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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第二十話 「撃て」と書かれた神託を、私は「待て」に直しました

 第二射の号令が、雪原へ響いた。


 王国軍の弓兵たちが、一斉に弦を引く。


「撃つな!」


 グランデル侯爵が振り返り、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「これは私の命令ではない! 弓を下ろせ!」


 しかし、進軍太鼓は止まらない。


 王国軍の陣地中央にそびえる戦時神託塔から、赤い光が幾筋も伸び、前列の兵士たちの腕へ絡みついていた。


「腕が……勝手に……!」


「弦を放せ!」


「無理です、指が動かない!」


 兵士たちは歯を食いしばり、自分の腕と戦っている。


 命令に従おうとしているのではない。


 神託に、身体を動かされていた。


「全軍、防御!」


 アルブレヒトが剣を振り上げる。


 青白い魔力が雪原を横切り、帝国側の兵士たちの前へ半透明の壁を作った。


 次の瞬間、何百本もの矢が降り注ぐ。


 硬い音が連続して響き、魔力壁の表面に波紋が広がった。


 一部の矢は壁を抜けた。


 帝国兵が盾を重ねる。


 馬がいななき、誰かの悲鳴が上がった。


 それでも帝国側から矢は返されなかった。


「撃つな!」


 アルブレヒトが再び叫ぶ。


「向こうの兵は、自分の意思で放っていない! 私の命令があるまで反撃を禁じる!」


 城壁の弓兵たちは、矢をつがえたまま耐えている。


 恐怖に顔を引きつらせながらも、誰一人として弦を放さない。


 その足元で、エステルは父の身体を抱えていた。


「お父さま」


 呼びかける。


 喉から出た声は、息に近い。


 父の胸へ刺さった矢の周囲から、赤黒い血が広がっていた。


 冬用の厚い外套も、その下の衣服も、すでに濡れている。


「お父さま、目を……開けてください」


「エステル、身体を動かすな!」


 駆け寄ってきたエッダが、雪の上へ膝をついた。


 矢へ触れようとしたエステルの手を、強く払いのける。


「抜いたら出血が増える。胸のどこを傷つけているかも分からないんだよ!」


 続いてミレイユが駆け込んでくる。


「私が治します!」


「待ちな!」


「でも、このままでは!」


「闇雲に治癒を流せば、矢尻ごと肉が閉じる!」


「では、どうすればいいの!」


「まず呼吸を見な。次に脈。泣くのは構わないが、手は止めるんじゃないよ!」


 ミレイユの頬を涙が伝っていた。


 それでも、言われたとおり父の首筋へ指を当てる。


「脈は……あります。弱いけど、あります」


「呼吸は」


「浅いです。音が……右側だけ、おかしい」


「肺へ入っているかもしれないね」


「助かりますか」


 エッダは答えなかった。


「エッダさん!」


「分からない!」


 老治療官は、ミレイユの目をまっすぐに見た。


「ここで大丈夫だと言えば、あんたは安心するかもしれない。だが、その安心で手を緩めたら、この男は死ぬ。だから今は聞くな。助けることだけ考えな!」


 ミレイユの唇が震えた。


 エステルは、アンナの母親へ根拠のない希望を与えた自分を思い出した。


 あのときのリーナも、今の自分と同じだったのだろう。


 大丈夫だと言ってほしい。


 必ず助かると。


 誰かに未来を決めてほしい。


 だが、正しい答えはまだない。


「お姉さま」


 ミレイユが、縋るようにこちらを見る。


「お父さま、助かるわよね」


 エステルは口を開いた。


 大丈夫。


 言いたかった。


 けれど、言えなかった。


「分からない」


 掠れた声で答える。


 ミレイユの顔が歪む。


 エステルは父の手を握った。


「でも……助けたい」


「私も」


「だから、今は……できることをする」


 ミレイユは泣きながらうなずいた。


