第十六話 間違いのない世界に、人間はいらない
命令書の末尾に浮かび上がった三枚葉の紋章を見た瞬間、エステルの中で、王宮の記憶が鮮明によみがえった。
自分の名を刻んだ偽物の校正筆。
本物とは異なる三枚葉の飾り。
古い日付制度で書かれた偽造神託。
あのとき、エステルを犯人に仕立てるための証拠を用意した者と、ミレイユを利用したあとで処分しようとした者は、同じ場所へつながっている。
第一編纂官。
役職名だけで、個人名はない。
神託院にも、王立記録院にも、エステルの知る限りそのような役職は存在しなかった。
「第一編纂官……」
父が命令書を握ったまま呟いた。
その顔には、驚きだけではないものが浮かんでいる。
恐怖。
そして、覚えがある者の表情だった。
エステルは父へ詰め寄り、帳面を開いた。
――知っているのですか。
父は文章を読んだ。
だが、答える前に、ディートハルトが剣を振り上げた。
「それを読むな!」
アルブレヒトの剣が下から跳ね上がり、刃を弾く。
金属音が広間へ鋭く響いた。
「読むな、か」
アルブレヒトは、押し返した剣の向こうからディートハルトを睨んだ。
「役職名を見られただけで、ずいぶん焦る」
「殿下には関係のないことです」
「私の領地で町一つを凍らせ、私の離宮を勝手に使い、今は私を殺そうとした。どこから関係がないと思った」
「帝国と聖王国の争いではありません」
「ならば何だ」
「世界を正しく保つための作業です」
ディートハルトは、息を乱しながらも穏やかな口調を崩さなかった。
「文章に誤りがあれば、修正する。秩序を乱す記述があれば削除する。それだけのことです」
エステルの足元で、黒銀の文字が不快そうに揺れた。
文章を修正する。
不要な箇所を削る。
言葉だけなら、校正官の仕事と変わらない。
だが、この男が削ろうとしているものは文章ではない。
人間だ。
「エステル」
アルブレヒトが呼んだ。
声を失った彼女は返事ができない。
それでも彼は、こちらを見ずに続けた。
「その命令書を持って下がれ。妹も連れていけ」
エステルは首を横へ振った。
「聞こえているなら従え」
再び首を横へ振る。
「今、言い争うな」
言い争いたくても声が出ない。
エステルは帳面へ急いで書いた。
――ディートハルトを生きたまま捕らえてください。第一編纂官について聞く必要があります。
帳面を掲げると、アルブレヒトは戦いながら横目で読んだ。
「最初から殺すつもりはない」
首筋の傷は反応しなかった。
エステルは少し安心した。
「ただし、抵抗を続けるなら腕の一本は諦めろ」
ディートハルトが小さく笑った。
「冷酷皇弟の名は、誇張ではないようだ」
「お前たちより正直なだけだ」
「正直?」
ディートハルトの声に、初めて明確な嘲りが混じった。
「殿下は、ご自分が正直であることを美徳だと思っているのですか。嘘をつけないのは、呪いによって強制されているからでしょう。選んだ善性ではない」
アルブレヒトの剣が一瞬止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、ディートハルトはそれを見逃さない。
彼の左手から白い紙片が放たれ、アルブレヒトの胸へ貼りついた。
「殿下!」
ミレイユが叫ぶ。
紙片に書かれた文字が光り、アルブレヒトの身体を白い鎖が拘束した。
「虚言封じです」
ディートハルトは距離を取りながら言った。
「意識の中に矛盾を抱える者ほど、強く縛られる。ご自分を正しいと思いながら、心の底ではただ人を傷つけたいだけのあなたには、よく効くでしょう」
白い鎖がアルブレヒトの首や腕へ食い込む。
古い火傷痕とは別に、新しい赤い傷が浮かんだ。
彼は膝をつかなかった。
だが、剣を持つ腕がわずかに下がる。
エステルはディートハルトの言葉を頭の中で分解した。
意識の中にある矛盾を利用する。
自分の行為を正しいと主張しながら、本心では別の欲望を持つ者を拘束する神託。
ならば解除方法は、矛盾を消すこと。
正しく見せるのをやめ、本心を認めればよい。
