タイトル未定2026/07/29 22:36
「今、何を隠した」
「何も」
答えた瞬間、アルブレヒトの首筋の傷が赤く燃えた。
痛みに顔をしかめながらも、彼は目をそらさない。
「もう一度聞く。何を隠した」
エステルは机の上へ伏せた紙を、両手で押さえた。
「殿下には関係のない文書です」
傷の赤みがさらに強くなる。
「その言い方で通ると思ったのか」
「殿下の記憶に関する内容ではありません」
「今度は、質問の範囲を勝手に狭めたな」
「私は、嘘をついているつもりは」
「つもりがなければ、私の傷が間違っていると言うのか」
そこまで言われると、返せなかった。
エステルの喉は、言葉を重ねるほど痛んだ。けれど帳面へ逃げれば、書いている間に文書を取り上げられる気がした。
アルブレヒトは、エステルの手へ触れない。
力ずくで奪うこともしない。
ただ、机を挟んだ向こうに立ち、答えを待っている。
その態度が、かえって苦しかった。
「見せろとは命じない」
「……え?」
「これは命令ではない。契約上の確認だ。危険性の高い情報を得た場合、双方へ説明する条項がある」
「まだ、危険と決まったわけではありません」
「お前が隠そうとした時点で、少なくとも私にとっては危険だ」
「どうしてですか」
「私が関わるからだろう」
「根拠がありません」
「では、私に関係ないと言い切れ」
エステルは口を開いた。
言い切れば、傷が反応する。
分かっている。
アルブレヒトも分かっている。
「卑怯です」
「何が」
「呪いを使って、答えを迫っています」
アルブレヒトの眉が動いた。
怒るかと思った。
だが、彼は少し考えてから、一歩下がった。
「そうだな」
あまりに素直に認められ、エステルのほうが戸惑った。
「否定しないのですか」
「お前が拒否しにくい状況を、意図的に作った。適切ではなかった」
「では、見なかったことに」
「それと、文書を隠してよいかは別だ」
「結局、聞くのですね」
「聞く。ただし、答えるかはお前が決めろ」
アルブレヒトは窓辺へ移動し、エステルから顔をそらした。
「私へ話さないと決めるなら、理由も聞かない。その代わり、私は交渉団をここで止める」
「なぜです」
「危険の内容を知らずに、部下と王国側の人間を先へ進ませられない」
「それでは、実質的に」
「選ばせているようで、行動を制限している。分かっている」
「分かっていて、なさるのですか」
「私は統治者だ。お前一人の気持ちだけで、全員を危険へ送ることはできない」
正しい。
腹が立つほど正しい。
エステルは、伏せていた文書へ目を落とした。
七日後。
エステルを記憶している者は、矛盾記録として精神を処分される。
その内容を話せば、皆は王都へ行くと言うだろう。
危険を承知で、自分を覚えていると主張するだろう。
だから言いたくなかった。
エステルは、文書を持ち上げた。
「読んでください」
アルブレヒトが振り返る。
「本当にいいのか」
「よくありません」
「では」
「でも、殿下の言うとおりです。私一人で決めてよいことではありません」
差し出された紙を、アルブレヒトはすぐには受け取らなかった。
「エステル」
「はい」
「今、お前は何をしようとしていた」
エステルの指が強張る。
「文書を隠そうとしていました」
「そのあとだ」
「……皆さんに、私のことを忘れてもらう方法を考えようと」
アルブレヒトの顔から、表情が消えた。
首筋の傷は反応しない。
エステルは本当にそう考えていた。
「続きを言え」
「七日後までに、私を記憶している方がいなくなれば、処分される人もいなくなります」
「自分だけが消えれば済む?」
「最も被害が少ないです」
アルブレヒトは、今度こそ文書を取った。
最後まで読む。
一行ずつ。
赤い文字を確かめるように。
「最も被害が少ない、か」
「はい」
「誰にとって」
「全体としてです」
「全体とは誰だ」
「ラウゼンの皆さん。ロランさん。父と母。ミレイユ。殿下。私を覚えているすべての方です」
「その中に、お前は入っているのか」
エステルは答えなかった。
「入っていないな」
「私一人と、大勢の方です。比較するまでも」
