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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第十三話 父が最初に謝ったのは、私ではありませんでした

 二日後の朝、北部離宮の見張り塔から角笛が鳴った。


 低く長い音が一度。


 間を置いて、短く二度。


 武装した一団が、正面街道から近づいているという合図だった。


「来たか」


 窓際に立っていたアルブレヒトが、短く言った。


 エステルは机の上に広げていた資料から顔を上げた。


 分かっていた。


 二日後に父が来ると、凍った本に宿る少女は告げていた。


 心の準備もした。


 父へ尋ねる質問を十三項目に整理し、優先順位までつけた。感情的になった場合に備えて、質問文もできるだけ短く整えた。


 一、十九年前、第十三神託の封印に関わったか。


 二、エステルを封印鍵に指定したか。


 三、その際、危険性を認識していたか。


 四、今回の神託改竄疑惑を、事前にどこまで知っていたか。


 五、国外追放が実質的な死刑であると知っていたか。


 紙の上では、いくらでも冷静になれた。


 しかし、窓の向こうに馬車の列が見えた瞬間、指先が冷たくなった。


「顔色が悪い」


 アルブレヒトが言った。


「室温が低いからです」


 首筋の傷が赤くなる。


「……緊張しています」


「そう言え」


「今、言いました」


「最初からだ」


「殿下も、同じ指摘を何度もなさいますね」


「お前が何度も同じことをするからだ」


 エステルは反論をやめ、資料を束ねた。


「回収隊の人数は?」


「騎馬兵が十二。馬車が三台。聖王国の旗を掲げている」


「父は?」


「見張りからの報告では、一台目の馬車にヴァレリー伯爵家の紋章がある」


「神託院の者は」


「白い法衣が四人。ボルデらしき者はいない」


 副院長は来ていない。


 安堵したのか、残念に思ったのか、自分でも分からなかった。


「ミレイユもいるのでしょうか」


「見張りは、聖女の紋章を確認した」


 胸が大きく脈打った。


 どうして妹が来るのか。


 自分を連れ戻すためか。


 第十三神託を封じるためか。


 あるいは、姉が余計なことを話す前に、口を塞ぐためか。


 そこまで疑った自分に、エステルは少し嫌気が差した。


 だが、疑わなかった結果が今だ。


「会うのをやめるか」


 アルブレヒトが尋ねた。


「やめません」


「傷は反応していない」


「確認なさったのですか」


「お前が嘘をつく可能性があるからな」


「便利に使いすぎではありませんか」


「使えるものは使う」


「では、私も殿下の傷を調査へ使ってよいのですか」


「駄目だ」


「なぜです」


「私の身体だ」


「私の言葉も、私のものです」


 アルブレヒトが黙った。


「……一理ある」


「認めるのですね」


「全部ではない」


「一部でも十分です」


 こんなやり取りをしていると、少しだけ呼吸が楽になった。


 それを狙っているのだろうか。


 アルブレヒトが、そこまで気を回す人間には見えない。だが、見えないだけで、実際には考えていることもある。


 父も、そうだったのかもしれない。


 見えなかっただけで。


 そう思いかけ、エステルは自分を止めた。


 今は、まだ結論を出さない。


「応接広間を使う」


 アルブレヒトが言った。


「騎士を六名置く。私も同席する」


「父と二人で話す時間をいただけませんか」


「認めない」


「話す前から否定なさらないでください」


「お前の父親は、十九年前にお前を封印鍵へ指定し、数日前には国外追放の供述書へ署名させようとした」


「まだ、十九年前の目的は分かっていません」


「だから、なおさら二人にはできない」


「父が私へ危害を加えると思っているのですか」


「危害を加えるつもりがなくても、加える人間はいる」


 言葉が胸に残った。


 父も、家族を守るつもりだったのだろう。


 それでもエステルは、国境の雪原へ捨てられかけた。


「……分かりました」


「それと、質問は私から始める」


「なぜです?」


「ここは帝国領だ。無許可で武装兵を入れた説明を先にさせる」


