第二十三話 妹は私を忘れても、また私の手を選びました
「あなたは、誰?」
ミレイユは、エステルから二歩離れた。
つい先ほどまで絡めていた指を、自分の胸元へ引き寄せる。怯えているというより、知らない相手に不用意に触れてしまったことを恥じるような動きだった。
その顔を、エステルは知っている。
幼い頃、ミレイユが見知らぬ客へ人懐こく話しかけ、あとから相手が苦手な貴族だと分かって、姉の背中へ隠れたときも同じ顔をしていた。
覚えているのは、エステルだけだった。
「お姉さまよ!」
ミレイユより先に、鏡の向こうの母が叫んだ。
「その方は、あなたのお姉さまなの。私には思い出せないけれど、今、話を聞いて――」
「お母さまにも分からないのでしょう?」
ミレイユの問いに、母の声が止まった。
「娘かもしれないと思っただけで、覚えてはいない。お父さまも覚えていない。それなのに、どうして私だけが信じなければならないの?」
「ミレイユ」
担架の父が、弱い声で名を呼ぶ。
「皆が、彼女をエステルと呼んでいる。私たちの記憶が改竄された証拠もある」
「皆って誰?」
ミレイユは室内を見回した。
父。
アルブレヒト。
エッダ。
帝国騎士。
そして、目の前にいる見知らぬ女。
「ここは帝国の砦なのでしょう。私はなぜここにいるの? どうしてお父さまは怪我をしているの? ジュリアン殿下はどこ?」
問いが次々にあふれる。
何も分からない恐怖を埋めるため、答えを急いでいるのだ。
エステルは近づかなかった。
抱きしめたい。
大丈夫だと伝えたい。
だが、今のミレイユにとっては、知らない女に抱きつかれるだけだ。
「説明するわ」
エステルの掠れた声に、ミレイユの肩が跳ねた。
「でも、先に一つだけ」
「何?」
「私は、エステル・ヴァレリーです。あなたの姉だったと記憶しています」
「だった?」
「あなたは今、覚えていないから」
「本当に姉なら、私は覚えていなくても姉でしょう」
その言い方が、いかにもミレイユらしかった。
感情で反論しながら、言葉の不自然さは見逃さない。
エステルは少しだけ笑った。
「何がおかしいの?」
「あなたらしいと思って」
「私を知っているように言わないで」
「知っているわ」
「私は知らない!」
ミレイユの声が祈祷室へ響いた。
鏡の向こうで、母が口元を押さえる。
父は目を閉じた。
「ごめんなさい」
エステルは答えた。
「謝れば、信じると思っているの?」
「いいえ。怖がらせたことを謝っただけよ」
「そういう言い方……」
ミレイユは眉を寄せた。
「何?」
「腹が立つ」
「それも、あなたらしいわ」
「だから、知っているみたいに言わないで!」
「ごめんなさい」
「また謝った!」
「では、何と言えばいいの?」
「私に聞かないでよ!」
エステルは黙った。
ミレイユも、言い返されなかったことに困ったようだった。
以前の二人なら、エステルが正しい説明を続け、ミレイユが泣き出すまで互いに止まれなかっただろう。
今は、答えが分からないなら分からないまま、いったん口を閉じる。
「エステル」
アルブレヒトが呼ぶ。
「喉を使うな。書け」
「今は、顔を見て話したほうが」
「声が完全に戻らなくなれば、あとで後悔する」
「でも」
「お前の妹は、文字が読めるだろう」
ミレイユが皇弟を見る。
「あなたは誰ですか」
「レーヴェン帝国皇弟、アルブレヒトだ」
「帝国の……では、私を拉致した人?」
「違う」
「証拠は?」
アルブレヒトは一瞬、言葉に詰まった。
エステルは思わず彼を見た。
問いの順番まで、記憶を失う前のミレイユと同じだ。
「お前自身が、拉致されていないと公衆の前で証言した」
アルブレヒトが答える。
「覚えていません」
「記録がある」
「偽造かもしれない」
「その可能性はある」
ミレイユが目を見開いた。
「否定しないの?」
「今のお前には、記録が本物か判断する材料がない」
「では、何を信じればいいの」
「今すぐ信じる必要はない」
「私を捕らえている人が、それを言うの?」
「お前を捕らえてはいない。部屋から出ることもできる。ただし、神託院がお前の記憶へ干渉している可能性が高いため、護衛はつける」
「それを監視と言うのでは?」
「危険を説明したうえで選ばせろ、とお前が父親へ言った」
「覚えていないことを、私の言葉みたいに使わないでください」