「比較するな」
低い声だった。
「ですが」
「お前一人なら数に入れなくてよいという前提を、勝手に置くな」
「私の存在が原因です」
「違う。原因は、第一編纂官が人間の記憶を処分しようとしていることだ」
「私がいなければ、その命令は必要ありません」
「人質を取った相手へ、人質になった側が消えれば解決すると言うのか」
「結果としては」
「結果だけで判断するなと、私に言ったのは誰だ」
「報告書で読んだのですね」
「今のお前からも聞いた」
エステルは口を閉じた。
アルブレヒトは文書を机へ戻す。
「全員へ伝える」
「待ってください」
「交渉団全体へ関係する」
「皆さんは、私を覚えていることを選ぶと言います」
「選ぶかどうかは、本人が決める」
「死ぬかもしれないのですよ!」
「だからこそ、お前が決めるな!」
アルブレヒトの声が部屋へ響いた。
扉の外で、護衛騎士の気配が動く。
彼はすぐに声を落とした。
「すまない。大きすぎた」
「謝るのですね」
「正しいことでも、怒鳴る必要はなかった」
「以前の殿下なら」
「比べるな」
「……はい」
エステルは唇を噛んだ。
「私は、皆さんを死なせたくありません」
「私もだ」
「なら、忘れてもらうのが一番確実です」
「確実ではない」
「なぜ」
「第一編纂官の言葉を、そのまま信じるのか」
エステルは、赤い文書を見る。
「意図的な嘘があるなら、殿下の傷が」
「私は、文書が届いたときその場にいなかった。書いた者も近くにいない。呪いで判定できる範囲ではない」
「でも、これまでの命令は実行されました」
「だから、今回も文面どおりとは限らない」
「どういう意味です」
「全員がお前を忘れたら、本当に助かるという保証はどこにある」
エステルは答えられなかった。
「忘れた者も、過去にお前を記憶していた矛盾記録として処分されるかもしれない。あるいは、お前自身が消えたあと、別の対象を訂正し始めるかもしれない」
「それは推測です」
「お前の案も推測だ」
「でも」
「第一編纂官が、お前へ一番選んでほしい答えは何だ」
エステルの胸が冷えた。
自分を忘れさせる。
自分から孤立する。
一人で王都へ来る。
「私が……皆さんとの関係を、自分で切ること」
「そうだ」
アルブレヒトは、机の上の文書を指さす。
「一人で来いと命じても来なかった。名を禁じても、町の人間が呼んだ。なら、今度はお前自身へ、周囲から離れる理由を与えた」
「皆を守るために」
「それは、お前が最も逆らいにくい理由だろう」
エステルの中で、白髪の少女が小さく笑った。
『あの人、あなたの読み方が上手くなったね』
――嬉しそうに言わないでください。
『だって、前のあの人は、あなたを知ってた。今のあの人は、知らないのに見つけた』
その違いが、胸へ痛く、同時に温かく触れた。
「全員を集めろ」
アルブレヒトが扉へ向かう。
「殿下」
「何だ」
「私は、まだ忘れてもらう案が間違いだと納得していません」
「構わない」
「構わないのですか」
「会議で主張しろ。私は反対する」
「殿下が反対すれば、皆も」
「私の立場へ合わせて黙る者が出ないよう、最初にお前から話せ」
「自分で?」
「お前の案だ。自分の言葉で説明しろ」
逃げ道を塞がれた気がした。
だが今度は、呪いで追い詰められたのではない。
考えを他人へ渡し、反論を受けるための場所へ出される。
それが怖かった。
◇
集会所には、交渉団の主要な者たちが集められた。
アルブレヒト。
ミレイユ。
グランデル侯爵。
両国の記録官。
エッダ。
ラウゼン側からは、グスタフ、リーナ、マティアスも参加している。
アンナは夜が遅いため、別室で眠っていた。
エステルは、中央の机に赤い文書を置いた。
「七日後」
掠れた声で話し始める。
「王都中央神託において、私の名が完全に削除されます」
全員が黙って聞いている。
「その際、私を記憶している者は……矛盾記録として、精神を処分されると書かれています」
ミレイユの顔が青ざめた。
「精神を処分って、どういうこと」
「記憶の消去か、意識の破壊か、死亡か。正確には分かりません」
「そんな曖昧な命令で、人を脅すの?」
