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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第二十五話 一人で来いと言われたので、一人では行きません

 ――すべての者に忘れられる前に、王都へ帰還せよ。


 ――一人で来れば、皇弟の記憶だけは返そう。


 赤い文字は、それ以上続いていなかった。


 期限もない。


 王都で誰を訪ねればよいのかも、どこへ来いという指定もない。


 何をすればアルブレヒトの記憶が返されるのかさえ書かれていない。


 契約書なら、成立以前に突き返す内容だった。


「考えただろう」


 アルブレヒトが言った。


 エステルは、彼の手にある文書を見つめた。


「何をですか」


「一人で行くことをだ」


「行くとは、まだ」


 アルブレヒトの首筋にある傷が、淡く赤くなる。


 記憶を失っても、反応は変わらない。


 彼は眉を寄せた。


「言葉を途中で止めれば、嘘ではないと思っているのか」


「そうは思っていません」


「では、最後まで言え」


 部屋には父とミレイユ、エッダ、帝国騎士が二人残っていた。


 全員がエステルを見ている。


 自分の考えを正直に話せば、止められる。


 だから、まだ決めていないとだけ言うつもりだった。


 だが、それは結局、自分に都合の悪い部分を隠しただけだ。


「一人で行けば、殿下の記憶を返すと書かれています」


「読める」


「戻せる可能性があるなら……確かめたいと思いました」


「私の記憶を取り戻すために、一人で敵の本拠地へ行く?」


「行くと決めたわけではありません」


「考えたことは認めるのだな」


「はい」


 首筋の赤みが消えた。


 アルブレヒトは文書を机へ置く。


「許可しない」


「殿下は、私の雇用主ですが、私の行動すべてを決める権限は」


「契約書を出せ」


「何をなさるのですか」


「危険行動の相互事前説明条項がある」


「説明はしました」


「今のは、呪いに見抜かれた結果だ。事前説明とは言わない」


 反論しづらかった。


「それに」


 アルブレヒトはエステルをまっすぐに見た。


「私の記憶を戻すことが、なぜお前の命より優先される」


「優先しているとは」


 傷が赤くなる。


「エステル」


「……優先しかけました」


「なぜだ」


 答えにくい質問だった。


 アルブレヒトは、自分とエステルの関係を覚えていない。


 彼にとっては、再契約したばかりの神託調査員だ。


 そんな相手から、あなたの記憶を取り戻すためなら危険を冒してもよいと思った、と言われても困るだろう。


「以前の殿下が、私を助けてくださったからです」


「借りを返したい?」


「それもあります」


「ほかは」


 ミレイユが、姉の顔を横から覗き込む。


「好きだからでしょう」


「あなたは黙っていて」


「でも、先ほど好きかもしれないと」


「分からないと言いました」


「好きではない人の記憶を戻すために、一人で王都へ行こうとするの?」


「だから、まだ行くとは」


 首筋の傷が赤くなる。


 アルブレヒトが、うんざりした顔をした。


「お前の妹は記憶がない割に、話が早いな」


「元からです」


「それは褒められているの?」


 ミレイユが尋ねる。


「今は、どちらでもありません」


 エステルは一度、息を整えた。


 喉はまだ痛む。


 長く話せば、声が掠れてしまう。


 それでも、この部分を帳面だけで伝えたくなかった。


「殿下に……思い出してほしいです」


 アルブレヒトの表情がわずかに変わる。


「私を?」


「はい」


「なぜ」


「雪原で助けていただいたことも、ラウゼンで言い争ったことも、離宮で一緒に調べたことも。私には大切なのに、殿下には何も残っていないのが……嫌です」


「嫌だから、命を賭ける?」


「その考え方はよくないと、先ほども叱られました」


「理解しているならやめろ」


「理解したことと、気持ちがすぐ変わることは別です」


 アルブレヒトは黙った。


 以前の彼なら、面倒だと言っただろう。


 今の彼は、少し時間をかけてから尋ねた。


「私が記憶を取り戻せなかったら、お前は困るのか」


「困ります」


「仕事上?」


「それだけではありません」


「では、以前の私を取り戻したい?」


「はい」


 正直に答えた。


 そのあとで、エステルは続ける。


「でも、今の殿下を消してよいとは思いません」


 アルブレヒトの目が細くなった。


「両方残せる方法を探すと、契約しました」


「そうだ」


「だから、第一編纂官の提案を確認したいと思ったのです」


「確認と、一人で行くことは同じではない」


「条件が一人で来ることなので」


「条件を提示した側に従う義務はない」


「従わなければ、情報が得られません」


「従えば、戻れない可能性が高い」


「その可能性もあります」


「可能性ではない。罠だ」


「根拠は?」


「私ならそうする」


 あまりに率直な答えだった。


 ミレイユが目を丸くする。


「殿下は、人を罠へ呼び出すのですか」


「敵ならな」


「冷酷皇弟という噂は、本当だったのですね」


「話を広げるな」


 アルブレヒトは赤い文書を指で叩いた。


「相手は、こちらが何を欲しがっているか分かっている。お前には私の記憶を返すと言い、私にはお前を一人で行かせるかどうかを選ばせる。互いに相手を理由に動かせば、命令していないように見せながら、望む行動を取らせられる」


