第二十四話 私を忘れた皇弟は、それでも私の嘘だけを見抜きました
「……誰だ」
アルブレヒトの声は低かった。
「なぜ、私に触れている」
エステルの手は、彼の肩へ置かれたままだった。
その距離は、つい先ほどまでなら不自然ではなかった。
倒れかけた彼を支える。
傷の状態を確かめる。
無理をしていないか尋ねる。
互いに何度も繰り返してきたことだ。
だが、今のアルブレヒトにとって、エステルは突然、自分の身体へ触れている見知らぬ女だった。
彼の右手が剣の柄へ動く。
「殿下!」
帝国騎士たちが息を呑む。
エステルは、すぐに手を離した。
「申し訳……ありません」
掠れた声で言う。
アルブレヒトは立ち上がり、エステルとミレイユの間へ距離を取った。
剣は抜いていない。
だが、いつでも抜ける姿勢だ。
「皇弟殿下」
父が担架から声をかける。
「落ち着いてください。その女性は、エステル・ヴァレリーです」
「知らない名だ」
「殿下が帝国領で保護し、雇用した女性です」
「私が?」
アルブレヒトは眉を寄せる。
その視線が、床に落ちた雇用契約書へ向いた。
契約者の名前は、すでに両方とも消えている。
銀貨四枚の報酬。
神託調査員としての業務。
契約違反時の対応。
内容だけは残っているが、誰と誰が交わしたものか分からない。
「契約書に名がない」
「消されたのです」
ミレイユが言った。
「第一編纂官という者が、お姉さまと関係した人たちの記憶や記録を消しています。お父さまも、お母さまも、私も忘れました。今度は、あなたが」
「お姉さま?」
アルブレヒトがミレイユを見る。
「その女は、お前の姉なのか」
「……そうだったらしいです」
「らしい?」
「私も、少し前まで忘れていました。今も記憶は戻っていません。でも、私が書いた手紙や、皆の証言がある。それに、この人と話していると腹が立つので、たぶん姉です」
説明としては、かなり弱い。
エステルがそう思ったのと同時に、アルブレヒトも険しい顔をした。
「腹が立つことが、姉妹の証明になるのか」
「私たちの場合は、かなり」
「かなり、では判断できない」
「あなたも、そういう言い方をする人だったのですね」
「どういう意味だ」
「お姉さまと似ています」
アルブレヒトは、露骨に嫌そうな顔をした。
エステルの胸が、小さく痛んだ。
以前の彼も、似ていると言われれば嫌がっただろう。
だが、今の反応は、その頃の記憶から出たものではない。
ただ見知らぬ女と一緒にされたくないだけかもしれない。
「殿下」
エステルは帳面へ書いた。
――私はエステル・ヴァレリーです。
アルブレヒトは文字を読む。
表情は変わらない。
――殿下に国境の雪原で保護されました。
――ラウゼンの暖房神託を調査する契約を結びました。
――報酬は銀貨四枚です。
「なぜ最後に金額を書く」
反射的な問いだった。
エステルの指が止まる。
この言い方を、彼は以前にもした。
「どうしました」
アルブレヒトが警戒を強める。
エステルは次の一文を書く。
――同じことを、以前の殿下にも言われました。
「以前の私?」
――記憶を失う前です。
「証拠は」
――複数の帝国騎士と、エッダさんが会話を聞いています。
エッダが腕を組む。
「ああ。聞いたよ。あんたはその娘が報酬の未払いを気にするたび、ほかに気にすることがあるだろうと言っていた」
「私は、金を払わなかったのか」
「一部はね」
アルブレヒトの顔が険しくなる。
「帝国皇弟が、雇用した者への報酬を滞納した?」
「状況が状況だったんだよ。町が凍ったり、離宮が襲われたり、戦争になりかけたりね」
「それでも契約は契約だ」
