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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第二十六話 私の名前を呼ぶことが、反逆罪になりました

 空に浮かんだ神託は、馬車が街道を南へ進んでも消えなかった。


 ――元伯爵令嬢エステル・ヴァレリーに関する記録訂正を完了。


 ――当該人物の名を口にすることを禁ず。


 ――違反者は、神託汚染者として処罰する。


 白い文字は雲より低い位置に張りつき、旅人たちの頭上から逃げ場を奪うように輝いている。


 街道沿いの祈祷塔へ近づくたび、同じ内容が鐘の音とともに読み上げられた。


 声に出すだけで罪になる名前。


 その本人であるエステルは、馬車の中で旅程確認書を見つめていた。


 帝国側の記録官が作成したものだ。


 同行者の欄には、アルブレヒト、ミレイユ、グランデル侯爵、護衛騎士、御者の名前が並んでいる。


 エステルの箇所だけ、空白だった。


「書かなかったのですか」


 エステルが尋ねると、向かいに座る記録官が顔を伏せた。


「書きました」


「では、なぜ空欄なのです」


「書いた直後に消えました。三度試しましたが、同じでした」


「四度目は?」


「試していません」


「なぜ」


「三度で十分だと思ったからです」


 記録官は困った顔をした。


「私は、同じ失敗を意味もなく繰り返すことを努力とは呼びません」


「今回は、筆圧や使用した墨を変えることで結果が異なる可能性がありました」


「そう言われると思い、二度目は帝国式記録墨、三度目は鉛筆を使用しました」


 先回りされていた。


 エステルは紙を受け取り、空欄へ自分の名を書いた。


 一文字目を書いた時点で、黒い線が上から重なる。


 二文字目。


 三文字目。


 最後まで書き終える前に、先頭の文字から灰色へ変わり、粉のように崩れて消えた。


「本当に消えましたね」


「だから申し上げました」


「確認は必要です」


「ご自身で試さなければ、納得なさらなかったでしょう」


「はい」


「面倒な方ですね」


「よく言われます」


 隣に座るアルブレヒトが、窓の外を見たまま言った。


「そのやり取りは、昨日も聞いた」


「相手が違います」


「結論は同じだ」


「会話は、結論だけで判断するものではありません」


「旅程確認書の空欄を埋める話に、人間関係の深さを求めるな」


「求めていません」


「では、なぜ不満そうな顔をしている」


 エステルは返事を考えた。


 自分の名がない。


 馬車に乗り、会話をし、書類を確認しているのに、公的な紙の上では一人分の空白になっている。


 その空白を見ていると、自分だけが旅に同行していないように感じる。


「空欄が嫌なのです」


「なら、別の記述を入れろ」


「別の?」


「神託調査員。校正官。第十三神託の封印鍵。どれかなら消えないかもしれない」


 エステルは少し迷った。


「それは、私の役割です」


「名前が使えないのだから、役割で特定するしかない」


「役割がなくなれば、私ではなくなるのですか」


「そうは言っていない」


「では、私を表す言葉として不十分です」


「書類上の識別に、人格のすべてを入れる必要はない」


「分かっています」


「分かっていない顔だな」


 アルブレヒトは、旅程確認書をエステルの手から取った。


 空白の欄へ、迷いなく文字を書く。


 ――現在の契約相手。


 文字は消えなかった。


「契約相手?」


 エステルが尋ねる。


「事実だ」


「誰の契約相手か分かりません」


 アルブレヒトは、その前へ二文字加えた。


 ――私の現在の契約相手。


「公文書へ一人称を書くのですか」


「今の私が確認するための書類だ」


「ほかの方が見た場合は」


「私が同行している」


「殿下がいなくなれば、意味が通じません」


「縁起の悪いことを言うな」


「以前、殿下も同じことを」


「以前の私と比べるな」


 強い口調ではなかった。


