第三十話 妹の次の婚約者に、私の隣の皇弟が選ばれました
――新王太子、ミレイユ・ヴァレリーの婚約者。
その下にある名前だけが、黒く塗りつぶされていた。
王宮との通信は、すでに切れている。
床下の旧水路へ逃げ込んだジュリアンが無事なのか、今のエステルたちには確かめる方法がない。
それでも鏡が砕ける直前に映った一枚の公文書は、十三枚目の鏡の表面へ焼きつくように残っていた。
「新王太子」
ミレイユが、婚約印を握りしめる。
「私の婚約者……」
黒い部分へ触れようとすると、鏡の文字が波打った。
「触らないで」
エステルは妹の手首をつかんだ。
「どうして」
「誰の名前か分からない状態で、聖女の魔力を流せば、婚約承認として扱われるかもしれない」
「名前も分からない相手との婚約を、どうやって承認するのよ」
「神託は、役割が一致すれば本人の理解を不要とする場合があります」
「それがおかしいって言ってるの!」
ミレイユが声を荒らげる。
「私は、ジュリアン殿下との婚約だって、ちゃんと決めていなかった。お姉さまの代わりに選ばれて、嬉しくて、怖くて、周りからおめでとうと言われているうちに、もう断れないと思ったの」
「ミレイユ」
「今度は、相手の名前すら教えないの? 聖女には婚約者が必要だから、誰でもいいって?」
婚約印の鎖が、ミレイユの首へ赤い跡を作っている。
外そうと何度も引いたせいだ。
エステルは手を離し、妹の前へ回った。
「今度は、誰でもよくないと記録しましょう」
「どうやって」
「まず、名前を確認する」
「確認して、知っている人だったら?」
「それでも、あなたが選んだことにはならないわ」
「好きな人だったら?」
問いの意味を測りかね、エステルは妹を見た。
「私が、その人を好きだったら、自動で婚約させられてもいいことになるの?」
「ならないと思います」
答えたのはアルブレヒトだった。
彼は砕けた鏡の横に立ち、黒く塗られた名前を見つめている。
「好意と、婚約への同意は別だ」
「皇弟殿下は、はっきり言うのですね」
「曖昧にする理由がない」
「では、殿下が好きな人から、勝手に結婚を決められたら?」
「断る」
「相手を好きでも?」
「好きだからこそ、勝手に決められたくない」
ミレイユが少し驚いたような顔をする。
「経験があるのですか」
「ない」
「即答ですね」
「なぜ残念そうなんだ」
「残念ではありません。ただ、少し具体的だったので」
ミレイユの視線が、アルブレヒトからエステルへ移る。
何かを確認するような目だった。
「何?」
エステルが尋ねる。
「何でもない」
「今、私と殿下を見比べました」
「見ただけ」
「理由は?」
「あとで」
「今、教えて」
「お姉さまは、こういうときだけ気づくのが早いのね」
「こういうときとは?」
「あとでと言ってるでしょう!」
ミレイユは婚約印を胸元へ押し込み、鏡に背を向けた。
エステルは納得できなかったが、今は黒い名前の確認が先だ。
◇
ラウゼンの祈祷塔は、中央神託から切り離されている。
それでも十三枚目の鏡に残った王位継承記録は、王都側の原文と細い糸でつながっていた。
エステルが余白視を開くと、黒く塗られた部分の奥に、何層もの候補名が見える。
一つではない。
「どういうことだ」
アルブレヒトが尋ねる。
「新王太子の名前は、まだ確定していません」
「では、なぜ任命文書が出た」
「先に役職を作り、あとから条件に合う人物を入れようとしています」
グランデル侯爵が顔をしかめる。
「王太子は椅子ではないぞ」
「第一編纂官にとっては、同じなのかもしれません」
王太子位が空いた。
聖女の婚約者がいなくなった。
ならば、別の人物を入れる。
人間より先に役割を作り、その枠に合う者を探す。
「候補条件を読めるか」
「確認します」
