第十八話 死亡した本人は、偽物に分類されました
告知神託の鏡面が、黒い文字に塗りつぶされた。
王太子ジュリアンも、背後に立っていたボルデ副院長も見えなくなる。
ただ、通信が切れたわけではなかった。
十三枚の鏡すべてに、同じ文章が浮かんでいる。
――公的記録との矛盾を検出。
――エステル・ヴァレリーは死亡済み。
――生存を主張する存在を、偽装個体として分類。
――関連する不正記録を訂正する。
「不正記録?」
ミレイユが、声を震わせた。
「お姉さまが生きていることが、不正なの?」
父が鏡へ駆け寄る。
「通信を切れ! 第一編纂官の神託が、こちら側の記録へ侵入している!」
「全鏡を遮断しろ」
アルブレヒトが命じる。
帝国騎士たちが、鏡へ取りつけられた魔力線を引き抜き始めた。
最初の一枚から光が消える。
二枚目。
三枚目。
しかし、黒い文字は消えなかった。
光を失った鏡の表面に、今度は傷のように直接刻まれていく。
「切っても止まりません!」
「鏡を割りますか」
「待ってください」
掠れた声が、エステルの喉から出た。
全員が振り返る。
エッダが、すぐに眉を吊り上げた。
「喋るなと言っただろう!」
エステルは咳き込みながらも、机へ戻った。
帳面へ急いで書き、アルブレヒトへ見せる。
――すべて壊せば、何が書き換えられたか確認できなくなります。一枚だけ隔離してください。
「危険だ」
――侵入経路を残すという意味では危険です。でも、相手が何を消そうとしているのか分からなければ、防ぎようがありません。
「お前自身が消されようとしている」
――だから調べます。
アルブレヒトの眉間に深い皺が刻まれた。
「今回は、私も反対だ」
父が言った。
「第一編纂官の神託は、文章を直すだけではない。公的な記録と現実を一致させようとする」
ミレイユが父を見る。
「どういう意味?」
「大勢の人間が同じ記録を信じ、それが神託によって固定されれば、現実の側が記録へ引きずられることがある」
「お姉さまが本当に死ぬってこと?」
「そこまでは分からない。だが、エステルという名前が社会から消される可能性はある。戸籍も、爵位記録も、神託院の在籍記録も。知っている人間の記憶にまで影響が及ぶかもしれない」
「そんなこと……」
ミレイユは姉の袖をつかんだ。
「だったら、鏡なんて全部壊して。調べるのはあとでいいでしょう!」
エステルは首を横へ振った。
「お姉さま!」
――鏡を壊しても、王都側の記録は残ります。
「でも、ここまで来られなくなるかもしれない」
――すでに来ています。
エステルは、自分が先ほど掲げた紙を持ち上げた。
――エステル・ヴァレリーです。
そう書いたはずの一枚だった。
文字の一部が消え始めている。
最初に薄くなったのは、名字だった。
ヴァレリー。
十九年間使ってきた家名が、紙の上で灰色へ変わり、端から崩れていく。
続いて、エステルの名にも黒い線が重なった。
まるで、存在しない人物の記述を訂正するように。
「嫌……」
ミレイユが紙を奪い取り、胸へ抱えた。
「消えないで。お姉さま、ここにいるでしょう!」
「いるよ」
白髪の少女の声が、エステルの内側で響く。
『でも、向こうは一つにしたがってる。記録のエステルは死んだ。だから、生きているエステルは間違いなんだって』
エステルは帳面へ書く。
――止める方法はありますか。
『あるよ』
――教えてください。
『たくさん残すの』
それだけでは分からない。
エステルが眉を寄せると、少女は面白そうに続けた。
『一冊の本にしか書いていないことは、その本を燃やせば消える。でも、百人がそれぞれ違う言葉で覚えていたら、どれを直せばいいか分からなくなる』
――同一内容を複製するのですか。
『同じにしたら、まとめて直されるよ』
少女の答えに、エステルは鉛筆を止めた。
同じではいけない。
完全に一致した文章は、一つの原本へまとめられる。
第一編纂官が求めるのも、矛盾のない一つの記録だ。
ならば、必要なのは複製ではない。
異なる証言。
違う視点。
食い違いを含んだ、人間の記憶。
エステルは大きな紙へ書いた。
――私について、皆さんが知っていることを、それぞれ自分の言葉で記録してください。
「今?」
父が尋ねる。
――今です。同じ文章を写してはいけません。正確に見せるための相談も禁止します。