 それでもエステルは口を閉じた。


 記憶を失う前のアルブレヒトなら。


 その言葉を使いかけるたび、今の彼を過去の代用品へしてしまう。


 気をつけると約束したばかりだった。


「申し訳ありません」


「謝る前に、直せ」


「何をですか」


「比べる癖をだ」


「すぐには難しいです」


「では、今の私へ言いたいことを言え」


 エステルは旅程確認書を見る。


 ――私の現在の契約相手。


 名前ではない。


 役割よりは個人的だが、まだ一部分でしかない。


「この呼び方は、少し嫌です」


「なぜ」


「私が殿下との契約だけで存在しているように見えるからです」


「では、何と書けばいい」


「分かりません」


「自分でも分からないことを、私へ直せと言うのか」


「嫌だと感じることと、正しい代案を思いつくことは別です」


 アルブレヒトは、しばらく黙った。


「面倒だな」


「はい」


「だが、嫌だと言われなければ分からない」


 彼は記述を消さず、その下へ一文を加えた。


 ――本人の呼称について協議中。


 エステルは文字を読んだ。


「公文書として、不自然です」


「今は仮の書類だ」


「では、後ほど修正します」


「勝手に消すな」


「協議します」


「最初からそうしろ」


 向かいの記録官が、聞こえないふりをして窓の外を見ていた。


 その肩が少し震えている。


「何かおかしいですか」


 エステルが尋ねる。


「いいえ」


「笑いましたか」


「笑っていません」


 アルブレヒトの首筋に変化はない。


 記録官は本当に笑っていないらしい。


「口元は上がっています」


「旅が長いため、表情筋が疲れたのです」


「それは医学的に」


「やめろ」


 アルブレヒトが止めた。


     ◇


 昼前。


 交渉団は、ラウゼンの町へ到着した。


 北部離宮から王都へ向かう主要街道の途中にあり、馬を替えるにも、王国側の通行証を整えるにも、この町を避けることはできない。


 以前は凍りついていた町の門から、今は白い湯気が立ち上っている。


 エステルが修正した暖房神託は、正常に動いていた。


 ただし門の横には、新しい立札がある。


 ――王国神託院通達。


 ――名を禁じられた汚染対象を発見した場合、直ちに祈祷塔へ報告せよ。


 ――対象を匿い、または名を口にした者は、共犯者として処罰する。


「ずいぶん早いな」


 アルブレヒトが立札を読む。


「通達が出て、半日もたっていない」


「各地の祈祷塔へ直接送られたのでしょう」


 エステルは、立札の下へ小さく記された追加文へ目を凝らした。


 ――対象者の特徴。


 そこから先は、黒く塗りつぶされている。


 書こうとしても、一つの容姿へ固定できなかったのだろう。


 エステルについて残された証言が、互いに食い違っているからだ。


 髪が乱れていたと書いた者。


 きちんと結っていたと書いた者。


 青ざめていた。


 怒っていた。


 泣いていた。


 泣いていなかった。


 同じ人間を見たはずなのに、印象は一つではない。


「門を開けてください」


 グランデル侯爵が前へ出た。


 王国北方軍司令の紋章を見せると、門番たちは慌てて姿勢を正した。


「侯爵閣下。しかし、その一行には……」


 門番の視線が、エステルへ向く。


 名を言えない。


 指をさすことも、対象と認めた証拠になると思っているのか、腕を上げかけて止めた。


「あの方が、おられます」


「あの方では分からない」


 グランデルが厳しく言う。


「通達で名を禁じられた方です」


「お前は本人を確認したのか」


「告知神託の映像と、よく似ています」


「ならば、何者だ」


「ですから、その……」


 門番は汗を浮かべた。


 言葉にした瞬間、自分も処罰される。


 しかし、言葉にできなければ入城拒否の理由も説明できない。


 第一編纂官の通達は、人々へ沈黙を強いるだけではなかった。


 エステルについて話すための文章そのものを壊している。


「私たちは王都へ向かう正式な停戦交渉団だ」


