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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第二十九話 王太子の地位が消えても、彼の責任までは消えません

 ――ジュリアン・アレクシス・セレスタンを、王太子位から削除する。


 王国全土へ広がった宣言は、夜空に長く残り続けた。


 金色だったはずの文字は、端から黒く変色している。


 王太子ジュリアン。


 その役職だけが文章から切り取られ、空いた場所を黒い染みが塞いでいく。


「ジュリアン殿下……」


 ミレイユが胸元を押さえた。


 亀裂の入った聖女石とともに、首から下げていた婚約印も淡く光っている。


 王太子と聖女の婚約を示す金の板。


 そこに刻まれていたはずの文字が、一部消えていた。


 ――聖女ミレイユを、王太子ジュリアンの婚約者と定める。


 それが今は。


 ――聖女ミレイユを、空位の婚約者と定める。


「空位の婚約者?」


 ミレイユの顔が引きつる。


「私は、誰と婚約していることになったの?」


「婚約相手を失ったまま、婚約という役割だけ残されています」


 エステルは金の板を覗き込んだ。


「待って。何よ、それ」


「第一編纂官にとって、聖女に婚約者がいるという制度は必要でも、相手がジュリアン殿下である必要はないのでしょう」


「人の婚約を、席みたいに言わないで」


「私が言っているのではありません」


「分かっているけど、腹が立つの!」


 ミレイユは金の板を外そうとした。


 だが、鎖の留め具が動かない。


「外れない」


「神託契約が残っているからです」


「相手がいないのに?」


「役割だけ固定されたので」


「最低」


 ミレイユは何度も留め具を引いた。


 首筋が赤くなるほど力を入れても、鎖は切れない。


 エステルが手を伸ばす。


「触らないで」


 ミレイユは反射的に姉の手を払った。


 すぐに、自分でも驚いたような顔をする。


「ごめんなさい」


「嫌なら、触りません」


「嫌というか……」


 ミレイユは婚約印を握りしめた。


「自分でも分からないの。ジュリアン殿下が王太子でなくなったと聞いて、心配になった。助けなければとも思った。でも、それと同時に、少しだけ……安心した」


「安心?」


「これで、結婚するかどうかを決めなくて済むかもしれないと思ったの」


 告白した直後、ミレイユの顔に罪悪感が浮かんだ。


「ひどいでしょう。ジュリアン殿下が危険かもしれないのに、私は自分の婚約のことを考えた」


「両方考えるのは、ひどくないわ」


「本当に?」


「人が危険なとき、別の感情を持ってはいけないという決まりはありません」


「お姉さまも、そうだった?」


「お父さまが矢に射られたとき、助かってほしいと思いました。でも同時に、私を庇って死ねば話がきれいに終わってしまうことへ腹を立てました」


「比べる話が重い」


「具体例を求めたのでは?」


「もっと軽い例がよかったの!」


 ミレイユは泣きそうな顔で怒った。


 その様子を見ていたアルブレヒトが、空の神託から目を離す。


「感情の整理はあとだ。王太子位が消えたことで、王国軍の指揮系統が変わる」


「ジュリアン殿下はどうなるのです」


 ミレイユが尋ねる。


「人間として消されたわけではない。少なくとも、今の文面ではな」


「では、王子ではある?」


「分からない」


 アルブレヒトは、グランデル侯爵を見る。


「王国法では、王太子位を剥奪された第一王子は、どう扱われる」


「通常なら、王族の身分は残る」


 侯爵は険しい顔で答えた。


「ただし、これは正式な剥奪手続きではない。議会も、国王の署名もない。神託が記録を先に書き換えただけだ」


「それでも、宮廷の記録官や衛兵は、書き換え後の記録へ従う?」


「従う者が多いだろう」


「殿下は、宮殿で……」