エステルは、黒い文字の下へ隠された選定規則を追った。
――王族の血を有すること。
――婚姻関係にないこと。
――聖女を保護した実績を有すること。
――神託の虚偽を見抜く印を有すること。
最後の一文を読んだ瞬間。
アルブレヒトの首筋にある傷が、赤く燃えた。
「殿下?」
エステルが振り返る。
同時に、彼の胸元にある帝国皇族の紋章が強い光を放った。
黒い双頭鷲。
レーヴェン帝国皇族の証。
その右半分が、白金色へ変わっていく。
聖王国の十二星。
「何だ、これは」
アルブレヒトが紋章を外そうとする。
だが、留め具が皮膚へ食い込んだように動かない。
エステルの余白視に、候補名が浮き上がった。
最初の文字。
ア。
次に、ル。
「嘘でしょう」
ミレイユが呟く。
黒い文字が、一文字ずつ形を持つ。
――アルブレヒト・レーヴェンハイム。
祈祷室が静まり返った。
エステルは、文字を読み間違えたのではないかと思った。
もう一度見る。
変わらない。
「私?」
アルブレヒトの声には、怒りより先に困惑があった。
ミレイユが、勢いよく首を横へ振る。
「嫌です」
「こちらもだ」
「そんな即答しなくても!」
「お前も即答しただろう」
「私は婚約者にされる側です!」
「私もだ」
「皇弟殿下は、もう少し困ってください!」
「十分困っている」
「顔が冷静すぎます!」
「顔まで指定するな!」
「二人とも」
エステルは止めた。
「今は、言い争っている場合では」
「お姉さまは、平気なの?」
ミレイユが振り返る。
「何が?」
「私の婚約者に、皇弟殿下が選ばれたのよ」
「だから、取り消す方法を」
「そうではなくて!」
ミレイユは、苛立ったように髪をかき上げる。
「お姉さまは、どう思ったの」
「不当な神託だと思いました」
「それだけ?」
「聖女制度が、あなたを一人の人間ではなく婚約枠として扱っていることへ腹が立ちます。それから、殿下を帝国皇弟から勝手に王国の王太子へ変更するのは、外交上も」
「そういう説明じゃない!」
ミレイユの声が大きくなる。
「私が皇弟殿下と結婚することになって、嫌ではないの?」
「嫌です」
答えは、考えるより早く出た。
ミレイユが黙る。
アルブレヒトも、エステルを見る。
「どういう意味で」
ミレイユが、今度は慎重に聞いた。
逃げたい。
婚約への同意がないから。
帝国と王国の問題になるから。
第一編纂官の思惑だから。
正しい理由はいくつもある。
その中へ、自分の感情を混ぜなくても説明はできる。
「個人的にも、嫌です」
エステルは言った。
喉が少し痛んだ。
「殿下とあなたが、本人たちの意思を無視して婚約させられることも。殿下が、誰かの婚約者として記録されることも」
「お姉さまは、皇弟殿下が好きなの?」
まっすぐに聞かれた。
アルブレヒトがいる。
グランデルも、記録官もいる。
全員が聞いている。
「今、ここで答える必要がありますか」
「私は婚約者にされているのよ!」
「あなたへ答えることと、皆さんの前で答えることは別です」
「では、二人だけなら答えるの?」
「……分かりません」
「また、それ」
ミレイユはため息をついた。
「でも、嫌だとは言ったのね」
「はい」
「少し安心した」
「なぜ」
「お姉さまが何も感じていない顔をしたら、私だけが気にしているみたいで嫌だったから」
「何を気にしているの」
「記憶がなくても、二人の間に何かあることくらい分かるわよ!」
アルブレヒトが咳払いをした。
「私を含む話なら、本人の前で勝手に決めるな」
「では、殿下はどう思っているのですか」
ミレイユが問い返す。
「何について」
「お姉さまが、殿下と私の婚約を個人的にも嫌だと言ったことについて」
「ミレイユ」
「お姉さまは黙っていて!」
「なぜ私が」
「さっき私へ言ったでしょう!」