 グランデルは通行証を示した。


「帝国皇弟殿下、聖女ミレイユ、私、両国の記録官、そして神託改竄の調査対象者が同行している」


「調査対象者?」


 門番は慎重に繰り返した。


 その呼び方なら、神託は反応しない。


「通してもよいのですか」


「私が許可する」


「しかし、町長は神託院から」


「町長を呼べ」


 門番の一人が、町の中へ走っていく。


 しばらくして現れたのは、町長グスタフだった。


 以前より顔色はよくなっている。


 だが、エステルを見た瞬間、複雑な表情になった。


「ご無事で」


 そこまで言い、口を閉じる。


 名を呼べないから、文が不自然に途切れる。


「グスタフさん」


 エステルが声をかけた。


 町長は、周囲を警戒するように見回した。


「その名で呼ばないでください」


「あなたの名は禁じられていません」


「そうですが……私があなたへ返事をすれば、知り合いだと認めたことになる」


 エステルは胸が痛んだ。


 グスタフは娘アンナを、公的な名簿へ登録しなかった。


 その結果、暖房神託がアンナを町から排除しようとした。


 エステルは彼へ、名簿を書き直せと迫った。


 その町長が今度は、エステルとの関係を認めることを恐れている。


「町へ入れられませんか」


「……私は」


 グスタフの視線が、後方の住民へ向く。


 門の内側には、すでに大勢の人が集まっていた。


 知っている顔もある。


 マティアス。


 リーナ。


 その腕の中にいるアンナ。


 皆、エステルを見ている。


「暖房神託を直していただいたことは感謝しています」


 グスタフは低い声で言った。


「ですが、町には子どもも老人もいる。神託院へ逆らったと判断されれば、また暖房を止められるかもしれない。商人が来なくなり、食料の配給も止まる可能性がある」


「グスタフ!」


 リーナが声を上げる。


「今度も、町を守るって言って誰か一人を外へ捨てるの?」


「同じではない!」


「どこが違うの。アンナのときも、記録へ入れたら町が混乱するって言ったでしょう!」


「あのときとは規模が違う! 神託院全体へ逆らうことになるんだぞ!」


「だから、助けてもらった人を門の外へ置くの?」


「一晩泊めるだけで、町全体が処罰されるかもしれない!」


「その人がいなければ、町は凍っていたのよ!」


「分かっている!」


 グスタフも声を荒らげた。


 周囲の住民がざわつく。


「分かっているから苦しいんだ。恩がある。娘も助けられた。だが、町長として、恩だけで全員を危険にさらしてよいのか!」


 人々は黙った。


 グスタフは卑怯な人間ではない。


 怖いだけだ。


 再び町を失うことが。


 自分の判断で多くの人を危険へ巻き込むことが。


「グスタフさん」


 エステルは言った。


「町へ入れなくても、責めません」


「お姉さま!」


 ミレイユが振り返る。


「責めないでどうするの。私たちは馬も替えなければならないし、食料も」


「別の場所を探します」


「次の町まで半日以上あるでしょう!」


「野営できます」


「喉も治っていないのに?」


「入れろと強制すれば、第一編纂官と同じです」


「でも、町の人はお姉さまへ恩があるのでしょう!」


「恩があれば、危険を引き受ける義務が生まれるの?」


 ミレイユは言葉を詰まらせた。


「私は、入れてほしいと思っています」


 エステルはグスタフへ向き直った。


「暖かい部屋で休みたい。食事も必要です。馬も替えたい。だから、できれば町へ入りたいです」


 グスタフの顔が歪む。


「では」


「でも、決めるのは町の皆さんです」


「そんなことを言われたら、断る側が悪者になるでしょう」


「では、望みを隠したほうがよかったですか」


「それも困る」


「難しいですね」


「あなたは、いつもそうだ」


 グスタフは苦笑した。


「正しいことを言っているようで、こちらが簡単に逃げられない」


「以前より、逃げ道を残すよう努力しています」


「それで?」


「町へ入れなくても、恨みません。ただし、理由は記録します」


