第二十八話 私を覚えた町が、地図から消されました
ラウゼンの上空に、巨大な赤い円が開いていた。
遠ざかりつつあった町の屋根が、円の内側で歪んで見える。
赤い光がゆっくりと降り、祈祷塔の先端へ触れた。
その瞬間。
街道脇に立っていた道標から、ラウゼンの名が消えた。
「馬車を止めろ!」
アルブレヒトの命令に、御者が慌てて手綱を引く。
車輪が雪を削り、馬車が大きく揺れた。
ミレイユが座席から転げ落ちそうになり、エステルの肩へつかまる。
「急に止めるなら言ってください!」
「言った」
「止める直前では遅いです!」
「御者へ言った」
「私にも必要でしょう!」
「今は、それどころではない」
アルブレヒトは扉を開け、街道へ飛び降りた。
エステルも続こうとする。
「待て」
「町へ戻ります」
「分かっている。外套を着ろ」
「今?」
「今だ」
エステルは言い返しかけたが、馬車の外では雪が強くなっている。喉の状態も、まだ完全には戻っていない。
黙って外套へ腕を通すと、アルブレヒトが少し意外そうな顔をした。
「何ですか」
「従うとは思わなかった」
「合理的な指示には従います」
「いつもそうしてくれ」
「殿下の指示が、いつも合理的なら」
「もういい。降りろ」
街道へ出ると、王国側の馬車からグランデル侯爵も降りてきた。
「どうする」
侯爵は赤い円を見上げる。
「戻るなら、王都到着が半日以上遅れる」
「見捨てろと言うのか」
アルブレヒトの声が低くなる。
「そうは言っていない。時間の確認だ」
「戻る」
「異論はない」
グランデルは即答した。
「ラウゼンは、我々の矛盾証言へ最初に協力した町だ。ここで見捨てれば、ほかの町は二度と声を上げない」
エステルは町の上へ降りる赤い光を見つめた。
「それだけではありません」
「何だ」
「第一編纂官は、ラウゼンを処分することで、ほかの町へ見せようとしています。私について証言すれば、町ごと消えると」
「見せしめか」
「はい」
自分の名を呼んだために、町が消される。
その事実が王国中へ広まれば、人々は二度とエステルについて語らないだろう。
忘れたいからではない。
家族や暮らしを守るために、忘れたふりを選ぶ。
「私が」
エステルは言いかけた。
忘れてもらえば。
その言葉が喉まで出た。
「言うな」
アルブレヒトが先に止める。
「まだ何も」
「顔に書いてある」
「殿下は、余白視を持っていません」
「必要ない。お前は、都合の悪いことを一人で片づけようとするとき、右手の親指で人差し指の爪を押す」
エステルは自分の手を見る。
本当に押していた。
「いつから気づいていたのですか」
「昨日」
「記憶を失ってから?」
「今のお前を見て気づいた」
比べるなと、自分へ言い聞かせる。
以前のアルブレヒトが知っていた癖ではない。
今の彼が、今のエステルを見て見つけた。
「忘れてもらう案は、会議で退けられた」
「まだ完全には」
「退けられた」
「皆さんが反対しただけです」
「それを、話し合いでは退けられたと言う」
「私は納得していません」
「なら、町を助けてからもう一度主張しろ。今ここで、自分を消す話を始めるな」
エステルは、しぶしぶうなずいた。
「しぶしぶでも構わない。戻るぞ」
◇
ラウゼンの門は、開いたままだった。
門番がいない。
つい半刻前まで見送っていた住民たちの姿も消えている。
町へ入ると、妙な静けさに包まれていた。
暖房神託は動いている。
屋根からは白い湯気が上がり、水路にも温水が流れている。
それなのに、生活の音がない。
「誰か!」
グランデルが叫ぶ。
返事はなかった。
最初に住民を見つけたのは、ミレイユだった。
「ここにいます!」
食料配給所の前で、三人の住民が倒れている。
外傷はない。
呼吸もしている。
だが、目を開けたまま動かない。
ミレイユが一人の胸へ手を当て、金色の治癒光を流す。
「身体に異常はありません。眠っているわけでもない」
倒れた男の唇が、かすかに動いた。
「わたしは……誰だ」
繰り返している。
「名前を忘れている?」
エステルは、男の首から下がった住民証を見る。
そこには職業と住所だけが残り、名前の欄が空白になっていた。
近くに倒れている女性の住民証も同じ。
「町の地図を」
