第十七話 死亡した本人が、その発表を訂正します
自分の死亡を知らせる文書には、誤りが七つあった。
一つ目。
死亡したとされる時刻に、エステルは雪牙狼に襲われていたが、まだ生きていた。
二つ目。
遺体を確認した者の名がない。
三つ目。
死因が「魔獣による襲撃」とだけ記され、傷の状態も、死亡確認の方法も書かれていない。
四つ目。
護送に同行していた騎士二名の証言がない。
五つ目。
文書の発行日が、エステルの死亡予定日より一日早い。
六つ目。
聖女ミレイユが帝国皇弟に拉致されたという記述には、目撃者も移動経路も示されていない。
そして七つ目。
死んだ本人が、今ここで文書を読んでいる。
エステルは机に向かい、自分の死亡声明の余白へ次々と修正を書き込んでいた。
「そこまで細かく直す必要があるの?」
隣で見ていたミレイユが、疲れた声で尋ねた。
エステルは帳面へ返事を書く。
――発行日が死亡日より前なのは、細かい誤りではありません。
「そこじゃなくて、三行目の『元伯爵令嬢』を『爵位剥奪処分を受けた元伯爵令嬢』へ直したところよ」
――身分は正確に書くべきです。
「死んだことにされているのに、そこを気にする?」
――死んでいないからこそ、気にします。
ミレイユは椅子の背へ身体を預け、天井を仰いだ。
「お姉さまって、自分のお葬式でも棺の名札を直しそう」
エステルは少し考え、書いた。
――本人が棺へ入っている場合、訂正はできません。
「そういう意味じゃない!」
声が大きくなり、喉を治療していたエッダが振り返った。
「聖女様。患者のそばで叫ぶんじゃないよ」
「私だって患者です」
「声は十分元気だね」
「心が傷ついています」
「それは薬だけじゃ治らない。姉妹で話しな」
「話すと、もっと傷つくんですけど」
「じゃあ加減を覚えな」
エッダは淡々と言い、温めた布をエステルの首へ巻き直した。
「そっちは喋るんじゃないよ。借り物の声も禁止だ」
エステルはうなずいた。
先ほど、白髪の少女から借りた声を使ったあと、喉の状態はさらに悪化している。
自分の声は時折、掠れた音として戻る。
しかし無理に続ければ、再び完全に声を失う可能性があるとエッダに言われた。
白髪の少女は、今もエステルの意識の奥にいる。
『その治療官、怖いね』
頭の中で少女が言った。
エステルは帳面の端へ、小さく返事を書く。
――あなたも原因の一部です。
『私のおかげで、あの男を助けられたでしょう』
――その点については感謝しています。ただし、許可なく声を使うのはやめてください。
『借りていいって言ったじゃない』
――一度だけです。
『細かいなあ』
――よく言われます。
「今、誰と話しているの」
ミレイユが帳面を覗き込んだ。
エステルは反射的に帳面を閉じた。
「隠した」
妹の目が細くなる。
エステルは新しい紙を取り、書いた。
――白髪の少女です。
「私には聞こえないのに?」
――私の内側へ接続しているようです。
「それ、大丈夫なの?」
――分かりません。
「すぐにお父さまへ相談しなさいよ」
エステルは鉛筆を止めた。
「何、その顔」
ミレイユが言う。
「まだ、お父さまを信用できないの?」
その問いへの答えは簡単ではなかった。
信用できない。
そう断言するのは違う。
だが、以前のように、父が家族のために正しい判断をすると信じることもできない。
エステルは時間をかけて書いた。
――信用するかどうかを、一つに決められません。
「どういうこと?」
――第十三神託については、まだ隠している可能性を疑っています。でも、お父さまが私たちを守ろうとしていたことまで嘘だとは思っていません。
「分けて考えるのね」
――はい。
「面倒じゃない?」
――とても。
ミレイユは少し笑った。
「でも、前のお姉さまなら、お父さまを信じるか、信じないか、どちらかに決めようとしたかもしれない」