「うん」


 彼女の掌から、金色の光が広がる。


 父の身体へ触れる直前、その光は赤い壁に弾かれた。


「何?」


 矢の軸に、赤い文字が浮かんでいる。


 ――反逆者への治癒を禁ず。


 ――裏切りを選びし父、その役目を死によって完了せよ。


「神託矢です」


 エステルは父の胸元へ顔を近づけた。


「触るんじゃないよ!」


「文字を見ます」


 矢は、偶然父へ当たったのではない。


 エステルを狙って飛び、父が庇った。


 それなのに、父へ刺さった瞬間、文章の対象が「裏切りを選んだ父」へ変わっている。


 最初から、誰が庇うか予測していたように。


「三枚葉の紋章……」


 矢尻に近い部分へ、第一編纂官の印が刻まれている。


 エステルの中で、白髪の少女が囁いた。


『その矢、出来事を役割に合わせてる』


 ――どういう意味ですか。


『父親が娘を庇った。だから、父親はそこで死んで物語を完成させる。そう書いてある』


 物語を完成させる。


 父親は娘を守って死んだ。


 間違いを認め、最後に命を差し出した。


 美しく、分かりやすく、余計な続きを必要としない結末。


 エステルは腹の底から怒りが湧くのを感じた。


 父は、死ぬために娘の前へ立ったのではない。


 本人は、今度は自分が選んだと言った。


 だが、その選択の続きまで他人に決められてよいはずがない。


「勝手に……終わらせないで」


 エステルは矢の文字へ指を伸ばした。


 触れた瞬間、赤い熱が指先を焼く。


「お姉さま!」


「エステル、やめな!」


「この文章を……消せば、治癒が通ります」


「どうやって消すの!」


 ミレイユが叫ぶ。


 校正墨はない。


 凍結書も離宮に残してきた。


 エステルが使えるのは、自分の中へ流れ込んだ黒銀の文字だけだ。


 だが、それを使えば、白髪の少女との接続がさらに深まる。


『貸そうか?』


 少女が楽しそうに尋ねる。


 エステルは迷った。


 父を助けたい。


 それだけで、危険な力を使ってよいのか。


 かつて父は、娘を助けるためだと言って、本人に知らせず封印鍵へした。


 同じことをしてはいけない。


「ミレイユ」


 エステルは妹を見る。


「この文字を消せば……治癒が通ると思う」


「なら消して!」


「危険があります」


「誰に?」


「私に」


 ミレイユが息を止める。


「どのくらい危険なの」


「分からない」


「また、分からないの?」


「第十三神託との接続が……強まるかもしれない。声が、もっと戻らなくなる可能性もある」


「ほかの方法は?」


 エステルは首を横へ振った。


「今は……思いつかない」


 ミレイユは父と姉を交互に見た。


「私に、どうしてほしいの?」


「決めてほしいわけではない」


「じゃあ、なぜ聞くの」


「あなたにも……関係があるから。私が倒れれば、治癒を続けるあなたの負担が増える」


「お姉さま自身は、どうしたいの」


 エステルは父の顔を見た。


 意識はない。


 唇から血が流れ、呼吸のたびに胸が不自然に揺れる。


「助けたい」


 声が震えた。


「お父さまを……助けたい」


 それは校正官としての判断ではない。


 国や家族のためでもない。


 自分が、父に死んでほしくない。


 許していないこともある。


 聞きたいことも、責めたいことも残っている。


 だから、このまま綺麗に死なれては困る。


「なら、やって」


 ミレイユが言った。


「私も治癒を続ける。でも、お姉さまが倒れそうになったら止める。今度は勝手に一人で最後までやらないで」


「分かった」


「約束して」


「約束する」


 エステルは矢へ指を置いた。


 黒銀の文字を呼ぶ。


 喉の奥で、白髪の少女が笑った。


『今度は、自分で選んだね』


 黒銀の光が指先から流れ出し、矢に刻まれた赤い文章へ重なる。


 ――裏切りを選びし父、その役目を死によって完了せよ。


 エステルは最後の一節へ線を引いた。


