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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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19/40

第十九話 戦争を止めるため、私は敵軍の前で生き返りました

 夜明け前の街道を、三台の馬車が国境砦へ向かっていた。


 先頭は帝国騎士。


 二台目にエステルとミレイユ、エッダ。


 三台目には父と、捕縛した査問官ディートハルトが乗せられている。


 アルブレヒトは馬で先行する予定だったが、出発直前になって二台目の馬車へ乗り込んできた。


「殿下は、馬で行かれるのではなかったのですか」


 ミレイユが尋ねる。


「傷を縫った人間が馬へ乗ると言うから、引きずり下ろしたんだよ」


 答えたのはエッダだった。


「ご本人は、馬のほうが早いだの、指揮官が馬車に乗ってどうするだの、ずいぶん騒いでいたけどね」


「騒いでいない」


 アルブレヒトが低い声で否定する。


「では、『帝国北境軍は治療官の命令で動くのか』と三回聞いたのは、何だったんです?」


「確認だ」


「同じことを三回聞く患者は嫌われるよ」


 エステルは帳面へ書いた。


 ――私もアンナさんの容体を四回確認しました。


「患者同士で張り合うんじゃない」


 エッダに叱られた。


 ミレイユが窓の外を見ながら、口元をわずかに緩める。


「帝国の皇弟殿下も、治療官には逆らえないのですね」


「逆らえないのではない。合理的な判断として馬車を選んだ」


「その割には、乗ってからずっと不機嫌です」


「元からだ」


「殿下ご本人が、それを認めるのですか」


「自覚はある」


 馬車の中に、小さな笑いが起きた。


 これから戦争が始まるかもしれない。


 聖王国軍が国境線を越えれば、帝国軍は迎撃する。


 その事実は変わらない。


 それでも、誰も一晩中緊張し続けることはできなかった。


 疲れれば、どうでもよいことで笑う。


 怖いからこそ、食事の量や馬車の座席について言い争う。


 人間は危機の最中でも、危機だけを考えてはいられないらしい。


「お姉さま」


 ミレイユが、エステルの膝に置かれた紙へ目を向けた。


「さっきから、同じ一文を何度も書き直しているでしょう」


 エステルは紙を伏せた。


「見せないの?」


 ――まだ完成していません。


「何を書くの」


 ――王国軍へ示す声明です。


「『私は生きています』だけでは駄目なの?」


 ――告知神託では、それだけで偽物と分類されました。


「だから、今度は長くするの?」


 エステルは書きかけの文面を見る。


 国外追放の経緯。


 護送中に起きたこと。


 帝国で保護された経緯。


 ラウゼンの暖房神託改竄。


 北部離宮。


 第一編纂官。


 説明しなければならないことが多すぎる。


「長い」


 向かいからアルブレヒトが言った。


 エステルは紙を腕で隠した。


「もう読んだ」


 ――無断で読まないでください。


「目の前で書いているものを、どうやって読まずにいろと言う」


 ――視線を外せばよいと思います。


「お前は今、同じ段落を五回直した。内容はほとんど変わっていない」


 ――語順が違います。


「兵士は語順で剣を置かない」


 エステルは鉛筆を止めた。


 正論だった。


 だから腹が立つ。


「王国軍の前では、私が話す」


 アルブレヒトが続ける。


「エステルは馬車から出るな」


 ――それでは、私が生きている証明になりません。


「遠くから姿を見せればよい」


 ――偽物だと言われます。


「近づけば本物になるのか」


 ――顔を知る者がいます。


「同時に、お前を殺そうとする者もいる」


 ――だからこそ、兵士たちが見ている場所へ出ます。公の場で私を殺せば、死亡声明が偽造だったと証明されます。


 アルブレヒトの表情が変わった。


「今の一文を消せ」


 ――事実です。


「消せ」


 低い声だった。


 首筋の傷とは関係なく、明確に怒っている。


「お姉さま」


 ミレイユも姉の紙を覗き込み、顔を強張らせた。


「どうして、そういう考え方をするの」


 エステルは戸惑った。


 ――どの部分ですか。


「自分が殺されれば証明になる、というところよ」


 ――殺されたいわけではありません。


「でも、証明には使えると思ったでしょう」


 否定できなかった。


 自分の命を最も確実な証拠として数えた。


 合理的だと思った。


「私は嫌よ」


 ミレイユが言った。


「お姉さまが殺されて、そのおかげで正しかったと分かっても、何も嬉しくない」


 ――嬉しいかどうかの問題では。


「問題よ!」


 ミレイユの声が大きくなる。


 エッダが口を開きかけたが、今度は叱らなかった。


「私が王都で、どんな気持ちだったと思う? お姉さまが死んだと聞かされて、でも私のせいだと思われたくなくて、悲しい顔をしながら、自分は悪くないって何度も考えた。そんな自分が嫌で、それでもジュリアン殿下には慰めてほしくて……」


 妹は途中で唇を噛んだ。


「もう一度あれをやれと言うの?」


 エステルは、すぐに返事を書けなかった。


 自分が死ねば、ミレイユは再び姉の死を背負う。


 父も。


 アルブレヒトも。


 ロランやエッダも。


 命を証拠として使うことは、自分一人の問題ではない。


 ――申し訳ありません。


「謝ってほしいんじゃない」


 ――では、何と答えれば。


「そういう考え方をしないでほしい」


 ――努力します。


「絶対に?」


 ――絶対とは約束できません。


「お姉さま!」


 ――でも、一人で決めません。


 ミレイユは姉の書いた文字を見つめた。


 それから、まだ納得していない顔で椅子へ座り直す。


「それなら、少しだけ許す」


 ――何をですか。


「今の腹が立った分」


 ――少しだけなのですね。


「全部許したら、また同じことを言いそうだから」


 ミレイユの判断は、意外に正確かもしれない。


「私にも知らせろ」


 アルブレヒトが言った。


 ――何をですか。


「自分を証拠に使おうと思ったときだ」


 ――事前に?


