第十四話 妹は、聖女の座を返すと言った
エステルの足元には、黒銀の神託陣。
ミレイユの足元には、淡い金色の神託陣。
二つの円は触れ合うことなく広がり、応接広間の床を半分ずつ覆っていた。
黒銀の側には、細かな文字が隙間なく流れている。
書かれた文章。
削られた文章。
途中で捨てられ、誰にも読まれなかった言葉。
それらが互いに重なり合いながら、エステルの周囲を静かに巡っていた。
一方、ミレイユの神託陣には文字がない。
花弁のような光が幾重にも重なり、彼女が息をするたびに柔らかな金色の粒が舞い上がる。
同じ聖女。
そう呼ぶには、あまりにも異なる力だった。
「消せ」
床へ押さえつけられた父が、苦しげに叫んだ。
「その神託陣を消すんだ。エステル、黒い文字を読むな。ミレイユも聖女石を外せ!」
「説明が先です」
エステルは父を見下ろした。
「なぜ第一候補者の名前を消したのですか」
「今は説明している時間がない!」
「先ほども、そうおっしゃいました」
「封印が開こうとしているんだぞ!」
「分かっています」
「分かっていない!」
父の声は、怒りというより悲鳴に近かった。
「第十三神託は、問いかけに答えるほどお前との結びつきを強める。完全に接続すれば、二度と普通の人間として生きられなくなる!」
「普通とは何ですか」
「今は言葉の定義を話している場合ではない!」
「私の人生を決めるために、何度も使われた言葉です。定義くらい伺ってもよいでしょう」
「お前は……」
父が顔を歪める。
アルブレヒトは父の腕を押さえたまま、エステルを見た。
「質問を一つにしろ」
「どれからですか」
「最も知りたいことからだ」
最も知りたいこと。
十九年前の封印。
自分が聖女候補だった理由。
父が名前を消した理由。
聞きたいことは多すぎる。
だが、その中で一つだけ選ぶなら。
「お父さま」
エステルは尋ねた。
「私を守りたかったのですか。それとも、私を隠したかったのですか」
父は、すぐには答えなかった。
「違いがあるのか」
「あります」
「神殿に見つかれば、お前は利用されるか、殺される。だから隠した。結果として守ろうとした」
「私へ相談せずに?」
「三歳の子どもへ何を相談しろと言うんだ!」
「三歳のときだけではありません。十歳でも、十五歳でも、成人したあとでも、お父さまは何も話さなかった」
「話せば、お前は調べただろう!」
「はい」
「それで封印を開き、今日と同じことになった!」
「今日まで何も知らず、偽りの罪で国外追放されたほうがよかったと?」
「少なくとも、生きていた!」
「死にかけました」
エステルの言葉に、父は口を閉じた。
応接広間には、二つの神託陣が発する低い音だけが残る。
「私は、お父さまが私を守ろうとしていたことまで否定するつもりはありません」
エステルは続けた。
「でも、守ろうとしたことと、正しい方法だったことは別です」
「ほかに方法がなかった」
「それを決めたのは誰ですか」
「私だ。父親だからだ!」
父は言い切った。
そして、その言葉を口にした直後、自分でも何かに気づいたように顔を強張らせた。
父親だから。
姉だから。
聖女だから。
王太子だから。
役割を与え、その役割へ相手を押し込み、本人が何を望んでいるかを聞かない。
ヴァレリー家の中で、何度も繰り返されてきたやり方だった。
「お父さま」
ミレイユが震える声で呼んだ。
「私の名前を、代わりに入れたの?」
父が妹を見る。
「ミレイユ。今は――」
「私を聖女名簿に入れたのは、お父さまなの?」
「違う」
アルブレヒトの傷は赤くならない。
「お前が聖女候補に選ばれたのは、正式な適性検査の結果だ。治癒能力も光属性も、基準を満たしていた」
「では、お姉さまの名前を消したのは?」
父の喉が動く。
「エステルは、候補になってはいけなかった」
「どうして?」
「第十三神託の鍵だからだ。十二神の聖女として登録されれば、二つの神託体系が衝突する。何が起きるか分からなかった」
「だから、消したの?」
「そうだ」
「誰が?」
「私と、ボルデだ」
エステルの胸が重く沈んだ。
ボルデ副院長。
偽造された印ではない。
少なくとも十九年前から、父とともにエステルの存在を隠していた。
「副院長は、今回の私の追放にも関わっていますか」
「分からない」
「本当に?」
「本当に分からない!」
父はアルブレヒトの傷を見る。
反応はない。