エステルは妹を見た。
「私のこともそうだったでしょう。可愛い妹か、婚約者を奪った妹か。どちらか一つにしようとしてた」
――今は違います。
「今は?」
――可愛いところもありますが、かなり腹が立つ妹です。
「可愛いを先に書いたからって、許されると思わないでよ」
――事実です。
「私も、お姉さまは頼りになるけど、かなり腹が立つ姉だと思ってる」
――では、同じですね。
「同じにされるのは、少し嫌」
そう言いながら、ミレイユは肩の力を抜いた。
離宮の会議室には、ほかにアルブレヒト、父、帝国の記録官と騎士が二人いる。
王国軍が国境へ到着する前に、対応を決めなければならない。
「文書の誤りを直したところで、王国軍は止まらない」
アルブレヒトが言った。
エステルは修正済みの死亡声明を持ち上げる。
「読めということか」
うなずく。
アルブレヒトは文書を受け取り、最初から目を通した。
途中で眉間の皺が深くなる。
「『死亡したとする根拠が不十分』では弱い」
エステルは新しい紙へ書いた。
――死亡していません。
「なら最初に書け」
――文章は、誤りを示したあとに正しい内容を提示したほうが納得されやすいです。
「生きている本人が姿を見せれば、一行で済む」
――どうやって国民全員へ姿を見せるのですか。
「告知神託を使う」
父が顔を上げた。
「国境砦のものか」
「ああ」
アルブレヒトは机の上へ北境の地図を広げた。
「国境砦には、戦時に周辺の町へ命令を伝える告知神託がある。帝国側だけでなく、古い協定によって聖王国北部の祈祷塔にもつながっている」
「現在も動くのですか」
父が尋ねる。
「昨年、試験した。音声と姿を送れる。ただし、起動には北境統治者の承認が必要だ」
エステルはアルブレヒトを見る。
「私は承認する」
彼は迷わず言った。
「エステルが生きていること。ミレイユが自分の意思でここにいること。聖王国の発表が虚偽であることを伝える」
「待ってください」
父が声を上げた。
「それを公表すれば、聖王国と帝国の関係は修復できなくなります」
「すでに王国軍がこちらへ向かっている」
「まだ、撤回させられる可能性があります。王家へ密使を送り、誤った報告を訂正すれば――」
「誤った報告?」
ミレイユが父を見た。
「お父さまは、あの声明が単なる間違いだと思っているの?」
「ジュリアン殿下が、すべてを把握して署名したとは限らない」
「また、信じたいの?」
父の顔が強張った。
「王太子殿下が、神殿から不正確な説明を受けた可能性はある」
「でも、署名する前に確かめなかったんでしょう」
「王太子には、毎日多くの文書が回る。すべてを本人が精査するのは――」
父は途中で言葉を止めた。
国外追放の文書を確かめなかった自分と、同じ弁明だと気づいたらしい。
「確かめなかったことは、責任がない理由にはならないわ」
ミレイユが言った。
その声は震えていた。
「私は、殿下に何度も頼んだの。お姉さまの処分を見直してって。殿下は、分かった、私に任せろと言った。でも、そのあと何をしたか聞くと、難しい顔をして、政治には順番があるって」
「ミレイユ」
「私が泣いたら、抱きしめてくれた」
エステルの指が止まった。
聞くと約束した。
ジュリアンと妹の間で何があったか。
それでも、実際に二人が抱き合ったと聞くと、胸の奥がざらついた。
ミレイユは、姉の表情へ気づいたらしい。
「今の、嫌だった?」
エステルは少し迷い、書いた。
――嫌でした。
「ごめんなさい」
――謝ってほしいわけではありません。
「じゃあ、どうすればいいの」
――分かりません。でも、聞くと約束したので、続けてください。
ミレイユは困ったように眉を下げた。
「こういうときのお姉さま、前より怖くないけど、前より面倒」
――私も、そう思います。