「そうだ」


 ――止めるためでしょうか。


「当然だ」


 ――では、知らせる意味がありません。


「意味はある」


 ――私にはありません。


「エステル」


 ――殿下。


 二人で睨み合う。


 エッダが深いため息をついた。


「戦争になる前に、馬車の中で内戦を始めるんじゃないよ」


     ◇


 国境砦へ到着したのは、日の出から少し経った頃だった。


 砦の上には帝国旗が掲げられ、城壁の内側を数百人の兵士が慌ただしく行き交っている。


 雪の平原を挟んだ向こうには、聖王国軍の陣が広がっていた。


 白地に金の十二星。


 幼い頃から見慣れてきた国旗である。


 だが、今はその下に槍と弓が並び、エステルたちがいる帝国側へ向けられていた。


「本当に、あれが全部……私を迎えに来た兵なの?」


 城壁へ上がったミレイユが呟いた。


「およそ八千七百」


 アルブレヒトが答える。


「見張りからの報告では、後方部隊を合わせて一万を超える」


「一万人……」


「全員が、お前を迎えたいと思っているわけではない」


 ミレイユが皇弟を見る。


「命令で来ただけの者もいる。事情を知らない者も、疑っている者もいるだろう」


「それでも、私の名前で来たのでしょう?」


「そうだ」


 アルブレヒトは慰めるために事実を曲げなかった。


 ミレイユは青ざめたが、目をそらさなかった。


「王国軍から使者が来ます!」


 見張り兵の声が上がった。


 白旗を掲げた騎兵が三騎、陣地を離れる。


 中央の騎士が持つ箱には、停戦交渉用の石板が収められていた。


「こちらも出る」


 アルブレヒトが階段へ向かう。


「私も参ります」


 父が続いた。


「ミレイユとエステルは、城壁に残れ」


「私は行きます」


 ミレイユが言った。


「駄目だ」


「王国軍が私を助けるために来たと言っているなら、本人が話すべきでしょう」


「矢が届く距離へ出ることになる」


「安全な場所から、私は拉致されていませんと言って、兵士たちが信じると思いますか」


 アルブレヒトが険しい顔をする。


 ミレイユは怖がっていた。


 手が震えている。


 それでも、妹は退かなかった。


「お父さま」


 ミレイユは父を見る。


「危険を説明したうえで、私に決めさせてくれるのでしょう?」


 父は苦しそうに目を閉じた。


「……私のそばを離れるな」


「それは命令?」


「頼んでいる」


「分かった」


 エステルも階段へ向かった。


「お前は駄目だ」


 アルブレヒトが前を塞ぐ。


 エステルは帳面へ書いた。


 ――私の死亡についての交渉です。


「分かっている」


 ――死亡した本人が欠席するのは不自然です。


「危険だ」


 ――説明として不十分です。


「向こうには、お前を偽物として処分せよという命令が出ている。交渉が決裂すれば、最初に狙われる」


 ――承知しました。


「ならば残れ」


 ――承知したうえで行きます。


「お前は今、何を承知した」


 エステルは少し考えた。


 ――殿下が心配していることを。


「危険性を承知しろ!」


 周囲の兵士が振り返る。


 アルブレヒトは大きく息を吐き、声を抑えた。


「私の後ろから出るな。何があってもだ」


 ――発言するときは?