 ミレイユは言葉を止めた。


 ジュリアンは今、王太子宮にいるはずだ。


 王太子ではない人間が、王太子宮へいる。


 神託記録だけを基準にすれば、不法侵入者になる。


「王都へ連絡を」


 アルブレヒトが記録官へ命じた。


「公式神託網は危険です」


 エステルが止める。


「第一編纂官に内容を読まれます」


「では、どうする」


「ジュリアン殿下が以前使った、十三枚目の鏡へ接続できれば」


「ラウゼンの祈祷塔は中央から切ったばかりだ」


「生活神託の接続は切りました。でも、余白通信は中央網とは別です」


「使えるのか」


「調べます」


「時間は」


「分かりません」


「急げ」


「急かすと見落とします」


「このやり取りを、毎回する必要があるのか」


「殿下が急かさなければ不要です」


「お前が急げば済む」


「そういう問題ではありません」


「二人とも」


 グランデル侯爵が、低い声で割って入る。


「今は王太子の安否が先だ」


「分かっています」


「分かっている」


 二人の返事が重なった。


 侯爵は額を押さえた。


「記憶を失う前から、こうだったのか」


「報告書では、もっとひどかったとあります」


 アルブレヒトが答える。


「殿下」


「事実を述べただけだ」


「私の報告書へ、誰がそのような評価を」


「複数名だ」


「あとで確認します」


「今するな」


     ◇


 ラウゼンの祈祷塔。


 切断した中央記録線の奥に、十三枚目の鏡へつながる細い魔力線が残っていた。


 正規の通信に使う十二本とは違い、誰からも管理されていない。


 書き損じた伝言。


 送信先を失った祈り。


 宛名を書けなかった手紙。


 そうした「届けられなかった言葉」が流れ込む余白だった。


「王太子宮を探せますか」


 ミレイユが鏡の前へ立つ。


「役職で探すと、現在は空位へつながる可能性があります」


「では、ジュリアン殿下個人へ」


「名前が消され始めていた場合、見つからないかもしれません」


「どうすればいいの」


「本人しか知らない言葉を使います」


 エステルは、ミレイユを見る。


「私?」


「ジュリアン殿下との間で、何かありませんか。公式記録に残していない言葉や合図」


 ミレイユの顔が赤くなった。


「あるけど」


「教えてください」


「嫌」


「緊急です」


「分かっているけど、嫌なの!」


「では、私たちは離れます」


「そうして」


 アルブレヒトが扉へ向かう。


 エステルも続こうとしたが、ミレイユに袖をつかまれた。


「お姉さまは残って」


「なぜ」


「一人だと、つながったとき怖いから」


「では残ります」


「殿下方は出てください」


 ミレイユが強い口調で言う。


 アルブレヒトは、少し不満そうな顔をした。


「通信が開いたら呼べ」


「女性同士の秘密です」


「軍事情報が含まれる可能性がある」


「最初の合図だけ!」


「分かった」


 男性たちが祈祷室を出る。


 扉が閉まったあと、ミレイユは鏡の前で深呼吸した。


「笑わないでね」


「内容によります」


「先に約束して!」


「笑いたくなっても?」


「笑わないで!」


「努力します」


「今からって言われるわよ」


「誰に?」


「皇弟殿下に」


 記憶がなくても、ミレイユはすでに二人のやり取りを理解し始めている。


 彼女は鏡へ指を触れた。


「月が三つ沈む夜、白い鳥はどこへ帰る」


 エステルは黙って待った。


 鏡は反応しない。


 ミレイユが続ける。


「銀の庭には帰らない。嘘つきな王子が、鍵を隠したから」


 思っていたより幼い内容だった。


 エステルは口元が動くのをこらえた。


「今、笑った?」


「笑っていません」


「口が動いた」


「呼吸です」


「嘘」


 アルブレヒトがいないため、判定できない。