「人の面倒な気持ちを、よく分かっているのですね」


 ミレイユが言う。


「お前の姉に教えられたらしい」


「覚えていないのに?」


「記録に書いてあった」


「少し悔しいです」


 エステルが言う。


「何が」


「私が教えたという記憶はないのに、内容だけ残っていることが」


「役に立っているならいいだろう」


「感謝が足りません」


「報酬とは別に必要か」


「そういう意味ではありません」


「なら、どういう意味だ」


「説明が難しいです」


「自分が曖昧なことを言うようになったのだな」


「殿下と出会ってから増えました」


「私の責任にするな」


 アルブレヒトの声には、記憶を失ってから初めて、わずかな呆れが混じっていた。


 エステルはそれを聞いて、少し安心した。


     ◇


 第一編纂官の文書について、拘束中のディートハルトにも確認することになった。


 査問官は地下の牢ではなく、砦内の封魔室へ入れられている。


 負傷しているため寝台は与えられていたが、両手には帝国式の拘束具がつけられ、壁と床へ三重の封印が施されていた。


 アルブレヒトが先に部屋へ入り、エステルを扉の近くへ残す。


「そこから動くな」


「調査対象の文字が見えません」


「文書は私が持つ」


「表面だけではなく、余白を確認する必要があります」


「では、私の横へ来い。ディートハルトには近づくな」


「承知しました」


「素直だと不安になるな」


「何をお望みなのですか」


「自分でも分からない」


 アルブレヒトは、少し苛立ったように答えた。


 ディートハルトは二人のやり取りを聞き、薄く笑う。


「記憶を奪われても、同じ関係へ戻るのですね」


「戻っていない」


 アルブレヒトが言う。


「エステルは私の雇用した神託調査員だ」


「それだけですか」


「今は」


 エステルは、アルブレヒトを見た。


 彼は文書へ視線を落としたまま、こちらを見ない。


「何だ」


「何でもありません」


 傷は赤くならなかった。


 本当に、今は何も言わないと決めただけだからだ。


「第一編纂官から届いた」


 アルブレヒトは文書をディートハルトへ見せた。


「一人で王都へ来れば、私の記憶を返すとある。返すことは可能なのか」


「可能です」


 アルブレヒトの傷は反応しない。


 ディートハルトは、嘘をついていない。


「方法は」


「正しい記録を、再び殿下へ適用します」


 エステルの胸に、嫌な引っかかりが生まれた。


「正しい記録とは」


「第一編纂官が保管している、皇弟殿下とエステル・ヴァレリーの関係記録です」


「消したのではないのですか」


「公開記録からは削除しました。原文は保存されています」


「では、それを戻せば」


 エステルが言いかけると、ディートハルトは穏やかに首を横へ振った。


「そのまま戻す必要はありません」


「どういう意味です」


「不要な矛盾を削り、殿下が受け入れやすい形へ整えてから戻します」


 アルブレヒトの表情が険しくなる。


「具体的に言え」


「たとえば、殿下が彼女へ抱いた疑念。不快感。恐れ。そうした関係の妨げとなる記憶を除きます」


「妨げ?」


「彼女を信頼し、守りたいと思った部分だけを残す。そうすれば、記憶を返された殿下は彼女を疑いません」


 エステルは息を止めた。


 以前のアルブレヒトは、最初からエステルを信頼したわけではない。


 罪を否定する言葉が呪いへ反応しなかったこと。


 ラウゼンでの働き。


 何度も言い争い、行動を確かめたこと。


 積み重ねの末に、少しずつ関係が変わった。


 疑った記憶を消せば、出来上がるのは以前の彼ではない。


「それを、返すと言うのですか」


 エステルの声が震えた。


「記憶の目的は、現在の判断を支えることです。不快な過程をすべて残す必要はありません」


「ある」


 アルブレヒトが即答した。


 ディートハルトが彼を見る。


「疑ったことも、腹を立てたことも、判断を誤ったことも、私の記憶だ。勝手に選ぶな」


「ですが、完全な記憶は人を苦しめます」


「苦しむかどうかは私が決める」


「殿下は、記憶を失う前も同じことを言いましたか」


