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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第二十二話 母は、私を産んだ記憶を失っていました

 ――記録訂正は、家族から完了する。


 三枚葉の紋章とともに書き加えられた一文を、エステルは何度も読み返した。


 母の筆跡ではない。


 インクの色も違う。母が使う青みがかった黒ではなく、乾くほど赤みを増す神託院の特殊墨だった。


 第一編纂官は、母の手紙へ侵入した。


 ただ記憶を奪うだけではなく、誰から、どの順番でエステルを消すかまで宣言している。


「家族から、とはどういう意味だ」


 寝台の父が尋ねた。


 彼はまだ、エステルを自分の娘だと思い出していない。


 それでも、見知らぬ女の問題として片づけず、説明を求めていた。


 エステルは帳面へ書く。


 ――家族の証言が、私の身分を支える最も古い記録だからだと思います。


「戸籍ではなく?」


 ――戸籍も重要です。ただし、出生記録には父母の申告が必要です。


 聖王国では、子どもが生まれると、家長が出生届へ署名し、母親が血印を押す。


 貴族の場合は、領地神殿の出生神託へ名前を登録し、家系図と魔力紋を結びつける。


 その記録があって初めて、その子どもは家の一員として、公的に存在する。


「父親が娘を忘れ、母親が産んだことを否定すれば」


 アルブレヒトが言った。


「出生記録そのものが、誤りとして処理される?」


 エステルはうなずいた。


「そんなのおかしいわ」


 ミレイユが手紙を握りしめる。


「記憶を奪ってから、覚えていないでしょうって証言させるなんて。自分で証拠を壊して、その証拠がないから存在しないって言うのと同じじゃない」


 ――そのとおりです。


「だったら、すぐにお母さまへ知らせないと。私は覚えているって。お姉さまは本当にいたって」


 ミレイユは立ち上がった。


「馬車を用意して。私が家へ戻る」


「駄目だ」


 父とアルブレヒトが、ほとんど同時に言った。


 ミレイユが二人を睨む。


「今度は何。危険だから?」


「危険だからだ」


 父が答えた。


「国境の停戦は四十八時間だけだ。お前が王国側へ入れば、その場で神殿に拘束される」


「でも、お母さまが!」


「私も心配している!」


 父は身を起こしかけ、胸の傷に響いたのか顔を歪めた。


 エッダが肩を押し戻す。


「寝てな。胸へ穴が開いた人間が、家族会議のたびに起き上がるんじゃないよ」


「妻が危険なんだ!」


「だからって、あんたが今走って何ができる。砦の階段すら一人で下りられないだろう」


「それでも夫として――」


「夫という言葉で傷口は塞がらないよ!」


 エッダの一喝に、父は黙った。


 役割を口にして無理をするのは、家族全員の癖らしい。


「私なら動ける」


 ミレイユが言った。


「治癒を使いすぎて、立ったまま眠りかけた人間が?」


 エッダが返す。


「眠っていません。少し目を閉じただけです」


「壁に額をつけて?」


「考えていました」


「何を」


「……覚えていません」


「寝てたんだよ」


 ミレイユが不満そうに口を閉じる。


 エステルは、母の手紙をもう一度開いた。


 父の安否を尋ねる文章。


 ミレイユへ戻ってきてほしいという言葉。


 見覚えのない娘が家族肖像画に描かれているという混乱。


 そして、忘れた娘を見ただけで胸が苦しくなるという告白。


 母は、エステルを覚えていない。


 それでも、完全に何も残っていないわけではない。


 エステルは紙の端に、規則的な小さな穴が開いていることへ気づいた。


「これは……」


 掠れた声が出る。


 エッダが睨んだため、すぐ帳面へ持ち替えた。


 ――針穴があります。


「紙を綴じた跡ではないのか」


 アルブレヒトが手紙を受け取る。