エステルは配給所の壁へ貼られた地図を確認する。
通りの名。
家屋番号。
井戸。
神殿。
すべて残っている。
だが「誰がどこに住んでいるか」という記録だけが消えていた。
「町そのものではなく、住民との関係を消している」
アルブレヒトが言う。
「家と人。仕事と人。家族と人」
エステルはうなずいた。
「ラウゼンが私について残したのは、共同体としての証言です。だから第一編纂官は、共同体を作る関係から削っています」
「全員が自分の名前を失ったら?」
「町は建物だけになります」
住民はいる。
だが、誰が町長で、誰が親で、誰が隣人か分からない。
町の形を残したまま、共同体だけが死ぬ。
「広場へ行きます」
エステルは走り出した。
「待て!」
アルブレヒトが追う。
「走るな。喉だけでなく足まで悪くする気か」
「まだ悪くしていません」
「転びかけた」
「雪です」
「見れば分かる」
「では、なぜ聞くのですか」
「止まれと言っている!」
言い争いながら広場へ入る。
祈祷塔の下には、大勢の住民が集まっていた。
立っている者。
座り込んでいる者。
頭を抱えている者。
互いの顔を見て、知らない相手のように怯えている。
「お母さん!」
子どもの泣き声が響いた。
「お母さんはどこ!」
すぐそばに一人の女性が立っている。
だが、女性は泣いている子どもを見ても、近づけない。
「あなたは……私の子なの?」
「お母さん!」
「ごめんなさい。分からないの。顔を見ると抱きしめたいのに、名前も、生まれた日も……」
エステルの胸が締めつけられた。
父と母が、自分へ向けた顔を思い出す。
知らない。
でも、何かが残っている。
その苦しみが、町じゅうで起きていた。
「エステル!」
誰かが名を呼んだ。
リーナだった。
片腕にアンナを抱き、もう一方の手でグスタフの腕を引いている。
「よかった、戻ってきた!」
エステルは駆け寄る。
「覚えているのですか」
「今のところはね」
「私は……」
グスタフは青ざめた顔で頭を押さえた。
「この女が妻だということは覚えている。アンナが娘だということも。だが、役場で一緒に働いた人間の名が一人も出てこない」
「私は、グスタフさんの妻じゃない!」
リーナが怒鳴る。
「違ったか?」
「違う! 私たちは結婚してない!」
「では、なぜアンナが」
「だから、あんたが認知しなかったって、何度説明させるの!」
「そうだったのか」
「今、その顔をされると腹が立つ!」
記憶が混乱しているのに、二人の関係は以前と同じように面倒だった。
「怒るのはあとにしろ」
マティアスが祈祷塔の中から出てくる。
老神官は、両腕いっぱいに古い帳簿を抱えていた。
「中央神託が、町の共同記録を一つずつ削っている。現在の記録を守ろうとすると、祈祷塔全体へ処分が広がる」
「切断できますか」
エステルが尋ねる。
「できる」
「なら、すぐに」
「ただし、暖房も給水も住民登録も、すべて止まる」
周囲の住民から、不安の声が上がる。
「暖房が止まったら」
「この寒さでは、夜を越せない家もあるぞ」
「水路まで止まるのか」
「食料配給はどうなる!」
グスタフが町長の顔へ戻ろうとする。
だが、自分が誰を指揮すればよいのか分からず、言葉に詰まる。
「役場の職員を集めろ。いや、役場の職員は誰だ」
「私に聞かないで!」
リーナが叫ぶ。
「私は役場勤めじゃない!」
「分かっている。いや、今は自信がない」
「あんた、本当にあとで覚えてなさいよ!」
「覚えていられるならな!」
二人とも、怒りながら泣いていた。
「祈祷塔を切ります」
エステルが言った。
住民たちの視線が集まる。
「待ってくれ」
グスタフが止める。
「切れば、町の機能が」
「接続したままでは、皆さんの名前と関係が消えます」
「だが、暖房がなければ死者が出る!」
「手動で動かします」
「手動?」
エステルは町の構造を思い出す。
ラウゼンの暖房は、地中の熱源を神託で各家へ分配している。
神託が止まっても、熱源自体が消えるわけではない。
配管の弁を人が開閉し、時間ごとに流量を調整すれば、一晩程度なら保てる。
給水も同じだ。
水源からの揚水を魔力で自動化しているが、古い手押し機構が残っている。