 死によって完了。


 その言葉を削る。


 赤い文字が抵抗し、火傷のような痛みが腕へ走った。


「お姉さま、手が!」


「まだ……大丈夫」


 嘘ではない。


 痛い。


 だが、続けられる。


 エステルは新しい文章を書き加えた。


 ――選びし行為の、その後を生きて引き受けよ。


 矢が激しく震えた。


「今!」


 エッダが叫ぶ。


「ミレイユ、治癒を!」


 金色の光が父の身体へ流れ込む。


 今度は弾かれない。


「入った!」


「喜ぶのはあとだよ。肺の出血を抑えな。矢はまだ抜くな!」


 ミレイユは涙を流しながら、治癒へ集中する。


 父の呼吸が、わずかに深くなった。


 しかし、矢の文章を一つ消しても、戦争は止まっていない。


 王国軍の第三射が準備されている。


 戦時神託塔から伸びる赤い光が、今度は弓兵だけでなく、槍兵や騎兵へも絡みつき始めた。


「全軍前進!」


「止まれ!」


「足が動く!」


「盾を捨てろ、抵抗しろ!」


 兵士たちは自分の身体を止めようと、仲間同士で押さえ合っている。


 それでも少しずつ、国境線へ近づいてくる。


 グランデル侯爵が境界石の前で、停戦石板を剣の柄で叩いた。


「私の命令を受け付けろ!」


 赤い文字が浮かぶ。


 ――汚染者の命令は無効。


「私は北方軍司令だ!」


 ――旧指揮官の発言を雑音として処理。


「雑音……?」


 グランデルの顔が青ざめた。


 自分が信じ、従ってきた仕組みに、今度は自分自身が不要な記述として扱われている。


「エステル!」


 アルブレヒトが父のそばへ駆け戻ってきた。


「こちらへ矢が届く。伯爵を運ぶぞ」


 エッダが首を横へ振る。


「今動かせば死ぬ!」


「では防壁を前へ出す」


「殿下」


 エステルは停戦石板を指した。


「まだ行く気か」


「あれを止めなければ……次の矢が来ます」


「今のお前は、立つことも難しいだろう」


「立てます」


 エステルは雪へ手をつき、身体を起こそうとした。


 膝が震えた。


 アルブレヒトが腕をつかむ。


「それを立てるとは言わない」


「でも、行かなければ」


「私が石板を壊す」


「壊せば……戦時神託塔が直接、命令を続けます。元の文章を戻す必要があります」


「方法は」


「確認します」


「また、確認してから考えるのか」


「はい」


 アルブレヒトの顔に、怒りと焦りが浮かぶ。


「父親のそばにいたくないのか」


 その問いに、エステルは息を止めた。


 いたい。


 父の手を握り、目を覚ますまで呼び続けたい。


 助かるかどうか分からないのに、離れたくない。


「いたいです」


「なら、いろ」


「でも……ここにいれば、また矢が来ます。お父さまだけではなく、ミレイユも、エッダさんも」


「私が守る」


「殿下一人では、全部は守れません」


「分かっている!」


 アルブレヒトが声を荒らげた。


 すぐに顔を歪め、声を落とす。


「分かっている。だから腹が立つ」


「何に?」


「お前が行くのを止められない自分にだ」


 傷は反応しなかった。


 エステルは彼の腕へ手を置いた。


「一緒に、来てください」


「私に命じているのか」


「頼んでいます」


「……分かった」


 アルブレヒトはエステルの身体を抱き上げた。


「歩けます」


「さっき立てなかった」


「支えていただければ」


「移動中に倒れられるより早い」


「人前です」


「戦場で、誰が気にする」


 王国軍と帝国軍、合わせて一万人以上が見ている。


 かなり多くの人間が気にすると思う。


 だが、言い争う時間はなかった。


「ミレイユ」


 エステルは妹を見る。


「戻るまで……お父さまを」


「任せて」


「無理だと思ったら」


「やめない」


「ミレイユ」


「今は、やめたくないの。私が決めたの」


 妹は父の傷へ両手を当てたまま、姉を見返す。


「だから、お姉さまも戻ってきて」


「戻る」


「絶対?」