「紙を掲げろ」


 ――殿下の身体で見えません。


「私が持つ」


 ――文章の順番を変えないでください。


「今、気にすることか」


 ――重要です。


「分かった。だから離れるな」


 エステルはうなずいた。


     ◇


 両軍の中間には、古い境界石が立っていた。


 かつて帝国と聖王国が和平を結んだ際、二度と一方的に国境を越えないと誓った石だという。


 境界石の横へ、王国軍の使者が停戦石板を置く。


 少し遅れて、王国軍本隊から一人の男が進み出た。


 五十代ほど。


 白髪交じりの髭。


 分厚い毛皮の上から銀の鎧をまとっている。


「北方軍司令、グランデル・オルバン侯爵である」


 男は名乗った。


 父が小さく息を呑む。


「侯爵ご本人が出てくるとは」


「ヴァレリー伯爵」


 グランデルは父へ冷たい視線を向けた。


「貴殿には、反逆の疑いがかけられている。発言には注意されよ」


「娘が生きていると証言しただけで、反逆ですか」


「王家の正式声明を、敵国の神託を利用して否定した」


「声明に誤りがあれば、訂正を求めるのは臣下の義務です」


「誤りかどうかを決めるのは、王家と神殿だ」


「死亡した本人ではなく?」


 父の声が震えた。


 怒っている。


 同時に、王国の侯爵へ逆らうことを恐れている。


「本人?」


 グランデルの視線が、アルブレヒトの後ろにいるエステルへ向く。


「その女を、エステル・ヴァレリーと認めることはできない」


 エステルは持ってきた紙を掲げた。


 ――私はエステル・ヴァレリーです。


 だが、グランデルは紙を一瞥しただけだった。


「文字は、誰にでも書ける」


 その言葉を聞き、エステルは思い出した。


 自分の筆跡も、名を刻んだ筆も偽造された。


 確かに、文字だけでは本人の証明にならない。


「顔を見なさい!」


 ミレイユが前へ出ようとする。


 父が腕をつかんで止めた。


「私の姉よ。幼い頃から一緒に暮らした。間違えるはずがないわ!」


「聖女様」


 グランデルの声だけが、少し柔らかくなる。


「邪神の影響を受けた者は、偽りを真実と思い込まされます」


「思い込んでいない!」


「ご本人には判断できません」


「では、私が何を言っても無駄ではありませんか!」


「王国へ戻り、神殿の浄化を受ければ、正しい判断を取り戻せます」


「正しいって、誰に都合のいい判断ですか」


 ミレイユの声は震えながらも、はっきりしていた。


「私は拉致されていません。お姉さまを助けたいと、自分で父に頼みました。王国へ戻るつもりも、今はありません」


「その発言自体が汚染の証拠です」


「帰ると言えば、正常なの?」


「そうです」


「帰りたくないと言えば、汚染?」


「聖女が祖国を拒むはずがない」


「では、私の意思を確かめに来たのではなく、決められた答えを言わせに来ただけでしょう!」


 王国軍の前列がざわついた。


 兵士たちは、ここまで会話が聞こえている。


 グランデルの顔が険しくなる。


「聖女様を、これ以上公衆の前で惑わせるな」


 彼はアルブレヒトを見る。


「帝国皇弟へ最後通告を行う。聖女ミレイユを直ちに引き渡せ。封印鍵を騙る女、および神託汚染へ関与した者たちも、王国の裁きへ渡してもらう」


「断る」


 アルブレヒトは一言で答えた。


「交渉の余地はないと?」


「本人が帰らないと言っている」


「聖女様は正常な判断ができない」


「誰が決めた」


「神託院だ」


「本人より、本人を知らない組織の判断を優先するのか」


「神託院は、聖女様の状態を正しく管理する責任を持つ」


「人間を管理物のように言うな」


「国を守る聖女には、個人以上の責任がある」


「その責任を本人が拒めば?」


「拒否する自由はない」