「昔、ジュリアン殿下と作った合言葉なの」


「いつ頃?」


「十歳くらい」


「その年齢なら、妥当だと思います」


「妥当って何よ!」


 ミレイユが声を上げた瞬間。


 十三枚目の鏡へ、淡い青い光が灯った。


 二人とも黙る。


 鏡の向こうに、暗い部屋が映った。


 豪華な王太子宮ではない。


 石壁。


 崩れかけた棚。


 古い玩具や教材が積まれている。


 王宮の使われていない学習室らしかった。


 しばらく誰も現れない。


「ジュリアン殿下?」


 ミレイユが呼ぶ。


 棚の陰から、一人の男が姿を見せた。


 ジュリアンだった。


 だが、公式の告知神託で見た姿とは大きく違う。


 王太子の正装は着ていない。


 簡素なシャツの襟は裂け、右頬には殴られたような痣がある。金髪は乱れ、片腕には血の滲んだ布が巻かれていた。


「ミレイユ」


 ジュリアンは鏡へ近づく。


「無事だったのか」


「私は無事です。殿下は……」


「もう殿下ではないらしい」


 苦い笑いだった。


「王太子位だけではありません。宮廷記録から、第一王子という記述も消え始めています」


「そんな」


「父上の執務室へ入ろうとしたら、衛兵に止められた。幼い頃から私を知る者なのに、王族を騙る不審者だと言われたよ」


「衛兵の方も、殿下を忘れたの?」


「全員ではない。覚えている者と、記録を信じる者で宮殿内が割れている」


 ジュリアンは、誰かの足音を警戒するように扉を見る。


「この部屋は、幼い頃に私とミレイユが隠れ場所に使っていた。公式の部屋割りから削除されているから、今のところ見つかっていない」


「王宮にも、存在しない部屋が?」


 エステルが尋ねる。


 ジュリアンの目が彼女へ移る。


「エステル」


 迷わず名を呼んだ。


「私を覚えているのですか」


「覚えている」


「処分命令を知っていますか」


「知っている。だから、忘れる前にできることをしようとした」


 ジュリアンは、自分の消えかけた王家の指輪を見る。


「結果として、王太子ではなくなったが」


「なぜ、あの命令を出したのです」


 エステルは尋ねた。


「第一編纂官の記録訂正を否認した理由です」


「君のためだと言えば、聞こえはいいだろう」


 ジュリアンは目を伏せた。


「だが、それだけではない」


「では」


「自分の署名が、どれだけ利用されたか知ったからだ」


 死亡声明。


 軍の進軍命令。


 聖女回収。


 いずれもジュリアンの署名を残したまま、本文だけが書き換えられていた。


「自分の名を使われて、初めて気づいたのですか」


 エステルの問いは、責める響きを隠せなかった。


「そうだ」


 ジュリアンは否定しなかった。


「君が追放されたとき、確認できた。ミレイユを聖女として選んだときも、調べようと思えば調べられた。だが、私はボルデ副院長と神殿を信じた」


「なぜ」


「そのほうが楽だったからだ」


 ミレイユが息を呑む。


 ジュリアンは、鏡越しに彼女を見る。


「エステルが罪を犯した。ミレイユが正しく選ばれた。私は国のために婚約を変更した。そう信じれば、誰かを傷つけた責任を考えずに済んだ」


「私は」


 ミレイユの唇が震える。


「私を愛していたから選んだのではないの?」


「愛していた」


「過去形?」


「今も、そうだと思う」


「思う?」


「自分が王太子ではなくなって、初めて分からなくなった」


 ジュリアンは自嘲するように笑った。


「私は、君を愛していたのか。聖女であり、自分を慕い、王太子である私を必要としてくれる君を愛していたのか。今は、自信がない」


「そんなこと、今言う?」


 ミレイユの目から涙が落ちた。


「私は、あなたが危険だと聞いて心配した。王太子でなくなったなら、結婚しなくて済むかもしれないって安心もした。それでも、あなたが死ぬのは嫌で……なのに、今さら愛していたか分からないって」