「殿下は、私を慰めてくれた。でも、お姉さまのことを調べてくれたわけじゃない。私が落ち着けば、それで問題が解決したと思っていたのかもしれない」
父が苦しげに口を挟む。
「ジュリアン殿下は、国を背負っている。個人の感情だけでは動けない」
「お姉さまを死んだことにしたら、国に都合がいいの?」
「そういう意味では」
「では、どういう意味?」
父は答えられなかった。
エステルは死亡声明の末尾にあるジュリアンの署名を見る。
筆跡は本物に見える。
ただし、本物の署名だからといって、本人が内容を読んだとは限らない。
読まずに署名した可能性もある。
騙された可能性も。
逆に、すべて知ったうえで署名した可能性もある。
今の証拠だけでは断定できない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
この文書は、すでに国民へ公表された。
ジュリアンの意思が何であっても、エステルは死者となり、アルブレヒトは誘拐犯にされた。
「お前はどうしたい」
アルブレヒトがエステルへ尋ねた。
皆の視線が集まる。
エステルは鉛筆を持ったまま、考えた。
死亡声明を訂正したい。
無実を証明したい。
第一編纂官の存在を公表したい。
ジュリアンへ、なぜ署名したのか問いただしたい。
やりたいことは多い。
だが、今最も先にするべきことは。
――戦争を止めたいです。
「そのために、生存を公表するのか」
――はい。王国軍の派遣理由は、私の死亡とミレイユの拉致です。両方が虚偽だと分かれば、少なくとも大義は失われます。
「それでも進軍を続ければ?」
――侵略になります。
「ならば、帝国は迎え撃つ」
アルブレヒトは冷静に言った。
エステルは彼を見た。
戦争。
文書の一行ではなく、人が死ぬ。
帝国兵も、聖王国兵も。
中には、命令の意味を知らずに来る者もいるだろう。
「怖いか」
アルブレヒトが尋ねた。
エステルはうなずいた。
「私もだ」
父とミレイユが、驚いて彼を見る。
「殿下も?」
ミレイユが尋ねる。
「兵を動かせば、必ず戻らない者が出る。命令を出す人間が怖くないわけがない」
「でも、冷酷皇弟って」
「他国の噂を信じるな」
「お姉さまを抱えて、雪牙狼を八頭倒したって聞いたから、怖くない方なのかと」
「なぜ抱えていたことまで知っている」
「ロランさんが話しました」
アルブレヒトの顔が険しくなる。
「砦へ戻ったら、あの男の食事を減らす」
エステルは急いで帳面へ書いた。
――怪我人への不当な処罰です。
「冗談だ」
首筋の傷がわずかに赤くなった。
ミレイユがそれを見て、目を丸くする。
「本当は少し減らしたいんですね」
「話を戻せ」
アルブレヒトは明らかに不機嫌になった。
それでも、部屋の張りつめた空気は少しだけ緩んだ。
「告知神託を使うとして」
父が慎重に言う。
「誰が話すのです」
「私だ」
アルブレヒトが答える。
「帝国側の立場を説明する。ミレイユは、自分の意思で来たと証言しろ」
ミレイユの顔が強張る。
「国中へ?」
「そうだ」
「私が、王家の発表は嘘だって言うの?」
「事実だろう」
「でも、私が言えば……ジュリアン殿下は」
ミレイユは胸元の亀裂が入った聖女石を握った。
「殿下は、私を信じてくれなくなる」
エステルは妹の顔を見る。
この状況でも、ジュリアンに嫌われたくないと思っている。
そんな妹へ腹が立つ部分もあった。
同時に、当然だとも思う。
つい数日前まで結婚する予定だった相手だ。
優しい言葉をかけられ、抱きしめられ、国中から祝福された。
命を狙われたと知ったからといって、気持ちまで一瞬で消せるわけではない。
エステルは帳面をミレイユへ向ける。
――言いたくなければ、断っていい。
「でも、私が言わなければ、戦争になるかもしれない」
――それはあなた一人の責任ではありません。
「聖女としては、言うべきでしょう」