 エステルは一瞬迷った。


「戻るために、行く」


 完全な約束ではない。


 だが、以前のように曖昧な安心を与えるより、今の気持ちへ近い。


 ミレイユは不満そうだったが、うなずいた。


     ◇


 停戦石板へ近づくほど、赤い文字の圧力が強くなった。


 アルブレヒトがエステルを下ろし、片腕で支える。


 もう片方の手には剣。


 グランデル侯爵は、境界石の前で立ち尽くしていた。


「何をしに来た」


「神託を止めます」


 エステルは掠れた声で答えた。


「お前にできるのか」


「分かりません」


「分からないばかりだな」


「侯爵は……分かっているふりをして、軍をここまで連れてきました」


 グランデルの顔が歪んだ。


「私を責めに来たのか」


「いいえ」


「なら、何だ」


「止めるためです」


「今さら止めれば、私は全軍の前で、自分の誤りを認めることになる」


 侯爵は王国軍を振り返った。


「命令書を信じ、異議を唱えた兵を拘束した。進軍を急がせ、帝国との交渉を拒んだ。ここで偽造でしたと認めれば、私は司令官として終わる」


 エステルは、彼の横顔を見た。


 恥。


 恐怖。


 自分の判断で大勢を危険へ連れてきた罪悪感。


 それらを認めるくらいなら、命令が正しかったことにしてしまいたい。


「終わるのは……侯爵の地位ですか」


「同じことだ」


「違います」


「お前に何が分かる!」


「分かりません」


 エステルは答えた。


「侯爵が、どれほど努力して今の地位へ就いたのか。部下から、どのように見られてきたのか。間違いを認めたあと、何を失うのか。私は知りません」


「ならば黙っていろ」


「でも、続ければ……人が死ぬことは分かります」


 グランデルは何も言えなかった。


「間違えたことは、消せません」


 エステルは停戦石板へ手を伸ばした。


「でも、その間違いの続きに、何を書くかは選べます」


「綺麗事だ」


「はい」


「認めるのか」


「綺麗な言葉だから、間違いとは限りません。ただ……実行するのは、綺麗では済まないと思います」


 部下から責められる。


 地位を失う。


 王家から処罰されるかもしれない。


 自分が拘束した三十七名へ、頭を下げなければならない。


 間違いを直すというのは、赤い線を一本引いて終わることではない。


 その後を生きて引き受けることだ。


「石板を見せてください」


 グランデルは長く迷った。


 やがて、停戦石板から一歩離れる。


「好きにしろ」


「違います」


「何がだ」


「侯爵も確認してください」


「私も?」


「あなたの軍へ出された命令です。私だけが正しい文章を決めれば、第一編纂官と同じになります」


「この状況で、私に判断を求めるのか」


「はい」


 グランデルは、信じられないものを見るようにエステルを見た。


「本当に面倒な女だな」


「よく言われます」


 アルブレヒトがエステルの腰を支えたまま言う。


「話はあとだ。早く読め」


「殿下は急かしすぎです」


「矢が飛んでくる前に終わらせたいだけだ」


 三人で停戦石板を覗き込む。


 余白視を開く。


 今日追加された文章。


 その下の、ジュリアンが署名した命令。


 さらに下。


 国境和平時に刻まれた原文。


 赤い上書きは、最も重要な一節へ施されていた。


 古代文字では、「待て」と「撃て」はよく似ている。


 上へ短い一画を足すだけで、意味が変わる。


 本来の文章は。


 ――両国の指揮官いずれかが、命令の正当性へ疑義を抱いた場合、攻撃を待て。


 しかし、赤い一画が追加されている。


 ――攻撃を撃て。


「たった、一画……」


 グランデルが呟く。


 わずかな線。


 それだけで、和平神託は戦時神託へ変わった。


「直せるか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「この一画を消します」


「何が必要だ」


「両国の指揮官が、攻撃を望まないと確認すること」