「各地区へ人員を配置します。暖房弁は四半刻ごとに確認。給水は交代で手押し。食料は名簿ではなく、今ここにいる人数を数えて配ります」
「誰が指示を出す」
グスタフが尋ねる。
「皆さんです」
「それでは混乱する」
「町長が指示してください」
「私は、誰がどの仕事をできるか思い出せない」
「本人に聞いてください」
「本人も忘れているかもしれない」
「では、できるか試します」
「そんな不確かな」
「今ある選択肢の中で、最もましです」
グスタフは、祈祷塔を見上げた。
「神託を止めれば、失敗したとき、私の責任になる」
「止めなくても、皆さんが消えれば町長の責任です」
「どちらへ転んでも責任か」
「町長なので」
「少しくらい慰めてくれ!」
「私も同じようなことを言われました」
グランデル侯爵が苦い顔で口を挟む。
「この女に安心を求めるな。できないことは、できないと言う」
「殿下まで、同じ側なのですか」
「私は王国侯爵だ」
「では、なぜ少し嬉しそうなのです」
「仲間が増えたからだ」
「喜ぶところではありません!」
グスタフは頭を抱えた。
それでも、やがて顔を上げる。
「……切ってくれ」
声が震えていた。
「町長として命じる。ラウゼンを中央神託から切り離す」
「本当によいのか」
アルブレヒトが確認する。
「よくない」
グスタフは答えた。
「怖い。失敗すれば、私は町を凍らせた町長になる。それでも、人の名前が消えて建物だけ残るよりはましだ」
リーナが、隣でグスタフの袖をつかむ。
「一人で責任を取る顔をしないで」
「町長は私だ」
「町はあんただけのものじゃない」
「では、一緒に怒られてくれるのか」
「失敗したら、最初に私が怒る」
「それは助けになっているのか?」
「知らないわよ!」
リーナは泣きながら怒鳴った。
だが、袖を離さなかった。
◇
祈祷塔の地下には、中央神託へつながる十三本の魔力線が通っていた。
十二本は生活神託。
最後の一本は、記録管理。
以前調べたときは、十三本目が壁の裏へ隠されていた。
今は三枚葉の赤い文字が、太い蔓のようにすべてへ絡みついている。
「十三本目だけ切ればいいのか」
アルブレヒトが尋ねる。
「今は、処分命令がほかの十二本へ広がっています。順番を間違えると、住民記録の削除が一気に進む可能性があります」
「どの順番だ」
「分かりません」
「調べろ」
「今、調べています」
「急げ」
「急かすと、見落とします」
「町の人間が消えている」
「分かっています!」
声が大きくなった。
喉に痛みが走り、エステルは咳き込む。
アルブレヒトが、すぐに黙った。
「すまない」
「私も……怒鳴りました」
「お前は謝るな。私が急かした」
「でも」
「議論している時間が惜しい。水を飲め」
渡された水筒を受け取る。
エステルが飲んでいる間、アルブレヒトは赤い魔力線を見つめた。
「私には、何ができる」
「住民の避難を」
「それは騎士たちがやっている」
「では、黙って待っていてください」
「それが一番難しい」
「知っています」
「以前の私も?」
言いかけた彼が、自分で口を閉じた。
エステルも比べなかった。
「今の殿下もです」
「そうか」
短いやり取りだった。
だが、その間に呼吸が整う。
余白視を開き直す。
赤い文字は、町の記録を「中央神託が認めた一つの原本」として扱っている。
そこから各家庭、役場、神殿の帳簿へ複製している。
だから中央の原本を書き換えれば、町全体が同時に変わる。
「原本をなくします」
「何?」
「町の記録を、一冊へまとめない」
「中央線を切るのか」
「その前に、現在の記録を分散させます」
「どこへ」
「人へ」
アルブレヒトが眉を寄せた。
「説明しろ」
「町長が全住民を覚える必要はありません。家族が家族を、隣人が隣人を、店主が客を、それぞれ覚える。完全な名簿を作らず、重なり合う小さな記録に分けます」
「一人が忘れれば、その部分が消える」
「ほかの人の記録と重なっていれば残ります」
「全体を把握する者がいない町になる?」
「今夜だけです」
「明日は」
「王都の中央神託へ依存しない新しい町の記録方法を考えます」
「また、今夜を越えてからか」
「はい」
「お前らしいな」
「それは、以前の私と比べていますか」
「今の感想だ」
エステルは少しだけ笑った。
