第二十一話 父に娘だと証明するため、嫌われた思い出を読み上げました
「どこかで、お会いしましたか」
父の問いは、ひどく丁寧だった。
社交の場で、名前を思い出せない相手へ失礼がないよう尋ねるときの口調。
エステルは、その言い方を知っていた。
ヴァレリー伯爵家の夜会で、父が何度も使っていたからだ。
まさか、自分へ向けられる日が来るとは思わなかった。
「お父さま、何を言っているの」
ミレイユが寝台の父へ詰め寄る。
「お姉さまよ。エステルお姉さま。あなたの長女でしょう!」
「長女……?」
父は戸惑った顔で、エステルを見た。
似ているところを探しているようだった。
髪の色。
目の形。
鼻筋。
親子ならば、どこかに自分との共通点があるはずだと。
だが、どれだけ見つめても、父の表情に懐かしさは浮かばなかった。
「ミレイユ。私は、お前に姉がいるなどと聞いた覚えがない」
「聞いた覚えがないんじゃない。忘れさせられたのよ!」
「落ち着きなさい」
「これで落ち着いていられるわけないでしょう!」
ミレイユが父の肩へ手を伸ばす。
傷へ触れそうになり、エッダがすぐに腕をつかんだ。
「患者を揺らすんじゃないよ。記憶が戻る前に、今度こそ命が抜ける」
「でも、このままじゃ……」
「怒鳴って戻る記憶なら、もう戻ってる」
エッダは厳しく言ったあと、父の瞳へ小さな灯りを当てた。
「伯爵。頭は痛むかい」
「少し」
「吐き気は」
「ない」
「今日の日付は分かる?」
父は正しい日付を答えた。
王国の名。
現在いる場所。
王太子の名。
妻の名。
次女ミレイユの誕生日。
いずれも間違えなかった。
「ご自身に、子どもは何人いますか」
エッダが尋ねる。
父は、わずかに考えた。
「一人です。娘のミレイユが」
「嘘よ!」
ミレイユが叫ぶ。
「私たちは二人よ。お姉さまと私。ずっとそうだった!」
「私に言われても……」
父の顔に、困惑と恐怖が浮かぶ。
「皆が同じ話をしている以上、私の記憶に異常があるのだろう。だが、覚えていないものを、覚えているふりはできない」
アルブレヒトの首筋にある傷は反応しなかった。
父は嘘をついていない。
本当にエステルを知らない。
エステルは寝台のそばへ近づいた。
父の身体が、ほんの少し強張る。
見知らぬ女が近づいたから。
その反応を見た途端、足を止めたくなった。
父は負傷している。
知らない人間に囲まれ、その全員から、あなたが忘れているだけだと責められている。
エステルが傷ついているからといって、父が怖がる権利まで否定してよいわけではない。
「エステル」
アルブレヒトが、低く名を呼んだ。
声を出さなくてよい。
無理に近づかなくてもよい。
そう言っているように聞こえた。
だが、エステルは寝台から二歩分離れた位置で立ち止まり、帳面へ書いた。
――私は、エステル・ヴァレリーです。
父は差し出された帳面を読む。
――あなたの長女だと、皆は記憶しています。
「皆は?」
――私は自分を娘だと覚えています。でも、お父さまにとって、今の私は知らない人です。
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう!」
ミレイユが姉を振り返る。
「お父さまの記憶がおかしいだけよ。お姉さまは娘なの。そこまで譲ったら、本当に消されてしまう!」
エステルは次の一文を書く。
――事実を分けているだけです。
「また、それ?」
ミレイユの目に涙が浮かぶ。
「今は、お父さまに『娘だ』って言ってよ。覚えていなくても、私たちが教えればいいでしょう」
――関係を教えることはできます。でも、親しい感情まで強制できません。
「親子なのよ!」
――親子なら、怖がっている人へ無理に触ってよいの?