エステルは思わず、アルブレヒトを見る。
この人は忘れても変わらない。
契約を重んじる。
曖昧な説明を嫌う。
不合理なことへ怒る。
しかし、それを懐かしいと思う自分を、彼は知らない。
「金庫係へ支払いを命じる」
アルブレヒトが言う。
エステルは帳面へ書く。
――今は、それより殿下の記憶を。
「契約の未履行を先に処理する」
――以前の殿下も、使えるものは使うとおっしゃいました。
「それが何だ」
――本当に変わりませんね。
「私を知っているような言い方をするな」
鋭い声だった。
エステルの胸へ刺さる。
「ごめんなさい」
今度は声に出した。
「あなたは、先ほどから謝ってばかりだな」
アルブレヒトが言う。
「以前の殿下にも……正しいことを謝るなと、言われました」
「また、以前の私か」
「はい」
「私の言葉を利用して、今の私へ親しさを押しつけるつもりか」
エステルは息を止めた。
違う。
そう言いたかった。
だが、本当に違うのか。
昔の会話を持ち出せば、彼が自分を思い出すかもしれない。
同じ反応をすれば、関係が戻るかもしれない。
そんな期待がなかったとは言えない。
エステルは帳面へ書いた。
――押しつけようとした部分があります。
アルブレヒトの目が細くなる。
――申し訳ありません。
「また謝った」
――今度は、謝るべきことです。
「自分で決めるのか」
――はい。
「面倒だな」
エステルは、目を見開いた。
ミレイユも、同時にアルブレヒトを見る。
「何だ」
「今の言葉」
ミレイユが言う。
「以前のあなたも、お姉さまへよく言っていました」
「面倒な人間へ、面倒だと言っただけだ」
「それでも、同じです」
「記憶とは関係ない」
アルブレヒトはそう言い切った。
その首筋の傷が、赤く燃えた。
「っ……」
彼は手を首へ当てる。
「殿下!」
騎士が駆け寄ろうとする。
「来るな」
アルブレヒトは片手で制した。
傷は、嘘へ反応する。
だが、アルブレヒトは意図的に嘘をついたのか。
自分では本当に、記憶と関係ないと思っているはずだ。
それなら、なぜ傷が反応した。
「今の発言に、何か心当たりが?」
父が尋ねる。
「ない」
傷がさらに赤くなる。
アルブレヒトが歯を食いしばった。
「嘘です」
エステルが言う。
「私が嘘をついていると?」
「殿下ご自身が、何かを隠しています」
「私は覚えていない!」
傷は反応しない。
それは本当だ。
「記憶ではなく……身体かもしれません」
「身体?」
エステルは、彼の首筋を見る。
呪いは、人間の意識より深い場所へ結びついている。
公的記録。
記憶。
契約書。
第一編纂官は、それらを消せる。
だが、雪原でエステルの嘘へ反応した痛み。
ラウゼンで、彼女の言葉を疑い、怒り、信じたときの反応。
身体が覚えたものまで、完全には削れなかったのではないか。
「殿下」
エステルは帳面を閉じた。
「何をする気だ」
「質問します」
「私の過去を聞き出すつもりか」
「いいえ。今の殿下へ」
エステルは一歩も近づかず、尋ねた。
「私は、殿下にとって危険な人間に見えますか」
「分からない」
傷は反応しない。
「警戒はしていますか」
「当然だ」
反応しない。
「私を、敵だと思いますか」
アルブレヒトは答えようとして、止まった。
「……判断していない」
傷が淡く赤くなる。
「殿下」
「完全な敵とは判断していない」
赤みが少し引いた。
「では、味方ですか」
「それも分からない」
反応しない。
「私に触れられるのは、嫌ですか」
ミレイユが息を呑んだ。
父は咳払いしようとして、胸の傷に響いたらしく顔をしかめる。
エッダは、興味深そうに二人を見ていた。
「質問の目的は何だ」