◇
町じゅうへ紙が配られた。
立派な公文書ではない。
店の包み紙。
子どもの練習帳。
古い請求書の裏。
使える紙なら何でもよかった。
住民は、自分が覚えている相手について一人ずつ書く。
――隣の家の男。名前は思い出せないが、朝になると必ず薪を割る音がする。
――パン屋の女性。夫を亡くしてから、売れ残りを孤児院へ持っていく。
――背の高い少年。井戸の滑車を直せる。
――よく怒鳴る女。たぶん私の姉。子どもの頃、私の菓子を盗んだ。
「盗んでいない!」
広場の一角で、女性が叫ぶ。
「今、思い出したの?」
「思い出した! あんたが自分で食べて、私のせいにした!」
「では、書き直すわ」
「謝りなさいよ!」
「書き直すのが先!」
「そういうところが嫌い!」
関係が戻るたび、町のあちこちで喧嘩が起きた。
泣き声も。
笑い声も。
抱き合ったあと、昔の不満を思い出して再び離れる者もいる。
「記憶が戻ったなら、もっと感動的にならないの?」
ミレイユが呟いた。
「人間ですから」
エステルが答える。
「お姉さまも、私のことを思い出したら、すぐに怒った?」
「私は忘れていません」
「そうだった」
ミレイユは少し寂しそうに笑う。
彼女の記憶は、まだ戻っていない。
それでも今は、エステルの隣で紙を配っていた。
「私も書く」
「誰について?」
「あなた」
ミレイユは紙の上へ、ゆっくりと文字を置く。
――私の姉かもしれない人。
そこで止まる。
「続きが思いつかない」
「無理に書かなくてよいわ」
「それでは、第一編纂官に消されるでしょう」
「記録のために、気持ちを作らないで」
「でも」
「今、知っていることだけでいい」
ミレイユはエステルを見る。
それから、続きを書いた。
――話すと腹が立つ。
――自分を犠牲にしようとするので、さらに腹が立つ。
――でも、いなくなると困る気がする。
「最後が曖昧です」
「今の私の気持ちだから直さないで」
「直しません」
「本当に?」
「内容は」
「誤字は?」
「一つあります」
「直さないで!」
「意味が」
「直さないで!」
二人の声が重なり、近くにいた住民が笑った。
それも一つの証言になる。
◇
日が落ちる前。
町の全地区へ手動の担当が配置された。
誰が何の専門家か分からないため、一つずつ試す。
弁を開けすぎて、ある家だけ暑くなった。
別の通りでは閉めすぎて、住民全員が毛布を持って集まった。
給水機の扱いを知っていると思っていた男は、実は修理ではなく清掃担当だった。
「回す方向が逆だ!」
「先に言ってくれ!」
「今、思い出したんだ!」
水が噴き出し、グランデル侯爵の外套を濡らした。
王国軍司令は、無言で顔の水を拭う。
「申し訳ありません、侯爵閣下!」
「構わない。戦場よりはましだ」
アルブレヒトが、わずかに口元を上げる。
「笑ったか」
「笑っていない」
首筋の傷は反応しない。
本当に笑っていないらしい。
「顔が笑っている」
「外套が濡れなかった者の余裕だ」
「殿下も手押し機へ」
「なぜ私が」
「皆で動かす町なのでしょう」
ミレイユに押され、アルブレヒトまで給水機を回すことになった。
「帝国皇弟がする仕事ではない」
「水は皇弟殿下にも必要です」
「部下がいる」
「今夜は役割を一つへ固定しないんでしょう」
ミレイユは記憶がなくても、都合のよい理屈を使うのが早い。
「お前の妹は、以前からこうなのか」
「もっと遠慮がありました」
「お姉さまは、私をどんな人だと思っているの!」
「今より少しだけです」
「何が少しだけなの!」
「遠慮です」
「腹が立つ!」
「証言へ追加しますか」
「する!」
町は混乱していた。
自動神託で一瞬だった仕事に、人が何人も必要になる。
弁を見張る者。
火力を調整する者。
水を運ぶ者。
名前を失った住民へ、あなたは誰かを教える者。
効率は悪い。
間違いも多い。
それでも、人々は互いに声をかけ続けた。
第一編纂官が求める、矛盾のない完璧な町とは正反対だった。
◇
夜。
すべての分散記録が整ったあと、エステルは祈祷塔の地下へ戻った。
「切ります」
グスタフが深く息を吸う。
「頼む」
エステルは十三本目の記録線へ、黒銀の文字を重ねた。
――ラウゼン住民記録の中央原本を停止。