「それは婚約の」
「同じです!」
「同じでは」
「エステル」
アルブレヒトが呼んだ。
エステルは口を閉じる。
彼は少し言葉を選んだ。
「私は、お前が嫌だと言ったことを、不快には思わない」
「それは」
「むしろ、少し安心した」
今度はエステルが黙る番だった。
ミレイユが、満足したようにうなずく。
「やはり」
「何が、やはりだ」
「殿下も、お姉さまが何も感じていなかったら嫌だったのでしょう」
「そこまでは言っていない」
首筋の傷が、淡く赤くなる。
アルブレヒトが不機嫌そうに傷を押さえた。
「言っているようですね」
ミレイユが指摘する。
「黙れ」
「私は、婚約者候補なのに?」
「だから何だ」
「もう少し優しく」
「婚約を認めた覚えはない」
「私もありません!」
言い争う二人を見て、エステルは胸の中へ複雑な感情が広がるのを感じた。
嫉妬。
そんな言葉へ一つにまとめるには、少し違う。
ミレイユへ腹を立てているわけではない。
アルブレヒトを取られると決まったわけでもない。
そもそも、彼は誰のものでもない。
それでも、二人の名前が婚約文書へ並ぶことが嫌だった。
嫌だと思った自分を、浅ましいとも感じた。
「お姉さま」
ミレイユが、急にエステルを見る。
「何?」
「私に腹を立てている?」
「立てていません」
「本当に?」
「はい」
「皇弟殿下と婚約させられたことに、少しも?」
「あなたの意思ではありません」
「意思でなければ、腹は立たないの?」
「感情として、まったく何もないとは言えません」
「何があるの」
「今、聞くの?」
「今だから聞くの」
エステルは、かなり長く迷った。
「羨ましく思う部分があります」
ミレイユの目が大きくなる。
「どうして」
「名前が並んだから」
「でも、勝手に並べられただけよ」
「分かっています」
「私は嫌なのよ」
「それも分かっています」
「だったら」
「理解と感情は、同じ速度で動きません」
以前なら、自分へこんな言葉を許さなかった。
正しいと理解したなら、正しい感情を持たなければならないと思っていた。
だが、人の心は校正後の文書ではない。
「あなたが悪くないと分かっています。それでも、名前が並んだことは嫌でした。そう感じた自分も、少し嫌です」
ミレイユは、しばらく姉を見つめた。
「私も」
「何が?」
「お姉さまと皇弟殿下が話していると、羨ましいと思うときがある」
「記憶がないのに?」
「記憶がないからよ。私だけ二人の間にあるものを知らないでしょう。置いていかれたみたいで嫌なの」
「それで、殿下との婚約を?」
「嬉しいわけないでしょう!」
「では」
「羨ましい気持ちと、婚約したくない気持ちは両方あるの!」
ミレイユが怒鳴る。
エステルは、少し驚いたあとでうなずいた。
「両方でいいと思います」
「お姉さまに言われると腹が立つ」
「なぜ」
「自分だけ理解した顔をするから!」
「理解したとは言っていません」
「そこも腹が立つ!」
二人の姉妹は、しばらく睨み合った。
それからミレイユが、小さく息を吐く。
「でも、言ってくれてよかった」
「羨ましいと?」
「何も感じていないふりをされるよりは」
エステルは、そうかもしれないと思った。
◇
「感情の確認が終わったなら、文書を直すぞ」
アルブレヒトが言った。
「殿下は終わったと思っているのですか」
ミレイユが尋ねる。
「終わっていないなら、あとにしろ」
「男性は、すぐそうやって」
「性別でまとめるな」
「では、皇弟殿下は」
「さらに範囲が狭くなっただけだ」
「もう!」
エステルは黒い候補名の下へある原文を探した。
現行の王位継承神託は、聖女と王太子の婚約を国家安定の条件としている。
だが、さらに古い層には別の文章が残っていた。
「ありました」
「何が」