「私は望まない」


 アルブレヒトは即答した。


 傷は反応しない。


 二人の視線が、グランデルへ向く。


 侯爵の喉が動いた。


 背後では、王国軍が国境線へ迫っている。


 前列の兵士たちは、自分の足を止めるため、雪へ槍を突き刺している。仲間の腰へしがみつき、互いに進ませまいとしている者もいた。


「私は……」


 グランデルの声が震える。


「私が止めろと言えば、兵は私を臆病者と思う」


「思う者もいるでしょう」


「王太子殿下の命令へ逆らった反逆者になる」


「可能性はあります」


「私が今まで築いたものは、すべて失われるかもしれない」


「はい」


 エステルは都合よく否定しなかった。


 侯爵は怒ったように睨む。


「少しくらい、大丈夫だと言えないのか!」


「大丈夫だと断言できません」


「では、何を頼りに決めろと言う!」


「ご自身が、どちらを後悔するかです」


「後悔?」


「止めて失うものと、止めずに失う人。それを、侯爵が選んでください」


 グランデルは王国軍を見た。


 若い兵士。


 老練な騎士。


 恐怖に泣きながらも、隣の者の腕を押さえている者。


 皆、侯爵の命令でここまで来た。


「私は……」


 侯爵は両拳を握りしめた。


「攻撃を望まない」


 停戦石板が震える。


「聞こえません」


 エステルが言うと、グランデルが顔を上げた。


「今、言った」


「兵士たちには届いていません」


「お前は本当に!」


 侯爵は歯を食いしばり、それから王国軍へ向き直った。


「北方軍、全兵へ告ぐ!」


 声が雪原へ響く。


「現在の攻撃命令は、改竄された可能性がある! 私は、これ以上の進軍を認めない!」


 戦時神託が、赤い光を強める。


 グランデルの声を打ち消そうと、鐘が激しく鳴る。


「弓を下ろせ! 槍を捨てろ! 私の命令が誤りであった責任は、私が負う!」


 前列の若い騎士が、最初に弓を雪へ投げた。


「司令官命令だ! 武器を下ろせ!」


 隣の兵士も続く。


「俺は撃たない!」


「俺もだ!」


「聖女様は、助けを求めていない!」


 一人。


 また一人。


 兵士たちが、自分の言葉で拒絶を叫ぶ。


 同じ文章ではない。


 命令だから止まる者。


 帝国兵を殺したくない者。


 聖女の証言を信じる者。


 単に怖くて戦いたくない者。


 理由はばらばらだった。


 だから、第一編纂官の神託は一つの命令へまとめられない。


「今だ」


 アルブレヒトが言う。


 エステルは停戦石板へ指を置いた。


 赤い一画が指先へ焼きつく。


 黒銀の文字を流し込み、余計に加えられた線を削る。


 撃て。


 そこから、一画を消す。


 待て。


 意味が戻った。


 ――攻撃を待て。


 停戦石板から、赤い光が消えた。


 王国軍の戦時神託塔に亀裂が走る。


 進軍太鼓が止まり、兵士たちの腕や足を縛っていた赤い文字がほどけていく。


 突然自由になった兵士たちが、次々と雪の上へ倒れ込んだ。


 誰も剣を振らない。


 誰も矢を放たない。


 静寂が、雪原へ広がった。


 戦争は始まらなかった。


 エステルの膝から力が抜ける。


「エステル!」


 アルブレヒトが抱き止めた。


「戻らなければ……」


「分かっている」


「お父さまが」


「分かっている!」


 彼はエステルを抱き上げ、父のいる場所へ走った。


     ◇


 父の胸から矢が抜かれたのは、それから四半刻後だった。


 エッダが傷口を切り開き、ミレイユが治癒魔法で出血を抑える。


 父は一度、呼吸を止めた。


 ミレイユが泣きながら名前を呼び、エッダが胸を強く押す。


 エステルはすぐそばにいた。


 何もできなかった。


 声も出ない。


 治癒魔法も使えない。


 ただ父の手を握り、冷たくなっていく指へ自分の指を絡めていた。


「戻ってきてください」


 掠れた声で言う。


「まだ……聞いていないことが、あります」