赤い文字が抵抗する。
――原本を失えば、住民の存在を保証できない。
「保証されなくても、存在します」
エステルは声に出した。
――中央記録にない者は、町民ではない。
「嘘だ」
隣に立つアルブレヒトの傷が燃える。
青白い光が赤い文字へ亀裂を入れた。
エステルは続ける。
――町民とは、一つの名簿へ記載された者を指す。
アルブレヒトが言う。
「それだけではない」
赤い文字が揺れる。
「では、町民とは何だ」
グスタフが背後から尋ねた。
誰も、すぐには答えられなかった。
町に住む者。
税を払う者。
家を持つ者。
名簿に載る者。
どれも一部だ。
「困ったときに、一緒に困る人」
リーナが言った。
「定義としては曖昧です」
エステルが反射的に言う。
「今、それを直す?」
「いいえ」
エステルは、文章へ加えた。
――町民の定義は、現在協議中。
「また保留か」
アルブレヒトが言う。
「はい」
「便利だな」
「乱用はしません」
「今のところ多いぞ」
赤い文字が、分類できずに震える。
エステルは最後の一文を書いた。
――協議が終わるまで、誰も町民記録から削除しない。
十三本目の魔力線が切れた。
祈祷塔が暗くなる。
同時に、広場の暖房灯も、各家へ流れていた自動給水も止まった。
一瞬。
町全体が完全な闇と静寂へ包まれる。
誰かが不安そうに息を呑んだ。
やがて、一軒の家に明かりがつく。
手で火を起こした灯り。
次の家。
その隣。
広場では、住民たちが手動の暖房弁を開く。
古い配管が唸り、少し遅れて蒸気が流れ始めた。
「来たぞ!」
「西通りは?」
「まだ冷たい!」
「弁を半分戻せ!」
「半分って、どのくらいだ!」
「見れば分かる!」
「分からないから聞いてる!」
怒鳴り声と、笑い声。
町は動いている。
神託がなくても。
完璧ではなくても。
人間の手で。
空の赤い円に亀裂が入った。
――第一処分地点、ラウゼン。
その文字の下へ、新しい文章が浮かぶ。
――対象地点を中央記録上に確認できず。
「町を中央神託から外したから?」
グスタフが尋ねる。
「はい。今のラウゼンは、王国の公的記録上、どこにも接続していません」
「地図から消えた町になったのか」
「一時的に」
「税も?」
「記録が届かないので」
「それは、少しだけ嬉しいな」
「グスタフ」
リーナが睨む。
「冗談だ!」
アルブレヒトの首筋は反応しない。
半分ほど本気だったのだろう。
「町は助かったのですか」
ミレイユが尋ねる。
エステルは、空の文字のさらに奥を見る。
赤い円は消え始めている。
だが、処分命令そのものが撤回されたわけではない。
「今夜は」
「今夜だけ?」
「中央記録へ戻れば、また対象になります」
「では、ずっと神託なしで暮らすの?」
グスタフが青ざめる。
「それは無理だ。今日だけでも、弁を二つ壊しかけた。給水機も、いつまで動くか」
「王都へ着くまで待ってください」
「また、それか」
「はい」
グスタフはため息をついた。
「信じていいのか」
「必ず直せるとは言えません」
「少しくらい言ってくれ」
「でも、直すために王都へ行きます」
「途中で、また別の町が狙われたら?」
「助けます」
「それでは、いつ王都へ着くんだ」
エステルは答えられなかった。
一つを助ければ、次が狙われる。
戻るたび、期限は減る。
第一編纂官は、それを狙っているのかもしれない。
「全部を助けようとして、全部へ間に合わなくなる」
アルブレヒトが言った。
「では、次は見捨てるのですか」
「そうは言っていない」
「でも」
「方法を変える」
彼は祈祷塔の切れた魔力線を見る。
「一つずつ戻るのでは遅い。ラウゼンが中央記録から離れた方法を、ほかの町へ送る」
「同じ方法では、第一編纂官にまとめて対処されます」
「各町で変えさせろ」
「誰が教えるのですか」
「この町の人間だ」
グスタフが自分を指さす。
「私たちが?」
「お前たちは、実際に神託なしで町を動かした。失敗も含めて、すべて記録しろ」
「失敗も?」
「成功だけ書けば、ほかの町が同じ失敗をする」
エステルはアルブレヒトを見た。
「今のは、適切です」
「一応か」
「かなり」
「そうか」
グスタフは周囲を見回した。
水浸しになった通り。
熱くなりすぎた家。