「曖昧だからこそ、最悪の場合を考える必要があります」
エステルは一度息を吸った。
「そこで、皆さんへ提案があります」
「嫌な予感がする」
リーナが腕を組む。
「私についての記憶を、七日以内に消してください」
集会所の空気が凍った。
最初に椅子を蹴って立ち上がったのは、ミレイユだった。
「嫌よ」
「まだ説明が」
「聞かなくても嫌!」
「ミレイユ」
「私は、やっとあなたをお姉さまかもしれないと思い始めたの! それを今度は、自分から忘れろって言うの?」
「あなたの命を守るためです」
「また、それ!」
ミレイユの声が震える。
「お姉さまは、自分を使えば問題が片づくと思うたび、すぐ一人で結論を出す!」
「一人ではなく、今、皆さんへ」
「決めたあとで話しているでしょう!」
その指摘は正しかった。
エステルは、すでに忘れさせる方法を考え始めていた。
話し合うためではなく、同意を得るために説明しようとしている。
「記憶を失っても、私はもう一度あなたの手を選んだ」
ミレイユは、自分の胸元を握る。
「それなのに、また消されるの? 今度は第一編纂官じゃなく、お姉さまの判断で?」
「消す方法は、負担の少ないものを」
「負担の話をしていない!」
涙が頬を流れる。
「私は、覚えているかどうかを自分で決めたいの。怖くても、忘れたほうが楽でも、あなたに決められたくない!」
エステルは、妹を見つめた。
記憶を失ったミレイユは、姉への愛情も罪悪感も、過去の争いも覚えていない。
それでも今、自分の選択を奪われることへ怒っている。
「私は反対だ」
グランデル侯爵が言った。
「理由を伺っても?」
「お前を覚えていることが危険だから忘れる。それを全土で認めれば、神託院は今後、誰かを消したいとき、同じ方法を使える」
「でも、今回は人命が」
「常に人命を理由にするだろう。反逆者を覚えていれば家族が危険。異端者を匿えば町が危険。次は、王家に都合の悪い事件を語れば国が危険だと言う」
侯爵は苦い顔をした。
「私は、その言葉へ従って軍を国境まで進めた。二度と同じ命令を、正しい判断として通したくない」
「では、王国軍の皆さんを危険へさらすのですか」
「私が決めることではない。各人へ説明する」
「一万人へ?」
「だからこそ、時間が必要だ」
「七日しかありません」
「七日ある」
グランデルは言い直した。
「お前は、七日しかないと言う。私は、七日もあると考える。どちらも事実だ」
マティアスが、ゆっくりとうなずく。
「言葉の置き方で、同じ時間が違って見える。第一編纂官は、我々に『もう間に合わない』と思わせたいのだろう」
「私は」
グスタフが、気まずそうに手を上げた。
「正直に言えば、忘れたほうが助かるなら、迷います」
リーナが隣から睨む。
「グスタフ」
「綺麗なことだけ言うな。町長として、町民の命を考えなければならない」
「だからまた、一人を外へ出すの?」
「そうならないために迷っている!」
グスタフは怒鳴り返した。
すぐに声を落とす。
「私は、この人へ恩がある。アンナを助けてもらった。だが、町の百人、千人を危険へさらしてまで覚えていろと言えるかは分からない」
エステルはうなずいた。
「それでよいと思います」
「よくないよ」
リーナが言う。
「迷うなとは言わない。でも、本人に『忘れてもいい』って許可されると、私たちは楽になる。忘れる責任まで、この人に押しつけられるから」
グスタフが黙る。
「忘れたい人は、自分で決めればいい。覚えていたい人も、自分で決める。その結果が怖いからって、本人が先回りして全員分の罪を引き受けるのは、優しさじゃない」
「では、私が何も言わなければ」
「それも違う。危険は話して。頼みたいなら頼んで。でも、決めないで」
リーナはエステルを睨んだ。
「あなたは、相手が苦しむ前に答えを出してあげることが親切だと思ってるでしょう」
「以前は、そう思っていた部分があります」
「今もあるよ」
即答だった。
エステルは反論できなかった。
「私は、忘れたくない」
エッダが言った。
全員が老治療官を見る。
「理由は簡単だ。患者の経過を忘れれば、治療の続きができない」