「すまない」


「謝ればいいと思っているの?」


「思っていない」


「では、何を言えばいいと思っているの!」


「分からない」


 ジュリアンの答えに、ミレイユが泣きながら笑った。


「みんな、そればかり」


「分からないことを、分かると言わないほうがいいわ」


 エステルが言う。


「お姉さまは、今、殿下の味方をするの?」


「味方ではないわ。正直な部分だけ認めたの」


「細かい!」


「重要よ」


「そういうところが嫌!」


 ジュリアンが二人を見て、かすかに目を細める。


「エステル」


「何でしょう」


「二人は、以前より話すようになったのだな」


「ミレイユは、私を姉だと完全には思い出していません」


「え?」


「第一編纂官に、姉に関する記憶を消されました」


 ジュリアンの顔から血の気が引いた。


「それでも、今のやり取りを?」


「話すと腹が立つから、たぶん姉です」


 ミレイユが答える。


「証明としては弱くないか」


「皆、同じことを言う!」


「王太子だった頃の殿下と、意見が一致しましたね」


 エステルが言うと、ミレイユがさらに怒った。


「そこで笑わないで!」


 声を上げたあと、ミレイユは鏡へ向き直る。


「ジュリアン殿下」


「殿下ではない」


「呼び方を、今すぐ変えろというの?」


「いや」


「では、しばらく殿下と呼びます。癖なので」


「分かった」


「私は、あなたを助けたい」


 ジュリアンが目を見開く。


「でも、助けたから結婚するとは思わないで」


「思わない」


「私が王都へ戻るとも思わないで」


「思わない」


「それから、私を心配させたことは腹が立つ」


「すまない」


「謝らないでとは言っていません」


「どちらだ」


「必要なところでは謝って!」


 ミレイユは涙を拭った。


「私、自分でも何を言いたいのか分からない」


「分かるまで待つ」


「待つと言って、以前は何も確認しなかったでしょう」


「今回は、確認する」


「どうやって」


「君へ聞く」


「今のあなたにしては、少し進歩ね」


「少しか」


「調子に乗るから、少しで十分」


 どこかで聞いた会話だった。


 人間は、相手が違っても似た言葉を使うらしい。


     ◇


 アルブレヒトとグランデル侯爵を呼び戻したあと、通信は軍事会議へ変わった。


「王宮内部の状況を話せ」


 アルブレヒトが鏡へ向かう。


 ジュリアンは、相手が帝国皇弟でも以前のように威張らなかった。


「国王陛下は、三日前から神殿の治療を受けている」


「病気か」


「公表上は。実際には、執務へ必要な記憶を順番に整理されている」


「整理?」


 エステルが聞き返す。


「父上は、議会で意見が割れることを嫌っていた。第一編纂官は、迷わず判断できるよう不要な記憶を減らすと説明した」


「陛下は同意したのですか」


「最初は」


「今は?」


「分からない。私を見ても、息子だと認識しなかった」


 ジュリアンは、淡々と言おうとしていた。


 だが最後の言葉だけ、声が揺れた。


 エステルは、自分の父に「どこかで会いましたか」と聞かれたときの胸の痛みを思い出す。


 ジュリアンが過去にしたことは消えない。


 それでも、父に忘れられた痛みまで当然の罰だとは思えなかった。


「それで、誰が王宮を動かしている」


 アルブレヒトが尋ねる。


「表向きは国王陛下。実務はボルデ副院長と、神託院の編纂局だ」


「ボルデが第一編纂官か」


「違う」


 ジュリアンは即答した。


「本人は、第一編纂官代理と名乗った」


 エステルと父が、以前見た隠し署名。


 第一編纂官代理、ボルデ。


「では、本物は誰です」


 エステルが尋ねる。


「分からない。ボルデは『第一編纂官は個人名ではない』と言っていた」


「役職?」