「位置がばらばらだ」


 ――ばらばらではありません。


 母は刺繍を好んだ。


 特に、花や鳥ではなく、文字を模様の中へ隠す古い暗号刺繍を。


 幼い頃、エステルも教えられた。


 刺す位置を一つ間違えるたび、母は笑いながら言った。


 ――糸はほどけばやり直せるのよ。間違えたまま、完成したふりをしなければいいの。


 その記憶を、母自身はもう覚えていないかもしれない。


「明かりを」


 エステルが言う。


 父の寝台脇にあるランプの前へ手紙をかざした。


 針穴から光が漏れる。


 一つずつ線で結ぶと、古い刺繍文字が浮かび上がった。


 ミレイユが姉の肩越しに覗き込む。


「何て書いてあるの?」


 エステルは読んだ。


 ――わたしは、この娘を忘れたくない。


 部屋にいる全員が黙った。


 針穴は、第一編纂官の文字より前に開けられている。


 母は自分の記憶が失われつつあると気づき、手紙の本文とは別に、意思を残していた。


「お母さま……」


 ミレイユの目から涙が落ちる。


「覚えていないのに、忘れたくないって書いたの?」


 ――覚えていないからこそ、書いたのかもしれません。


「どういうこと?」


 ――自分の中に、説明できない感情が残っていたから。


 母は家族肖像画の娘を知らない。


 産んだ記憶もない。


 それでも、その顔を見ると泣きたくなる。


 ならば、記憶にないから存在しないと決めるのではなく、自分が忘れた可能性を残そうとした。


 母らしい。


 そう思った途端、胸が痛んだ。


 母らしいと感じる記憶を持っているのは、今やエステルの側だけだ。


「ほかにもある」


 アルブレヒトが手紙の下部を指した。


 針穴は一文で終わっていない。


 エステルは続きを読み取った。


 ――明日の正午、神殿の記録官が来る。


 ――娘ではないと署名するよう求められている。


「明日の正午?」


 父が窓を見る。


「この手紙が書かれたのは昨日だ」


 アルブレヒトが時計を確認する。


「正午まで、あと一時間もない」


「間に合わないじゃない!」


 ミレイユが叫ぶ。


「早馬でも屋敷までは一日以上かかるわ!」


「家族礼拝堂の神託を使う」


 父が言った。


 エステルが寝台へ顔を向ける。


「ヴァレリー家の屋敷と、当主が遠征時に滞在する砦をつなぐ連絡神託がある。戦時に家督や相続の確認を行うためのものだ」


「この砦に接続口が?」


 アルブレヒトが尋ねる。


「貴族用の祈祷室にあるはずです。私は以前、北方軍へ従軍した際に使用した」


「起動条件は」


「当主の印と、家族二名の魔力」


 父は言ったあと、エステルを見た。


 目に、戸惑いが浮かぶ。


「家族二名……」


 ミレイユと、エステル。


 だが、父の記憶では娘は一人しかいない。


 出生記録も、エステルを家族として認めなくなり始めている。


「私とお父さまで起動すれば?」


 ミレイユが言う。


「当主は家族一名として数えられない。確認される側だからだ」


「では、私とお姉さましかいないでしょう」


「神託がエステルを家族と認めなければ、接続できない」


 父の言葉に、ミレイユが苛立った顔をする。


「お父さままで認めないの?」


「私が認めるかどうかではなく、神託の条件を話している」


「でも、今、お姉さまの名前を呼ぶとき、少し迷った」


 父は黙った。


「思い出せないのは仕方ないって分かってる。でも、そのたびにお姉さまを知らない人みたいに扱わないで」


「私は、どう扱えばいいんだ」


「娘として!」


「覚えていない娘を、覚えているふりで?」


 父の声にも苛立ちが混じった。


「私はそれをしてはいけないと、エステル本人から言われた」


「でも……」


「ミレイユ」


 エステルは、喉の痛みをこらえて妹を呼んだ。


「お姉さまは平気なの?」


 平気ではない。