「私はそのあとですか」


「すぐだ」


「父が話をそらした場合は?」


「止める」


「ミレイユが泣いた場合は?」


「止める」


「どうやって?」


「黙れと言う」


「それでは悪化します」


「泣いている人間に質問を続けるお前よりはましだ」


「私は、泣いているからといって事実確認を中断するのは――」


「だから私が止める」


 エステルは少し不満だった。


 しかし、ミレイユが泣けば、自分が冷たい姉に見えることは分かっている。


 家族の中で、泣かない者はいつも強い側にされる。


「順番を決めましょう」


 エステルは紙を取り出した。


「最初に殿下が越境について確認。その後、私が十九年前の封印について質問します。ミレイユが発言を求めた場合――」


「会議の議事進行ではない」


「事前に決めなければ、皆が好き勝手に話します」


「家族とは、そういうものではないのか」


 アルブレヒトの問いに、エステルは一瞬黙った。


「だから、うまく話せないのです」


「なるほど」


 彼は否定しなかった。


     ◇


 応接広間の扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、父だった。


 わずか数日しか経っていないのに、ひどく老けて見えた。


 髪は整えてある。衣服にも乱れはない。伯爵として人前に出る姿は保っている。


 それでも、目の下には濃い隈があり、頬も少しこけていた。


 父の後ろに、ミレイユが続く。


 白と金の聖女衣装。


 胸元には、王太子家から贈られた青い宝石が輝いている。


 姉の婚約者だった男から与えられたものだ。


 見ないようにしようとした。


 そう思うほど、目が向いた。


「お姉さま……」


 ミレイユの目に、みるみる涙がたまった。


 彼女は駆け寄ろうとしたが、帝国騎士が前へ出て止める。


「待って!」


「その場で」


 アルブレヒトの声が広間へ響いた。


 父はミレイユの肩へ手を置き、動きを制した。


「皇弟殿下」


 父はエステルではなく、アルブレヒトへ深く頭を下げた。


「このたびは、聖王国の事情により、貴国へ多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます」


 最初に謝ったのは、娘ではなかった。


 国家間の礼儀として当然なのだろう。


 分かっている。


 それでも胸の中で、何かが冷えた。


「謝罪より先に説明しろ」


 アルブレヒトは椅子にも座らず言った。


「帝国の許可なく、武装兵を国境へ入れた理由は」


「北部離宮に保管されている神託書を回収するためです」


「誰の許可で」


「聖王国王家と神殿の共同命令です」


「文書を」


 父は懐から封書を取り出した。


 帝国騎士が受け取り、アルブレヒトへ渡す。


 彼は封を切り、最初の数行へ目を通した。


「帝国領へ立ち入る許可ではない」


「緊急性がございました」


「他国の領土へ兵を入れる理由にはならない」


「承知しております。しかし、封印が破られれば、両国に被害が及びます」


「三年前から、この離宮を無断で使っていた件は?」


 父の表情が固まった。


「それは……神託院の管理下で行われたことです。私は最近まで知りませんでした」


 アルブレヒトの傷は反応しない。


 そこは本当らしい。


「ラウゼンから熱を盗んでいたことは」


「到着後に報告を受けました。決して認められる行為ではありません」


「では、誰が許可した」


「現在、神託院内部で調査中です」


「便利な言葉だな」


 アルブレヒトは封書を机へ置いた。


「調査中。緊急。国のため。それを並べれば、何をしても許されると思っているのか」


 父は答えなかった。


 エステルは、その横顔を見つめた。


 王宮で自分へ罪を認めろと言ったときと同じ顔だった。


 正しい答えが分からず、しかし立場上、何かを決めなければならない人間の顔。


「エステル」


 父が、ようやく娘の名を呼んだ。


「無事でよかった」


 エステルの胸が痛んだ。


 その一言を、聞きたかった。


 王都を出る前に。


 銀の枷をはめられたときに。


 国外追放を告げられたときに。


「本当に、そう思っていますか」