「それだけではないらしい。彼は、第一編纂官は人が作った制度であり、制度が選んだ人であり、同時に王国の全記録を統一する原則そのものだと言った」


「人なのか制度なのか、どちらです」


「私も聞いた。答えは『どちらか一つに決める必要はない』だった」


 エステルは眉を寄せた。


「第一編纂官が、曖昧な答えを?」


「自分だけは、曖昧でいるのだな」


 アルブレヒトの声に怒りが混じる。


「他人へは一つの役割を押しつけながら、自分は人でも制度でもあると逃げる」


「都合がよすぎます」


「権力を持つ者は、自分へ適用する文章だけ例外を増やす」


 グランデル侯爵が苦々しく言った。


「私にも覚えがある」


 誰も、そこを慰めなかった。


「存在しない部屋については」


 エステルが尋ねる。


「見つけた」


 ジュリアンは周囲を警戒し、声を落とす。


「王立神託院北棟。第七記録室と第八記録室の間だ」


「間に部屋はありません」


「公式図面にはな」


「入り口は?」


「未完成の文書を持って、両方の扉を同時に開く」


「両方?」


「普通は届かない。二人必要だ」


「それなら、一人で来いという命令と矛盾します」


「中から誰かが開けるつもりなのだろう」


「罠ですね」


「最初からそう言った」


 アルブレヒトがエステルを見る。


「今は、私も同意しています」


「珍しいな」


「毎回反対しているわけではありません」


「記録には、かなりの割合で反論すると」


「その記録を、あとで見せてください」


「今は会議だ」


 ジュリアンが、かすかに笑った。


「何だ」


 アルブレヒトが睨む。


「いや。記憶を失っても、あなた方は変わらない部分があるのだと思って」


「お前まで以前の私と比べるな」


 アルブレヒトの口調が強くなる。


「すまない」


 ジュリアンはすぐに謝った。


「今のあなたへ失礼だった」


 アルブレヒトが少し意外そうな顔をする。


「王太子位を失って、急に聞き分けがよくなったのか」


「違う」


「では」


「以前は、謝れば立場が下がると思っていた」


 ジュリアンは、自分の空になった指輪を見る。


「今は、下がる立場がない」


 ミレイユが顔を歪めた。


「そういう言い方、嫌」


「なぜ」


「王太子でなくなったら、何もないみたいに言うから」


「実際、宮殿では何も命じられない」


「命令できるかどうかしか、自分を測るものがないの?」


「……今まで、そうだった」


「では、これから考えて」


「何を」


「あなたが何者なのか」


「私一人で?」


「私に決めさせるつもり?」


「違う」


「なら、自分で考えて。分からないなら分からないままで、途中を見せて」


 ジュリアンは長く黙った。


「分かった」


「すぐ素直になると、それはそれで腹が立つ」


「どうすればいい」


「私にも分からない!」


 ミレイユは本当に面倒そうに頭を抱えた。


 だが、鏡から離れなかった。


     ◇


「ジュリアン」


 エステルが名を呼んだ。


 敬称をつけなかった。


 本人の表情がわずかに揺れる。


「不快ですか」


「分からない。王太子ではなくなってから、誰にもそう呼ばれていなかった」


「では、今は個人名で呼びます」


「君は、私を許したのか」


「いいえ」


 即答した。


 ジュリアンの顔が強張る。


「あなたが被害者になったことと、私へしたことは別です」


「分かっている」


「私の処分文書を確認しなかった。家族が虚偽の自白を求めたとき、止めなかった。ミレイユが私の刑を見直してほしいと頼んだとき、調査せず慰めただけだった」


「はい」


「王太子位を失ったから、その責任が消えるわけではありません」


「はい」


 ジュリアンは、すべて受け止めるように返事をした。


 だが、あまりに従順だと、それもまた違う気がした。


「反論はないのですか」


「できると思うか」