「ボルデは、エステルを殺すような男ではない。だが、最近のあいつは何かを隠していた。聖女選定の直前から、会っても昔の話を避けるようになった」
「確認しなかったのですか」
「した。何も答えなかった」
「それで信じたのですね」
「信じたかった」
父の声が小さくなる。
その言葉は、エステル自身が二日前に言ったものと同じだった。
信じたかった。
だから、不自然なところへ目をつぶった。
父も、自分と同じだったのだ。
同じだから許せるわけではない。
むしろ、分かってしまうからこそ、余計に腹が立った。
「私だけが知らなかったのですね」
エステルは言った。
「父も、副院長も、神殿の誰かも。私が何者かを知り、私の人生を決めていた。知らなかったのは、本人だけ」
「知らせれば危険だった」
「それはもう聞きました」
「ならば分かってくれ!」
「分かることと、納得することは別です」
父は目を閉じた。
「お前のその言い方を、久しぶりに聞いた気がする」
「数日前にも申し上げました」
「あのときは……聞けていなかった」
「今は聞いているのですか」
「聞こうとしている」
不器用な返事だった。
エステルはそれ以上、父を追い詰める言葉が出なかった。
許したわけではない。
ただ、父も今になって初めて娘の言葉を聞こうとしているのだと分かってしまった。
「じゃあ、私は何なの?」
ミレイユの声が広間へ落ちた。
エステルと父が、同時に妹を見る。
ミレイユは両手を胸元へ当て、亀裂の入った聖女石を握っていた。
「お姉さまが第一候補で、私がその次だったんでしょう?」
「順位の問題ではない」
父が答える。
「でも、名簿には第一候補って書いてあった!」
「適性検査を行った順番だ。聖女の価値を決める順位ではない」
「そんなの、今考えた言い訳でしょう!」
「違う」
「じゃあ、どうしてお姉さまの名前を消したあと、私の名前を残したの? お姉さまが危険だから、代わりに私を使ったんじゃないの?」
「使ってなどいない!」
「同じよ!」
ミレイユの叫びに、父が黙る。
「お姉さまには危険な力があるから隠した。私は安全だから聖女にした。そういうことでしょう?」
「お前の力は本物だ」
「でも、お姉さまがいなければ、私は選ばれなかったかもしれない」
「それは違うわ」
エステルが口を挟むと、ミレイユが鋭く振り向いた。
「何が違うの?」
「神託には、あなたの光属性も治癒能力も基準を満たしていると書かれていた。私の名前が消されたことと、あなたの適性があることは別よ」
「また、事実を分けて話すのね」
「必要だからよ」
「今、そんな話を聞きたいと思う?」
ミレイユの目から涙がこぼれた。
「私は、お姉さまに大丈夫って言ってほしいの。私が偽物じゃないって。お姉さまから奪ったんじゃないって」
「奪っていないと言えば、安心できる?」
「できるわよ!」
「本当に?」
ミレイユは答えかけ、口を閉じた。
エステルは妹を責めたいわけではなかった。
ただ、今ここで都合のよい言葉を与えれば、また同じことになる。
「あなたは聖女の力を持っている。それは本当よ」
「でも?」
「私との婚約解消を知りながら、九日前に私の髪飾りを選んだことも本当」
ミレイユの顔が歪む。
「今、それを言うの?」
「私は、まだ傷ついているから」
「じゃあ、やっぱり私を恨んでるんじゃない!」
「恨んでいる部分もあるわ」
ミレイユが息を呑んだ。
父も、驚いた顔でエステルを見る。
以前なら、そんな言葉は絶対に口にしなかった。
姉としてふさわしくない。
妹を傷つける。
家族の空気を悪くする。
そう考えて、整った言葉へ直していただろう。
「でも、それだけではない」
エステルは続けた。
「あなたが怖かったことも分かる。聖女に選ばれて、王家との婚約まで突然決められて、お父さまとお母さまに従うしかなかったことも。私へ言えなかった理由も、少しは想像できる」
「だったら、許してくれるの?」
「今すぐには無理」
ミレイユの涙が増えた。
エステルの胸も痛んだ。
「でも、あなたが泣くからといって、許したふりはしない」
「ひどい」
「そうかもしれない」
「お姉さまなんて、ずっと正しい顔をして、私の気持ちなんて分かろうとしなかった!」
「あなたも、私が傷ついた顔をすることを責めたわ」
「だって、お姉さまがそんな顔をしたら、私が悪いみたいになるもの!」
「悪いことをした部分はあるでしょう」
「お姉さまだって、私をずっと見下してた!」