「何を書けばいいの」
ミレイユが戸惑う。
――私と会った時期。話した内容。嫌だったこと。助けられたこと。間違っていたと思うこと。何でも構いません。
「嫌だったことまで?」
――良いことだけでは、作られた文章だと判断される可能性があります。
アルブレヒトが、机の上から紙を一枚取った。
「記録官。全員へ紙を配れ。騎士も書け。字が書けない者からは、別々に聞き取れ」
「殿下まで書かれるのですか」
「当然だ」
彼は椅子へ座り、ためらうことなくペンを走らせた。
エステルは、何を書いているのか気になった。
だが、異なる証言として残すなら、途中で内容を確認してはいけない。
「お姉さま」
ミレイユが、白い紙の前で固まっている。
「何から書けばいいの」
エステルは答えかけ、少女の言葉を思い出して首を横へ振った。
「教えてくれないの?」
――私が決めれば、あなたの証言ではなくなります。
「こういうときまで厳しい」
ミレイユは不満そうに唇を尖らせた。
それでも、しばらく考えたあと、最初の一文を書き始めた。
父も、向かいの机へ座る。
何度もペンを止め、紙を見つめている。
エッダは薬棚の上へ紙を置き、ぶつぶつ言いながら文字を書いた。
「初対面で、凍傷寸前なのに謝ってばかりいた。患者として最悪。人に頼るのが下手。薬の成分を聞きすぎる。これでいいのかい」
エステルはうなずいた。
「褒めることも書いたほうがいいかね」
――エッダさんが書きたいなら。
「書きたくないね」
そう言いながら、エッダは紙の続きを書いている。
帝国騎士の一人は、隣の騎士へ小声で尋ねた。
「『殿下へ遠慮がなさすぎる』は、本人についての記録になりますか」
「なるだろう。俺は『雪の中で、最初に負傷者の毒へ気づいた』と書く」
「それでは、俺が悪口だけ書いたように見える」
「相談するなと書いてあったぞ」
「今のは相談ではなく確認だ」
「同じだろ」
人々の声が通信塔へ広がる。
異なる言い方。
食い違う印象。
エステルを有能だと言う者。
面倒だと言う者。
冷たいと思った者。
泣いているのに泣いていないと言った、と記録する者。
一つにまとめれば矛盾する。
しかし、その矛盾のすべてに、エステルはいた。
鏡の黒い文字が揺らいだ。
――関連記録の統一に失敗。
――証言間に矛盾あり。
――真偽判定を継続。
「効いている」
父が呟いた。
アルブレヒトが、書き終えた紙を伏せた。
「証言が矛盾しているから、消しきれないのか」
エステルはうなずいた。
「お前の得意な、正確な記録とは逆だな」
――正確さと、完全な一致は別です。
「どう違う」
エステルは少し考えた。
――同じ出来事でも、見る位置によって異なります。それぞれが見た範囲を正しく書けば、記録同士が一致しないことはあります。
「では、どれが真実だ」
――一つだけを選ばなければならないのでしょうか。
アルブレヒトは、エステルの文章をしばらく見つめた。
「以前のお前なら、一つへ決めようとしただろうな」
――今も、決めたくなります。
「そうか」
――でも、決められないものまで決めれば、誰かの見た事実を消すことになります。
「第一編纂官と同じになる?」
――はい。
アルブレヒトは伏せていた自分の紙を手に取った。
「なら、これは直さない」
エステルへ差し出す。
そこには、整っているとは言いがたい大きな文字が並んでいた。
――北境街道にて、エステル・ヴァレリーを保護した。
――本人は罪を否定した。
――町ラウゼンの暖房神託調査員として雇用した。
――契約内容へ細かすぎる修正を入れ、出発前の朝食を半分残し、命令へ何度も反論した。
――仕事の能力は高い。自分の身体の扱いは下手。
――報酬の一部は未払い。
最後の一文だけ、少し筆圧が強い。
――私は、彼女がエステルであると知っている。
エステルは何度か読み返した。
「不満があるか」
――朝食の件は必要ですか。
「私の記憶だ」
――命令ではなく、提案へ反論した場合もあります。
「細かい」
――正確さの問題です。
「今、直すなと言ったばかりだろう」
確かにそうだった。
エステルは不満を残しながらも、紙を返した。
その様子を見ていたミレイユが、自分の書いたものを胸へ隠す。
「私は見せないから」
エステルが妹を見る。
「あとで一人で読んで」
――今、読んではいけないの?