「婚約相手が決まらない場合の規定です」
――聖女および王配候補は、互いの意思を言葉にて確認する。
――いずれかが同意せぬ場合、婚約は成立しない。
――その場合、王太子位および聖女婚姻は空位のまま保留する。
「空位でいいと書かれている?」
ミレイユが身を乗り出す。
「はい」
「では、なぜ今の制度では必ず婚約者が必要なの」
「後世に修正されています」
原文の上に、赤い文字が重なっている。
――聖女に婚約者がいない状態は、国家の欠陥である。
――欠陥は速やかに補完する。
「私が独身だと、国家の欠陥?」
ミレイユの声が低くなる。
「そう書かれています」
「書いた人を呼んで」
「今は無理です」
「では、会ったら最初に言って」
「何と?」
「余計なお世話ですって」
「記録へ残します」
「そこは残さなくていい!」
アルブレヒトの帝国紋章が、さらに白金色へ侵食される。
鏡の文書へ、新しい行が浮かんだ。
――新王太子候補、アルブレヒト・レーヴェンハイム。
――候補者は、聖女ミレイユを複数回保護した。
――候補者は、聖女の姉を救助し、聖女の信頼を獲得した。
――候補者は婚約を受諾したものとみなす。
「受諾していない」
アルブレヒトが言った。
傷が強く燃え、青白い光が鏡へ走る。
――候補者の発言は、エステル・ヴァレリーによる神託汚染の影響を受けているため無効。
「都合がいいですね」
エステルが呟く。
同意すれば正常。
拒否すれば汚染。
最初から答えは一つしか認められていない。
「私も拒否します」
ミレイユが鏡へ向かう。
――聖女の拒否は、一時的混乱によるものとして保留。
「保留ではなく拒否です!」
――混乱状態の聖女は、正しい婚姻判断を行えない。
「では、いつなら正しいの?」
――婚約へ同意した時点。
「それでは、同意するまで正しくないことになるでしょう!」
「そのとおりです」
エステルは、赤い修正文へ黒銀の線を引いた。
「だから、現在の規定を無効にします」
「できるのか」
アルブレヒトが尋ねる。
「原文を表層へ戻します。ただし、当事者双方の言葉が必要です」
「何を言えばいい」
「相手を選ばないこと。それが相手の価値を否定するためではなく、自分の意思であること」
ミレイユが、少し困った顔でアルブレヒトを見る。
「皇弟殿下」
「何だ」
「私のことを、どう思っていますか」
「今、必要か」
「拒絶するとき、相手の価値を否定しない言葉が必要なのでしょう」
「そうだが」
「では、教えてください」
アルブレヒトは、かなり長く考えた。
「聖女としてではなく、一人の人間として判断しようとしている」
「それは評価?」
「以前よりは」
「私の以前を覚えているのですか」
「報告書で読んだ」
「また報告書」
「今の行動も見ている。姉を忘れても、もう一度関係を作ろうとした。王太子位を失ったジュリアンを助けたいと言いながら、結婚は別だと区別した」
「ほかには?」
「質問が多い」
「それはお姉さまもでしょう」
「姉妹だからかもしれない」
「嫌です」
「なぜだ」
「今は、私のことを聞いています」
「なら、話を戻せ」
「殿下が先に」
「二人とも」
エステルが止める。
「婚約拒否へ、そこまで詳細な評価は不要です」
「お姉さまが、簡単に済ませようとする」
「時間が」
「分かってる!」
ミレイユは深呼吸した。
鏡の前へ立つ。
「私は、アルブレヒト殿下を婚約者として選びません」
金色の聖女陣が足元へ広がる。
「殿下を嫌っているからではありません。冷たいし、話し方は怖いし、お姉さまとすぐ言い争うし、少し面倒な人だとは思いますが」
「そこまで言う必要があるか」
「でも、自分の考えを押しつけるだけではなく、あとで謝ることもできる人です。私を聖女としてではなく、今の私として見ようとしてくれました」