 ディートハルトの問いに、アルブレヒトは黙る。


「分からないでしょう。ならば、今のあなたが過去のあなたを代表してよいのですか」


「よいとは言っていない」


「では、どちらを残すか、誰が決めるのです」


「私だ」


「過去の自分と現在の自分、意見が違えば?」


「両方を残す」


「矛盾します」


「人間だからな」


 アルブレヒトは、以前と同じ答えを口にした。


 エステルは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 記憶がなくても、彼は同じ人だ。


 完全に同じではない。


 それでも、彼自身が選ぶ答えには、失われる前の彼とつながるものがある。


「第一編纂官の提案は、記憶の返却ではありません」


 エステルは言った。


「新しい記憶への書き換えです」


「それでも殿下は、あなたを思い出す」


 ディートハルトは答える。


「あなたが欲しいのは、それでしょう?」


 言葉が、胸へ刺さった。


 アルブレヒトに名前を呼んでほしい。


 雪原の日を思い出してほしい。


 自分を心配し、腹を立て、目の届かない場所へ行くなと言った感情を取り戻してほしい。


 少し整えられていても、エステルを覚えている彼が戻るなら。


 ほんの一瞬。


 その誘惑が生まれた。


「違うと言えますか」


 ディートハルトが尋ねる。


「完全に同じでなくても、あなたを愛する記憶を持つ殿下が戻る。それを望まない?」


「愛するとは、誰も」


「では、大切に思う記憶でもよい」


 ディートハルトの声は柔らかかった。


「今の殿下は、あなたを知らない。契約が終われば、関係も終わるかもしれない。けれど過去の記憶を整えて戻せば、殿下は二度とあなたを疑わない」


「黙れ」


 アルブレヒトの声が低くなる。


「私は、彼女を疑う権利まで奪われたくない」


 エステルは彼を見る。


「疑われたいわけではありません」


「だろうな」


「でも、疑わない殿下を作ってほしいわけでもありません」


「そうか」


「私は……」


 エステルは、ディートハルトへ向き直った。


「殿下に思い出してほしいです。私を大切に思っていた部分だけではなく、面倒だと思ったことも、怒ったことも、信じられなかったことも」


「苦しかった記憶まで?」


「はい」


「なぜ」


「それを選び直した結果が、私たちの関係だったからです」


 ディートハルトの笑みが薄れる。


「矛盾を美化しているだけです」


「美化はしていません。今も腹が立つことはあります」


「私もだ」


 アルブレヒトが言う。


「記憶がないのに?」


「今の話だけで十分だ」


「殿下」


「安心しろ。悪い意味だけではない」


「それでは安心できません」


「面倒だな」


 エステルは少し笑った。


 ディートハルトだけが、笑わなかった。


     ◇


 封魔室を出たあと。


 エステルは、廊下の窓辺で立ち止まった。


 外では、帝国兵と王国兵が停戦線を挟んで負傷者を運んでいる。


 グランデル侯爵は、両軍共同の治療所を設けることへ同意したらしい。


 昨日まで敵として睨み合った兵士が、同じ担架を持っている。


 ぎこちない。


 警戒している。


 それでも、今は剣ではなく人を運んでいた。


「一人で行く気は消えたか」


 背後からアルブレヒトが尋ねた。


「第一編纂官の方法では、殿下の記憶は戻りません」


「質問へ答えろ」


 エステルは、少し迷う。


「一人では行きません」


「王都へは行く?」


「行く必要はあると思います」


「なぜ」


「第一編纂官の本拠地が、神託院北棟の存在しない部屋にある可能性が高いからです。それに、私の記録を取り戻すには、王都の原本へ接触しなければならない」


「また自分だけで決めたな」


「提案です」


「誰へ」


「雇用主である殿下へ」


「断ったら」


「理由を聞きます」


「理由に納得しなければ?」


「話し合います」


「結局、行くまで話すつもりではないだろうな」


「その可能性はあります」


 アルブレヒトは額へ手を当てた。


「記憶を失う前の私は、よく耐えたな」