――聖女としてではなく、あなたが決めて。
ミレイユは長い間、文字を見つめていた。
「お姉さまは、私に言ってほしい?」
エステルは正直に書いた。
――言ってほしいです。
ミレイユの睫毛が揺れる。
――でも、あなたの人生を私の無実のために使いたくありません。
「本当に面倒な答え」
ミレイユは泣きそうに笑った。
「言ってほしいなら、言ってって言えばいいのに」
――言ってほしいです。
「二回書かなくていいわよ」
――重要なので。
「分かった」
ミレイユは聖女石から手を離した。
「私が言う。殿下に嫌われるかもしれないけど……それでも、拉致されたことにされたままは嫌」
「本当によいのか」
父が尋ねる。
「よくない」
ミレイユは即答した。
「怖いし、言いたくないし、殿下が私より王家の立場を選んだら、きっとすごく傷つく。でも、それと嘘をそのままにすることは別でしょう」
父は目を伏せた。
娘たちが、自分ができなかった選択をしようとしている。
そう感じているのかもしれない。
「お父さまは?」
ミレイユが尋ねた。
「私たちと一緒に話してくれる?」
「私は聖王国の伯爵だ」
「だから?」
「王家の発表を公に否定すれば、反逆罪に問われる」
「お姉さまを死んだことにした発表を、黙って認めるの?」
「認めてはいない!」
「でも、否定もしないんでしょう」
父の顔に迷いが浮かんだ。
「領地には、お前たちの母親がいる。使用人も領民もいる。私が反逆者になれば、彼らまで処罰される可能性がある」
エステルは鉛筆を止めた。
父だけの問題ではない。
母。
屋敷の使用人。
ヴァレリー領の人々。
父が公に王家へ逆らえば、彼らが巻き込まれる。
「だから、また黙るの?」
ミレイユの声に責める響きが混じる。
「簡単に言うな!」
父も声を荒らげた。
「お前たちを選べば、それ以外の人間を見捨てることになるかもしれない。私は当主だ。父親である前に、領民を守る責任がある!」
「だったら、私たちはいつも後回しなの?」
「そうではない!」
「同じよ!」
「同じではない!」
親子の声がぶつかる。
エステルは止めようとして口を開き、声が出ないことを思い出した。
帳面へ書くには、二人とも互いを見ていて気づかない。
机を叩こうとしたとき、アルブレヒトが代わりに手を打ちつけた。
大きな音が響く。
「順番に話せ」
父とミレイユが黙る。
「伯爵。領民が危険にさらされるというのは、推測か、根拠があるのか」
「王家が反逆者の領地を接収する例はあります」
「家族や使用人まで処刑するのか」
「罪状によります」
「ならば、公表する内容を限定しろ」
父が顔を上げる。
「どういう意味です」
「王家全体を反逆者と断定する必要はない。エステルが生きていること。ミレイユが自分の意思で帝国領へ来たこと。そして、お前が二人をここで確認したことだけ話せ」
「しかし、それでも声明と矛盾します」
「矛盾する事実を言え。評価は言うな」
エステルは思わずアルブレヒトを見た。
「何だ」
彼がこちらを見る。
エステルは帳面へ書く。
――殿下にしては、適切な表現です。
「褒めているのか」
――一応。
「一応を消せ」
エステルは横線で「一応」を消した。
ミレイユが小さく笑う。
父はまだ迷っていた。
「私は……」
何度も口を開き、閉じる。
「怖い」
最後に、父はそう言った。
エステルとミレイユが、同時に父を見る。
「お前たちを失うのも怖い。領地を失うのも、妻や使用人を危険にさらすのも怖い。今までの私は、怖いと言えば父親ではいられなくなると思っていた」
父は両手で顔を覆った。
「だから、正しい判断をしているふりをした。誰かを犠牲にするしかないと、自分へ言い聞かせた」
長い沈黙が続く。
エステルは紙へ書いた。
――すべてを一度に守れるとは限りません。
父は指の隙間から文字を見る。
――でも、誰へ何を頼むかは、勝手に決めないでください。