 父に名前を呼ばれるたび、発音を確認するような間がある。


 知らない相手へ親切にしようとする距離がある。


 それが苦しい。


「平気ではないわ」


 声は小さく掠れた。


「でも、お父さまが覚えていないことと……私が娘だったことは、両方、今は存在する」


「そんな面倒な状態を、そのままにするの?」


「そのままで……起動できる文章を考える」


 エッダが喉を指して睨んでいる。


 エステルは帳面へ戻した。


 ――思い出したふりをしなくても、関係を否定しない書き方はできます。


 父が文章を見る。


「何と書く」


 ――私はエステルを娘として記憶していない。


「それだけでは、家族として否定される」


 ――続きがあります。


 エステルは書いた。


 ――しかし、彼女が娘であることを示す複数の証言と記録が存在する。よって、関係を確定も否定もせず、調査中として保留する。


 アルブレヒトが文章を覗き込む。


「それで神託が受け付けるのか」


 ――分かりません。


「またか」


 ――試します。


「お前は、不確かなものを不確かなまま登録しようとしている?」


 ――はい。


「神託は嫌うだろうな」


 ――だからこそ、第一編纂官にも消しにくくなります。


 確定した一文は書き換えられる。


 娘ではない。


 娘である。


 どちらかに固定すれば、第一編纂官は反対側を誤りとして削除できる。


 だが「分からないので保留する」という記録は、未完成だ。


 勝手に終止符を打つことを拒む文章である。


「行くぞ」


 アルブレヒトが立ち上がった。


「エステルとミレイユは祈祷室へ。伯爵は担架で運ぶ」


「私も行くのか」


 父が驚く。


「当主印が必要なのだろう」


「傷が」


 エステルが言いかける。


「担架から起こさない」


 エッダが答えた。


「ただし、少しでも容体が悪化したら、神託だろうが妻だろうが中止するよ」


「妻を後回しにするのか」


「生きて会いたいなら、あんたの命を先にしな」


「……分かった」


 父は、以前より早く引き下がった。


 少しずつ、練習しているのだろう。


     ◇


 砦の貴族用祈祷室は、長く使われていなかった。


 壁には帝国と聖王国、双方の古い家紋が並んでいる。


 中央の台座に、父が当主印を置いた。


 ミレイユが右側の魔力盤へ手を乗せる。


 エステルは左側へ。


 神託文字が浮かび上がった。


 ――ヴァレリー家、遠隔家族確認。


 ――当主、ラファエル・ヴァレリー。


 ――家族構成を照合。


 光が父を包む。


 続いてミレイユ。


 ――次女、ミレイユ・ヴァレリー。確認。


 エステルの手元だけ、光らなかった。


 ――未登録者。


 ミレイユが顔を歪める。


「未登録者じゃない!」


 ――接続を拒否。


 エステルは黒銀の文字を呼び出した。


「無理をするな」


 アルブレヒトがすぐ近くで言う。


 エステルは首を横へ振った。


 神託の文章へ、訂正を書き加える。


 ――未登録者。


 その下へ。


 ――ただし、家族関係を主張する複数の証言あり。


 神託が震えた。


 ――公的記録と矛盾。


 エステルは続ける。


 ――矛盾を確認。よって、否定ではなく保留を求める。


 ――分類不能。


「分類しなくていい」


 父が寝台代わりの担架から言った。


 全員が父を見る。


 彼は当主印へ右手を重ねた。


「私は、この女性を娘として覚えていない」


 エステルの胸が痛む。


 父は続けた。


「だが、彼女が娘である可能性を否定しない。私自身の記憶が改竄されている証拠もある。調査が終わるまで、家族記録から削除することを認めない」


 神託が、低く鳴った。


 ――当主判断を確認。


 ――未登録者を、係争中家族として一時承認。


「係争中家族って何よ」


 ミレイユが不満そうに言う。


 ――今は十分です。