アルブレヒトは黙った。
エステルは帳面を開く。
――それは、ミレイユの言うとおりです。
「お前は、どちらの味方だ」
――今の発言については、ミレイユです。
「私は、状況を説明しただけだ」
――過去の本人の言葉を使い、現在の本人へ選択を迫るのは適切ではありません。
「お姉さまって」
ミレイユが、エステルの帳面を覗き込んだ。
「皇弟殿下にも、そうやって細かく言い返す人だったの?」
エステルは書く。
――はい。
「殿下は、怒らないのですか」
「怒る」
「怒るんだ」
「だが、間違っているときもある」
「自分で認めるのですね」
「認めさせられる」
エステルはすぐに追記した。
――私が常に正しいわけではありません。
「書かなくても分かる」
「どうして?」
「今のやり取りを見れば」
ミレイユは少しだけ警戒を緩めた。
ただし、エステルとの距離は縮めない。
◇
家族礼拝堂との通信は、第一編纂官の文字が割り込んだあとも完全には切れていなかった。
鏡の向こうでは、母が神託院の記録官たちから距離を取り、使用人を呼んでいた。
年長の記録官は、まだ穏やかな顔を崩さない。
「伯爵夫人。聖女様は一時的な混乱状態にあります。通信を止め、神殿の治療を受けさせるべきです」
「私の娘へ何をしたのです」
「誤った記憶を取り除いただけです」
「それを、本人の同意なく?」
「聖女様の健康を守るために必要でした」
「ミレイユは、忘れたいと言ったのですか」
「汚染された状態では、正しく希望を表明できません」
母の顔が強張る。
少し前までの母なら、神殿の説明を信じただろう。
専門家がそう言うなら。
国のためなら。
娘を守るためなら。
「それでは、あなた方が望む答え以外、すべて病気になるのですね」
母は静かに言った。
「夫人」
「屋敷からお引き取りください」
「神殿命令です」
「ここはヴァレリー家の礼拝堂です。夫が不在の現在、屋敷の管理権は私にあります」
「伯爵は反逆者として死亡しました」
「生きています」
「邪神の映像です」
「私が何を見ても、何を聞いても、あなたの文書と違えば邪神なのですね」
母の声は震えていた。
それでも、使用人たちへ命じる。
「この方々を門までお送りして。娘の部屋には、誰も入れないで」
記録官の表情から、初めて笑みが消えた。
「後悔なさいますよ」
「もう、知らないまま娘を傷つけたことを後悔しています。それ以上増えても、今さらです」
通信の鏡に赤い亀裂が走る。
記録官たちが礼拝堂を出される直前、年長の男は鏡越しのエステルを見た。
「家族は、思ったより不完全ですね」
穏やかな声だった。
「だから、訂正しきれない」
エステルは帳面へ書き、鏡へ掲げた。
――不完全だから、勝手に完成させないでください。
男は薄く笑う。
「第一編纂官は、あなたを高く評価するでしょう」
――評価は不要です。
「あなた自身が、あの方の理想へ最も近いのに」
エステルの指が止まった。
「どういう意味ですか」
今度は、声に出した。
「文字を愛し、誤りを見逃さず、曖昧な表現を嫌う。人々が感情で事実を曲げるたび、あなたは苛立ってきたはずだ」
赤い亀裂が鏡を侵食していく。
「あなたが余白を許すようになったのは、つい最近のこと。少し順番が違えば、第一編纂官の隣に立っていたのは、ディートハルトではなくあなただったでしょう」
通信が切れた。
最後の言葉だけが、エステルの胸へ残った。
否定したかった。
私は違う。
人間を消そうとは思わない。
だが、以前の自分が、曖昧な返事をする相手に苛立っていたことは事実だ。
妹が泣けば、泣く前に内容を説明してほしいと思った。
家族が「国のため」と言えば、主語を明確にしろと迫った。
正しい言葉を選べない者の苦しさを、相手の努力不足だと考えたこともある。
「お姉さま?」
ミレイユが呼んだ。
記憶はない。
それでも、エステルの表情が変わったことには気づいた。
「何を言われたのですか」
エステルは帳面を開いた。
――私が第一編纂官に似ていると。
「似ているの?」
――似ていた部分はあります。
「そこは否定しないのですね」
――否定できないから。
ミレイユは、エステルをじっと見つめた。
「その人は、人の記憶を消したのでしょう」
――はい。
「あなたも消したいと思ったことがあるの?」