エステルは帳面へ書こうとした。
しかし、アルブレヒトは戦っている。こちらを読む余裕はない。
声が出れば。
声さえあれば、伝えられるのに。
焦りが喉の奥を締めつける。
『伝えたい?』
自分の内側から、白髪の少女の声が聞こえた。
エステルは息を呑んだ。
『声を貸してあげようか』
拒むべきだ。
少女が何者なのか分からない。
一度声を借りれば、さらに深くつながる可能性がある。父も、完全に接続すれば普通の人間として生きられないと言っていた。
だが、アルブレヒトの鎖は強まっている。
ディートハルトが再び剣を構えた。
「殿下。あなたのような矛盾した人間が、世界を治めてはいけない」
エステルは喉へ手を当てた。
少女へ声に出さず問いかける。
――私の代わりに話すのですか。
『違うよ』
少女は笑った。
『あなたの言葉を、私が運ぶの』
それは同じではないだろうか。
問い返す時間はなかった。
ディートハルトが踏み込む。
エステルは心の中で、アルブレヒトへ伝えたい文章を組み立てた。
完璧に整えている余裕はない。
彼が正しい人間かどうかではない。
今、何を望んでいるのか。
それを認めればいい。
エステルの喉から、複数の声が重なった音が響いた。
『殿下。正しい理由を探さないでください』
アルブレヒトが顔を上げた。
エステル自身の声ではない。
それでも彼は、言葉を発したのが誰か分かったらしい。
「エステル?」
『今、ディートハルトを止めたい理由を、そのまま言ってください』
「そんなことで神託が――」
『説明はあとです。時間がありません』
アルブレヒトは一瞬、苦々しげに顔を歪めた。
白い鎖がさらに締まる。
「私は帝国を守るため、この男を止める」
鎖は消えない。
傷が赤くなる。
「殿下」
『違います』
「黙れ」
『嘘をつけないくせに、本心を隠すのですか』
「お前は本当に、こういうときだけ遠慮がないな」
『どういうときなら、遠慮すべきですか』
「あとで話す!」
剣が迫る。
アルブレヒトは鎖に縛られたまま、ぎりぎりで刃を受けた。
火花が散る。
「言ってください!」
今度は、エステル自身の声が一瞬だけ混じった。
掠れて、ひどく小さい声。
だが、確かに音になった。
アルブレヒトの金色の瞳が見開かれる。
彼は歯を食いしばった。
「この男が、お前を消そうとしたから腹が立つ」
白い鎖に亀裂が入った。
ディートハルトの表情が変わる。
「それだけですか」
エステルは、借りた声で問いかけた。
「お前の妹を道具扱いしたことも気に入らない。町の人間を名簿から消したことも、私の兵を傷つけたこともだ!」
亀裂が広がる。
「まだです」
「何を言わせたい!」
「ご自身のことです」
アルブレヒトは何かを拒むように首を振った。
「殿下!」
「……私が」
白い鎖が首へ食い込む。
それでも彼は、声を押し出した。
「私が、あの男の言葉に傷ついたからだ!」
鎖が砕けた。
光の破片が広間へ飛び散る。
アルブレヒトは自由になった腕でディートハルトの剣を弾き、その柄を返して相手の胸を打った。
ディートハルトが息を詰まらせる。
さらに足を払い、床へ倒す。
剣先が、その喉元へ突きつけられた。
「動くな」
アルブレヒトの声は荒い。
「次は、本当に腕を斬る」
ディートハルトは胸を押さえながら、薄く笑った。
「感情で動くことを、堂々と認めるのですか」
「認めたうえで、法に従って裁く」
「矛盾している」
「人間だからな」
アルブレヒトは短く答えた。
エステルの中で、白髪の少女が楽しそうに笑った。
『この人、好き』
エステルは驚いて心の中で問い返す。
――どういう意味ですか。
『言ったままの意味だよ』
――勝手に好きにならないでください。
『あなたの中にいるんだから、少しくらいいいでしょう』
――よくありません。
「エステル」
アルブレヒトに呼ばれ、エステルは顔を上げた。
「今、誰と話している」
答えようとして口を開く。
「白い髪の……少女と……」
掠れている。