「目の前で読まれたら、顔が気になって最後まで書けないもの」
――分かりました。
「絶対に、字の間違いを赤で直さないでよ」
――内容に影響する誤字なら。
「直さないで!」
声が大きくなる。
エッダがすぐに振り返った。
「聖女様。さっきも言ったね」
「お姉さまのせいです」
――私の責任ではありません。
「そういうところを書いておく」
ミレイユは紙を隠したまま、端へ何かを書き加えた。
鏡の中の黒い文字が、さらに乱れる。
エステルの名が消えかけていた紙にも、再び薄く文字が戻り始めた。
完全には戻らない。
だが、消失は止まった。
「ひとまず、存在の固定には成功したようだ」
父は安堵したように息を吐いた。
「ただし、これだけでは王都の公的記録を取り戻せない」
――今は、消されないことが先です。
「ああ」
父は自分が書いた証言を折り畳み、エステルへ差し出した。
「これも、お前が持っておけ」
エステルは受け取ろうとして、手を止めた。
――お父さまが保管してください。
「私を信用できないのでは?」
――だからです。
父が戸惑う。
――私がすべて持てば、私が失ったときに記録も消えます。別々の場所で保管してください。
「なるほど」
父は紙を懐へ入れた。
「お前についての記録を、私が守ってもよいのか」
エステルは少し考えた。
――守ってください。
父の目が赤くなった。
以前なら、そんな顔をされれば、父を慰める言葉を探しただろう。
今は探さなかった。
許したわけではない。
頼んだことを、頼んだとおりにしてほしい。
それだけだった。
◇
その直後、国境砦から第二の急使が到着した。
「王国軍は?」
アルブレヒトが尋ねる。
「行軍速度を上げています」
使者は息を切らしながら答えた。
「告知神託を見た兵の一部が進軍停止を求めましたが、指揮官が『映像は邪神による偽造』と宣言しました。命令へ逆らった三十七名が拘束されています」
「指揮官は誰だ」
「王国北方軍司令、グランデル侯爵です」
父が顔をしかめた。
「王太子派の将軍だ。神殿の命令だけで動く男ではない」
「なら、王家の正式命令が出ている?」
「少なくとも、本人はそう信じているはずだ」
「国境到達まで」
「早ければ、明日の夜です」
アルブレヒトは即座に地図を開いた。
「国境砦へ戻る。離宮の守備隊は半数を残せ。捕虜と凍結書を守らせる」
エステルも机の資料をまとめ始めた。
「お前は残れ」
アルブレヒトが言う。
エステルは手を止めない。
「聞こえなかったのか」
――聞こえました。
「ならば従え」
――断ります。
「喉を傷め、存在まで消されかけている人間を戦場へ連れていけるか」
――戦場へ行きたいのではありません。国境で、私が生きていると直接示す必要があります。
「告知神託で示した」
――偽物だと言われました。
「近づけば、暗殺される」
――残っていても、記録を消されれば同じです。
「同じではない」
――何が違いますか。
「私の目の届かない場所で危険に遭うか、目の前で危険に遭うかが違う」
エステルは鉛筆を止めた。
それは、統治者としての説明ではない。
「今のは忘れろ」
アルブレヒトが先に言った。
――なぜです。
「適切な理由ではなかった」
――本心では?
「そうだ」
傷は反応しない。
エステルは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
けれど、それで判断を変えることはできなかった。
――私も、殿下が目の届かない場所で戦うのは嫌です。
「何?」
書いたあとで、自分でも驚いた。
ミレイユと父が、そろってこちらを見る。
アルブレヒトは、しばらく何も言わなかった。
「それは」
彼は一度言葉を切った。
「私を心配しているという意味か」
エステルは、なぜ確認が必要なのだろうと思った。
――ほかに、どのような意味がありますか。
「質問しているのは私だ」
――はい。心配しています。
首筋の傷は反応しない。
アルブレヒトは顔をそらした。
「そうか」
それだけだった。
だが、耳の上が少し赤く見える。
寒さのせいかもしれない。
「私も行く」
ミレイユが言った。
父がすぐに振り返る。
「お前まで何を言い出す!」
「王国軍は、私を取り戻すために来るのでしょう。私が姿を見せれば――」
「だから危険なんだ!」
「また決めるの?」
「今度は本当に危険だから言っている!」
「前も、危険だからと言ったでしょう!」
「前とは違う!」
「何が違うのか、説明して!」
父は言葉に詰まり、両手で髪をかき上げた。
「武器を持った一万近い兵が来る。お前は戦えない。聖女だと名乗れば、向こうは保護の名目で拘束しようとする。説得できなければ、その場で矢を射られる可能性もある。これでいいか!」