エステルは迷った。
過去に戻り、婚約発表の日を消したいと思ったことはある。
ミレイユへ向けた醜い嫉妬を、なかったことにしたいと願ったことも。
家族の前で「私も家族ではなかったのですか」と聞いた自分を、情けないと思った夜もあった。
――出来事や感情を、なかったことにしたいと思ったことはあります。
「私のことも?」
ミレイユの問いは鋭かった。
エステルは嘘をつかなかった。
――あなたがいなければ、と思ったことがあります。
室内の空気が固まった。
父が何か言おうとする。
エステルはその前に、続きを書いた。
――婚約発表の日。あなたが私の代わりに聖女と王太子の婚約者になったと知ったときです。
「私が、あなたから奪ったの?」
――婚約者については、あなた一人が奪ったとは思っていません。家族と王家が決め、あなたも黙って受け入れた。
「では、私も悪かった?」
――悪かった部分があります。
「そんなことを、記憶のない私へ言うの?」
ミレイユの声が震える。
――今のあなたへ責任を取れと言っているわけではありません。
「同じでしょう!」
――違います。
「何が違うの!」
――過去のあなたがしたことを、今のあなたへ隠さない。でも、覚えていないあなたへ謝れとも、償えとも言わない。
ミレイユは黙った。
目に涙が浮かんでいる。
「嫌な人」
――知っています。
「普通は、今みたいなときには、もっと優しいことを言うでしょう。あなたは何も悪くないとか、私はずっとあなたを愛していたとか」
エステルは鉛筆を持つ手へ力を入れた。
――愛していたわ。
「今さら書いても遅い」
――でも、腹も立っていた。
「一緒に書かないで!」
――両方だから。
「本当に面倒!」
――それも、以前のあなたに言われました。
ミレイユは泣きながら、呆れたように笑った。
その瞬間、エステルの胸が痛くなった。
記憶がなくても、笑い方は同じだった。
「私があなたの妹だったとして」
ミレイユは涙を拭う。
「私たちは、仲がよかったの?」
エステルはすぐには答えなかった。
良かった。
悪かった。
どちらも正しく、どちらも足りない。
――一緒に菓子を作りました。
「それは仲がいいのでは?」
――私が材料を量り、あなたが途中で勝手に蜂蜜を足しました。
「甘いほうがおいしいからでしょう」
――結果、固まらなくなりました。
「でも食べたのでしょう?」
――あなたは食べました。私は食べませんでした。
「ひどい」
――あなたが作ったものなので。
「一緒に作ったのでしょう!」
ミレイユは本気で腹を立てた。
エステルは、それが嬉しかった。
嬉しいと思った自分に、少し罪悪感もあった。
妹が記憶を失っているのに、昔と同じやり取りができたことを喜んでいる。
「ほかには?」
ミレイユが尋ねる。
――夜会の前、あなたの髪を結いました。
「侍女がいるのに?」
――あなたが、私に頼んだから。
「どうして?」
――私のほうが痛くしないと言ったから。
「本当に痛くしなかった?」
――一度、髪を引っ張りすぎて泣かせました。
「やっぱり下手だったのね」
――最初だけです。
「あなた、私に良い思い出を教える気があるの?」
――正確な思い出を話しています。
「だから嫌なのよ!」
また、同じ言葉。
ミレイユは自分で言ったあと、何かに気づいたように黙った。
「どうしたの」
父が尋ねる。
「分からない」
ミレイユは胸を押さえた。
「この人と話していると、腹が立つ。でも……」
エステルを見る。
「知らない人と話している気がしない」
金色の光が、ミレイユの指先にほんの少し戻った。
「ミレイユ」
父が声を上げる。
「記憶が戻ったのか」
「戻っていません」
ミレイユははっきり答えた。
「この人の顔も、声も、思い出せない。姉だと言われても実感はない」
エステルの胸が沈む。
だが、ミレイユは続けた。
「でも、この人と話すと、言い返したくなる。嫌なところを直してほしくなる。なのに、嫌われたら少し悲しい」
「それは……姉妹の感情かもしれない」
父が言った。
「決めないで」
ミレイユが父を睨む。
「今、私が考えています」
「すまない」
父はすぐに引いた。
ミレイユはエステルの前へ、一歩近づいた。
まだ手が届かない距離。
「証拠を見せて」
エステルは帳面を掲げた。
――何の?