「お姉さまは、そんな呼び方でいいの?」


 ――よくありません。


「なら、怒っていいのよ」


 ――あとで怒ります。今は接続します。


「本当に、あとで怒るんだからね」


 なぜ妹が念を押すのか分からない。


 二人の魔力が神託盤へ流れた。


 壁の家紋が光り、空中へ鏡のような幕が現れる。


 ヴァレリー伯爵邸の家族礼拝堂。


 見慣れた長椅子。


 母が好んで飾った白い花。


 そして祭壇の前に、一人の女性が座っていた。


 母だ。


 エステルの記憶より、少し痩せている。


 その向かいには、神託院の記録官が二人立っていた。


 机の上には、訂正文書が置かれている。


「伯爵夫人」


 年長の記録官が穏やかに言った。


「記憶にない人物を家族記録へ残しておけば、今後も神託汚染が続きます。ご家族を守るためにも、ご署名を」


 母はペンを握っていた。


「これに署名すれば」


「エステル・ヴァレリーなる人物は、誤って登録された架空の長女として正式に削除されます」


「肖像画も?」


「処分いたします」


「屋敷の部屋も?」


「存在しない娘の私物は、汚染物です」


「使用人の記憶は?」


「適切に治療します」


 母の指が震えた。


「治療とは、忘れさせることですか」


「誤った記憶を除くことです」


「でも、もし」


 母は俯いた。


「もし本当に、私が娘を忘れただけなら?」


「記憶にないものは、存在しないのと同じです」


 エステルの足元で、黒銀の文字が激しく揺れた。


 母がペン先を紙へ近づける。


「お母さま!」


 ミレイユが鏡へ叫んだ。


 母が顔を上げる。


「ミレイユ?」


「署名しないで!」


「あなたは、どこにいるの?」


「国境砦よ。お父さまも生きてる。お姉さまも一緒にいる!」


 母の目が、ミレイユの隣に立つエステルへ向いた。


 顔が強張る。


「その方が……」


 エステルは母を見た。


 抱きしめられた記憶。


 髪を結ってもらった朝。


 王太子妃教育に疲れ、食事を残したとき、母から「皆があなたのために努力しているのだから」と叱られた夜。


 優しかったこともある。


 傷つけられたこともある。


 その両方を、母は忘れている。


「初めまして」


 エステルは言った。


 声が掠れた。


「エステル・ヴァレリーです」


「お姉さま」


 ミレイユが悲しそうにこちらを見る。


 だが、エステルは母へ続きを伝えた。


「あなたの……長女だったと、私は記憶しています」


「だった?」


「お母さまは、覚えていないのでしょう」


 母の目に涙が浮かんだ。


「ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも、あなたが本当に私の娘なら、忘れたことを謝らなければ」


「お母さまが望んで忘れたのではありません」


「それでも、あなたを見ても何も思い出せないの」


 母の声が崩れた。


「肖像画を見ると苦しい。部屋へ入ると、誰かが帰ってこないような気がする。でも、顔も声も思い出せない。そんな私が、母親だと言えるの?」


「今、決めなくてよいと思います」


「あなたは、私に母親でいてほしくないの?」


 エステルは言葉に詰まった。


 いてほしい。


 だが、以前と同じ母親へ戻ればよいとも思えない。


「分かりません」


 正直に答えた。


 母が目を見開く。


「ただ……私を忘れたまま、存在しなかったことにされるのは嫌です」


「そう」


「それから、私たちが親子だった頃に、お母さまを好きだったかと聞かれても、一つには答えられません」


「お姉さま!」


 ミレイユが小声で止める。


 だが、母は手を上げた。


「続けて」


「優しくしていただいた記憶があります。でも、王太子妃になる者として我慢しなさいと言われ、苦しかった記憶もあります。ミレイユばかり守られているように感じ、羨ましかったことも」