しかし、今度は自分の声だった。
ミレイユが駆け寄る。
「お姉さま、声が戻ったの?」
「少し、だけ」
喉が痛い。
一言話すだけで、砂を飲み込んだようにひりつく。
「無理に話すな」
アルブレヒトが即座に言った。
「でも、伝えることが――」
「書け」
「戦っている相手には、読ませられません」
「なら、戦う前に書け」
「すべてを予想することはできません」
「では、私がお前を見る」
エステルは瞬きをした。
「どういう意味ですか」
「お前が何か言いたそうにしていたら、見る」
「それで内容が分かるのですか」
「分からない」
「では意味がありません」
「見ると言っている」
説明になっていない。
だが、それ以上問い返そうとしたところで、ミレイユがエステルの肩へ額を預けた。
「今は、もう話さないで」
「ミレイユ」
「お姉さまの声、変よ。聞いていると怖い」
率直すぎる言葉だった。
だが、妹の手はエステルの袖をしっかり握っている。
「怖いのに、そばにいるの?」
「怖いから、そばにいるの」
「逆では?」
「離れたら、もっと怖いでしょう」
エステルは考え、納得した。
「そうね」
声が小さく震えた。
ミレイユは少し安心したように息を吐く。
◇
ディートハルトは、円形広間の隣にある小部屋へ拘束された。
両手に帝国式の封魔具をつけ、父の封印札を胸と背中へ貼る。扉の前には帝国騎士が四名配置された。
回収隊の残りは、結界神託によって離宮の外へ弾き出されたあと、アルブレヒトの兵へ投降していた。
死者はいない。
重傷者は三名。
そのうち二名は帝国兵で、一名は聖王国の神殿騎士だった。
ミレイユは、相手が自分を殺そうとした側の人間であっても、三人全員へ治癒を施した。
「その者は後回しでよい」
帝国騎士の一人が、神殿騎士を指して言った。
「先に味方を治してください」
「重い人から治します」
「ですが」
「敵か味方かで、出血の量は変わりません」
ミレイユが言い返す。
エステルは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
妹も変わり始めている。
以前のミレイユなら、誰かに反対されれば、困ったように父やエステルを見ただろう。
今は、自分で理由を言っている。
完璧な言い方ではない。
騎士も納得しきれない顔をしている。
それでも、自分の言葉だった。
「エステル」
父が、背後から声をかけた。
彼の左腕にも包帯が巻かれている。
「喉は」
「痛みます」
「なら話すな」
「皆、同じことを言います」
「正しいからだ」
「正しいことを、命令のように言わないでください」
父の顔に、わずかな苦笑が浮かぶ。
「お前は本当に、変わらないな」
「変わりました」
「そうだな」
父は否定しなかった。
「以前のお前なら、今の一言も黙って飲み込んでいただろう」
「お父さまが、私の何を見ていたのか疑問です」
言ってから、喉に鋭い痛みが走った。
エステルは咳き込む。
父が慌てて背へ手を伸ばしたが、触れる直前にまた止めた。
エステルは咳の合間に、その手を見た。
「触れて、構いません」
「確認したほうがいいと思って」
「以前は、確認しませんでした」
「ああ」
「少し極端です」
「どうすればよいか、分からないんだ」
父は情けない顔で言った。
「今まで、父親なら分かっていなければならないと思っていた。だから、分からなくても決めた。だが、それでお前たちを傷つけた」
「分からないと言えばよかったのです」
「親が子どもに、分からないと言ってもよいのか」
「言われなかった子どもは、親がすべて分かったうえで自分を傷つけたと思います」
父の顔が強張った。
「お前は、そう思っていたのか」
「はい」
父はしばらく黙った。
それから、ためらいながらエステルの背へ手を置く。
軽く一度、撫でただけだった。
子どもの頃には、何度もされたはずの仕草。
今は、どう受け取ればよいのか分からない。
嫌ではなかった。
だからといって、すべてを許せたわけでもない。