「やはり逃げ道がないではないか」


「理由を記録することと、責めることは別です」


「そういうところだ!」


 グスタフは額へ手を当てた。


 リーナが、呆れたように笑う。


「変わってない」


 その一言に、エステルは胸が温かくなった。


「リーナさん」


「名前を呼ばないで。私まで知り合いだとばれるでしょう」


 そう言いながら、リーナは門の外へ出てきた。


 エステルの前に立つ。


「あなたのことは、何て呼べばいいの」


 エステルは答えられなかった。


 名を言えば、リーナが処罰される。


 役割で呼ばれるのは、少し嫌だと先ほど言ったばかりだ。


「嘘つき校正官でいい?」


「もう少し別の呼び方はありませんか」


「私に、娘が生きているって根拠もないのに言った女」


「長いです」


「自分を一言で分かってもらおうとするから、消されるんじゃないの」


 リーナは、エステルの胸元を指で軽く押した。


「私にとってあなたは、娘を助けた人だけじゃない。大丈夫だって勝手に言って、あとで正直に謝って、また勝手に倒れた、腹の立つ女よ」


 祈祷塔の鐘が鳴った。


 赤い文字が、空へ浮かびかける。


 ――禁止対象への関連付けを検出。


 しかし、文章は途中で止まった。


 ――分類名を確認不能。


「止まった?」


 ミレイユが見上げる。


 エステルの中で、白髪の少女が笑った。


『一つにできないんだよ』


 ――何がですか。


『あの人は、あなたを一つの役割で呼ばなかった。助けた人で、嘘をついた人で、謝った人で、倒れた人。どれを名前にすればいいか、向こうには決められない』


 第一編纂官は、エステル・ヴァレリーという一つの名前を禁じた。


 ならば、一人一人が別の関係としてエステルを語ればよい。


 同じ呼称に統一しなければ、まとめて削除できない。


「マティアスさん」


 エステルが町の中へいる老神官を見た。


「あなたにとって、私は誰ですか」


 マティアスは、長い白髭を撫でた。


「赤い禁制墨を血で薄め、古い神託へ勝手に書き込んだ、恐ろしく規則違反の多い校正官だな」


「勝手ではありません。緊急対応です」


「こういうところも含めてだ」


 祈祷塔へ別の文字が浮かぶ。


 ――対象情報、規則違反の多い校正官。


 ――既存対象との一致率、六十二パーセント。


 ――確定不能。


「私は?」


 アンナがリーナの腕の中から尋ねる。


「何て呼べばいいの」


「アンナ、黙っていなさい」


「でも、私も覚えてる」


 小さな少女は、エステルを見た。


「冷たいお家まで来てくれたお姉ちゃん」


 空の文字が揺れる。


 ――対象情報、冷たい家へ来た年長女性。


 ――一致率、四十一パーセント。


 ――確定不能。


「私は、名簿を書き直させられた町長として証言する」


 グスタフが言った。


「この人は、役所の保管規則を守らず、夜中に全住民の名簿を確認し、町長へ説教し、最後には自分で倒れた、非常に扱いに困る調査員だ」


「倒れたことを、皆さん書きすぎではありませんか」


「事実だからだ」


 ――対象情報、扱いに困る調査員。


 ――一致率、五十七パーセント。


 ――確定不能。


 住民たちの間から、声が上がり始める。


「暖房を戻した女だ」


「いや、うちの店のスープを冷めるまで質問していた人だ」


「雪の中で、子どもを抱いて走った人」


「皇弟殿下に平気で文句を言っていた人だろう」


「声が出ないのに、紙を何枚も掲げていた人」


 どれもエステルだ。


 どれ一つとして、エステルのすべてではない。


 祈祷塔の文字は、分類しようとするたび矛盾を増やし、赤と黒の間で激しく点滅した。


「やめろ!」


 町の神託院出張所から、三人の神官が走ってくる。


「禁止対象について語るな! 全員、汚染者と見なすぞ!」


「名を呼んでいない」


 マティアスが答える。


「誰のことを話しているかは明白だ!」


「ならば、そちらが対象と関連づけたのではないか」


「屁理屈を!」


「神託の文言は厳密に扱え。それが神託院の教えだろう」