「思いません。でも、ただ私の言葉へ従えば、責任を引き受けたことにはなりません」


「では、どうすればいい」


「それを私に決めさせないでください」


 エステルの声に、苛立ちが混じる。


「あなたは以前から、正しい答えを周囲に用意させようとします。王太子として何をすべきかは神殿へ。婚約者をどう扱うかは慣習へ。謝り方は傷つけた相手へ」


「……そうだな」


「今も、『どうすればいい』と私に聞いた」


「では、聞くことも駄目なのか」


「質問することが駄目なのではありません。自分で考えた案を一つも出さず、相手へ正解を求めることが嫌なのです」


 ジュリアンは黙った。


 すぐに答えなかった。


 以前なら、王太子へ意見するのかと怒ったかもしれない。


 今は、言葉を探している。


「私は」


 しばらくしてから、口を開く。


「王都に残る」


「危険です」


「分かっている」


「残って、何をするのです」


「国王陛下の記憶がどこへ保管されたか調べる。王太子としてではなく、息子として」


 声が震えた。


「それから、私の署名で出された命令を集める。本文が書き換えられる前と後、両方を残す」


「一人で?」


「私を覚えている侍従と書記官が、まだ数人いる」


「彼らを危険へ巻き込むのですか」


「説明して、選んでもらう」


 エステルは、わずかにうなずいた。


「以前より、よいと思います」


「許された?」


「なぜ、そうなるのです」


「少し認められたから」


「行動の一部を評価しただけです」


「厳しいな」


「被害者になった途端、優しく扱われると思わないでください」


「思っていない」


「本当に?」


「少しだけ、期待した」


 ジュリアンは正直に答えた。


 エステルは腹が立った。


 同時に、そのみっともない期待を隠さなかったことだけは、以前と違うと思った。


「期待しないでください」


「努力する」


「今からです」


 アルブレヒトが口を挟む。


「それは私の言葉だ」


「殿下の記憶には、私が言った記録があるのでしょう」


「だから今は私の言葉だ」


「所有権を主張するのですか」


「話をずらすな」


 ジュリアンが、今度ははっきり笑った。


「少し安心した」


「何がだ」


「エステルが、以前より一人ではないことに」


 アルブレヒトの表情が冷える。


「私は、彼女の所有者ではない」


「そういう意味では」


「なら、言葉を選べ」


「すまない」


「それから、過去の私を知っている顔で、今の私を評価するな」


「……分かった」


 ジュリアンは、今度は慎重に答えた。


「今のあなたが、彼女と話し、契約し、ここまで来た。その事実だけを見ます」


「それでいい」


 エステルは二人を見比べた。


 元婚約者。


 現在の契約相手。


 そんな役割で分類すれば簡単だ。


 だが、ジュリアンは王太子位を失い、アルブレヒトは過去の記憶を失っている。


 役割の外で、二人は自分が何者かを選び直していた。


     ◇


「一つ、頼みがある」


 ジュリアンが言った。


「王太子位が削除されたことで、私個人の記録も不安定になっている」


 彼の胸元にある刺繍から、名前の一部が消えかけている。


 ジュリアン・アレクシス・セレスタン。


 そのうち、王家の姓だけが薄くなっていた。


「私について、記録を残してほしい」


「どのような内容を?」


 エステルが尋ねる。


「事実を。良いことだけではなく」


「本当に?」


「君に任せれば、悪いことが多くなるだろう」


「比率は事実に応じます」


「やはり厳しいな」


「嫌なら、ほかの方へ」


「いや。君に頼む」


 エステルは紙を用意した。


「では、私から」


 ペンを走らせる。


 ――ジュリアン・アレクシス。


 王家の姓は、現在不安定なため保留する。


 ――かつて私の婚約者だった。


 ――私の処分文書を十分に確認せず、追放を止めなかった。