「私も、殿下へ同じことを思います」


「何?」


「記憶を失う前の私は、殿下によく耐えたと思います」


「言うようになったな」


「以前から言っていました」


「そうか」


 アルブレヒトは窓の外を見る。


「王都へ行くなら、軍を率いて正面から入る」


「それでは侵攻です」


「聖王国側から正式な通行許可を取る」


「誰が出すのですか。王家も神殿も、第一編纂官の影響下です」


「グランデル侯爵がいる。北方軍司令として、停戦交渉団を編成させる」


「目的は?」


「王国軍へ出された命令の改竄調査。王太子への事情確認。聖女ミレイユの安全な帰還条件の協議」


「私は死亡したことになっています」


「だから、調査対象として連れていく」


「殿下も?」


「帝国側の代表だ」


「お父さまは動けません」


「砦へ残す」


「母は王都ではなく領地です」


「まず王都の原本を止める。家族の記憶だけを追えば、次に消される相手へ追いつけない」


 冷静な判断だった。


 エステルも同意する。


 それでも、父を置いていくことへの不安は残る。


「お父さまの記憶が、さらに失われたら」


「記録官と兵を残す。証言も複数へ分けた。お前自身も、毎日違う文面で手紙を書け」


「同じ文章では、まとめて消されるから?」


「そう教えたのは、お前だろう」


「覚えているのですか」


「報告書に書いてあった」


 また、記憶ではない。


 だが、アルブレヒトはエステルの考えを読み、自分の判断として使っている。


「不満か」


「少し」


「なぜ」


「私と話したことではなく、報告書だからです」


「報告書も、お前が残した言葉だ」


「同じではありません」


「そうか」


「否定しないのですか」


「違うと感じるなら、違うのだろう。私には比較できない」


 その答えが、思っていたより優しかった。


 アルブレヒトは、以前の自分を知らない。


 だからこそ、今のエステルが感じる喪失を、勝手に小さいものとして扱わなかった。


「ただし」


 彼は続ける。


「報告書でしか知らなくても、今のお前が無茶をすることは分かる」


「数日しか一緒にいません」


「十分だ」


「判断が早すぎます」


「お前が分かりやすすぎる」


「私は、分かりにくいと言われてきました」


「誰に」


「家族や、王太子殿下に」


「見る気がなかったのだろう」


 アルブレヒトは何気なく言った。


 エステルは返事ができなかった。


「何だ」


「以前の殿下も……似たことを言いそうだと思いました」


「また以前の私か」


「嫌ですか」


「少し」


 正直な答えだった。


「比べられるたび、私が代用品のように感じる」


 エステルは息を止めた。


 考えたことがなかった。


 自分は以前のアルブレヒトを取り戻したい。


 その思いが強いほど、今ここにいる彼へ「前のあなたなら」と求めてしまう。


「申し訳ありません」


「謝るべきことか」


「はい」


「なら、受け取る」


 彼は安易に許さなかった。


 エステルは、それがありがたかった。


「以前の殿下を思い出してほしい気持ちは、消せません」


「消す必要はない」


「でも、今の殿下と比べすぎないようにします」


「努力する?」


「期限を言ったほうがよいですか」


「今からだ」


「厳しいですね」


「お前に言われたくない」


 二人は少しの間、黙って窓の外を見た。


 雪の上で、王国兵が帝国兵へ水筒を渡している。


 受け取った兵士は、一度警戒してから飲んだ。


 信頼は、一度で完成しない。


 疑って、確かめて、少しずつ作る。


 記憶を失っても、同じだった。


     ◇


 王都へ向かう交渉団の編成は、その日のうちに決まった。


 帝国側代表、アルブレヒト。


 神託調査員、エステル。


 聖王国側から、グランデル侯爵。


 聖女ミレイユは、自分の意思で同行を選んだ。


「私は、まだ姉だと完全には思い出していない」


 出発者を決める会議で、ミレイユはそう言った。


「でも、私の記憶を勝手に消した者へ、理由を聞きたい。それから、ジュリアン殿下にも会います」


「危険だ」