 老神官は、穏やかな顔で言い返した。


 出張所の神官たちは、祈祷塔へ命令を送る。


 空に、新しい通達が浮かんだ。


 ――禁止対象を示す比喩、役職、関係性、特徴、過去の行動を含む、すべての代替呼称を禁ず。


「全部禁止?」


 ミレイユが呆れた声を出す。


「では、どこからが代替呼称になるのですか」


 エステルが尋ねる。


 神官は答えない。


「私が『あの人』と言った場合は?」


「状況による」


「状況を判断する基準は?」


「神託が決める」


「神託が誤った場合は?」


「誤らない!」


 アルブレヒトの首筋の傷が、赤くなった。


 エステルが振り返る。


 神官は、神託が誤らないと信じているように見えた。


 意図的な嘘ではないはずだ。


 それなのに、呪いが反応している。


「今の通達そのものが、意図的な偽りです」


 アルブレヒトが祈祷塔を睨んだ。


「人間の口を借りているだけで、書いた者は誤ると知っている」


「第一編纂官が?」


「おそらくな」


 首筋の赤みが強まる。


 祈祷塔から、新たな文章が降りてくる。


 ――対象に関するすべての言及を、名前の発話と同等に処罰する。


 リーナの腕へ赤い文字が絡みついた。


「リーナ!」


 グスタフが駆け寄る。


 赤い文字は縄のように締まり、皮膚へ焼け跡を作る。


 続いてマティアス。


 グスタフ。


 アンナを抱くリーナの腕にも、さらに強い光が集まる。


「子どもまで巻き込む気か!」


 グランデル侯爵が剣を抜く。


「神託塔を止めろ!」


 町の神官が叫ぶ。


「止めれば、暖房神託まで停止する!」


「何?」


「町の暖房、給水、食料配給記録は、すべて祈祷塔へ接続されている。壊せば町が止まる!」


 同じ仕組みだった。


 生活に必要な神託と、処罰のための神託が一つにつながっている。


 逆らえば、自分たちの生活が壊れる。


 だから誰も命令へ逆らえない。


「私が直します」


 エステルは祈祷塔へ向かおうとした。


 アルブレヒトが腕をつかむ。


「危険性の説明は」


「今、文章を読みます」


「それは説明ではない」


「時間がありません」


「相互事前説明条項を忘れたか」


「忘れていません。でも、リーナさんたちが」


「私も行く」


「殿下は、神託の構造を読めません」


「お前を守ることはできる」


「記憶がなくても?」


 言ったあとで、エステルは後悔した。


 アルブレヒトの顔から感情が消える。


「今のは、どういう意味だ」


「以前の殿下なら、と思ってしまいました」


「今の私では足りない?」


「違います」


 首筋の傷は反応しない。


 エステルは息を整えた。


「今の殿下にも、来てほしいです」


「なぜ」


「私一人では怖いから」


 アルブレヒトは一瞬、目を見開いた。


 エステル自身も、こんなに素直な言葉が出たことへ驚いた。


「分かった」


 彼は腕を離さず、祈祷塔へ向かう。


「ミレイユは?」


「私は、ここに残ります」


 ミレイユはリーナの腕へ治癒の光を流していた。


「この人たちを治す。記憶はなくても、お姉さまかもしれない人が助けようとしている人たちなので」


「長い呼び方ね」


「名前が呼べないからでしょう!」


「戻ってきたら、短くする方法を考えましょう」


「戻ってくるのですね」


「戻ります」


「絶対?」


「戻るために、殿下と行きます」


 以前と同じ答え。


 だが、今度は一人ではなかった。


     ◇


 祈祷塔の内部では、赤い文字が壁一面を走っていた。


 暖房。


 給水。


 住民登録。


 納税記録。


 通行証。


 そして、名前の発話を禁じる処罰命令。


 生活のための文章の隙間へ、第一編纂官の命令が入り込み、根のように絡みついている。


「切り離せるか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「すぐには難しいです。処罰命令だけを消すと、連動してほかの神託も停止するよう、条件が組まれています」