担当を間違え、三度も交代した給水班。
決して綺麗な成功ではない。
「これを、ほかの町へ見せるのか」
「恥ずかしい?」
リーナが聞く。
「恥ずかしいに決まっている」
「でも、役に立つかもしれない」
「町長が弁の回し方を知らなかったことまで?」
「特にそこ」
「なぜだ!」
「偉い人も知らないことがあるって分かるでしょう」
グスタフは嫌そうな顔をした。
「……分かった。書く」
「自分で?」
「私の失敗は、私が書く」
「少し格好いいわね」
「少しか」
「調子に乗るから、少しで十分」
二人は、また言い争い始めた。
エステルはその声を聞きながら、切断された十三本目の魔力線へ触れた。
中央記録から外れた町。
公式には存在しない。
それでも、人が暮らし、喧嘩し、名前を呼び合っている。
記録が人を存在させるのではない。
人が生きたあとに、記録がついてくる。
その順番を、第一編纂官は逆にしようとしている。
「エステル」
アルブレヒトが呼ぶ。
「はい」
「また一人で何か決めた顔をしている」
「今度は違います」
「何を考えた」
「王都へ着いたら、中央神託の原本を直すだけでは足りないと思いました」
「では、何をする」
「一つの原本が、すべてを決める仕組みそのものを直します」
「国の制度を?」
「はい」
「大仕事だな」
「契約業務の範囲を超えます」
「報酬を増やすか」
「銀貨四枚では足りません」
「いくらだ」
「まだ計算していません」
「珍しいな」
「国全体の制度改革なので」
「では、あとで見積もれ」
「本当に払うのですか」
「帝国側へ関係する分はな」
「聖王国側は?」
グランデル侯爵が聞いていた。
「王家へ請求しろ」
「王太子が支払うと思うか」
「支払わせる」
アルブレヒトが淡々と答える。
グランデルは少し考え、うなずいた。
「その点については協力しよう」
「皆さん、そこを最初に決めるのですか」
ミレイユが呆れる。
「報酬は重要です」
エステルが答える。
「町が消えかけた直後なのに?」
「働いた対価を曖昧にすると、あとで問題になります」
「お姉さまは、世界が終わる瞬間にも請求書を書きそう」
「終わらせません」
エステルは即答した。
「終わらせないために、請求書を書きます」
ミレイユは、しばらく姉の顔を見つめたあと、笑った。
「やっぱり、あなたは私のお姉さまなのかもしれない」
記憶が戻ったわけではない。
ただ、今のやり取りを積み重ねた結果の言葉だった。
それでよい。
今は。
◇
深夜。
ラウゼンから、十六の町へそれぞれ異なる報告書が送られた。
ある町へは、暖房弁の手動操作。
別の町へは、給水機の動かし方。
別の町へは、中央名簿を分散記録へ移す手順。
そして別の町へは、ラウゼンが失敗したことだけを送った。
――一つの方法を、そのまま真似しないでください。
――町ごとに仕組みが違います。
――分からない部分は、分からないと記録してください。
報告は同じ文面ではない。
だから、第一編纂官は一度に削除できない。
空へ浮かんだ赤い円は、完全に消えた。
その代わり。
王都の方角から、今までとは違う色の光が立ち上った。
金色。
聖女の神託に使われる光だった。
「ミレイユ」
エステルが妹を見る。
ミレイユの胸元にある、亀裂の入った聖女石が強く光っている。
「私ではない」
ミレイユは石を押さえた。
「私、何もしていない」
金色の神託が、王国全土へ広がる。
そこに現れたのは、王太子ジュリアンの名だった。
――王太子命令。
――第一編纂官による記録訂正の正当性を否認する。
――エステル・ヴァレリーの名および存在に関する最終判断を、王太子権限により保留する。
「ジュリアン殿下が?」
ミレイユが息を呑む。
エステルも、空を見上げた。
だが文章は、そこで終わらなかった。
金色の文字の下へ、赤い三枚葉が浮かぶ。
――王太子命令への矛盾を検出。
――署名者の権限を訂正する。
金色の光が、途中から黒く染まる。
王太子ジュリアンの名が、一文字ずつ削れていく。
最後に現れたのは、新しい宣言だった。
――ジュリアン・アレクシス・セレスタンを、王太子位から削除する。
第一編纂官は、エステルを守ろうとしたジュリアンまで、王国の記録から消し始めた。




