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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第十五話 消された神の名を呼んだら、声を奪われました

「レ――」


 最初の一音が、エステルの唇からこぼれた。


 ただそれだけだった。


 神の名を最後まで読んだわけではない。意味を理解したわけでも、その存在を受け入れたわけでもなかった。


 それなのに、凍結書が彼女の声を聞き逃すことはなかった。


 開かれた頁から黒銀の文字が噴き上がり、細い指のようにエステルの首へ絡みつく。


「お姉さま!」


 ミレイユが腕を伸ばした。


 エステルは危険だと告げようとした。


 近づかないで。


 そう言うために口を開いたが、声が出ない。


 喉の奥へ、冷たいインクを流し込まれたような感覚が広がる。呼吸はできる。痛みも、それほど強くない。


 だが、声だけが失われていた。


「お姉さま、返事をして!」


 ミレイユがエステルの肩をつかむ。


 エステルは妹を押し返そうとした。


 しかし、黒銀の文字が二人の間へ流れ込み、ミレイユの金色の神託陣に触れた瞬間、激しい光が弾けた。


「きゃっ……!」


 ミレイユの身体が後ろへ飛ばされる。


 エステルは手を伸ばしたが、指先が届かない。


 床へ倒れる直前、ミレイユの身体を父が受け止めた。


 いつの間に戻ってきたのか、父の額からは血が流れていた。衣服の肩も切り裂かれ、左腕をかばうようにしている。


「ミレイユ!」


「私は平気。それより、お姉さまが……」


 父はエステルを見ると、顔色を失った。


「声を取られたのか」


 エステルは父へ駆け寄り、その腕をつかんだ。


 どういう意味ですか。


 そう尋ねたいのに、息が漏れるだけで音にならない。


「落ち着け。無理に話そうとするな」


 父はエステルの喉へ触れようとして、途中で手を止めた。


 娘に触れてよいのか迷ったのだろう。


 そのためらいが、今は妙に腹立たしかった。


 王宮では、本人の意思を確かめず罪を認めさせようとした。


 十九年前には、幼い娘を封印の鍵にした。


 それなのに今さら、喉へ触れることだけは慎重になる。


 エステルは父の手を自分で取り、首元へ押し当てた。


「エステル」


 父の指が震える。


「聞いてくれ。第十三神の名は、ただの呼び名ではない。その神を世界へ接続するための文章そのものだ。名を口にした者の声を通路として使う」


 エステルは眉を寄せた。


 父は何かを書けるものを探し、腰の革袋から小さな帳面と鉛筆を出した。


「書けるか」


 エステルは帳面を奪うように受け取り、震える指で書いた。


 ――声は戻りますか。


 父はすぐに答えなかった。


 エステルが帳面を突きつける。


「分からない」


 父は言った。


「過去の記録では、名を途中まで読んだ者はいない」


 ――では、なぜ声を取られると知っていたのです。


「第十三神は、声を持たない。正確には、人間によって名と声を奪われた。だから、接続した人間の声を借りると記録されている」


 ――私の声を使って、何をするのですか。


「それも分からない」


 父が答えた途端、エステルの中で怒りが膨れた。


 また分からない。


 知らない。


 時間がなかった。


 危険だった。


 父は、自分が理解していないものへ三歳の娘をつなぎ、その事実を十九年間隠した。


 エステルは帳面へ強く鉛筆を走らせた。


 芯が折れた。


 ――分からないものへ、私を使ったのですか。


 父はその文章を読み、目を伏せた。


「そうだ」


 否定も言い訳もしなかった。


「父親として間違っていた。あのときは、ほかに方法がないと思った。それが正しかったとは、もう言わない」


 ――もう?