「身体に残った反応を確認します」
「答える必要は」
「ありません」
エステルは一度、視線を下げた。
「答えてほしいですが、強制はしません」
アルブレヒトは長く黙った。
「嫌だ」
首筋の傷が、強く赤くなった。
「殿下」
「嫌ではないと、身体が言っているようですね」
ミレイユが言った。
「黙れ」
「今のは、どういう感情ですか」
エステルが尋ねる。
「これ以上、私の身体を勝手に解釈するな」
「ごもっともです」
「ならやめろ」
「はい」
エステルは、すぐに下がった。
アルブレヒトが拍子抜けしたような顔をする。
「本当にやめるのか」
「やめろと言われました」
「以前の私なら、止めても続けると思っていたのか」
「以前の殿下は、私の調査を止めようとしても、理由を説明すれば許可してくださいました」
「今回は、説明が足りない」
「では、説明すれば続けてもよいのですか」
「そうは言っていない」
「どちらです?」
「質問で追い込むな」
「それも、以前の殿下から言われました」
「またか!」
アルブレヒトは額へ手を当てた。
「私は、この女と毎日こんな話をしていたのか」
「毎日ではありません」
エステルが答える。
「一日に複数回の日もありました」
「増えているではないか」
ミレイユが、思わず笑った。
父も、傷をかばいながら肩を揺らした。
アルブレヒトは不機嫌そうに全員を見る。
だが、その視線がエステルへ戻ったとき。
一瞬だけ、警戒以外の感情が浮かんだ。
戸惑い。
そして、理由の分からない懐かしさ。
それはすぐに消えた。
◇
アルブレヒトの記憶から、エステルに関する部分だけが消えていることは、ほどなく確認された。
ラウゼンの暖房神託が修復されたことは覚えている。
だが、誰が修復したのかは思い出せない。
北部離宮で第十三神託が開いたことも覚えている。
しかし、封印鍵となった人物の顔だけが黒く塗りつぶされている。
国境で戦時神託を修正し、戦争を止めたことも。
隣で誰かを支えていた感覚だけが残り、その相手が分からない。
「最も困る記憶は?」
エッダが尋ねた。
「軍事に関するものは、概ね残っている」
アルブレヒトは答えた。
「兵の配置。王国軍との交渉。グランデル侯爵。負傷者の数」
「個人的なことは」
「質問の意図が曖昧だ」
「その娘と、どこまで親しかったかだよ」
「親しかったという前提で聞くな」
「では、どこまで関係があったか」
「雇用契約以上の証拠はない」
エステルは胸の奥が冷えるのを感じた。
雇用契約。
確かに、二人の関係を明確に言葉へしたのはそれだけだ。
友人。
協力者。
それ以上。
どれも決めていなかった。
決めなかったからこそ、第一編纂官にとって消しやすかったのかもしれない。
「お姉さま」
ミレイユが小声で呼ぶ。
「あなたは、皇弟殿下のことが好きだったの?」
「なぜ今、聞くの」
「関係を確認するため」
「それは、私の感情でしょう」
「だから聞いているの」
「今の殿下の前で?」
「いないところで聞けばよかった?」
「そういう問題では」
「何の話だ」
アルブレヒトが二人を見る。
聞こえていたらしい。
「何でもありません」
エステルが答えた。
首筋の傷が赤くなった。
アルブレヒトが顔をしかめる。
「何でもあるようだな」
ミレイユが、姉を見る。
「殿下の呪いは、あなたの嘘にも反応するの?」
「近くで、意図的な嘘を言えば」
「では、今のは嘘?」
「話題はありました。でも、殿下へ説明する必要はないという意味で」
「そういう言い逃れは通じないらしい」
アルブレヒトが冷たく言う。
「何を話していた」
「私が、殿下を好きだったかです」