 父は反応しない。


「お母さまへ、何と説明すればよいのですか」


 返事はない。


「私を守って死んだなどと……きれいにまとめさせません」


 ミレイユが泣きながら治癒を続ける。


「お父さま、起きて。私、まだジュリアン殿下と結婚するか決めてないの。勝手に決めたら怒るでしょう? だったら、自分で起きて怒ってよ!」


「集中しな!」


 エッダの声も震えていた。


「肺の傷は塞がった。心臓は外れている。あとは、この人の身体が戻るかどうかだよ!」


 長い時間が過ぎた。


 実際には、ほんの数分だったのかもしれない。


 父の胸が、小さく持ち上がる。


 一度。


 続いて、もう一度。


「息をした」


 ミレイユが呟く。


「お父さまが、息を……」


「まだ安心するんじゃないよ」


 エッダはそう言いながら、目元を袖で拭った。


「砦へ運ぶ。絶対に揺らすな。今夜を越えるまでは、何が起きてもおかしくない」


 父は助かった。


 少なくとも、今は生きている。


 エステルは握っていた手へ額をつけた。


「勝手に選んだことは……起きたら、怒ります」


 アルブレヒトが隣へ立つ。


「怒るのか」


 エステルはうなずいた。


「助けてくれたことへ、礼は言わない?」


「言います」


「両方か」


「両方です」


「面倒だな」


「知っています」


「それでいい」


 エステルは顔を上げた。


 アルブレヒトの右肩からも、血が滲んでいる。


「殿下も……治療を」


「あとだ」


「今です」


「伯爵が先だ」


「お父さまは、エッダさんとミレイユが診ています」


「私は軽傷だ」


 傷は反応しない。


 だが、軽傷だから放置してよいわけではない。


「座ってください」


「命令か」


「頼んでいます」


「……分かった」


 アルブレヒトは、父の運ばれた担架の近くへ腰を下ろした。


 帝国の皇弟が、元罪人の女に言われ、雪の上へ座って治療を受ける。


 周囲の騎士たちは、見ないふりをしていた。


     ◇


 夕方。


 父は国境砦の治療室で、ようやく目を開けた。


 最初に気づいたのはミレイユだった。


「お父さま?」


 寝台の横に座っていた妹が、身を乗り出す。


「分かる? 私よ」


「ミレイユ……」


 父の声は弱い。


 それでも、娘の名を呼んだ。


 ミレイユは泣きながら父の手を握る。


「よかった。本当に……もう、勝手に前へ出たりしないで。お姉さまのことを庇ったのは、少しだけ格好よかったけど、でも本当に最低だから!」


「褒めているのか……怒っているのか……」


「両方よ!」


 父が、わずかに笑った。


 エステルは少し離れた場所に立っていた。


 父が目を覚ましたら、何を言おうか考えていた。


 ありがとう。


 勝手に死のうとしないで。


 痛くないですか。


 十九年前の続きを話してください。


 いくつもの言葉が浮かんだ。


 けれど、今の喉では長く話せない。


 エステルは寝台へ近づいた。


「お父さま」


 父が、ゆっくりと顔を向ける。


 視線がエステルの顔で止まった。


 その表情から、笑みが消える。


「……どなたですか」


 エステルは聞き間違えたと思った。


「お父さま?」


「すまない」


 父は困惑しながら、ミレイユを見る。


「この方は……帝国の人か?」


 ミレイユの顔から血の気が引いた。


「何を言っているの」


「私は、本当に……」


 父はエステルを見つめた。


 娘の顔を。


 十九年間育てたはずの長女を。


 だが、その瞳には何の記憶も浮かんでいない。


「どこかで、お会いしましたか」


 父の懐に入れていた証言書は、矢が刺さった際に血で濡れ、文字がすべて消えていた。


 第一編纂官は、父の命を奪えなかった代わりに。


 父の中から、エステルという娘だけを削除していた。


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