ミレイユは言葉を失った。
父が、苦しげに目を伏せる。
「すまない」
その謝罪が誰へ向けられたのか分からなかった。
娘を忘れたことか。
目の前の女を怖がったことか。
あるいは、自分を娘だと主張する人間へ、父親らしく振る舞えないことか。
「私は、あなたを不快にさせるつもりはない」
父はエステルへ言った。
「皆があなたを私の娘だと言うなら、そうなのだろう。だが、今の私には、それを実感できない」
エステルはうなずいた。
胸が裂けそうだった。
それでも、分からないものを分かると言わせたくなかった。
第一編纂官が作ろうとしているのは、決められた答え以外を許さない世界だ。
父へ「娘だと思え」と命じれば、やっていることは同じになる。
「それで、いいのか」
アルブレヒトが尋ねる。
エステルは彼を見る。
――よくありません。
そう書くと、アルブレヒトの眉がわずかに上がった。
――とても嫌です。思い出してほしいです。
続けて書く。
――でも、思い出したふりをされるのは、もっと嫌です。
「そうか」
アルブレヒトは、それ以上慰めなかった。
大丈夫だとも、必ず戻るとも言わない。
ただエステルの隣へ立った。
触れない距離で。
◇
父の記憶は、エステルだけが丸ごと消えているわけではなかった。
正確には、エステルへつながる部分だけが、不自然に切り取られていた。
「十九年前、王立記録院で第十三神託の封印に関わりましたか」
エステルは帳面へ書いて尋ねた。
父はしばらく考える。
「関わった」
「何をしたのですか」
ミレイユが聞く。
「封印鍵を登録した。第十三神託へ反応する子どもの魔力を使ったはずだ」
「その子どもは誰?」
「……分からない」
父は頭へ手を当てた。
「名前を思い出そうとすると、文字が黒く塗りつぶされるような感覚がある」
エステルは帳面へ書く。
――年齢は?
「三歳」
――性別は?
「女児だった」
――誰の子どもですか。
父の顔が歪む。
「分からない。だが……」
「だが?」
「私は、その子を守らなければならないと思っていた」
父は自分の胸へ手を置いた。
「理由は思い出せないのに、ひどく怖かった。あの子が神殿に見つかれば、二度と普通には生きられないと」
エステルの指が震える。
記憶は消されている。
だが、感情だけが残っている。
「お父さま」
ミレイユが身を乗り出す。
「それがお姉さまよ」
父はエステルを見る。
「あなたが?」
エステルはうなずいた。
父の目に、親しさは浮かばない。
それでも、先ほどより少し長く顔を見た。
「三歳の頃のことを、何か覚えていますか」
エッダがエステルへ尋ねる。
エステルは帳面へ書いた。
――父の書斎でインク壺を倒しました。
「覚えているかい」
父は眉を寄せた。
「書斎の絨毯へ青い染みができたことは覚えている」
「誰が倒したの?」
ミレイユが聞く。
「子どもだ」
「どの子ども?」
「……分からない」
父の呼吸が乱れた。
「小さな手が、机の上の帳簿へ伸びていた。私は危ないと怒鳴った。子どもは驚いて泣いた。いや……泣かなかった?」
エステルは帳面へ書く。
――泣きませんでした。こぼしたインクで、帳簿の数字が読めなくなったことを謝りました。
父が目を見開く。
「そうだ」
彼の声が掠れた。
「普通なら、叱られたことを怖がるはずなのに、その子は帳簿の心配をした。私は困って……新しい帳簿を作るのを手伝わせた」
――私が数字を二つ書き間違え、お父さまに直されました。
「三つだ」
父が反射的に答えた。
部屋が静まり返る。
父自身が、最も驚いていた。
「三つ……だった。七を一と書き、二度目は桁をずらした。最後は、合計が合わなかった」
エステルは笑いそうになった。
同時に泣きたくなった。
自分では二つだと思っていた。
父のほうが正しく覚えている。
ただし、その間違いをした子どもが誰なのかだけが分からない。