「お前に国外追放を受け入れさせようとしたときまで、私は自分が正しいと思っていた」


 父の声は、情けないほど弱かった。


「家族を守るために、誰かが犠牲にならなければならない。そういうとき、最も耐えられる者を選ぶのは仕方がないと」


 エステルは書く手を止めた。


「だが、それは選ぶ側の理屈だ。選ばれたお前が何を失うか、私は見ようとしなかった」


 謝罪されたかったはずなのに、実際に父が自分の間違いを認めると、胸は少しも軽くならなかった。


 もっと早く気づいてほしかった。


 自分が国を追われる前に。


 家族の前で供述書を裂く前に。


 できることなら、十九年前に。


「お父さま」


 ミレイユが、父の腕の中から身体を起こした。


「外はどうなっているの?」


 父の顔が引き締まる。


「回収隊は、私の命令を聞かない。指揮を執っているのは神託院査問官のディートハルトだ」


「査問官?」


 ミレイユはその名を知っているらしい。


「私の聖女認定に立ち会った人よ。とても穏やかな方で、私が緊張していたら、何度も励ましてくださった」


「今は、ここにいる全員を処分するよう命じている」


「そんな……」


「人は一つの顔だけで生きているわけではない」


 父の言葉に、エステルはアルブレヒトを思い出した。


 同じことを、彼も言っていた。


 そのアルブレヒトの姿が見えない。


 エステルは帳面へ書く。


 ――アルブレヒト殿下は。


「外で回収隊を止めている」


 父が答えた。


「帝国兵だけでは数が足りない。長くは持たない」


 遠くで爆発音が響いた。


 離宮全体が揺れ、天井から細かな石片が落ちる。


 エステルは扉へ向かおうとした。


 父が前へ回る。


「どこへ行く」


 エステルは帳面を開く。


 ――殿下のところへ。


「今のお前が行って、何をする」


 ――神託陣を使います。


「声を失っているんだぞ。神託は発声によって起動する」


 エステルは、床に浮かぶ黒銀の文字を見た。


 文字は彼女の足元を離れようとしない。


 声を失っても、消えてはいない。


 むしろ以前より強く、何かを伝えようとしている。


 ――私には文字があります。


「書くだけでは、神託は動かない」


 エステルは父を見た。


 それを決めたのは誰ですか。


 帳面へ書こうとしたとき、ミレイユが父の前へ立った。


「お姉さまにやらせて」


「ミレイユ」


「お父さまは、また決めるの?」


 父が言葉を失う。


「危ないから駄目。知らないほうが幸せ。お姉さまなら耐えられる。今度は、声が出ないから何もできないって、お父さまが決めるの?」


「私は二人を守ろうと――」


「守るって言葉を使えば、勝手に決めてもいいわけじゃないでしょう!」


 ミレイユの声が裏返った。


 彼女自身、父へこんな声を上げたことはほとんどないのだろう。叫んだあとで怯えたように肩を縮めた。


 それでも、退かなかった。


「お姉さまは、何をしたいの」


 ミレイユが尋ねる。


 エステルは帳面へ書いた。


 ――凍結書の文章を使い、離宮を守る結界を作ります。


「一人でできる?」


 ――分かりません。


「私にできることは?」


 エステルは鉛筆を止めた。


 黒銀の神託陣。


 金色の神託陣。


 二人で一組だった、かつての聖女。


 ミレイユならば、エステルの魔力を保てる。


 先ほども、そう頼むつもりだった。


 だが、妹だから。


 聖女だから。


 治癒の力があるから。


 それだけの理由で、危険な神託へ巻き込んでよいのか。


 エステルが迷っていると、ミレイユの顔が険しくなった。


「また、お姉さま一人で決めるの?」


 エステルは顔を上げた。


「私が怖がるから何も頼まないほうがいいとか、私には無理だとか、もう頭の中で決めたでしょう」


 否定できない。


「私、怖いわ」


 ミレイユは言った。


「今すぐ王都へ帰りたい。お父さまにも、お姉さまにも、どうしてこんなことに私を巻き込んだのって怒りたい。聖女なんかやめたいし、でもやめたら今まで私を祝ってくれた人に失望されそうで、それも怖い」


 涙が目にたまる。


「それでも、何も知らないまま守られるのは、もう嫌なの」


 エステルは帳面を持つ指へ力を入れた。


 妹に頼ることは、妹を利用することと同じではない。


 頼まれた側には、断る権利がある。


 その権利を認めて初めて、お願いになる。


 エステルはゆっくりと書いた。


 ――あなたの力を貸してください。


 その下へ、もう一文を加える。


 ――危険です。断っても、あなたを責めません。


 ミレイユは帳面を読んだ。


 唇を引き結び、目元を袖で拭う。


「嫌よ」


 父が息を呑んだ。


 エステルも、少しだけ胸が痛んだ。


「妹だから、当然みたいに力を貸すのは嫌」


 ミレイユは続けた。


「お姉さまを許したから助けるのでもない。まだ腹が立ってるもの」


 エステルはうなずいた。


「でも、私が決めて助ける」


 金色の神託陣が強く輝いた。


「お姉さまが無茶をしたら、途中でもやめる。私が怖くて無理だと思ったら、すぐ手を離す。それでいい?」


 エステルは帳面へ書いた。


 ――それで構いません。


「あと、終わったら私の話を聞いて」


 ――何について?


