あの言葉は、初めてではなかったのかもしれない。
父は十九年前にも、家族や国を守るため、幼いエステルを何かの犠牲にした。
「嘘です」
エステルは呟いた。
アルブレヒトの傷が赤く燃え上がった。
少女は、悲しそうに笑う。
「うん。そう思いたいんだね」
「違います。父が幼い娘を封印の道具にするはずがありません」
傷がさらに深くなる。
アルブレヒトが苦しげに顔を歪めた。
「エステル」
「お父さまは、そんな人では……」
「今、決めるな」
彼の声は痛みにかすれていた。
「証拠は、まだ名前だけだ。父親が何をしたか、目的も手順も分かっていない」
「でも、署名が」
「お前が私に何度も言っただろう。署名も印も、理由を確かめずに結論へ使うなと」
エステルは唇を噛んだ。
そのとおりだ。
自分が言ってきたことだ。
父を信じたい気持ちも、疑う気持ちも、今は判断材料にしてはいけない。
「あなたは」
エステルは少女へ問いかけた。
「父が私を封印鍵にした場面を、実際に見たのですか」
少女はすぐには答えなかった。
笑顔が消える。
「見たよ」
アルブレヒトの傷は反応しない。
「父は、自分の意思で署名したのですか」
「うん」
「誰かに脅されていた可能性は?」
「脅されてはいなかった」
「私が鍵になると、理解していましたか」
「知っていた」
一つ答えを聞くたび、胸の奥が削られる。
それでも、聞かなければならない。
「なぜ、父はそうしたのですか」
少女の黒い瞳が細くなった。
「それは、私から言えない」
「なぜです?」
「あなたのお父さんと、約束したから」
エステルは息を呑んだ。
「父と話したのですか」
「たくさん話したよ。あの人は、あなたに似ていた」
「どこがです」
「言葉を疑うくせに、大事な人の嘘だけは信じたがったところ」
凍った本から、再び大きな音がした。
亀裂の奥から、黒い文字が無数に溢れ出す。
少女の姿が揺らぐ。
「もう時間がない」
「待ってください。父との約束とは何ですか」
「会いに来て」
「誰に?」
「あなたのお父さんに」
「私は追放されています。聖王国へ戻れません」
「向こうから来るよ」
少女は壁の一点を指した。
そこに、赤い文字が浮かび上がる。
――回収隊到着予定、芽吹月四日。
今日は芽吹月二日。
二日後。
「回収隊?」
アルブレヒトの声が低くなる。
「本を取り戻しに来る者たちだ」
少女が答える。
「誰が来る」
少女はエステルを見たまま、微笑んだ。
「お父さん」
次の瞬間、神託陣の光が弾けた。
アルブレヒトがエステルを抱き込み、背中で衝撃を受ける。
広間の窓がすべて砕け、熱を失った空気が一気に吹き込んだ。
少女の姿は消えた。
凍った本も、再び沈黙している。
ただし、表紙の氷には、一本の大きな亀裂が残った。
そして銀の板に刻まれた幼児の手形は、エステルの右手とまったく同じ形をしていた。
アルブレヒトは床へ片膝をつきながらも、エステルを離さなかった。
「怪我は」
「ありません。殿下は?」
「ない」
傷は反応しない。
だが、彼の背中を覆う軍服は、砕けた硝子で裂けている。
「嘘ではないのですね」
「傷と怪我は違う」
「同じです」
「違う」
「今度は私が申し上げます。同じです」
エステルは彼の腕から抜けようとした。
だが、足に力が入らない。
アルブレヒトがそのまま支えた。
「父親が来る」
「はい」
「会いたいか」
エステルは答えようとして、声が出なかった。
会いたい。
会いたくない。
何を聞けばよいのかも分からない。
「分かりません」
ようやく答えた。
「でも、逃げたくはありません」
傷は反応しなかった。
アルブレヒトはうなずく。
「ならば、ここで待つ」
「殿下も?」
「私の領地へ勝手に入り、町の熱を盗み、封印書を回収しようとしている。逃がす理由がない」
「父を捕らえるおつもりですか」
「罪があればな」
「罪がなければ?」
「話を聞く」
「私が、先に話してもよいでしょうか」
「構わない」
「二人だけで?」
「それは認めない」
「なぜです」
「お前は家族を前にすると、判断を誤る」
否定できなかった。
アルブレヒトは立ち上がり、エステルにも手を差し出した。
「私が同席する」
「殿下は家族の会話に向いていないと思います」
「なぜだ」
「言葉が短く、威圧的で、すぐに処刑の可能性を考えるからです」
「お前の家族は、娘を国外追放にして雪原へ捨てた」
「……それは、そうですが」
「少なくとも私より、会話に向いているとは思えない」
反論しようとして、やめた。
「では、同席をお願いします」
「最初からそう言え」
「私にも心の準備が必要なのです」
「二日ある」
「二日しかありません」
「十分だ」
「殿下は、ご家族と会う前に心の準備をなさらないのですか」
アルブレヒトの表情が、ほんの少し固くなった。
「する」
「どのくらい?」
「妹に会う前は、三日」
「私より長いではありませんか」
「話が違う」
「何が違うのです」
「私の妹は、話を聞かない」
「私の妹もです」
二人はしばらく見つめ合った。
先に目をそらしたアルブレヒトが、小さく息を吐く。
「……二日で足りなければ、私が時間を稼ぐ」
「どのように?」
「父親を拘束する」
「会話に向いていないという私の評価は、正しかったようです」
凍った広間の中で、エステルはほんの少しだけ笑った。
父が何をしたのか。
自分が何者なのか。
何一つ分かっていない。
それでも、二日後に会える。
会って、聞くことができる。
その可能性だけは、誰にも奪わせない。
北部離宮の外では、すでに雪が降り始めていた。
二日後、その雪を割って現れる一団の中に、エステルの父だけでなく、聖女となった妹ミレイユも同行していることを、このときの彼女はまだ知らなかった。