 父の顔が歪んだ。


「当たり前だろう」


 アルブレヒトの傷は反応しなかった。


 父は、本当に無事を喜んでいる。


 だからこそ、余計に分からなかった。


「私の追放先が、帝国の町から徒歩で二日かかる雪原だったと、ご存じでしたか」


 父はすぐに答えなかった。


「……国境の手前で引き渡されると聞いていた」


「誰へ?」


「帝国側の役人へだ」


「帝国は、私を受け入れると聞いていませんでした」


「そんなはずは」


 父がアルブレヒトを見る。


「帝国へ連絡は来ていない」


 アルブレヒトが答えた。


「引き渡し先も文書にはない。あのままなら、娘は吹雪の中へ降ろされていた」


「私は、そこまでは知らなかった」


 父の声がかすれた。


 傷は反応しない。


 本当に知らなかったのだ。


 エステルは安心すべきなのか、怒るべきなのか分からなかった。


「確認しなかったのですか」


「神殿から、正式な手続きだと説明された」


「私の命に関わる処分を?」


「お前の命を救うために、できる限りの交渉をした!」


 父の声が大きくなる。


 ミレイユが肩を揺らした。


「処刑を求める者もいた。王家への反逆だと言う者も、聖女への冒涜だと訴える者もいた。その中で国外追放まで減刑させたんだ。私は、お前を助けたかった!」


「処分内容を確かめずに?」


「すべてを確かめる時間はなかった!」


「私には、罪を認める文書へ署名する時間を求めました」


「それは――」


「お父さま」


 エステルは、用意した質問表へ目を落とした。


 今の問いは、そこにはない。


 感情的にならないように準備したのに、父の顔を見た途端、決めた順番は崩れた。


「私を信じていましたか」


 父が息を止めた。


「私が、神託を改竄していないと」


「信じていた」


 傷は反応しない。


「では、なぜ無実を争わなかったのです」


「争えば、お前は処刑された!」


「なぜですか。無実なら、証拠を調べれば――」


「証拠など、どうにでも作られる!」


 父の叫びが広間に響いた。


 エステルは言葉を失った。


 父は両手を震わせていた。


「名前の刻まれた筆。赤い神託墨。お前の筆跡をまねた文書。すべてが用意されていた。あれは、お前を疑わせるための証拠ではない。お前を必ず有罪にするための証拠だ」


「そこまで分かっていたのですか」


「分かったから、争わせなかった!」


「誰が用意したのです」


「分からない」


「副院長では?」


「ボルデは違う!」


 アルブレヒトの傷が赤くなった。


 父はそれを見て、顔を強張らせた。


「……少なくとも、私が知るボルデは、違う」


「同じことを、私も言いました」


 エステルの声が小さくなる。


「でも、私は自分が信じたいだけかもしれないと、指摘されました」


 父はアルブレヒトを見た。


「殿下が?」


「私だ」


 アルブレヒトは悪びれず答えた。


「娘を追い詰めるような言い方は、お控えいただきたい」


「お前が言うのか」


 広間の温度が下がったように感じた。


 父の顔が赤くなる。


「私は父親です」


「ならば、娘を雪原へ送る文書くらい読め」


 父が言葉を失った。


 エステルはアルブレヒトを見た。


「殿下」


「何だ」


「今は、私が話しています」


「そうか」


「父を責めたいのは、私です」


 アルブレヒトはわずかに目を細めたあと、黙った。


 父が傷ついた顔でエステルを見る。


「責めたいのか」


「はい」


 嘘ではない。


「ですが、責める前に確認します」


 エステルは質問表を開いた。


「十九年前、第十三神託の封印へ関わりましたか」


「関わった」


「私を封印鍵に指定しましたか」


 父は唇を結んだ。


「答えてください」


「指定した」


 ミレイユが息を呑む。


 父は妹にも詳しく話していなかったらしい。


「私が三歳のときですね」


「そうだ」


「危険性は理解していましたか」


「すべては理解していなかった」


「分かっていた範囲を教えてください」


「第十三神託が、お前へ反応すること。お前の魔力を鍵として登録すれば、神託を眠らせられること。そして、封印が続く限り、お前の余白視が表面化しないはずだということだ」