「ジュリアン殿下とのこと。お姉さまがいなくなったあと、王宮で何があったか」


 エステルは一瞬、知りたくないと思った。


 ジュリアンが妹へどんな言葉をかけたのか。


 二人がどのように過ごしたのか。


 考えるだけで胸がざらつく。


 それでも、妹が話したいと言っている。


 ――聞きます。


「今、少し嫌そうな顔をした」


 ――嫌だからです。


 ミレイユが驚いたあと、かすかに笑った。


「そういう返事のほうが、私は好き」


 そのとき、応接広間の扉が破られた。


 白い法衣をまとった男たちが、武器を手に雪崩れ込んでくる。


 先頭に立つのは、痩せた中年の神官だった。


 穏やかそうな顔。


 灰色の髪。


 ミレイユが、査問官ディートハルトと呼んだ男だろう。


「聖女様」


 男は剣を向けながらも、丁寧に頭を下げた。


「お迎えに上がりました」


「迎え?」


 ミレイユが後ずさる。


「武器を持って、ですか」


「第十三神託に触れた者は、正しい判断を失います。今のあなたは、邪神に惑わされている」


「私は、自分で決めてここにいるわ」


「それこそが汚染の証です」


 ディートハルトは悲しそうな顔をした。


「王都へ戻り、浄化を受けてください。そうすれば、再び国民から愛される聖女へ戻れます」


「戻らなかったら?」


「聖女の名誉を守る形で、女神のもとへお送りいたします」


 ミレイユの顔から血の気が引いた。


「殺すということ?」


「殉教です」


「言葉を変えただけでしょう!」


 ミレイユの叫びに、ディートハルトの表情は変わらない。


「言葉は、人が真実を受け入れやすくするためにあります」


 エステルの足元で、黒銀の文字が激しく渦巻いた。


 違う。


 言葉は、受け入れさせるためだけの道具ではない。


 疑うためにもある。


 拒むためにも。


 間違っていると伝えるためにも。


 エステルはミレイユの手を取った。


 妹の指は冷たく震えていた。


「お姉さま」


 声を出せない代わりに、強く握り返す。


 やめたいなら、今でも手を離していい。


 そう伝えたつもりだった。


 ミレイユは一度、エステルの顔を見た。


 それから自分の意思で指を絡める。


「やるわ」


 二つの神託陣が重なった。


 黒銀の文字へ金色の光が流れ込み、離宮の壁を伝って広がっていく。


 エステルは床へ膝をつき、凍結書から溢れた文字を指先ですくい上げた。


 声がなくても、書くことはできる。


 読み上げられなくても、伝えることはできる。


 指先で床へ最初の一文を書く。


 ――この場所にいるすべての者へ。


 黒銀の文字が光る。


 父が、エステルの意図に気づいた。


「結界神託か」


 エステルはうなずいた。


「発声なしでは成立しない!」


 ディートハルトが叫ぶ。


「神託は、神の言葉を人が唱えることで初めて力を持つ。声を失った校正官に、何ができる!」


 エステルは次の一節を書いた。


 ――言葉は、声だけに宿るものではない。


 神託陣が、低く脈打つ。


 ディートハルトの顔から余裕が消えた。


「止めろ!」


 白い法衣の男たちが踏み込んでくる。


 父が前へ出た。


 負傷した左腕をかばいながら、封印札を床へ叩きつける。光の壁が生まれ、最初の一撃を防いだ。


「続けろ、エステル!」


 父は叫んだ。


「今度は、私が時間を稼ぐ!」


 エステルの胸が揺れた。


 今さら。


 遅すぎる。


 そう思った。


 それでも、父が娘の代わりに決めるのではなく、娘が選んだことを支えようとしている。


 エステルは書き続けた。


 ――名を持つ者も。


 ミレイユの金色の光が、文字へ温もりを与える。


 ――名を奪われた者も。


 外から激しい剣戟が近づいてくる。


 青白い光が扉の向こうを横切った。


「伏せろ!」


 アルブレヒトの声。


 次の瞬間、広間の側壁が外側から吹き飛んだ。


 雪と石片の中から、アルブレヒトが飛び込んでくる。軍服には血がつき、右肩の布が裂けていた。


 その剣が、ディートハルトの刃を弾く。


「遅くなった」


 アルブレヒトはエステルへ背を向けたまま言った。