「お姉さまよ」
ミレイユが急いで言う。
「その子がお姉さま。ほかにもあるでしょう。私が生まれたとき、お姉さまが――」
「待って」
エステルは掠れた声を出した。
喉が痛み、すぐに咳き込む。
エッダが睨んだが、今度は叱る前に水を差し出した。
「なぜ止めるの」
ミレイユが尋ねる。
エステルは帳面へ書く。
――一度に思い出させるのは危険かもしれません。
「でも、思い出しかけているのよ!」
――思い出すことと、与えられた話へ合わせることの区別がつかなくなります。
「そんなことを言っていたら、いつまでたっても戻らない!」
――急いで間違った記憶を作ったら、第一編纂官と同じです。
ミレイユは悔しそうに唇を噛んだ。
「私は早く戻ってほしいの。お父さまに、お姉さまを見て知らない人みたいな顔をしてほしくない」
――私もよ。
「だったら!」
――だから、慎重にします。
「お姉さまは、自分のことなのに冷静すぎる!」
エステルは鉛筆を止めた。
冷静ではない。
先ほどから、父の一言ごとに胸が乱れている。
思い出してほしい。
娘だと呼んでほしい。
抱きしめてほしい。
矢の前へ出たときのように、今度も自分を選んでほしい。
そのすべてを口にしたら、父へ圧力をかけることになる気がして、文章へしなかった。
「エステル」
アルブレヒトが呼ぶ。
「書け」
エステルは彼を見た。
「冷静でないなら、そう書け」
ミレイユも、姉の顔を見る。
逃げられない。
エステルは、時間をかけて書いた。
――お父さまに知らない人として見られるのが、苦しいです。
父の顔が歪んだ。
――先ほどから、思い出してほしくて仕方がありません。
さらに続ける。
――でも、お父さまの中へ私が望む答えを入れるのは怖いです。
「エステル……」
父が、初めて彼女の名を呼んだ。
記憶が戻ったわけではない。
皆がそう呼んでいるから、覚えただけだ。
それでも、自分の名だった。
「私は、どうすればいい」
父が尋ねる。
エステルは迷った。
――思い出そうとしてください。
一度書いてから、その下へ加える。
――ただし、思い出せないときは、思い出せないと言ってください。
「それだけか」
――それから、私を知ろうとしてください。
「知る?」
――過去を思い出せなくても、今の私と話すことはできます。
父は長く、その文章を見つめた。
「あなたは、私を恨んでいるのか」
エステルは正直にうなずいた。
父の表情がさらに苦しくなる。
――でも、嫌いなだけではありません。
「私は、あなたへ何をした」
質問の多さに、エステルは一瞬困った。
ミレイユが、泣きながら鼻をすすった。
「とても長くなるわよ」
「そうなのか」
「お父さまは、お姉さまに十九年間秘密を隠して、王太子妃になるよう育てて、婚約を妹の私へ移したあと、お姉さまへ家族のために罪を認めろと言ったの」
「私は……そんなことを?」
「したわ」
ミレイユの声には、父を責める響きがあった。
「お姉さまを雪原へ追放する文書を確認もしなかった。だから、お姉さまは死にかけた」
父は顔色を失った。
「それなのに、この人は私へ話しかけようとしているのか」
エステルはうなずく。
「なぜ」
その問いへ、すぐには答えられなかった。
家族だから。
父だから。
そんな役割だけで答えたくない。
許したからでもない。
父が矢の前へ出たから、借りを返したいのでもない。
――まだ、お父さまと話したいことがあるからです。
「怒るために?」
――それもあります。
父が、ほんのわずかに笑った。
傷が痛んだのか、すぐに顔をしかめる。
「では、逃げないよう努力する」
――努力ではなく、約束してください。
エステルが書くと、父は目を瞬いた。
「そういうところも、記憶にある気がする」
「どんな記憶ですか」
ミレイユが勢いよく尋ねる。