「お前は、私に何を頼む」
エステルは考えた。
父に王家を捨てろとは言えない。
領民を危険にさらせとも。
ただ、一つだけ。
――私が生きていると、言ってください。
父の目から、涙が落ちた。
「それだけでいいのか」
エステルは首を横へ振り、もう一文書いた。
――それだけではありません。でも、今はそれをお願いします。
父は何度も頷いた。
「分かった」
◇
告知神託は、北部離宮の屋上にある古い通信塔へ接続された。
円形の台座を囲むように、十三枚の鏡が並んでいる。
もともとは十二枚だったらしい。
離宮の調査中、壁の裏から十三枚目が見つかった。表面には三枚葉ではなく、開いた本と瞳を組み合わせた紋章が刻まれている。
エステルは通信文を作成した。
最初の文案は長すぎると、アルブレヒトに却下された。
二度目は、ミレイユから「国民へ話す文章として冷たすぎる」と言われた。
三度目は、父が「王家への配慮が足りない」と修正を求めた。
四度目で、エステルは鉛筆を置いた。
――皆さんが好きな文章を、それぞれ話してください。
「怒った?」
ミレイユが尋ねる。
エステルは書く。
――少し。
「少しじゃない顔をしている」
――かなり。
「私が悪かったわ。お姉さまの文章を直すの、一度やってみたかったの」
――楽しかったですか。
「途中までは」
父が咳払いした。
「私も言いすぎた。王家へ配慮する状況ではなかった」
「お前の文案を使う」
アルブレヒトが言う。
エステルは彼を見る。
「ただし、最初の三段落は削る」
――それでは半分なくなります。
「生存を伝えるのに、神託院の証拠保全手続きから説明する必要はない」
――必要です。
「今は必要ない」
――後ほど公表します。
「好きにしろ」
結局、放送では短い文章を使い、詳細な訂正文書を各地へ送ることで決まった。
告知神託が起動する。
十三枚の鏡に光が灯り、空中へ大きな光の幕が浮かんだ。
帝国北境の町々。
聖王国北部の祈祷塔。
軍が進む街道。
王都の一部。
どこまで届くかは分からない。
それでも、伝えられる場所へは伝える。
最初にアルブレヒトが光の前へ立った。
「レーヴェン帝国皇弟、北境統治者アルブレヒト・レーヴェンハイムである」
低い声が、通信塔から遠くへ広がる。
「聖王国が発表した声明には、事実と異なる記述がある。エステル・ヴァレリーは生存している。私は彼女を拉致していない。国境付近で魔獣に襲われていたところを保護し、本人との契約に基づいて雇用した」
そこでエステルは小さな板を掲げた。
――報酬は銀貨四枚。未払い分あり。
アルブレヒトが板を見る。
「今、それを出すな」
声まで告知神託へ乗った。
鏡の向こうで、これを聞いている人々がいる。
ミレイユが慌てる。
「お姉さま、下ろして!」
エステルは不満だったが、板を下ろした。
「……報酬については、あとで話す」
アルブレヒトは咳払いし、続けた。
「聖女ミレイユも、自らの意思でここにいる。詳細は本人から話す」
ミレイユが光の前へ立った。
足が震えている。
エステルは手を伸ばしかけ、止めた。
妹は自分で決めた。
必要なら、本人から求めるはずだ。
ミレイユは何度か息を吸い、口を開いた。
「聖王国の皆さま。聖女ミレイユ・ヴァレリーです」
声が震えた。
彼女は一度言葉を止めた。
「私は、皇弟殿下に拉致されていません。姉を助けたいと望み、父へ頼んで、自分の意思で帝国領へ来ました」
胸元の聖女石が淡く光る。
「姉は生きています。神託改竄の疑いについても、まだ正しい調査は行われていません。それなのに、姉が死亡したと発表されたことを……私は、認めません」
涙が一粒、頬を伝う。
「王太子殿下。これをご覧になっているなら、お尋ねします。どうして、姉が死んだという文書へ署名したのですか。どうして私へ、何も教えてくださらなかったのですか」