 エステルは口を開きかけ、声が出ないことを思い出した。


「何だ」


 アルブレヒトが横目で見る。


 エステルは帳面を開く余裕がなく、ただ首を横へ振った。


「あとで聞く」


 短い言葉だった。


 必ず、あとがある。


 そう言われた気がした。


 エステルは最後の一節を記す。


 ――自らここに在ると望む者を、この壁より排してはならない。


 文章が完成する。


 しかし、結界は起動しなかった。


「お姉さま!」


 ミレイユの顔が苦痛に歪む。


「何か足りない!」


 発声。


 神託を世界へ渡す声がない。


 ディートハルトが笑った。


「だから言ったでしょう。声なき者に、神託は使えない」


 その言葉を聞いた瞬間、凍結書の頁がひとりでにめくれた。


 白髪の少女が、本の上へ姿を現す。


「声なら、あるよ」


 少女はエステルを見た。


「借りたから」


 エステルの喉から、知らない声が響いた。


 幼くも、老いてもいる。


 男でも女でもない。


 無数の人間が同時に話しているような声だった。


『書かれざる者を、なかったことにするな』


 結界神託が起動した。


 黒銀と金色の光が離宮全体を包み込み、侵入していた神官たちを壁の外へ弾き出す。


 ディートハルトだけが床へ剣を突き立て、辛うじて広間に残った。


「あり得ない……」


 彼の法衣の内側から、一枚の命令書が落ちる。


 エステルの黒銀の光が、その文書へ触れた。


 表面に書かれていた命令文が剥がれ落ち、その下から隠された文章が現れる。


 父が拾い上げ、読み上げた。


「第一対象、封印鍵エステル・ヴァレリー。回収不能の場合、処分」


 ミレイユの手が震える。


「第二対象は?」


 父が黙った。


「読んで」


 ミレイユが言った。


「私にも関係があるんでしょう」


「ミレイユ」


「もう隠さないで!」


 父は唇を噛み、続けた。


「第二対象、十二神聖女ミレイユ・ヴァレリー」


 広間が静まり返る。


「王太子との婚約発表を完了後、第十三神託汚染の兆候ありとして処分。聖女殉教として公表し、次期器を選定する」


 ミレイユは、理解できないように瞬きを繰り返した。


「婚約発表を、完了後……?」


 自分が国民の前へ姿を見せ、聖女として十分に利用されたあと。


 最初から殺される予定だった。


「私を励ましてくれたのは」


 ミレイユがディートハルトを見る。


「私が怖いと言ったとき、大丈夫です、あなたは女神に愛されていますって言ったのは」


「聖女が不安な顔を見せれば、国民が困惑しますから」


 ディートハルトは平然と答えた。


「私は、あなたをお役目にふさわしい状態へ整えただけです」


「整えた……?」


「あなた個人を愛したわけではありません」


 ミレイユの金色の神託陣が大きく揺れた。


 光が消えかける。


 エステルは妹の手を強く握った。


「離して」


 ミレイユが小さく言った。


 エステルはすぐに手を緩めた。


 先ほど約束した。


 ミレイユが無理だと思ったら、手を離すと。


 だが、妹は指を完全にはほどかなかった。


「今は、一人で立てない」


 涙をこぼしながら言う。


「でも、握られているのも腹が立つ。だから、少しだけにして」


 エステルは力を抜き、指先だけを触れ合わせた。


 それで金色の光は消えなかった。


 ディートハルトが剣を引き抜く。


「命令書を読まれた以上、全員を処分しなければなりません」


 アルブレヒトが彼の前へ立つ。


「できると思うか」


「皇弟殿下。あなたも例外ではない」


「そうか」


 アルブレヒトは剣を構えた。


「ならば、話が早い」


 二人が踏み込む直前、命令書の末尾へ、さらに一行の文字が浮かび上がった。


 エステルの余白視だけが拾った、最も深く隠された署名。


 それはボルデ副院長の名ではなかった。


 神託院長でも、聖王でもない。


 役職名だけが記されている。


 ――第一編纂官。


 そして、その横には、エステルが王宮の偽造神託で見たものと同じ、三枚葉の紋章が押されていた。


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