「見下していない」
「嘘よ!」
アルブレヒトの傷は反応しなかった。
ミレイユは、それを見てさらに泣いた。
「嘘じゃないの?」
「見下してはいない。でも、心配しすぎていたと思う」
「同じよ」
「違うわ」
「私には同じだった!」
その言葉に、エステルは黙った。
自分がどう思っていたか。
ミレイユがどう感じていたか。
その二つは、同じではない。
同じではないが、どちらか一方だけが正しいわけでもない。
「そう感じていたのね」
エステルは言った。
「何よ、それ。今さら聞き分けのいい姉みたいに」
「そうではなくて……」
「言葉を選ばないでよ!」
ミレイユが叫ぶ。
「お姉さまはいつも、言う前に頭の中で直すでしょう。間違っていない言葉だけを選ぶ。私が怒っても泣いても、きれいな文章で返してくる。そうされると、私だけが馬鹿みたいなの!」
「間違ったことを言えば、あなたをもっと傷つけると思っていた」
「傷ついてもいいから、本当のことを言ってほしかった!」
エステルは息を止めた。
妹が欲しかったのは、完璧な姉ではなかったのかもしれない。
腹を立て、嫉妬し、時には醜いことまで言う姉。
自分と同じように面倒な人間。
「私は」
エステルは口を開いた。
「あなたが、少し羨ましかった」
ミレイユが目を見開く。
「私を?」
「あなたが泣けば、お母さまはすぐに抱きしめた。あなたが失敗すれば、まだ若いから仕方がないと言われた。私が失敗すれば、王太子妃になる者として自覚が足りないと言われた」
「そんなの、私が頼んだわけじゃない」
「分かってる」
「じゃあ、どうして」
「分かっていても、羨ましかったの」
言葉にすると、長年胸の底へ沈めていたものが、少しだけ形を持った。
「あなたがジュリアン殿下の隣に立っているのを見たとき、婚約者を奪われたことより、お父さまとお母さまがあなたのために全員で秘密を守っていたことが辛かった。私は家族の外側にいたんだと思った」
「私は……」
「あなたも、私の外側に置かれていたのね」
ミレイユの唇が震える。
「お姉さまには、何を言っても理解されないと思ってた。間違ってるって言われると思ってた」
「言ったかもしれない」
「そこは否定してよ」
「否定できないわ」
ミレイユは泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
それは、王宮で見せた聖女の笑顔ではなかった。
幼い頃、エステルの焼いた固い菓子を食べ、「石みたい」と言って笑ったときの顔に近かった。
「じゃあ」
ミレイユは聖女石へ手をかけた。
「これを、お姉さまに返す」
「何を?」
「聖女の座よ」
彼女は首から鎖を外し、亀裂の入った青い宝石を差し出した。
「最初に選ばれたのがお姉さまなら、お姉さまが持つべきでしょう。殿下との婚約も……」
「要らないわ」
反射的に答えた。
ミレイユの手が止まる。
「どうして」
「聖女石は、あなたの魔力へ反応している。私が持っても意味がない。それから、ジュリアン殿下との婚約も戻すつもりはない」
「でも、お姉さまが本当の聖女なら」
「私は、あなたの代わりになりたいわけではない」
「じゃあ、私にそのままやれっていうの?」
「やりたいの?」
ミレイユは答えられなかった。
「あなたは、聖女を続けたい?」
「分からない」
「殿下と結婚したい?」
「……分からない」
初めて、妹がそう答えた。
決められた役割ではなく、自分の気持ちを尋ねられたとき、答えが出ない。
エステルと同じだった。
「今すぐ決めなくていいわ」
「でも、国が」
「国の都合と、あなたの気持ちは別よ」
「また分けるのね」
「ええ。分けたほうがいいこともあるから」
ミレイユは聖女石を握り直した。
アルブレヒトが、父を押さえたまま低く言う。
「二人とも聖女ではないのか」
全員が彼を見る。
「何をおっしゃっているのですか」
エステルが尋ねた。
「足元の陣は二つある」
「見れば分かります」
「一方が本物で、一方が偽物なら、片方だけ反応するはずだ」
「神託が二人を別の役割として認識している可能性があります」
「なら、それを調べろ」
「今、家族の話をしていました」
「神託が暴走する前に終わらせろ」
「家族の話は、すぐには終わりません」
「見れば分かる」
アルブレヒトはため息をつき、床の二つの陣を指した。
「黒い側は文章を直している。金色の側は、壊れたものを癒やしている」