「人質だな」


「町全体を人質にしています」


「代わりの文章は」


 エステルは余白視を開いた。


 古い原文を探す。


 祈祷塔が建てられた頃、住民の名を守るための文章があったはずだ。


 黒く塗られた層を、一つずつ剥がす。


 ――町に住む者の名は、本人および共同体の証言によって記録する。


 その下。


 ――一つの呼称に定められぬ者は、複数の証言を併記せよ。


「ありました」


「何が」


「名前を一つに定められない場合の規定です」


「そんなものが、なぜ必要だった」


「同姓同名。通称。婚姻前後の姓。身元不明者。いろいろあります」


「今の状況にも使える?」


「おそらく」


「おそらくでは困る」


「殿下も言うようになりましたね」


「以前の私も言ったのか」


「いいえ。私がよく言っていました」


「移ったのかもしれない」


 エステルは古い文章を表層へ引き上げる。


 第一編纂官の赤い文字が、抵抗する。


 ――対象者の名は一つである。


 ――一つの名を禁ずれば、存在は記録から除かれる。


「違います」


 エステルは呟いた。


「名前は一つでも、人がその人を呼ぶ言葉は一つではありません」


 娘。


 姉。


 元婚約者。


 校正官。


 契約相手。


 嘘つき。


 命の恩人。


 面倒な人。


 どれも同じ人間を指し、どれも同じ意味ではない。


 エステルは黒銀の文字を書き加えた。


 ――一人の人間を示す証言は、一つの呼称へ統一されない。


 ――異なる関係から生まれた呼称を、誤りとして削除してはならない。


 赤い文字が絡みつく。


 ――分類不能な記録は無効。


 アルブレヒトの傷が激しく燃えた。


「その文章は嘘だ」


「第一編纂官が、意図的に書いています」


「ならば、その嘘を利用できないか」


「利用?」


「私の呪いは、意図的な嘘を認識すると反応する。この塔へ、嘘だと証明する信号を送れるかもしれない」


「殿下の身体を、神託の部品にするのですか」


「嫌か」


「嫌です」


「即答だな」


「危険です」


「お前は、自分の身体なら使うだろう」


「それも注意されています」


「では、今回は二人で使う」


「分担すれば安全になるとは限りません」


「一人で背負うよりはましだ」


 アルブレヒトは、赤い文字へ手を伸ばした。


 火傷の痕がある首筋から、青白い光が流れ出す。


「何をすればいい」


「私が文章を読みます。殿下は、それが嘘だと感じたら、言葉にしてください」


「嘘ではない部分もあるかもしれない」


「そのときは、黙ってください」


「お前は、第一編纂官の文章を声に出すのか」


「はい」


「喉が」


「長文ではありません」


「危険性の説明が足りない」


「声を失う可能性があります」


「却下だ」


「今さら?」


「別の方法を探せ」


「外では皆が処罰されています」


「だからといって、お前の声を捨てる理由にはならない」


「では、どうすれば」


 アルブレヒトは一瞬、考えた。


「私が読む」


「殿下には、どの文字が対象か見えません」


「指で示せ」


「読み上げながら、嘘を判断するのですか」


「できる」


「根拠は?」


「分からない」


 エステルは目を瞬いた。


「殿下も、分からないことを試すのですね」


「お前の影響かもしれない」


「記憶はないのに?」


「今のお前から移った」


 以前の自分ではなく、今のエステルから。


 その言葉に、胸が温かくなる。


「分かりました」


 エステルは、赤い一文を指した。


「最初です」


 アルブレヒトが読み上げる。