 父が寝台から言う。


「分かっています」


「私が一緒に行けない状況で」


「お父さまがいなければ決められないと思っているの?」


「そうではない。心配している」


「なら、心配だと言って。止める理由みたいに使わないで」


「……心配だ」


「私も怖い」


「それでも行くのか」


「行く」


 父は、長く目を閉じた。


「分かった」


 以前なら、家族のために残れと命じただろう。


 今は、娘の答えを聞いた。


「エステル」


 父は続ける。


「あなたも行くのですね」


 まだ、娘とは呼ばない。


「はい」


「ミレイユを守ってほしい、と頼むのは間違いですか」


 エステルは少し考えた。


「私だけに、妹を守る責任を負わせるなら間違いです」


「では、どう頼めばよい」


「互いに助けるよう、二人へ頼んでください」


 父はミレイユを見る。


「二人とも、互いを守ってほしい。できないときは、無理をせず助けを求めてくれ」


「分かった」


 ミレイユが答える。


 エステルもうなずいた。


「それから」


 父は、エステルを見た。


「戻ったら、続きを話してほしい」


「何のですか」


「私があなたへしたこと。あなたが覚えている私のこと」


「長くなります」


「時間はある」


「また矢の前へ出なければ」


 父は苦い顔をした。


「それは、まだ怒っているのですか」


「かなり」


「命を助けたのに?」


「助けられたことと、勝手に死のうとしたことは別です」


「死ぬつもりはなかった」


「では、なぜ庇ったのです」


「考える前に身体が動いた」


「そういうところです」


「覚えていない娘に、ずいぶん怒られるな」


「係争中家族なので」


 父が、胸の傷をかばいながら笑った。


「その呼び方は、あまり好きではない」


「私もです」


「では、戻ったら別の呼び方を考えよう」


「お父さまが、私をどう呼びたいか決めてください」


「今すぐではなく?」


「今すぐ決める必要はありません」


 父は、少しだけ安心した顔になった。


     ◇


 出発前夜。


 エステルの部屋へ、砦の若い騎士が一通の手紙を持ってきた。


「差出人が分かりません」


「封蝋は?」


「ありません。門の外に落ちていたそうです」


 第一編纂官からの二通目かと警戒した。


 だが、封筒の表に書かれた文字は、神託院の整った筆跡ではない。


 大きく、右上がりで、ところどころインクが滲んでいる。


 中には、短い文章があった。


 ――エステルさんへ。


 ――俺は、あなたを覚えています。


 ――雪原で、狼より先に自分の手枷を気にしていなかった、変な罪人の人。


 ――殿下へ平気で言い返し、飯を残し、俺の傷へ毒があると見つけた人。


 ――皆が忘れたと言っているので、俺もそのうち忘れるかもしれません。


 ――だから先に書きました。


 ――ロラン。


 エステルは、何度も手紙を読み返した。


 砦の治療室にいたはずのロランは、別の隊とともに南の補給所へ移されている。


 第一編纂官の影響は、まだ彼へ届いていない。


 あるいは、届き始めたからこそ、手紙を書いたのかもしれない。


 便箋の裏にも文章がある。


 ――追伸。


 ――忘れたあとで会ったら、もう一度名乗ってください。


 ――たぶんまた、面倒な人だと思うので、見分けられる気がします。


 エステルは、笑いながら泣いた。


 声を押し殺す必要はなかった。


 それでも長年の癖で、泣く音を隠そうとした。


 扉が開く。


 アルブレヒトが立っていた。


「なぜ泣いている」


「入る前に、声をかけてください」


「二度かけた」


「聞こえませんでした」


「返事がないから、倒れているのかと思った」


「心配したのですか」


「雇用主としてな」


 首筋の傷が淡く赤くなった。


 アルブレヒトが不機嫌そうに首を押さえる。


「その傷は、便利ですね」


「今は腹が立つだけだ」


 彼は机の上の手紙を見る。


「誰からだ」


「ロランさんです」


「誰だ」


「以前、私を護送した若い騎士です。殿下も知っています」


「覚えていない」