父が顔を上げた。
「まさか……」
「何ですか」
エステルが聞く。
「古い記録にあった」
父は掠れた声で答えた。
「十二神の聖女は、神託を人の世へ届ける者。第十三の聖女は、届いた言葉に生じた誤りを正す者。かつては、二人で一組だった」
「では、聖女は最初から」
「一人ではなかった」
白髪の少女の声と、同じ言葉。
エステルは足元の黒銀の陣を見る。
神託校正官。
それは聖女の補助職だと教えられていた。
神から与えられた完璧な言葉を、人間が誤って写さないよう確認する仕事。
だが、もし最初から、神託自体を直す役割が存在したのなら。
「なぜ、第十三の聖女は消されたのですか」
父の顔が暗くなる。
「神託を正す者は、神々の間違いを認める者だからだ」
「十二神が、消したのですか」
「違う」
父はゆっくりと首を横へ振った。
「人間が消した」
床の黒い文字が激しく揺れた。
ミレイユの金色の陣も、呼応するように光を強める。
その瞬間、離宮の外から悲鳴が上がった。
続いて、鋼のぶつかる音。
「敵襲!」
廊下から帝国騎士が飛び込んでくる。
「聖王国の回収隊が、こちらへ攻撃を始めました!」
父が顔を上げる。
「何だと? 私は命じていない!」
「隊長が、神託院の命令書を出しました。『第十三神託に接触した者を、全員処分せよ』と!」
ミレイユの顔が青ざめる。
「全員って……私たちも?」
外で再び爆発音が響いた。
窓硝子が震え、天井から細かな塵が落ちてくる。
アルブレヒトは父を解放し、剣を抜いた。
「話はあとだ」
「殿下」
「エステルは凍結書を守れ。ミレイユは負傷者の治療。伯爵は私と来い」
「なぜ私が」
「連れてきた兵へ、お前の口で命令を止めろ」
「従わなければ?」
「敵として斬る」
父は一瞬ためらい、それから立ち上がった。
「エステル」
扉へ向かう直前、父が振り返る。
「戻ったら、すべて話す」
「今度は、途中で隠さないでください」
「約束する」
アルブレヒトの傷は反応しなかった。
父とアルブレヒトが広間を出る。
ミレイユは割れた聖女石を胸へ戻し、エステルの隣へ立った。
「お姉さま」
「何?」
「私、まだあなたを許してない」
「何について?」
「私の気持ちを分かったつもりでいたこと。ずっと私を子ども扱いしたこと。それから今、私に聖女を続けたいかなんて、答えにくいことを聞いたこと」
「最後のものは、私が悪いの?」
「今は全部、お姉さまが悪いことにしたいの」
「それは困るわ」
「私だって、お姉さまに婚約のことを黙っていた。傷ついていると分かっていたのに、自分が責められたくなくて、お姉さまの言い方が悪いことにした」
ミレイユは涙を袖で拭った。
「だから、お互い様にはしない。お互いに悪かったことにする」
エステルは少し考えた。
「その表現なら、同意できるわ」
「こういうときまで校正するのね」
「癖だから」
「嫌な癖」
「知ってる」
遠くで剣戟が響く。
黒銀と金色、二つの神託陣が姉妹の足元で重なり始めた。
「私に、できることはある?」
ミレイユが尋ねる。
「あるわ」
「何?」
「凍結書が開いたら、私一人では中の神託を受け止められない可能性がある。あなたの治癒で、私の魔力を保ってほしい」
「危険なの?」
「分からない」
「また、それね」
「成功するとは約束できない」
ミレイユは怖そうに奥の円形広間を見た。
「怖い」
「私もよ」
「お姉さまも怖いって言うのね」
「最近、言うようにしているの」
「誰に教わったの?」
エステルは答えなかった。
廊下の向こうで、アルブレヒトの剣が青白く光ったのが見えたからだ。
「あとで話すわ」
「絶対よ」
「努力する」
「それ、話さない人の返事でしょう」
妹まで同じことを言うようになった。
エステルは、ほんの少し笑った。
次の瞬間、凍結書を覆っていた氷が、内側から大きく割れた。
表紙が開く。
そこに記されていた最初の神託は、聖王国の建国神託ではなかった。
もっと古い。
十二の神々が生まれる以前の文章。
――世界に最初の言葉が生まれたとき、同時に最初の誤りが生まれた。
――ゆえに創造主は、言葉を授ける十二の手と、誤りを拾う一つの目を置いた。
文章の最後には、十三番目の神の名が記されていた。
エステルがその名を読もうとした瞬間、離宮の外から父の叫びが響く。
「読むな、エステル!」
だが、すでに最初の一音は、彼女の唇からこぼれていた。