「対象者の名は、すでに世界から削除された」


 傷が赤く燃える。


「嘘だ」


 青白い光が文字を焼く。


 赤い一文へ亀裂が走った。


 次。


「対象者を記憶する者は、全員が神託汚染を受けている」


「嘘だ」


 さらに亀裂。


「対象者について語るすべての言葉は、禁じられた名と同一である」


 アルブレヒトは一瞬、黙った。


「殿下?」


「一部は事実だ。言葉は同じ人間を指している」


「では、何が嘘ですか」


「同じ人間を指すことと、同じ意味であることは違う」


 彼は赤い文章へ手を押し当てた。


「よって、同一ではない」


 傷が光る。


 赤い文字が、根元から崩れた。


 祈祷塔全体が揺れる。


 壁の中を走っていた処罰命令だけが、生活神託から切り離されていく。


 最後に残ったのは、最初の通達だった。


 ――当該人物の名を口にすることを禁ず。


「これを壊せば、町だけは名前を呼べるようになります」


 エステルが言う。


「王国全体では?」


「ほかの祈祷塔も、同じ方法で切り離す必要があります」


「名前を言わずに、嘘だと証明できるか」


「名を禁じる権限が、第一編纂官にないと示せば」


「時間がかかるな」


「はい」


 アルブレヒトは、赤い文章を見た。


 それからエステルへ視線を移す。


「お前の名は」


 エステルの胸が強く鳴った。


「知っています」


「私が確認する」


「口にすれば、殿下が処罰されます」


「すでに汚染者扱いだろう」


「それとは別です」


「私が、今の意思で呼ぶ」


 エステルは止めようとした。


 だが、アルブレヒトは先に口を開いた。


「エステル」


 赤い文字が、彼の喉へ巻きついた。


「殿下!」


 エステルは腕を伸ばす。


 アルブレヒトは苦痛に顔を歪めながら、それでももう一度呼んだ。


「エステル・ヴァレリー」


 首筋の呪いが、これまでで最も強く燃え上がる。


 青白い光が、赤い処罰文字を内側から貫いた。


「この名が存在しないという記録は、嘘だ」


 祈祷塔に亀裂が走る。


 壁。


 床。


 天井。


 積み重ねられた偽りの文章だけが、黒い灰となって剥がれ落ちた。


 暖房の光は消えない。


 給水神託も動いている。


 生活を支える文章を残したまま、処罰命令だけが崩れていく。


 塔の外から、鐘の音が聞こえた。


 処罰を告げる鋭い音ではない。


 古い町の記録を更新するときに鳴らす、穏やかな鐘だった。


 空に、新しい文章が浮かぶ。


 ――ラウゼン共同記録。


 ――当町は、エステル・ヴァレリーの滞在を確認する。


 ――ただし、住民ごとに異なる証言があるため、人物像の統一は行わない。


 ――本人の名および異なる呼称を、併記して保存する。


 門の外で、住民たちが歓声を上げた。


「エステル!」


 リーナが呼ぶ。


 赤い文字は現れない。


「エステルお姉ちゃん!」


 アンナの声。


「面倒な校正官!」


 グスタフ。


「最後のは、名前ではありません」


 エステルが塔の出口から言い返す。


「併記だ!」


 グスタフが笑った。


 マティアスも、何度も彼女の名を呼ぶ。


 同じ名前。


 けれど、それぞれの声に違う感情がある。


 感謝。


 怒り。


 懐かしさ。


 心配。


 一つに統一できないからこそ、それは誰かに与えられた同じ文章ではない。


 エステルは隣にいるアルブレヒトを見た。


 彼は壁へ手をつき、息を整えている。


「殿下」


「何だ」


「名前を呼んでくださって、ありがとうございます」


「お前が名乗った名を確認しただけだ」