「第一編纂官について、知っていることを話してください」
エステルが言うと、父は手を下ろした。
「今、話すのか」
「忘れないうちに」
「忘れはしない」
「お父さまが、また話す時期を選ぶ可能性があります」
「信用がないな」
「当然です」
「……そうだな」
父は言い返さず、廊下の壁へ背を預けた。
「第一編纂官という役職は、現在の神託院には存在しない。公的な記録では、建国から百年ほどで廃止されたことになっている」
「何をする役職だったのですか」
「各地で見つかった神託を集め、矛盾がない形へ整える役目だ」
「校正ではなく、編纂?」
「ああ。複数の神託が食い違った場合、どちらを正統とするか決めた。不要と判断した文章は、歴史から消した」
「第十三神も?」
「おそらくは」
「第一編纂官は、代々受け継がれる役職なのですか」
「そこまでは知らない。十九年前、ボルデは『まだ第一編纂官がいる』と言っていた」
「誰なのかは」
「聞いたが、知らないと答えた」
「信じたのですね」
「信じたかった」
父は自嘲するように笑った。
「私は、その言葉ばかりだな」
エステルも同じだった。
ボルデが関与していないと信じたい。
父が娘を守ろうとしていたと信じたい。
家族は最後には自分を選んでくれると信じたかった。
「ディートハルトへ聞きます」
エステルが小部屋へ向かおうとすると、父が腕をつかんだ。
「今のお前が行く必要はない」
「第一編纂官について、彼が最も知っています」
「アルブレヒト殿下に任せろ」
「私も聞きます」
「声が出ないだろう」
「帳面があります」
「エステル」
父の声が強くなる。
エステルも反射的に腕を引いた。
父の手が離れる。
「また、私の代わりに決めるのですか」
「違う。心配しているだけだ」
「心配した結果、私の行動を止めようとしています」
「親なら当然だ!」
「また、その言葉ですか」
父は口を閉じた。
二人の間に気まずい沈黙が落ちる。
「一緒に来てください」
エステルが言った。
「何?」
「止めるのではなく、一緒に聞いてください。私が無理をしていると思ったら、理由を説明してください」
「お前は聞くのか」
「納得すれば」
「納得しなければ?」
「話し合います」
「結局、止まらないのではないか」
「お父さまが正しければ止まります」
「自信がなくなってきた」
「分からないと言ってよいのでは?」
父は、困ったように笑った。
「そうだったな」
◇
小部屋へ入ると、アルブレヒトがすでにディートハルトの向かいへ座っていた。
机の上には、三枚葉の紋章が押された命令書が広げられている。
ディートハルトは両手を拘束されながらも、落ち着いた顔をしていた。
「来ると思っていました」
彼はエステルを見る。
「第一編纂官について聞きたいのでしょう」
エステルは椅子へ座り、帳面へ書いた。
――誰ですか。
「知りません」
アルブレヒトの傷は反応しなかった。
本当に知らない。
エステルは次の質問を書く。
――命令は誰から受けましたか。
「文書によって」
――どこから届くのですか。
「神託院内の、存在しない部屋です」
意味が分からなかった。
エステルが眉を寄せると、ディートハルトは少し笑う。
「神託院の北棟、三階。図面上は二百一号室の隣に、何もない空間があります。壁の長さと部屋の広さが合わない。しかし、誰も気にしない」
エステルは覚えがあった。
北棟三階の廊下。
二百一号室から資料庫まで、外から見た建物の長さに比べ、内部の廊下が短い。
以前、改築の影響だと説明された。
確認しようとしたが、ボルデから古い建物にはよくあることだと言われ、それ以上は調べなかった。
――その部屋へ入ったことは。
「ありません。必要な命令書は、朝になると私の机へ置かれています」
――第一編纂官の目的は。
「間違いのない世界を作ることです」
ディートハルトの声には、信仰に似た熱があった。
「神託が一つなら、人は迷わない。正しい歴史が一つなら、争いは生まれない。役目が決められていれば、自分が何者か悩む必要もない」