「私が、あなたを姉だと思っていた証拠」
エステルは、北部離宮で皆に書いてもらった証言を思い出した。
ミレイユの証言書は、本人が持っている。
「私の荷物はどこ?」
アルブレヒトが騎士へ命じ、ミレイユの鞄を運ばせた。
中には聖女衣装の替え。
亀裂の入った聖女石。
使いかけの香油。
そして、封をした一通の手紙があった。
表には、ミレイユ自身の字で書かれている。
――エステルお姉さまへ。私がいないところで読んで。
「私の字です」
ミレイユは封筒を受け取った。
「でも、これも偽造かもしれない」
――そうね。
「否定しないの?」
――筆跡は偽造できます。
「本当に、都合の悪いことまで認めるのね」
ミレイユは封を切った。
便箋は三枚あった。
一枚目を開き、読み始める。
「『お姉さまについて、覚えていることを書けと言われたので書きます』」
眉が寄る。
「『最初に言っておきますが、私はまだお姉さまに腹を立てています』……何、これ」
エステルは答えない。
ミレイユは続きを読む。
「『お姉さまは、自分が正しいと思ったとき、相手にも考える時間が必要だと忘れます。私が泣くと、泣く前に説明してと言いました。そんなことができるなら、最初から泣いていません』」
ミレイユは顔を上げた。
「本当に言ったの?」
エステルはうなずいた。
「最低」
――反省しています。
「『でも、お姉さまは、私が眠れない夜に本を読んでくれました。怖い話は嫌だと言ったのに、途中で竜が人を食べる話を選びました』」
――最後には竜と和解します。
「途中が怖ければ同じでしょう!」
父が寝台で、わずかに笑った。
「私も、その話を知っている気がする」
ミレイユは二枚目をめくる。
「『お姉さまが王太子殿下との婚約を失ったとき、私は自分が選ばれたことを嬉しいと思いました。同時に、お姉さまへ悪いとも思いました。でも謝れば、私が悪いと認めることになる気がして、言えませんでした』」
読む声が小さくなる。
「『だから、お姉さまが傷ついた顔をすると、その顔を責めました。今考えると、本当に嫌なことをしたと思います』」
ミレイユの指が震えた。
「私は……こんなことを?」
――書いたあなたは、そう記憶していました。
「あなたは、私を許したの?」
――まだ全部は。
「これを書いた私にも、そう言った?」
――はい。
「本当に優しくない」
――嘘で許したくなかったから。
ミレイユは三枚目を開いた。
「『私はお姉さまを好きです。でも、好きな姉に戻ってほしいのではありません。私が嫌だったことを聞いて、私が悪かったことも言って、それから二人とも以前と同じではない姉妹になれたらいいと思います』」
最後の一文。
「『ただし、お姉さまがこの手紙の誤字を赤で直したら、三日間口をききません』」
ミレイユは便箋を裏返した。
「赤字は?」
エステルは鞄から赤い筆を出しかけ、アルブレヒトに手首をつかまれた。
「なぜ今、持った」
――二枚目に誤字があります。
「直すな」
――内容に影響します。
「妹の希望を尊重しろ」
「本当に、直そうとしたの?」
ミレイユが信じられない顔をする。
エステルは少し迷い、うなずいた。
ミレイユは、泣きながら笑った。
「馬鹿みたい」
――誰が?