「私に関係する部分だけ、消えているのでしょう」


「何と書いてある」


 エステルは手紙を差し出した。


 アルブレヒトは最後まで読む。


「変な罪人。飯を残す。面倒な人」


「良いことも書かれています」


「毒へ気づいたことくらいだ」


「十分です」


「これで嬉しいのか」


「はい」


「悪口が多い」


「良いことだけなら、作られた記憶かもしれません」


「そうか」


 アルブレヒトは手紙を返した。


「では、私も書く」


「何をですか」


「今のお前についてだ。王都へ着くまでに、私の記憶がさらに消される可能性がある」


 机へ座り、紙を取る。


「何を書けばよい」


「殿下の言葉で」


「参考は」


「相談すると、同じ文章になります」


「面倒だな」


「はい」


「自分で認めるのか」


「最近、慣れました」


 アルブレヒトは少し考え、ペンを走らせた。


 エステルは見ないよう、窓のほうへ顔を向ける。


 背後で何度かペンが止まる。


「書きにくい」


「なぜです」


「お前がいるからだ」


「以前も、ミレイユが同じことを言いました」


「では、出ていけ」


「私の部屋です」


「なら、廊下へ行く」


「殿下が?」


「私が書くのだからな」


 アルブレヒトは本当に紙を持って廊下へ出た。


 記憶を失う前の彼なら、ここまで律儀に席を外しただろうか。


 比べそうになり、エステルはやめた。


 今の彼が、自分の意思で書いている。


 それだけを見る。


 しばらくして、扉の下から折り畳まれた紙が差し込まれた。


「今、読んでよいのですか」


 扉の向こうへ尋ねる。


「私がいなくなってから読め」


「ミレイユと同じことを言うのですね」


「比較するな」


「申し訳ありません」


 足音が遠ざかる。


 エステルは、少し待ってから紙を開いた。


 ――エステル・ヴァレリー。


 ――神託調査員。余白視を持つ。


 ――契約条件へ細かい。報酬への執着がある。自分の命を証拠として使おうとする悪癖あり。


 ここまでは、以前のアルブレヒトが残した証言とよく似ていた。


 次の行からは、今の彼の言葉だった。


 ――私は、彼女との過去を覚えていない。


 ――彼女が語る以前の私を、完全には信用していない。


 エステルの胸が少し痛む。


 それでも、読む。


 ――だが、今の彼女が私の記憶を都合よく作ろうとしなかったことは確認した。


 ――私が彼女を疑う権利を認め、今の私を消さないと約束した。


 ――よって、現時点では協力者と判断する。


 最後の一文だけ、少し文字が小さい。


 ――目の届かない場所へ行かれると困る。


 理由は書かれていなかった。


 エステルは紙を胸へ抱えなかった。


 それでは、以前の関係を取り戻した証拠として扱ってしまいそうだったから。


 丁寧に折り直し、ロランの手紙とは別の封筒へ入れる。


 どちらも違う記憶。


 どちらも、今のエステルを残す文章だ。


 翌朝。


 王都行きの交渉団が、国境砦を出発した。


 エステルは一人ではない。


 アルブレヒト。


 記憶のないミレイユ。


 グランデル侯爵。


 帝国と王国、双方の記録官。


 そして、各地から集めた、互いに食い違うエステルの証言書。


 第一編纂官は、一人で来いと命じた。


 だからエステルは、自分を知る人々の矛盾した言葉をすべて連れていくことにした。


 馬車が砦の門を出た瞬間。


 王都の方角から、巨大な白い光が空へ立ち上った。


 聖王国全土の祈祷塔へ、新しい神託が配信される。


 ――元伯爵令嬢エステル・ヴァレリーに関する記録訂正を完了。


 ――当該人物の名を口にすることを禁ず。


 ――違反者は、神託汚染者として処罰する。


 御者が、青ざめた顔で振り返った。


「お名前を……呼べなくなったということですか」


 エステルは空に浮かぶ文章を見上げた。


 第一編纂官は、ついに人々の記憶だけではなく。


 エステルの名を語る権利そのものを、奪おうとしていた。


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