ミレイユの顔が、エステルの脳裏に浮かぶ。
聖女として愛される状態へ整えられた妹。
姉だから耐えろと言われた自分。
役目が決められていれば、迷わない。
確かに楽かもしれない。
ただし、決める側にとっては。
エステルは帳面へ書く。
――その世界で、役目を拒んだ人はどうなりますか。
「誤りとして修正されます」
――修正できない場合は。
「削除される」
ディートハルトは迷わなかった。
「すべての文章を残せば、世界は矛盾で満ちる。すべての人間の言い分を認めれば、誰も正しい道を選べない。不要な一文を消すことは、残りの文章を守るために必要です」
エステルは鉛筆を止めた。
文章には、削ったほうがよい箇所もある。
誤解を招く言葉。
重複。
明らかな誤り。
だが、人間は文章ではない。
その人が誰かにとって不都合だからといって、消してよい余分な一文にはならない。
「あなたは」
声が掠れた。
父が止めようとしたが、エステルは続けた。
「間違いのない世界に……人間が住めると、思うのですか」
ディートハルトは穏やかに笑った。
「人間を正しく整えれば」
「それは、人形です」
「人形は争わない」
「笑いもしません」
「不要です」
その答えを聞き、エステルの中で何かが静かに決まった。
第一編纂官の正体は分からない。
ボルデがどこまで関わっているのかも。
自分の声が戻るかさえ分からない。
それでも、相手が望む世界だけは理解できた。
間違いがない代わりに、誰も言い返せない世界。
矛盾がない代わりに、誰も迷えない世界。
そんなものは、正しい世界ではない。
ただ、書き手にとって都合のよい文章だ。
エステルは帳面へ、大きな文字で書いた。
――私は、その世界を校正します。
ディートハルトの笑みが消えた。
アルブレヒトは文章を覗き込み、眉を寄せる。
「表現がおかしい」
エステルが彼を見る。
「世界そのものを校正するのか」
エステルは考え、下へ一文を書き足した。
――正しくは、勝手に完成させようとする者の文章を校正します。
「長い」
アルブレヒトが言う。
父が困ったように笑った。
「この子らしい」
「短くしろ」
エステルは少し腹を立てながら、さらに書き直した。
――世界に、勝手に終止符を打たせません。
アルブレヒトはそれを読み、今度は何も訂正しなかった。
その日の夕刻。
国境砦から急使が北部離宮へ到着した。
使者が持ってきたのは、聖王国が周辺諸国へ向けて発表した正式声明だった。
元伯爵令嬢エステル・ヴァレリーは、国外追放の途中で魔獣に襲われ死亡。
聖女ミレイユ・ヴァレリーは、姉の死を利用するレーヴェン帝国の皇弟によって拉致された。
聖王国は聖女奪還のため、北境へ王国軍を派遣する。
声明の末尾には、王太子ジュリアンの署名があった。
エステルは、自分の死亡を知らせる文書を二度読み返した。
それから、隣に立つアルブレヒトへ帳面を見せる。
――私、死んだことになっています。
「見れば分かる」
――困ります。
「何がだ」
エステルはしばらく考え、書いた。
――死亡者は、報酬を受け取れない可能性があります。
アルブレヒトは数秒、無言で彼女を見た。
「最初に気にすることが、それか」
エステルは次の一文を加える。
――それから、殿下が誘拐犯になっています。
「そちらを先に書け」
隣で文書を読んでいたミレイユが、涙を浮かべながら笑った。
「お姉さま、本当に面倒な人」
エステルは帳面へ返事を書く。
――あなたもです。
ミレイユは少し驚き、それから涙を拭った。
「知ってる」
北境へ王国軍が向かっている。
エステルの死亡は、すでに国民へ発表された。
自分の言葉を取り戻す前に、今度は存在そのものを消された。
それでもエステルは、帳面を閉じなかった。
声がなくても書ける。
死んだことにされても、生きていると伝えられる。
誰かが勝手に終止符を打ったのなら、その横へ続きを書けばいい。
窓の外では、王国軍の到来を告げる狼煙が、国境の空へ上がり始めていた。