 首筋の傷は反応しない。


 今の彼にとっては、過去を思い出した結果ではない。


 現在の意思で、エステルの名を選んだ。


「痛みませんか」


「痛い」


「すぐに治療を」


「先に言うことがある」


「何でしょう」


 アルブレヒトは、エステルを見た。


「私の現在の契約相手、では不満なのだったな」


「はい」


「校正官も、役割でしかない」


「はい」


「では、今後は名前で呼ぶ」


「処罰命令が残っている地域では危険です」


「その都度、壊す」


「王都まで、いくつ祈祷塔があると思っているのですか」


「数えろ」


「十七です」


「即答だな」


「旅程表にあります」


「なら十七回壊す」


「簡単に言わないでください」


「お前の名を呼ぶたび、第一編纂官の嘘が証明されるのだろう」


「理屈ではそうですが、殿下の身体が耐えられません」


「では、ほかの方法を探せ。契約業務だ」


「最初から、それが目的です」


「話が早いな」


 エステルは、少し笑った。


「何だ」


「殿下が、私の名前を呼んだので」


「呼んだだけだ」


「十分です」


「以前の私と比べているのか」


「いいえ」


 エステルは首を横へ振った。


「今の殿下が呼んでくださったことを、喜んでいます」


 アルブレヒトは、わずかに視線をそらした。


「そうか」


 耳の上が赤い。


 神託の熱のせいかもしれない。


 今は、それ以上決めないことにした。


     ◇


 交渉団は、その夜ラウゼンへ滞在することになった。


 グスタフは町長として正式に宿泊を許可した。


 ただし、住民全員が賛成したわけではない。


「王都から処罰隊が来たらどうする」


「また暖房を止められるかもしれない」


「恩があるのは分かるが、家族を危険にさらしたくない」


 町の集会所では、遅くまで言い争いが続いた。


 エステルは、反対する者を責めなかった。


 名前を呼べるようになったからといって、恐怖まで消えるわけではない。


 最後には、交渉団が宿泊する代わりに、帝国騎士が祈祷塔と町門を守り、グランデル侯爵が王国軍の名で町への処罰を認めない文書を出すことでまとまった。


 全員が満足したわけではない。


 それでも、誰か一人を黙らせて決めるよりはよかった。


 エステルが宿の部屋へ戻ると、机の上に新しい紙が置かれていた。


 赤い三枚葉の紋章。


 第一編纂官からの文書だった。


 今度の本文は、以前より少し長い。


 ――一つの町で名を取り戻したことを、勝利と誤解してはならない。


 ――人は、呼ぶことを許されれば名を呼ぶ。


 ――禁じられれば、やがて忘れる。


 ――王都到着までに、残る十六の祈祷塔を越えよ。


 最後に、期限が書かれていた。


 ――七日後、王都中央神託において、エステル・ヴァレリーという名を世界から完全に削除する。


 その下へ、さらに一文。


 ――削除完了時、同名を記憶する者の精神は、矛盾記録として処分される。


 エステルは文章を読み、息を止めた。


 名前を忘れさせるだけではない。


 七日後。


 エステルを覚えている者そのものが、処分される。


 ラウゼンの住民。


 ロラン。


 母。


 父。


 ミレイユ。


 そして、今の意思で彼女の名を呼んだアルブレヒトも。


 廊下から足音が近づく。


 エステルは反射的に文書を伏せた。


 扉が開き、アルブレヒトが入ってくる。


「今、何を隠した」


「何も」


 首筋の傷が、再び赤く燃えた。


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