ミレイユは、胸元の婚約印へ手を置く。
「だからこそ、勝手に婚約者へしたくありません。殿下にも選ぶ権利があります。私にもあります」
金の鎖に亀裂が入った。
続いて、アルブレヒトが鏡の前へ立つ。
「私は、ミレイユ・ヴァレリーを婚約者として選ばない」
赤い文字が、彼の喉へ絡みつこうとする。
首筋の呪いが先に燃え、それを弾いた。
「彼女を尊重していないからではない。聖女を保護したことも、その姉を助けたことも、婚姻への同意ではない」
彼は、エステルを一度見た。
「誰かを守りたいと思った行動を、別の誰かへの求婚に訂正するな」
エステルの胸が強く鳴った。
誰か。
名前は言わなかった。
それでも、視線は自分へ向いていた。
鏡の中で、アルブレヒトの候補名が揺れる。
――双方の拒否を確認。
――国家安定条件を満たさない。
――欠陥を検出。
「空位は、欠陥ではありません」
エステルは原文へ指を置いた。
黒銀の文字を流し込む。
「決まっていないことと、壊れていることは違います」
――王太子位は、即時充足を要する。
「誰が決めましたか」
――王国の継続に必要。
「王太子がいなければ、国が今すぐ消えるのですか」
――将来的危険あり。
「将来危険になる可能性と、本人たちの意思を今すぐ無効にすることは同じではありません」
赤い文字が激しく揺れた。
エステルは、古い原文を表層へ引き上げる。
――同意せぬ婚約は成立しない。
――空位を許す。
「許す、では弱い」
アルブレヒトが言った。
「何がです」
「誰かが許可しなければ空位にできないように読める」
エステルは文章を見る。
確かに。
「では、どう直しますか」
「空位は、状態である」
アルブレヒトが答える。
「許可も否定も必要ない」
エステルは、その言葉を書き加えた。
――空位は、誤りではない。
――未決定である。
金色と黒銀の光が重なる。
ミレイユの婚約印が外れ、床へ落ちた。
アルブレヒトの皇族紋章から、白金色の十二星が剥がれていく。
「戻った」
ミレイユが、自分の首へ触れる。
赤い跡は残っている。
だが、鎖はもうない。
「婚約は無効です」
エステルが言った。
「王太子候補からも、殿下の名が」
消えかけた名前を確認する。
アルブレヒト・レーヴェンハイム。
一文字ずつ薄くなり、黒い余白へ戻った。
アルブレヒトが胸元の帝国紋章を確かめる。
「帝国側の記録も戻っている」
「記憶は?」
「何の」
「帝国について、曖昧になっていませんか」
「兄の名も、帝都の場所も、軍の指揮系統も覚えている」
「私については」
エステルは反射的に尋ねた。
アルブレヒトが、少しだけ目を細める。
「今の契約を結んだことは覚えている」
「その前は?」
「戻っていない」
「そうですか」
落胆が声へ出た。
「残念か」
「はい」
エステルは正直に答えた。
アルブレヒトは、少し迷ってから言う。
「私も少し残念だ」
「殿下が?」
「お前が、それほど戻ってほしいと思う記憶を、自分だけ知らないからだ」
その言葉に、エステルは何も返せなかった。
ミレイユが二人を交互に見ている。
「何ですか」
エステルが尋ねる。
「今なら、私が間へ入る必要はなかったと思って」
「最初から、誰も入れていません」
「神託が勝手に入れたでしょう!」
「それと、今の会話は」
「もういい!」
ミレイユは床に落ちた婚約印を蹴りそうになり、直前で止めた。
「これは、どうすればいいの」
「証拠として保管します」
「捨てたい」
「改竄された婚約制度の重要資料です」
「お姉さまにとって、私の嫌な婚約も資料なのね」
「嫌なら、私が持ちます」
「それも何か嫌」
「では、どうしたいの」
「分からない!」
「保留しますか」
「最近、そればかり!」
ミレイユは婚約印を拾い、自分の鞄へ乱暴に入れた。