 母の涙が頬を伝う。


「私は、ひどい母親だったのね」


「それも、一つには決められません」


「今の話を聞いたら、ひどいでしょう」


「ひどいこともしました。でも、私が熱を出した夜、朝まで手を握ってくださったこともあります」


「覚えていないわ」


「はい」


「あなたは、私に何と言ってほしいの?」


 エステルは考えた。


 娘だと認めて。


 愛していたと言って。


 今度は私を選んで。


 どれも欲しかった。


 だが、今の母に言わせれば、母自身の言葉ではなくなる。


「分からないままにしてください」


 母が息を止める。


「私は……娘かもしれない。お母さまは、私を忘れたのかもしれない。違う可能性も、今は完全には否定できません」


「違う可能性なんてないわ!」


 ミレイユが叫ぶ。


 エステルは妹を見る。


「でも、お母さまには確認する方法がない」


「私が覚えてる!」


「あなたの証言は重要よ。でも、それをお母さまの記憶として押しつけてはいけない」


 母は、しばらく二人を見つめていた。


「一つだけ、聞いてもいい?」


「何でしょう」


「あなたは、子どもの頃の私しか知らないことを覚えている?」


 証明を求めている。


 エステルは記憶を探した。


 母の好きな花。


 苦手な香水。


 隠れて食べた菓子。


 使用人でも知りうることでは弱い。


「ミレイユが生まれる前の夜」


 エステルは言った。


「お母さまは、私の寝台へ来ました」


 母の表情が止まる。


「お母さまは、次の子どもを私と同じように愛せるか怖いと泣きました」


「私が、子どものあなたへそんなことを?」


「はい。私は、心は文章に似ていると思うと答えました」


「文章?」


「行を足せば、前に書いた言葉を消さなくても、続きを書けると」


 母の手から、ペンが落ちた。


「その言葉……」


 唇が震える。


「夢で、何度も聞いたわ」


 母は自分の胸を押さえた。


「顔の見えない子どもが、私の手を握って言うの。お母さまの心は紙より広いから、いくらでも書けますって」


「最後の部分は、少し違います」


 エステルは反射的に訂正した。


「私は『紙が足りなければ、裏面も使えます』と言いました」


 母が泣きながら笑った。


「そんなところで直すの?」


「重要なので」


「そう……あなたは、そういう子なのね」


「今もです」


 母は机の上の訂正文書を見た。


 年長の記録官が、口調を少し強める。


「伯爵夫人。邪神は、失われた記憶へ偽の感情を植えつけます。その女の言葉を信じてはなりません」


「信じてはいません」


 母は答えた。


 エステルの胸が痛んだ。


 だが、母は続ける。


「信じていないからこそ、娘ではないとも署名できません」


「夫人」


「私は、この方を覚えていない。けれど、自分が忘れた可能性を認めます」


 母は訂正文書を裏返した。


 白い面へ、自分の言葉を書き始める。


 ――私は、エステル・ヴァレリーを娘として記憶していない。


 ミレイユが息を呑む。


 ――しかし、彼女を忘れた可能性を否定できない。


 ――よって、出生記録および家族記録の削除に同意しない。


 母は最後に署名し、血印を押した。


 家族礼拝堂の神託が光る。


 砦側の神託盤にも、新しい文章が浮かび上がった。


 ――父親による関係保留。


 ――母親による削除拒否。


 ――妹による姉妹関係の証言。


 ――家族記録の訂正を保留。


「止まった……?」


 ミレイユが呟く。


 エステルの帳面から消えかけていた名字が、再び濃くなる。


 完全に戻ったわけではない。


 だが、存在の消失は止まった。


「お母さま」


 エステルは鏡の向こうへ呼びかけた。


「ありがとうございます」


 母は涙を拭う。


「お礼を言われるほどのことではないわ。自分が分からないと署名しただけだもの」


「それが、必要でした」


「いつか、思い出せるかしら」


「分かりません」


「そこは、少し優しい嘘をついてくれてもいいのに」


「以前、優しい嘘で人を傷つけました」


「そう」


 母は寂しそうに笑った。


「では、思い出せなくても、また話してくれる?」


「はい」


「嫌だったことも?」


「長くなります」


「覚悟しておくわ」


 年長の記録官が、静かに後退した。


 その袖口から、赤い光が漏れている。


 アルブレヒトが気づく。


「エステル。通信を切れ!」


 だが、遅かった。


 記録官の袖から三枚葉の紋章が飛び出し、家族礼拝堂の神託盤へ突き刺さる。


 黒い文章が、鏡面いっぱいに広がった。


 ――家族記録の訂正、第一段階失敗。


 ――父母の記憶は不安定。


 ――最終証言者を訂正する。


「最終証言者?」


 ミレイユが呟く。


 鏡の黒い文字が、一つの名前を作った。


 ――対象、ミレイユ・ヴァレリー。


 金色の神託陣が、妹の足元から消えた。


「お姉さま」


 ミレイユが不思議そうにエステルを見る。


「どうして、私の手を握っているの?」


 絡めていた指を、ゆっくりと引き抜く。


「それから……」


 ミレイユは、怯えた顔で一歩下がった。


「あなたは、誰?」


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