「それだけですか」
エステルが尋ねる。
「何だい。感動的な言葉が欲しいのか」
「欲しいわけでは」
「声を使いすぎる。無茶をする。薬の成分を聞きすぎる。言われたことを半分しか守らない。忘れたら、また最初から叱り直しだ。面倒だから覚えておく」
「治療上の合理性ですね」
「そういうことにしておきな」
エッダはそっぽを向いた。
アルブレヒトだけが、まだ何も言っていない。
エステルは彼を見る。
「殿下は?」
「私へ聞くのか」
「はい」
「私は、この文書が真実か調べるまで、忘れる案を採用しない」
「調べた結果、真実だった場合は?」
「そのとき考える」
「七日しか」
「七日もあると、今聞いただろう」
「殿下まで」
「お前の言葉を直しただけだ」
以前の関係を覚えていない。
それでも、彼はエステルの文章へ線を引く。
「それから」
アルブレヒトは続ける。
「仮に、忘れなければ私が死ぬと確定しても、お前が私の記憶を消すことは許さない」
「なぜですか」
「私の記憶だからだ」
「命より大切ですか」
「比較は私がする」
「死ねば、記憶も失われます」
「それでも、どう失うかは私が選ぶ」
「頑固です」
「お前に言われたくない」
エステルは唇を噛んだ。
「では、私からお願いします」
「何を」
「生きるために、私を忘れてください」
アルブレヒトの目が鋭くなる。
「嫌だ」
「まだ、私との過去を覚えていないのに?」
「今の私は、お前を知り始めている」
室内が静かになった。
アルブレヒトは、少し言いにくそうに続ける。
「契約条件へ細かい。自分の命を計算から外す。都合の悪い文書を隠す。正しいと思えば相手を追い詰める。そのくせ、怖いときは一緒に来てほしいと言う」
「悪いところが多くありませんか」
「まだ話している」
「はい」
「お前は、私の記憶を都合よく戻そうとしなかった。私を以前の自分と比べる癖を、直そうとしている。名を呼ぶことが禁じられたとき、私が痛むと分かって止めた」
「止まりませんでしたが」
「だから私が勝手に呼んだ」
「そうでした」
「それらを忘れるかどうかを、お前に決めさせるつもりはない」
アルブレヒトは、まっすぐにエステルを見る。
「以前の私がお前をどう思っていたかは知らない。だが、今の私は、お前を忘れたくない」
胸の奥が、強く痛んだ。
嬉しい。
怖い。
この言葉のせいで彼が死ぬかもしれないと思うと、素直に喜べない。
「その答えが、困ります」
「なぜ」
「嬉しいからです」
アルブレヒトが目を瞬く。
「嬉しいと、忘れてほしいと言いにくくなります」
「なら言うな」
「そう簡単では」
「簡単でないなら、簡単な答えへ逃げるな」
エステルは何も言えなかった。
忘れてもらう。
一人で消える。
それは痛い選択ではある。
だが、他人と意見をぶつけ続けるより、ある意味では簡単だった。
自分が犠牲になれば、少なくとも決定権を手放さずに済む。
皆の迷いも、怒りも、恐怖も、受け止めなくてよい。
白髪の少女が、エステルの内側で囁く。
『あなた、消えることまで自分で校正したいんだね』
――そうかもしれません。
『面倒だね』
――あなたに言われたくありません。
◇
会議は、夜半まで続いた。
結論は一つではなかった。
ラウゼンの住民へ危険を公表する。
記憶を残すか、忘却術を受けるかは各人が選ぶ。
ただし、第一編纂官の文書が本当に作動するか確認できるまでは、忘却術の実施を保留する。
王都までに残る十六の祈祷塔を、すべて一つずつ破壊する案は却下された。
七日では間に合わず、アルブレヒトの身体も耐えられない。
代わりに、各地の祈祷塔へ同時に異なる証言を送り込み、中央神託がエステルを一つの記録へ統一できない状態を作ることになった。
「十六の町へ、それぞれ違う内容を送る」
エステルが地図へ印をつける。
「ラウゼンのように、住民が実際に私を見た証言がある場所は少ないです」
「事実でなければならないのか」
グランデルが尋ねる。
「虚偽の証言では、第一編纂官と同じになります」
「では、何を書く」
「私を直接知らない方は、『知らない』と記録してください」
「知らないことが証言になる?」
「はい」