 ジュリアンは顔をしかめた。


「最初から、それか」


「重要なので」


「続けてくれ」


 ――ミレイユとの婚約変更を、自らの正しい判断だと信じた。


 ――神殿とボルデ副院長を信頼し、署名後の文書を確認しなかった。


 ――後に、自らの署名が改竄へ利用されたことを知り、第一編纂官の記録訂正を否認した。


 ――その結果、王太子位を失った。


 エステルはペンを止める。


「ほかにありますか」


 ジュリアンは考えた。


「自分が被害者になって初めて、他人の被害を理解した」


「書きますか」


「書いてくれ」


 エステルはそのまま記した。


 ミレイユも、別の紙を取る。


 ――私を抱きしめ、慰めてくれた人。


 ――でも、私が姉の処分を見直してほしいと言ったとき、調べなかった人。


 ジュリアンは目を閉じた。


 ミレイユは続ける。


 ――私は、この人を愛していたと思う。


 ――今も愛しているかは分からない。


 ――助けたいが、助けることと結婚することは別。


「そこまで書くのか」


「残してほしいと言ったでしょう」


「言った」


 グランデル侯爵は、軍人としての記録を書く。


 ――王国第一王子であった人物。


 ――署名管理に重大な過失あり。


 ――ただし、王太子権限を失う危険を承知で、第一編纂官の命令を否認した。


「重大な過失」


 ジュリアンが呟く。


「違うか」


「違わない」


 アルブレヒトも紙を取った。


「殿下も書くのですか」


 エステルが尋ねる。


「現在、王宮内部の情報を提供している者。信頼性は未確定」


「それだけですか」


 ジュリアンが苦笑する。


「私はお前を知らない」


「以前、外交会議で何度も会っています」


「エステルに関係する記憶と一緒に、かなり消えた」


「そうか」


「不満か」


「少し」


「なら、今から情報の正確さで信頼を得ろ」


 ジュリアンは、少し驚いたあと、うなずいた。


「分かった」


「すぐに素直になるな。気味が悪い」


「どうすればいいんだ!」


 ジュリアンが、とうとう声を上げる。


 ミレイユが泣きながら笑った。


「そのくらいのほうが、少し殿下らしい」


「私は、怒ればいいのか、謝ればいいのか」


「自分で決めて!」


「皆、そればかりだな!」


 ジュリアンの声に、初めて人間らしい苛立ちが戻った。


 エステルは、その苛立ちも記録へ加えた。


「今、何を書いた」


「正しい返答を周囲へ求め、得られないと苛立つ傾向あり」


「そこまで書く必要が?」


「今の会話の記録です」


「エステル」


「何でしょう」


「私は、君のそういうところが昔から苦手だった」


「覚えているのですね」


「ああ」


「私も、殿下のそういうところが苦手でした」


「それも書くのか」


「必要なら」


「もう好きにしてくれ」


「許可を得ました」


「今のは投げやりだ!」


 鏡のこちら側で、何人かが笑った。


 ジュリアンも、最後には笑った。


 綺麗な記録ではない。


 英雄でも、完全な被害者でもない。


 失敗し、逃げ、遅れて動き、今も正解を他人へ求めてしまう男。


 それでも、今は王宮に残り、自分がしたことの続きを引き受けようとしている。


 その矛盾した記録が、彼の名前を支える。


 鏡の中のジュリアンの輪郭が、少しだけ濃くなった。


「消失が止まりました」


 エステルが言う。


「皆が、違う内容で記録したからか」


「はい。王太子という一つの役割ではなく、複数の関係ができました」


「王太子でなくなって、ようやく人間として記録されたわけか」


 ジュリアンは、苦い顔で笑った。


「ずいぶん遅かったな」


「遅かったです」


 エステルは同意した。


「そこは、少しくらい否定してくれないのか」


「事実なので」


「やはり厳しい」


     ◇