「私が持つ。でも、婚約を受け入れたわけではないから!」
「誰も言っていません」
「念のためよ!」
◇
婚約の強制は止まった。
だが、王太子位の空欄は残っている。
「これで、新王太子を決める文書も止まったのか」
グランデル侯爵が尋ねる。
「候補者の自動選定は停止したはずです」
エステルは鏡を確認する。
黒く塗られた名前の欄は、空白へ戻っている。
――王太子位、空位。
その記録が、ゆっくりと固定されていく。
「王国へとっては、しばらく混乱が続くな」
「空位のまま、議会と国王が判断するべきです」
「国王陛下の記憶も不安定だ」
「だから、今すぐ一人へ決めるほうが危険です」
グランデルがうなずく。
「同意する」
だが次の瞬間。
鏡の空白へ、一滴の赤い墨が落ちた。
「まだ終わっていません」
エステルが近づく。
赤い墨は三枚葉の形へ広がる。
――自動選定規定の停止を確認。
――王太子位の空位を受理。
――ただし、王家の継続には管理者を要する。
――第一編纂官権限により、暫定王太子を任命する。
「自動ではなく、直接任命?」
アルブレヒトが剣の柄へ手を置く。
空白だった名前の欄へ、文字が現れる。
最初の一文字。
ボ。
エステルの指が震えた。
「まさか」
続く文字。
ル。
デ。
――ボルデ・クラウス。
父が十九年前、エステルを第十三神託の封印鍵へする際に協力した男。
王立神託院の副院長。
エステルが敬愛していた、元上司。
死亡声明と処分命令の裏側にいた、第一編纂官代理。
「ボルデが、新王太子?」
ミレイユが呆然と呟く。
「王族ではありません」
エステルは、すぐに否定した。
「少なくとも、私の知る記録では」
名前のあとへ、これまで見たことのない姓が加わった。
――ボルデ・クラウス・セレスタン。
王家の姓。
さらに、出生記録が表示される。
――現国王の兄。
――旧第一王子。
――王位継承争いを避けるため、四十七年前に出生記録を削除。
グランデル侯爵の顔から血の気が引いた。
「国王陛下に、兄がいた?」
「王国史には記録がありません」
「削除されたのだろう」
アルブレヒトが低く言う。
第一編纂官代理ボルデ。
記録を使って人々の役割を変えてきた男自身が、最初に王家から消された人間だった。
鏡の向こうへ、ボルデの姿が浮かんだ。
いつもと変わらない、穏やかな顔。
エステルへ校正を教え、細かな誤字を見つけるたび、静かに褒めてくれた男。
その頭上に、王太子の金冠が浮かんでいる。
『久しぶりですね、エステル』
声まで、以前と同じだった。
『空位を認めた判断は見事でした。あなたなら、そう直すと思っていました』
「なぜ、あなたが王太子に」
『私が望んだからです』
「それだけで?」
『これまで、誰もが私の記録を消し、役割を奪い、正しい順番ではないと言いました』
ボルデは微笑んだ。
『だから今度は、私が自分の文章を完成させます』
「第一編纂官は、あなたなのですか」
『私は代理です』
「では、本物は誰です」
『あなたも、もう気づいているでしょう』
ボルデの背後に、巨大な書物が開く。
そこには、王国に生きるすべての者の名前が記されていた。
エステル。
ミレイユ。
ジュリアン。
アルブレヒト。
父。
母。
ラウゼンの住民。
何百万もの名前。
その上を、一本の赤い筆が勝手に動いている。
『第一編纂官は、人ではありません』
ボルデは言った。
『この国が、間違いを一つに決めるために作った文章そのものです』
赤い筆が、最初の一文を書き始める。
――新王太子ボルデの即位を妨げる者を、王国民の定義から削除する。
ボルデは、昔と変わらない優しい声でエステルへ告げた。
『王都へ来なさい。私の弟子として』
『そして今度こそ、間違いのない世界を、一緒に完成させましょう』