「私の能力を、消そうとしたのですか」


「守ろうとした」


「何から?」


「神殿からだ」


 父の声が低くなる。


「余白視を持つ子どもは、神託院にとって危険だった。消された文章を読める。書き換えられた神託を見つけられる。十二神の教義が、後世に編集されたことまで知ってしまう可能性がある」


「だから、封印鍵にした?」


「鍵にすれば、お前は神託の内側へ守られる。能力も抑えられ、普通の子どもとして生きられるはずだった」


「普通に?」


 思わず声が強くなった。


「私は、幼い頃から文字の欠落が見えました。神託院へ入ってからは、書き換えた痕跡も見えた。能力は消えていません」


「封印が弱まっていたんだ」


「いつから?」


「おそらく、ミレイユが生まれた頃からだ」


 ミレイユが顔を上げた。


「私が?」


「お前の聖属性魔力が、エステルの封印へ干渉した可能性がある」


「では、私のせいで、お姉さまが」


「違う」


 父は即座に否定した。


「お前のせいではない。誰のせいでもない」


 エステルは、その言葉に小さく傷ついた。


 父はミレイユが自分を責める前に、すぐ否定した。


 エステルへ封印鍵にしたことを謝るより先に。


 そんな自分の感情が、幼稚だと思う。


 父は今、妹が不要な罪悪感を抱かないよう守っただけだ。


 それでも、羨ましかった。


「お父さま」


 エステルは質問を続けた。


「なぜ私へ、何も話さなかったのですか」


「話せなかった」


「なぜ」


「知れば、お前は調べる」


「当然です」


「だからだ!」


 父は苦しげに声を上げた。


「お前は納得するまで止まらない。危険だと言っても、誰かが困っていると知れば、自分で確かめようとする。第十三神託の存在を知れば、必ず封印へ近づく」


「私を信用していなかったのですね」


「違う。信用していたから、分かっていたんだ」


「それを信用とは言いません」


「では、どうすればよかった!」


 父は頭を抱えた。


「三歳のお前に、お前は消された神の鍵だと教えればよかったのか。成長するたびに、神殿がお前を処分するかもしれないと怯えさせればよかったのか。私は、お前に普通に生きてほしかったんだ!」