「二人とも」
便箋を胸へ抱える。
「まだ、あなたを姉だとは言えない」
エステルはうなずいた。
「この手紙も、皆の証言も、偽物かもしれないと思う」
――それで構いません。
「構うでしょう。少しくらい、信じてって言えば?」
エステルは鉛筆を握った。
以前なら、信じてほしいとは書けなかった。
判断は相手に任せるべきだと言い、自分の望みを隠しただろう。
だが、今は。
――信じてほしいです。
ミレイユの目が揺れる。
――あなたの姉だったと。あなたを愛していたと。腹を立てながらも、今も大切だと思っていると。
「そう」
ミレイユは小さく息を吐いた。
「でも、まだ信じない」
胸が痛んだ。
「今はね」
ミレイユは一歩、距離を縮める。
「ただ、調べる。あなたが私の姉かどうか。私があなたへ何をしたのか。あなたが私へ何をしたのか」
――はい。
「そして、調べている間は……」
ミレイユの手が、ためらいながら差し出された。
「あなたを、お姉さまかもしれない人として扱う」
エステルは、その手を見た。
以前の関係が戻ったわけではない。
記憶もない。
姉妹だと認められたわけでもない。
それでも、ミレイユが自分で選んだ。
エステルは、妹の手を握る。
「強く握らないで」
ミレイユがすぐに言った。
「まだ少し怖いから」
エステルは力を緩めた。
「弱すぎる」
少し強める。
「今度は強い」
また弱める。
「中間はないの?」
――注文が細かいです。
「あなたにだけは言われたくない!」
二人の指が、ようやく互いに痛くない強さで重なった。
その瞬間。
ミレイユの足元へ、消えていた金色の神託陣が戻った。
完全な円ではない。
途中がいくつも欠けた、不格好な光だった。
だが、黒銀の神託陣と触れ合う場所だけは、はっきりと輝いている。
「記憶ではなく、選択へ反応した?」
父が呟く。
エステルの中で、白髪の少女が笑った。
『神託は、昔より今のほうが好きみたい』
エステルも、少しだけそう思った。
過去を取り戻せなくても、続きを選ぶことはできる。
完璧な姉妹へ戻らなくていい。
腹を立て、疑い、握る強さで言い争いながら、そのたびに関係を作り直せばいい。
祈祷室の神託盤に文字が浮かんだ。
――最終家族証言者の訂正に失敗。
――姉妹関係、確定不能。
――削除保留。
「勝ったの?」
ミレイユが尋ねる。
エステルは首を横へ振った。
――消されなかっただけです。
「でも、今はそれでいいのでしょう?」
――はい。
黒い文字が一度、すべて消えた。
室内へ安堵の息が広がる。
だが次の瞬間、アルブレヒトの懐から赤い光が漏れた。
彼が取り出したのは、エステルとの雇用契約書だった。
ラウゼンへ向かう前に交わした、銀貨四枚の契約。
紙面に三枚葉の紋章が浮かぶ。
新しい文章が、勝手に書き加えられた。
――家族記録による訂正を中断。
――次段階へ移行。
――社会的関係を削除する。
雇用主の欄から、アルブレヒトの名が消える。
続いて、被雇用者の欄にあるエステルの名も薄れ始めた。
「おい」
アルブレヒトが契約書を押さえる。
だが、文字の消失は止まらない。
――最優先対象。
――皇弟アルブレヒト・レーヴェンハイム。
首筋の古い傷が、これまでにないほど赤く燃え上がった。
アルブレヒトが膝をつく。
「殿下!」
エステルが手を伸ばす。
彼は苦しげに顔を上げた。
その金色の瞳に、初めてエステルを見た雪原の日と同じ警戒が浮かぶ。
「……誰だ」
低い声だった。
「なぜ、私に触れている」