ミレイユは少し怯んだ。
父は息を整え、続ける。
「私は、お前の代わりに決めたくない。だが、危険を説明せず選ばせることもしたくない」
「……最初から、そう言ってくれればいいのに」
「私も練習中なんだ!」
「怒鳴らないでよ!」
「お前も怒鳴っている!」
「二人とも」
エステルが声を出しかけ、激しく咳き込んだ。
エッダが飛んでくる。
「喋るなと言っただろう!」
背中を叩かれながら、エステルは帳面へ書いた。
――順番に話してください。
「お姉さまは、書いてまでそれを言うの?」
ミレイユが呆れる。
――聞き取れないので。
「私は行きたい」
ミレイユは、今度は声を少し抑えた。
「怖いけど、私の名前を使って戦争を始められるのは嫌。兵士たちに、私は助けを求めていないと自分で伝えたい」
父は目を閉じた。
「止めても行くのか」
「たぶん」
「なら、私も行く」
「お父さまは領民が」
「だからこそだ。ヴァレリー領の兵も、王国軍に含まれている可能性がある。私が出なければ止められない」
三人の視線が、アルブレヒトへ集まった。
「家族旅行ではないぞ」
彼は不機嫌そうに言った。
――分かっています。
「全員、私の指示に従え」
――内容によります。
「エステル」
――危険を避けるための指示には従います。私たちの発言内容まで決める指示には従いません。
「面倒だな」
――よく言われます。
「知っている」
アルブレヒトは地図を畳んだ。
「夜明け前に出る。エステルは馬車から降りるな。ミレイユもだ。伯爵は王国軍側との交渉役を務めろ」
「殿下は?」
父が尋ねる。
「国境砦で帝国軍を止める。向こうが一線を越えるまでは、こちらから攻撃しない」
「越えた場合は」
「迎え撃つ」
誰も、その先を口にしなかった。
話し合いが失敗すれば、人が死ぬ。
それも大勢。
エステルは自分について書かれた証言を、別々の封筒へ入れた。
一部は離宮へ残す。
一部は父が持つ。
一部は帝国の記録官。
ミレイユの証言は、本人が保管する。
アルブレヒトの紙だけは、なぜかエステルへ押しつけられた。
「殿下がお持ちになったほうが、分散になります」
「お前が持て」
――なぜです。
「私が死ねば、読まれずに処分される可能性がある」
――縁起の悪いことを言わないでください。
「事実として可能性を述べただけだ」
エステルは不満だったが、紙を受け取った。
「お前も死ぬな」
アルブレヒトが言う。
――命令ですか。
「頼んでいる」
エステルは少し考え、帳面へ書いた。
――殿下も。
「分かった」
傷は反応しなかった。
◇
出発の準備が整いかけた頃。
遮断したはずの十三枚目の鏡が、突然、淡い光を放った。
「全員下がれ!」
騎士たちが剣を抜く。
だが、鏡面へ浮かんだのは三枚葉の紋章ではなかった。
王太子家の青い獅子。
その下に、文字だけが現れる。
――エステルへ。
ジュリアンの筆跡だった。
エステルは鏡へ近づく。
アルブレヒトが腕を出し、一定の距離で止めた。
「読むだけにしろ」
鏡の文字が続く。
――通信を長く保てない。
――君の死亡声明へ署名したことは事実だ。
ミレイユの顔が強張る。
父も息を止めた。
次の一文が現れる。
――しかし、私が署名した文書には、君が死亡したとは書かれていなかった。
「すり替えられた?」
ミレイユが呟く。
さらに文字が続いた。
――署名時の題名は、『国外追放者捜索および身柄保護命令』。
――署名後、本文が書き換えられた。
――ボルデを信用するな。
そこで、文章が一度途切れた。
黒い染みが鏡の端から広がり始める。
ジュリアンは、最後にもう一文だけ送り込んだ。
――そして、私のことも、まだ信用しないでくれ。
鏡が、内側から砕けた。
細かな破片が床へ散る。
ミレイユは、しばらく動かなかった。
「殿下は……」
唇が震える。
「私たちを助けようとしているの?」
エステルは、すぐに答えられなかった。
ジュリアンの言葉が本当かどうか、確かめる証拠はない。
彼が騙されたのか。
責任から逃れるため、新しい説明を作ったのか。
分からない。
ただ一つ、以前のジュリアンなら決して言わなかった言葉がある。
自分を信用するな。
エステルは割れた鏡の前へしゃがみ、残った文字を一つずつ紙へ写した。
「信じるの?」
ミレイユが尋ねる。
エステルは首を横へ振った。
――調べます。
「信じないの?」
今度は、首を縦にも横にも振らなかった。
――信じたい部分はあります。でも、それと事実は別です。
ミレイユは寂しそうに笑った。
「お姉さまらしい」
エステルは最後の一文を書き写した。
――私のことも、まだ信用しないでくれ。
それは、かつて「黙って私を信じろ」と言った王太子が、初めてエステルへ差し出した、不完全な言葉だった。