 廊下の向こうから、鐘が鳴った。


 ジュリアンの顔色が変わる。


「見つかった」


 扉の外で、複数の足音がする。


「王立神託院命令!」


 男の声が響いた。


「未登録者が、王太子宮旧区画へ侵入している! 直ちに扉を開けよ!」


「未登録者?」


 ミレイユが叫ぶ。


「ジュリアン殿下は、この国の王子でしょう!」


「その記録が消されている」


 ジュリアンは鏡から離れ、古い机を扉の前へ動かした。


「長くは持たない」


「こちらから迎えを」


 グランデル侯爵が言う。


「間に合わない。ラウゼンから王都まで、最短でも数日だ」


「隠し通路は?」


 アルブレヒトが尋ねる。


「この学習室の床下から、旧水路へ出られる」


「そこから王宮外へ?」


「神託院北棟の地下まで続いている」


 全員が息を止める。


「存在しない部屋へ近づけるのか」


「おそらく」


「行くな」


 ミレイユが反射的に言った。


「危険よ」


「ここにいても捕まる」


「だからって、一人で第一編纂官のところへ行くの?」


「行かない。今は旧水路へ逃げるだけだ」


「本当に?」


「本当だ」


 ジュリアンの近くにアルブレヒトはいない。


 嘘かどうか確認できない。


「信じてほしいとは言わない」


 ジュリアンはミレイユを見る。


「疑ったまま待っていてくれ」


「嫌な言い方」


「すまない」


「でも……分かった」


 扉が激しく叩かれる。


「開けろ!」


「最後に」


 エステルが鏡へ近づいた。


「王都へ入る方法を教えてください」


「正門は使うな。役職確認の神託がある。記録が不安定な者は、全員捕らえられる」


「では」


「西側の旧水門。王都が中央神託へ統合される前の入り口だ」


「開閉方法は」


「門へ、完成していない文章を読ませる」


「具体的には?」


「結論を書かずに終えた手紙や、相手へ渡せなかった告白、撤回していない異議申立て。そういうものが鍵になる」


「なぜ、そのような仕組みが」


「昔の王都は、行き先を決められない者も入れる都だったらしい」


 今の王都とは正反対だ。


「水門で待つ」


 ジュリアンが言う。


「誰を?」


「王太子を救いに来る必要はない」


 扉へ亀裂が入る。


「王宮の中で、自分の名前を失い始めている人々を助けてほしい」


「あなたも含まれます」


 エステルが言う。


 ジュリアンは、一瞬だけ目を伏せた。


「そう言ってもらえる資格が、まだあるだろうか」


「資格で助ける人を選びません」


「では」


「助けたあとで、責任の続きを話します」


 ジュリアンは、少しだけ笑った。


「分かった。逃げないようにする」


 扉が破られる。


 白い甲冑の衛兵たちが、部屋へ雪崩れ込む。


「侵入者を拘束せよ!」


 ジュリアンが床板を蹴り上げた。


 暗い穴が開く。


 飛び込む直前、彼は鏡へ向かって叫んだ。


「ミレイユ!」


「何!」


「私は、君に戻ってきてほしい!」


 ミレイユの顔が歪む。


「でも、戻るかは君が決めてくれ!」


「今、それを言うの!」


「今しかない!」


「ずるい!」


「すまない!」


「謝るくらいなら、生きてもう一度言って!」


「分かった!」


 ジュリアンが床下へ飛び込む。


 衛兵の剣が鏡を打ち砕いた。


 通信が暗転する直前。


 床へ落ちた一枚の公文書が見えた。


 新しい王位継承記録。


 王太子の欄には、ジュリアンではない名前が書かれている。


 ――新王太子、ミレイユ・ヴァレリーの婚約者。


 だが、その名前だけが黒く塗りつぶされ、まだ読めない。


 第一編纂官は、ジュリアンを削除したあと。


 ミレイユの意思とは関係なく、次の婚約者をすでに用意していた。


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