エステルは言い切った。
部屋が静かになる。
喉が痛い。
それ以上に、胸が痛い。
アルブレヒトは、すぐには反応しなかった。
「それで」
「何でしょう」
「答えは」
エステルは目を伏せる。
「分かりません」
傷は反応しない。
「分からない?」
「心配しています。一緒にいると腹が立ちます。言葉が通じないと思うこともあります。でも、殿下が目の届かない場所で危険に遭うのは嫌です」
「それを好きと言うのではないの?」
ミレイユが口を挟む。
「あなたは黙っていて」
「以前の私も、こういうとき口を挟んだ?」
「もっと面倒な挟み方をしました」
「では、やはり姉妹ね」
ミレイユは少し満足そうだった。
アルブレヒトはエステルだけを見ている。
「私に、その感情を返せと言うのか」
「言いません」
「なぜ」
「今の殿下は、私を知らないからです」
「知らなくても、以前の私がどう思っていたか聞くことはできる」
「聞きたいのですか」
アルブレヒトは答えなかった。
首筋の傷が淡く赤くなる。
「聞きたいのでしょう」
ミレイユが言う。
「黙れと言った」
「私は記憶がなくても、お姉さまが何を思っていたか気になりました。殿下も同じでは?」
「同じにするな」
「では、違う理由を説明してください」
「お前たち姉妹は、揃って人を追い込むのか」
「私は、姉ほどではありません」
「それは嘘だと思います」
エステルが言うと、ミレイユが睨んだ。
アルブレヒトは、深く息を吐いた。
「聞きたい」
傷の赤みが消える。
「以前の私は、その感情へ何と答えた」
「聞いていません」
「何?」
「私は、殿下へ好きだと言っていません。殿下も、私へ言っていません」
「では、何も始まっていなかった?」
その言葉に、エステルは少し傷ついた。
「……明確には」
「明確ではないものを、なぜ皆が関係として扱う」
「明確でなくても、存在するものはあります」
「便利な答えだな」
「以前の殿下なら、そのような答えを嫌いました」
「今の私も嫌いだ」
「知っています」
エステルは、ほんの少し笑った。
アルブレヒトが眉を寄せる。
「何がおかしい」
「変わらないからです」
「記憶を失った人間を見て笑うな」
「ごめんなさい」
「正しいことを謝るな」
アルブレヒトが言った。
エステルの笑みが止まる。
父とミレイユも、息を呑んだ。
「何だ」
アルブレヒトが周囲を見る。
エステルは、喉が詰まるのを感じた。
「以前の殿下も……同じことを」
「偶然だ」
傷は赤くならない。
本当にそう思っている。
だが、その言葉は記憶ではなく、彼の性格から出た。
同じ人間なら、また同じ関係を作れるのだろうか。
それとも、同じではない続きを選ぶのか。
まだ分からない。
「殿下」
エステルは帳面を開いた。
――私を思い出してほしいです。
アルブレヒトが読む。
――でも、以前と同じ感情を持ってほしいとは、今は求めません。
「今は?」
――いつか求める可能性はあります。
「正直だな」
――最近、練習しています。
「誰に教わった」
エステルは彼を見る。
――殿下です。
アルブレヒトの指が、文字の上で止まった。
「私は、知らない女にずいぶん多くのことを教えたらしい」
――私も、殿下へいくつか指摘しました。
「教えた、ではないのか」
――殿下は、私から教わったと認めるのを嫌がりそうなので。
「よく分かっているではないか」
そう言ったあと、アルブレヒトは自分でも妙だと思ったらしい。
顔をしかめた。
「……契約を結び直す」
「何?」
エステルの声が掠れる。
「社会的関係が削除されるなら、新しく作る。雇用契約を再締結する」
――思い出していないのに?