用意した原稿にはない言葉だった。
父が止めようとしたが、エステルが袖をつかんだ。
今は、ミレイユ自身の言葉だ。
「私は、あなたを信じたいです。でも、信じたいから黙ることは、もうしません」
ミレイユは震えながら言い切り、光の前から下がった。
エステルの隣へ来ると、すぐに姉の手を握る。
「今だけ」
小さな声で言った。
エステルも握り返した。
次は父だった。
彼は通信塔の縁へ立ち、長く目を閉じた。
「ヴァレリー伯爵、ラファエル・ヴァレリーである」
声は、最初こそ落ち着いていた。
「私は北部離宮において、長女エステルと次女ミレイユの生存を確認した。二人は帝国皇弟によって拘束されていない。また、エステルの死亡を確認した事実もない」
一度、唇を噛む。
「私は、長女の国外追放処分に際し、その護送先と手続きを十分に確認しなかった。父親として、また伯爵として、重大な過失があったことを認める」
エステルは父を見た。
父が公の場で、自分の誤りを認めている。
それで傷が消えるわけではない。
失ったものも戻らない。
それでも、意味がないわけではなかった。
「王家ならびに神託院へ求める。直ちに死亡声明を撤回し、王国軍の進軍を停止せよ」
父は最後まで言い切った。
そして、光の幕から下がる。
「これでよかったか」
エステルへ尋ねた。
彼女は帳面へ書いた。
――十分ではありません。
父の顔が沈む。
その下へ続けた。
――でも、今はありがとうございます。
父は泣きそうな顔で笑った。
最後に、エステルが光の前へ立つ。
声はほとんど出ない。
それでも姿を見せれば、生存の証拠になる。
エステルは自分の死亡声明を掲げ、その上へ大きく赤い線を引いた。
そして、新しい紙を開く。
――エステル・ヴァレリーです。
次の紙。
――私は生きています。
その次。
――神託を改竄していません。
さらに一枚。
――私を死亡させた文章を、本人の許可なく完成させないでください。
遠く離れた王都で。
街道を進む王国軍の中で。
神殿の祈祷室で。
どれだけの者が見ているのかは分からない。
エステルは最後の紙を掲げた。
――間違いがあるなら、直します。
十三枚の鏡が強く光った。
その瞬間。
鏡の一枚に、別の映像が割り込んだ。
王都の宮殿。
王太子の執務室。
ジュリアンが机の前に立っている。
顔は青ざめ、手には、たった今エステルたちが訂正した死亡声明と同じ文書が握られていた。
「エステル……」
通信の向こうから、彼の声が聞こえる。
「生きていたのか」
アルブレヒトの表情が険しくなる。
ミレイユの手が震えた。
エステルは、鏡の中の元婚約者を見つめる。
ジュリアンの驚きは、本物に見えた。
少なくとも彼は、エステルが生きているとは知らなかった。
だが、それだけでは署名した責任は消えない。
「待ってくれ」
ジュリアンは鏡へ手を伸ばした。
「私は、君を死なせるつもりではなかった。神殿から、すでに遺体が確認されたと報告を受けたんだ」
エステルは新しい紙を取り、書いた。
――誰から報告を受けましたか。
ジュリアンは、その文字を読んだ。
答えようと口を開く。
だが、背後の扉が静かに開いた。
一人の男が執務室へ入ってくる。
穏やかな顔。
白い法衣。
エステルが長く信頼していた人物。
「殿下」
ボルデ副院長は、鏡の中のエステルを見つめながら言った。
「その通信は、邪神による偽造です。すぐにお切りください」
ジュリアンが振り返る。
「しかし、エステルが」
「エステル・ヴァレリーは死亡しました」
ボルデは微笑んだ。
その笑顔は、エステルが知っているものと同じだった。
「したがって、今そこにいるものは、彼女ではありません」
告知神託の鏡面へ、三枚葉の紋章が浮かび上がった。
第一編纂官の紋章。
次の瞬間、王都からの映像は黒い文字に塗りつぶされた。