 アルブレヒトの首筋に傷は出ていない。


 グランデルは、自分が正しいと信じている。


 意図的な嘘ではない。


 だからこそ、厄介だった。


「停戦石板へ記録を」


 グランデルが命じた。


 従者が石板へ手を置く。


 表面に古代文字が浮かんだ。


 ――聖王国は、拉致された聖女の返還を要求する。


 ――帝国が拒絶した場合、和平協定違反と見なす。


 父が身を乗り出した。


「待ってください。前提が誤っています。ミレイユは拉致されていない」


「聖女様の証言は、汚染により無効だ」


「私の証言は?」


「娘を救うために帝国へ協力した反逆者の証言だ」


「ならば、誰の証言なら認めるのです!」


「公的記録だ」


 エステルの中で、白髪の少女が嫌そうに笑った。


『ぐるぐるしてるね』


 そのとおりだった。


 公的記録が事実を決める。


 記録と違う証言は無効。


 証言が無効だから、記録だけが正しい。


 どこから入っても、同じ結論へ戻される文章。


 それは論理ではない。


 出口を塞いだ檻だ。


 エステルは停戦石板へ近づこうとした。


 アルブレヒトの腕が前を遮る。


「後ろにいろ」


 エステルは彼の外套を引き、石板を指した。


「調べたいのか」


 うなずく。


「近づくな。私が持ってくる」


 アルブレヒトが境界石へ進み、停戦石板を持ち上げようとした。


 王国側の従者が止める。


「帝国の者が触れれば、記録を改竄される可能性があります」


「交渉に使う物を、一方だけが管理するのか」


「聖王国の神託です」


「ならば停戦石板ではなく、通告板と呼べ」


 アルブレヒトが従者の腕を払う。


 グランデルが手を上げ、部下を止めた。


「見せてやれ。ただし、石板から手を離すな」


 アルブレヒトは石板を持たず、その場でエステルを呼んだ。


「来い」


 先ほどと言っていることが違う。


 エステルが近づくと、彼は身体を王国側との間へ入れた。


「私の前へ出るな」


 エステルは帳面へ書く。


 ――これでは文字が見えません。


「横から見ろ」


 ――殿下の肩が邪魔です。


「少し屈む」


 ――ありがとうございます。


「礼を言われると、私が過剰に心配しているように聞こえる」


 ――過剰ではないのですか。


「今は石板を見ろ」


 エステルは余白視を開いた。


 停戦石板の文章には、複数の層がある。


 最も古い文章。


 和平成立時の誓約。


 その上へ、後世に追加された交渉手続き。


 そして今日、グランデルたちが持ってきた要求文。


 その要求文の下に、赤い文字が隠れていた。


 エステルは息を止めた。


 ――聖女本人が帰還を拒む場合は、現地にて意思を再確認し、交渉を継続せよ。


 本来の命令。


 その上へ、別の文章が書き加えられている。


 ――聖女本人が帰還を拒む場合、神託汚染と認定し、武力をもって回収せよ。


 書き換えられている。


 ジュリアンが署名した文書と同じだ。


 表題と署名を残したまま、本文だけを変える。


 エステルはアルブレヒトの袖を強く引いた。


「見つけたか」


 うなずき、帳面へ急いで書く。


 ――命令文が上書きされています。


 アルブレヒトが父へ帳面を見せる。


「伯爵。原本を確認しろ」


「何を言っている」


 グランデルが警戒する。


「お前が受け取った命令書は、聖女が帰還を拒んだ場合、交渉を続けろと書かれていた」


「違う」


「上から書き換えられている」


「封印された命令書だ。改竄などあり得ない」


 エステルは首を横へ振る。


「偽者の言葉を信じると思うか」


 エステルは自分の喉を指した。


 声が出ない。


 それでも、伝えなければならない。