「能力と実績は確認できる。国境で戦時神託を修正したことも、複数の証言がある」
――私が信用できるとは限りません。
「だから契約する。条件と責任を明確にするためだ」
「報酬は?」
ミレイユが尋ねる。
「銀貨四枚」
エステルはすぐに帳面へ書いた。
――前契約の未払い分とは別ですか。
「そこを最初に確認するのか」
――重要です。
「別に支払う」
――では、業務範囲を。
「第一編纂官による記録改竄の調査。私の記憶の回復方法の探索。帝国領内にある神託の点検」
――命令への無条件服従は含みません。
「最初から求めていない」
――危険性の高い業務は、事前説明を求めます。
「お前も危険な行動をする前に説明しろ」
――相互条項ですか。
「そうだ」
――では、殿下が怪我を隠した場合の罰則も。
「なぜそうなる」
――以前、何度か隠しました。
「覚えていない」
――だから、今後の予防です。
「勝手に追加するな」
「もう始まったの?」
ミレイユが呆れた声を出す。
アルブレヒトとエステルが、同時に妹を見る。
「何がです」
「以前と同じ関係」
二人は、ほとんど同時に否定した。
「違う」
「違います」
その瞬間。
アルブレヒトの首筋の傷が、赤く燃えた。
エステルの足元でも、黒銀の神託陣が光る。
ミレイユが目を丸くする。
「二人とも嘘なの?」
「私は意図的に嘘をついていない」
アルブレヒトの傷は消えない。
「私も……」
エステルの声が揺れる。
第一編纂官に消された関係は、記憶にも契約書にも残っていない。
それでも、完全に何もないとは言えなかった。
「以前と同じではありません」
エステルは言い直した。
「今、作り直している途中です」
黒銀の光が落ち着く。
アルブレヒトも、しばらく黙ったあとで言った。
「同意する」
首筋の赤みが消えた。
新しい契約書が用意される。
エステルが業務内容を書き、アルブレヒトが修正し、ミレイユが横から「文章が冷たい」と口を挟み、父が担架から「当事者以外は黙ったほうがよいのでは」と言って妹に睨まれた。
ようやく二人が署名する。
アルブレヒト・レーヴェンハイム。
エステル・ヴァレリー。
二つの名が並んだ瞬間、紙の上へ三枚葉の紋章が浮かび上がった。
名前を消そうと、赤い線が伸びる。
だが、その前に契約書の最下部へ、エステルが一文を書き加えた。
――本契約は、当事者双方が現在の意思により締結したものであり、過去の記憶の有無によって無効とはならない。
アルブレヒトが、さらに追記する。
――第三者による一方的な削除および訂正を認めない。
赤い線が、二人の署名へ触れる。
契約書が激しく震えた。
だが、今度は名前が消えなかった。
第一編纂官の文字が浮かぶ。
――既存関係の削除に成功。
――新規関係の発生を確認。
――対象間の関係を再分類。
赤い文字が、途中で止まる。
――分類不能。
「また分類不能ね」
ミレイユが言った。
「雇用主と被雇用者だ」
アルブレヒトが答える。
「それだけ?」
「契約上は」
「契約上は」と書く必要があるのか。
エステルは尋ねようとして、やめた。
今は、これでいい。
以前と同じではない。
忘れられたから、すべて終わったわけでもない。
知らない相手として出会い直し、また言い争い、条件を決め、名前を並べた。
関係は、記憶だけで作られるものではない。
「エステル」
アルブレヒトが呼んだ。
先ほどまでは確認するように発音していた名前を、今度は迷わず口にした。
「はい」
「契約内容の第一項だ。私の記憶を戻す方法を調べろ」
「承知しました」
「ただし」
彼は少し言葉を選んだ。
「以前の私に戻すことだけを、目的にするな」
「どういう意味ですか」
「記憶を戻した結果、今の私の判断や感情が消えるなら、それは回復ではなく上書きだ」
エステルは息を止めた。
記憶を失ったアルブレヒトも、今ここに存在している。
以前の関係を取り戻したいからといって、今の彼を消してよいわけではない。
「難しいです」
「分かっている」
「両方を残す方法があるか、分かりません」
「だから調べろ」
「もし、選ばなければならない場合は?」
「私に選ばせろ」
アルブレヒトは、はっきりと言った。
「お前の望む私を、勝手に完成させるな」
エステルは、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました」
首筋の傷は反応しない。
その夜。
第一編纂官から、新たな文書が国境砦へ届けられた。
三枚葉の封蝋。
宛名はエステル。
本文は、たった一行だった。
――すべての者に忘れられる前に、王都へ帰還せよ。
その下に、小さな文字で条件が続いている。
――一人で来れば、皇弟の記憶だけは返そう。
エステルが文書を読み終えるより先に、アルブレヒトが横から取り上げた。
「罠だな」
「はい」
「行くな」
「まだ、行くとは」
「今、考えただろう」
エステルは否定しようとした。
その瞬間、彼の首筋の傷が淡く赤くなった。
アルブレヒトは、記憶を失っても。
エステルの嘘だけは、変わらず見抜いた。