エステルは、新しい文案を書く。
――私はエステル・ヴァレリーを知らない。
――よって、存在しないとも、存在するとも証言できない。
――他者の記憶を、自分の無知によって否定しない。
マティアスが感心したように髭を撫でる。
「知らない、を空白ではなく記録にするのか」
「第一編纂官は、知らないことを存在しないへ変えます。ならば、その間にある文章を残します」
「分からないものを、分からないまま」
ミレイユが姉を見る。
「あなたの得意ではなかったことね」
「今も得意ではないわ」
「でも、書けるようになった」
「練習中です」
アルブレヒトが地図を確認する。
「十六の町すべてへ、違う文面を作れるか」
「作ります」
「一人で?」
「記録官と、各地の人々に書いてもらいます」
「自分で全部直すな」
「誤字は確認します」
「内容まで統一するな」
「努力します」
「今からだ」
「厳しいですね」
「誰かに言われた気がする」
彼は記憶のない自分へ、少しだけ苦笑した。
その表情を、エステルは以前の彼と比べなかった。
今のアルブレヒトが笑った。
その事実だけを、覚えておく。
◇
翌朝。
ラウゼンの祈祷塔から、王国北部の十六の町へ最初の問いが送られた。
――あなたは、エステル・ヴァレリーを知っていますか。
第一の町から返事が届く。
――知らない。存在について判断できない。
第二の町。
――告知神託で姿を見たが、本人かは分からない。
第三の町。
――死亡声明を読んだ。だが遺体を見ていないため、死亡を証言しない。
第四の町。
――神託院は存在しないと言う。ラウゼンは存在すると言う。どちらが正しいか保留する。
第五の町。
――名を呼ぶことを禁じる命令の正当性を確認できない。
同じ返事は一つもなかった。
信じる者。
疑う者。
関わりたくない者。
王都が怖い者。
単に判断材料がない者。
人間の反応は、きれいに揃わない。
だからこそ、中央神託の空に浮かぶ文章が乱れ始めた。
――対象者は存在しない。
その下へ。
――存在の確認不能。
さらに。
――死亡済み。
――生存証言あり。
――偽装個体。
――偽装である証拠なし。
矛盾した文が、互いを消せずに積み上がる。
「効いている」
グランデルが空を見上げる。
「削除の進行が止まった」
「完全には止まっていません」
エステルは余白視で、文字の奥を見る。
中央神託の最下層には、まだ赤い期限が残っている。
――残り六日。
「王都へ進みながら、各町の記録を増やす」
アルブレヒトが命じる。
「エステル」
「はい」
「今後、同じ文書が届いたら」
「すぐに共有します」
「考えてからではなく?」
「届いた時点で」
「約束できるか」
エステルは迷った。
隠したくなる可能性はある。
皆を守るためだと思えば、また一人で決めたくなるかもしれない。
「隠したくなったことも、共有します」
アルブレヒトは、少し驚いた顔をした。
「それでいい」
「完全には信用していないようですね」
「自分で、また隠したくなると言っただろう」
「正直に言ったのに」
「正直に言ったから、対策できる」
「褒めているのですか」
「一応」
「一応を消してください」
「嫌だ」
エステルは不満だった。
けれど、その不満まで含めて、今の関係なのだろう。
交渉団は、ラウゼンを出発した。
町の門では、多くの住民が見送っている。
「エステル!」
「面倒な校正官!」
「嘘つき調査員!」
「アンナを助けた人!」
呼び方は、相変わらずばらばらだった。
「最後の三つは、名前ではありません」
エステルが馬車の窓から言い返す。
「全部、お前だ!」
グスタフの声に、笑いが起こる。
馬車が町を離れても、空の記録には異なる呼び名が残り続けた。
そして街道の次の祈祷塔が見え始めた頃。
王都から、新しい神託が届いた。
――対象者の削除を妨害する矛盾証言を確認。
――証言者の処分を前倒しする。
――第一処分地点、ラウゼン。
エステルたちが振り返る。
遠く離れた町の上に、巨大な赤い円が開いていた。
七日後ではない。
第一編纂官は、エステルを覚えることを選んだ町から、今すぐ消そうとしていた。