 父が石板へ近づいた。


「私にも見せてください」


「貴殿は余白視を持たない」


「筆跡と墨の層は確認できます。私は王立記録院で働いていた」


 グランデルは迷った。


 後方にいる王国兵たちが、ざわつきを強める。


「司令官閣下!」


 王国軍の前列から、一人の若い騎士が声を上げた。


「命令書を確認してください!」


「列を乱すな!」


「私たちは、聖女様が助けを求めていると聞いて来たのです! ご本人が拒まれているなら、少なくとも確認を!」


「その発言は命令への疑義と見なす!」


「疑ってはいけない命令を、なぜ停戦交渉へ持ち込んだのですか!」


 兵士の間に動揺が広がる。


 グランデルの顔に、怒りと迷いが浮かんだ。


 彼は愚かな人間ではない。


 だからこそ、ここまで率いてきた一万人と、自分が信じた命令が間違っているかもしれない事実を受け入れられない。


 今さら引き返せば、何のために兵を連れてきたのか。


 拘束した三十七名は、なぜ罰したのか。


 自分の判断が誤りだったと、全軍の前で認めることになる。


「……石板を渡せ」


 グランデルは従者へ命じた。


「私が確認する」


「閣下」


「渡せ!」


 従者が石板から手を離そうとする。


 その瞬間。


 三枚葉の紋章が、石板の中央へ浮かんだ。


 赤い文字が勝手に動き始める。


 新しい一文が、全員の目の前で書き加えられた。


 ――指揮官が命令内容へ疑義を抱いた場合、当該指揮官を汚染者と認定する。


「何……」


 グランデルが呟く。


 続く文章。


 ――汚染者の指揮権を停止。


 ――戦時神託へ指揮権を移行。


 石板から、赤い光が空へ伸びた。


 王国軍陣地の奥で、巨大な鐘が鳴る。


 一度。


 二度。


 三度。


 攻撃開始を告げる鐘。


「私は命じていない!」


 グランデルが振り返る。


 だが、王国軍では、すでに進軍太鼓が鳴り始めていた。


 兵士たちが混乱している。


「止まれ!」


「攻撃命令だ!」


「司令官閣下は命じていない!」


「戦時神託が発動したぞ!」


「誰に従えばいい!」


 怒号が雪原を覆う。


 帝国側の城壁でも、弓兵たちが構え始めた。


「撃つな!」


 アルブレヒトが振り返り、帝国軍へ叫ぶ。


「私が命じるまで一本も放つな!」


 その声は届いた。


 帝国兵は矢をつがえたまま、辛うじて止まる。


 だが、王国側の全員が止まったわけではなかった。


 混乱の中。


 一人の弓兵が、鐘の音に従って弦を放した。


 矢が雪原を裂く。


 狙われたのは、聖女ミレイユではない。


 帝国皇弟でもない。


 停戦石板の前に立つ、死亡したはずの女。


 エステルだった。


「伏せろ!」


 アルブレヒトが動く。


 だが、それより先に、父が娘の前へ飛び込んだ。


 鈍い音。


 矢が、父の胸へ深く突き刺さる。


「お父さま!」


 ミレイユの悲鳴が響く。


 父の身体が、エステルへ倒れ込んだ。


 エステルは受け止めきれず、二人で雪の上へ崩れる。


 父の口から、赤い血がこぼれた。


「なぜ……」


 エステルの喉から、掠れた声が出た。


 父は苦しげに息をしながら、娘の頬へ手を伸ばす。


「今度は……私が、選んだ」


 誰かに決められた犠牲ではない。


 父親だから当然でもない。


 自分の意思で娘の前へ立ったのだと、父は言おうとしている。


「だからって……」


 エステルの声が震えた。


「勝手に……死なないでください……!」


 父は、ほんの少し笑った。


「やっと……お前に、怒られたな」


 国境の向こうで、第二射の号令が響いた。


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