「誰かに、努力ではなく期限を言ってください、と何度も言われた」
エステルは帳面へ書いた。
――私です。
「そうか」
父は、まだ確信を持てない顔で答えた。
「とても、あなたらしい気がする」
娘らしい、ではない。
あなたらしい。
今はそれでよい。
よいと思おうとした。
◇
午後になると、グランデル侯爵が治療室を訪れた。
彼は王国軍へ四十八時間の停戦を命じ、戦時神託へ逆らった三十七名を解放したという。
「伯爵の容体を確認しに来た」
グランデルは入口でそう言った。
「それと、証言を残すためだ」
彼は書記官を伴っていた。
「私は国境において、エステル・ヴァレリーを名乗る女性を確認した。聖女ミレイユ、ヴァレリー伯爵、帝国皇弟が本人だと証言した。私自身も、王都の式典で数度見たエステル嬢と同一人物である可能性が高いと判断する」
「可能性が高い?」
ミレイユが不満そうに聞く。
「断定すれば、私の記憶が神託汚染を受けていると処理される。現時点で証明できる範囲を書く」
グランデルは苦々しく答えた。
「そちらの姉に似た女から、事実と評価を分けろと教わったのでな」
エステルは帳面へ書いた。
――似た女ではなく、本人です。
「今は、公的記録上そう書けない」
――腹が立ちます。
「私もだ」
侯爵は即答した。
少しだけ、人間らしい返事だった。
「もう一つ報告がある」
グランデルの表情が険しくなる。
「王国軍へ届いた追加命令では、ヴァレリー伯爵は帝国により殺害されたと記されていた」
「私は生きている」
父が、寝台から言う。
「ああ。だから、また文書が事実より先に作られたと分かる」
「発行時刻は?」
エステルが掠れた声で尋ねる。
すぐにエッダから睨まれ、帳面へ持ち替えた。
グランデルは文書を開く。
「矢が放たれる二時間前だ」
つまり第一編纂官は、父が死ぬ結末を先に用意していた。
父がエステルを庇うことまで、筋書きへ含めていた。
「しかも」
グランデルは続ける。
「伯爵の死亡に伴い、ヴァレリー家の当主権限は妻へ移る。神殿は、伯爵夫人へ長女に関する記録の提出を求めたらしい」
エステルの胸がざわつく。
「お母さまに?」
ミレイユが顔を上げた。
「夫人から国境軍へ、確認の書簡が届いている」
グランデルは一通の封書を差し出した。
宛名は夫ラファエル・ヴァレリー。
筆跡は母のものだった。
父が封を開けようとしたが、負傷した腕ではうまく力が入らない。
エステルが手を伸ばしかける。
父は一瞬迷い、封書を彼女へ渡した。
「読んでくれますか」
娘としてではない。
今は、そばにいる読み書きのできる人間へ頼んだだけだ。
エステルは封を切った。
最初の数行は、父の安否を尋ねる内容だった。
王都では伯爵が死亡したとの情報が流れている。
だが正式な遺体確認がないため信じられない。
ミレイユの生存を告げる映像も見た。
どうか二人で戻ってきてほしい。
そこでエステルは読む手を止めた。
「続きは?」
父が尋ねる。
エステルは黙ったまま、次の行を見る。
母の文字は、ところどころ震えていた。
――もう一つ、確かめたいことがあります。
――屋敷の家族肖像画に、見覚えのない娘が描かれています。
――使用人の一部は彼女をエステル様と呼び、私たちの長女だと言います。
――ですが、私にはその子を産んだ記憶がありません。
ミレイユが、姉の手から手紙を取った。
「嘘……」
その先を読む。
――それでも肖像画を見ると、胸が苦しく、泣きたくなります。
――私は、その娘を忘れたのでしょうか。
――それとも、最初から存在しない娘を、誰かに愛していたと思わされているのでしょうか。
治療室に、誰の声もなくなった。
父だけではない。
母の記憶からも、エステルが消え始めている。
そして手紙の最後には、別の筆跡で一文が加えられていた。
三枚葉の紋章とともに。
――記録訂正は、家族から完了する。