「普通に生きる相手を、王太子の婚約者にしたのですか」


 父が固まった。


 エステルは自分でも、そこへつながると思っていなかった。


「王太子妃になれば、神殿から守れると考えたのですか」


「……そうだ」


「私の婚約も、私のために決めた?」


「王家の庇護があれば、神殿は手を出せない。ジュリアン殿下も、幼い頃はお前を大切にしていた」


「幼い頃は」


「成長すれば、関係が変わることもある」


「変わったあとも、婚約を続けさせました」


「お前が望んでいると思っていた!」


「尋ねましたか」


 父の口が閉じた。


「私は、ジュリアン殿下と結婚したいか。王太子妃になりたいか。お父さまは、一度でも私へ尋ねましたか」


「婚約者として努力していたから」


「努力していることと、望んでいることは違います」


 父は、何も答えられなかった。


 ミレイユが堪えきれなくなったように前へ出る。


「お姉さま、もうやめて」


 エステルは妹を見た。


「まだ、あなたには質問していないわ」


「お父さまは、お姉さまを守ろうとしていたのよ!」


「結果として、私は死にかけたわ」


「でも、知らなかったって――」


「知らなければ、責任はなくなるの?」


 ミレイユの目に涙が浮かぶ。


 エステルの胸が痛んだ。


 また泣かせた。


 そう思う一方で、今は慰める気になれなかった。


「私は、お姉さまを助けに来たの」


「どのように?」


「神殿に、お姉さまの処分を見直してもらうよう頼むわ。私が聖女として証言すれば、きっと――」


「何を証言するの?」


「お姉さまが、妹を傷つける人ではないって」


「それは無実の証明にはならないわ」


「どうして、そういう言い方をするの!」


「事実だからよ」


「私は味方になろうとしているのに!」


 ミレイユの声が震える。


「殿下にも頼んだの。お姉さまを王都へ戻して、もう一度きちんと調べてほしいって。お父さまにも、ここまで連れてきてってお願いした。怖かったけど、それでも来たのよ!」


「ありがとう」


 エステルが答えると、ミレイユは戸惑った。


「でも、私は王都へ戻らない」


「どうして?」


「調査を行う神殿が、証拠を保全しなかったから。王家も、裁判を開かず処分を決めた。戻れば、また同じことが起きる可能性がある」


「今度は私が守る!」


「どうやって?」


「聖女の権限で――」


「その権限を与えたのは、誰?」


 ミレイユの言葉が止まった。


「神殿と王家でしょう。私を罪人にしたのと同じ人たちよ」


「でも、私は本物の聖女よ」


「それを、私はまだ疑っていないわ」


「まだ?」


 ミレイユの顔色が変わる。


「お姉さまも、私が偽物だと思っているの?」


「そうは言っていない」


「でも、まだって言った!」


「今まで疑っていなかったという意味よ」


「同じじゃない!」


 妹の声が広間に響いた。


 父が止めようと手を伸ばす。


 そのときだった。


 奥の円形広間から、低い振動音が聞こえた。


 凍った本がある部屋だ。


「全員、下がれ」


 アルブレヒトが剣へ手をかける。


 離宮全体を揺らしながら、黒い文字が廊下を這ってきた。


 それは床の上で渦を巻き、ミレイユの足元へ集まる。


「何……これ」


 ミレイユが後ずさった。


 胸元の聖女石が、青白い光を放つ。


 黒い文字と、聖女石の光がぶつかった。


 ぱきん、と乾いた音がする。


 宝石の表面に、一本の亀裂が入った。


「嘘……」


 ミレイユの声がかすれた。


 黒い文字が床から浮かび上がり、文章を形作る。


 古代神託文字。


 エステルには読めた。


 ――聖女選定記録を照合。


 ――登録名、ミレイユ・ヴァレリー。


 ――適性、光属性上位。


 ――治癒能力、基準達成。


 そこまでは、聖女認定を裏づける内容だった。


 ミレイユが、泣きそうな顔でエステルを見る。


「ほら……私、本物でしょう?」


 エステルは答えられなかった。


 文章には続きがあった。


 黒い文字が、ゆっくりと次の行を作る。


 ――ただし、聖女名簿への登録順序に改稿痕あり。


 ――第一候補者名、削除済み。


 広間の空気が凍りついた。


「第一候補者?」


 父が呟く。


 ミレイユの顔から血の気が引く。


「誰なの」


 誰も答えない。


 黒い文字は、削除された名を復元し始めた。


 一文字目。


 エ。


 二文字目。


 ス。


 三文字目が浮かび上がる前に、父が叫んだ。


「読むな!」


 父は懐から白い紙片を取り出し、黒い文字へ投げつけた。


 激しい光が弾ける。


 文章が途中で崩れた。


 アルブレヒトが即座に父の腕をねじ上げ、床へ押さえつける。


「何をした」


「放してください!」


「なぜ名前を消した」


「今、あれを読ませてはいけない!」


「誰の名前だったのですか」


 エステルが尋ねた。


 父は答えない。


「お父さま」


 もう一度呼ぶ。


 父は床へ押さえられたまま、苦しそうに目を閉じた。


 代わりに、ミレイユが震える声で言った。


「エステル、って……書こうとしていたの?」


 誰も否定しなかった。


 ミレイユは、姉を見た。


 怒りでも悲しみでもない。


 自分という存在の足元が突然なくなったような顔だった。


「お姉さまが、本当の聖女なの?」


「分からないわ」


「そんなの、嘘よ」


「まだ何も確定していない」


「嘘よ!」


 ミレイユの聖女石に、二本目の亀裂が入った。


 砕けた光の欠片が床へ落ちる。


 その瞬間、奥の広間で凍っていた第十三神託が、ゆっくりと表紙を開いた。


 そして、白髪の少女の声が離宮中へ響いた。


「聖女は、最初から一人ではなかったよ」


 エステルとミレイユ。


 二人の足元から、それぞれ異なる色の神託陣が浮かび上がった。


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