第三十一話 消された王子は、私に弟子へ戻れと言いました
『王都へ来なさい。私の弟子として』
鏡の向こうで、ボルデは穏やかに微笑んでいた。
『そして今度こそ、間違いのない世界を、一緒に完成させましょう』
エステルは、すぐに返事ができなかった。
王立神託院にいた頃、何度も見た顔だった。
細い銀縁の眼鏡。
少し右へ傾けて書類を読む癖。
誤字を見つけたとき、責めるのではなく、まず「なぜこの文字を選んだのですか」と尋ねる声。
父以外で、エステルの校正能力を最初に認めた人だった。
王太子妃教育と神託院の仕事を両立できず、眠らないまま机へ向かっていた夜。
ボルデは黙って温かい茶を置き、こう言った。
――正しい文章は、書いた人間が壊れてまで完成させるものではありません。
あの言葉に、何度も救われた。
その同じ人が今、王国中の人間を壊しながら、正しい世界を作ると言っている。
「ボルデ副院長」
『懐かしい呼び方ですね』
「あなたは、もう副院長ではないのですか」
『神託院の記録上は、まだ副院長です。同時に、旧第一王子であり、暫定王太子でもある。人は一つの役割に固定すべきではないと、あなたたちが証明したのでしょう?』
「自分だけ都合よく複数の役割を持つのですか」
『手厳しい』
ボルデは昔と同じように笑った。
エステルが報告書の欠点を遠慮なく指摘したときも、彼はその表情をした。
懐かしいと思ってしまう。
そう感じた自分へ、腹が立った。
「旧第一王子という記録は、本物なのですか」
アルブレヒトが前へ出た。
『もちろん』
「記録を操る人間が、記録を証拠に自分の出自を主張する?」
『ごもっともです、皇弟殿下』
ボルデは少しも不快そうにしなかった。
『では、私の言葉を信じる必要はありません。王都へ到着したら、旧王宮地下の出生石板を確認してください。私の血と、現国王の血が、同じ父母から生まれたものだと記されています』
「その石板も、書き換えられている可能性がある」
『あります』
「否定しないのか」
『私が書き換えていないと断言しても、殿下は信じないでしょう』
「ならば、何をもって本物とする」
『複数の証言。異なる記録。身体に残る反応。それらを重ねて判断する。あなた方がラウゼンで行った方法です』
「私たちの方法を使い、あなたの王位を正当化するのですか」
エステルの声に、怒りが混じる。
『良い方法は、誰が使っても良い方法でしょう』
「目的が違います」
『方法は同じです』
「違います」
『どこが?』
ボルデの問いは、教師だった頃と同じだった。
答えを急かさない。
エステルが自分で言葉を選ぶまで待つ。
その待ち方まで利用されている気がして、エステルは余計に苛立った。
「私たちは、一つの正しい記録を作るために複数の証言を集めたのではありません」
『では、何のためです』
「一つに決められないことを、残すためです」
『結果として、エステル・ヴァレリーが存在するという結論は守った』
「結論だけではありません。私を嫌う人も、疑う人も、知らない人も、そのまま残しました」
『しかし、存在するか否かについては、存在する側へ訂正した』
「私は、ここに立っています」
エステルは自分の胸へ手を置いた。
「生きている人間を、死亡した文章へ合わせて消すことと、目の前にいる人間を生存者として扱うことは同じではありません」
『その判断をしたのは、あなたです』
「皆と話しました」
『最後に文字を書いたのは、あなたでしょう』
エステルの指が止まる。
ラウゼンの暖房神託。
国境の戦時神託。
家族記録。
聖女の婚約規定。
確かに、最後に訂正を書き込んだのはエステルだった。
『あなたは自分が思う以上に、私と似ています』
「似ている部分はあります」
否定しなかった。
ボルデの目が、わずかに細くなる。
『以前のあなたなら、すぐに否定したでしょう』
「以前の私を、勝手に完成させないでください」
『私は、あなたの教育記録をすべて持っています』
「記録があっても、今の私すべてを知ることはできません」
『では、今のあなたを教えてください』
「教えれば、また利用するのでしょう」
『利用という言葉は、悪意を含みすぎています。私は、理解したいだけです』
「理解した相手を、自分に都合よく動かすために?」
ボルデは、そこで初めて少し黙った。
『あなたは、本当に変わりましたね』
「それは褒めていますか」
『寂しいのです』
思いがけない言葉だった。
『私の教えた小さな校正官は、もっと言葉を信じていた』
「今も信じています」
『ならば、なぜ私の言葉を信じない』
「言葉は、言った人の行動と一緒に読みます」
エステルは鏡の向こうを見た。
「あなたは、私を罪人へ仕立てる証拠の偽造を止めなかった。死亡声明を許した。ミレイユを聖女と婚約へ押し込み、処分しようとした。王国軍の命令を書き換え、父を殺そうとした」
『父君を殺す命令を書いたのは、私ではありません』
「第一編纂官ですか」
『そうです』
「あなたは代理なのでしょう」
『代理は、すべてを命じられるわけではありません』
「では、止めようとしましたか」
ボルデは答えなかった。
「止めなかったのですね」
『止めれば、計画全体が崩れました』
「何の計画です」
『第十三神託を再び開き、世界の原文へ到達する計画です』
エステルの足元で、黒銀の文字が震えた。
ボルデは、静かな口調のまま続ける。
『あなたを神託院から外へ出す必要がありました。王都にいる限り、王家と家族と神殿の役割から離れられない。罪人となり、国外へ追放され、帝国皇弟に拾われ、北部離宮へ到達する。それが最も確実な経路でした』
「私を追放させたのは、北部離宮へ行かせるため?」
『はい』
「雪原で死んでいた可能性があります」
『皇弟殿下の巡回経路を調整しました』
アルブレヒトの顔から、表情が消えた。
「何をした」
『帝国側へ偽の魔獣情報を流しました。殿下なら、自ら確認へ向かうと予測していた』
「私がエステルを拾うことまで、文章へ組み込んだ?」
『殿下が見捨てる可能性は低いと判断しました』
「外れていたら」
『別の経路を用意していました』
「人の命を、修正可能な案の一つとして扱うな」
アルブレヒトの声は低かった。
記憶を失っていても、怒りははっきりしている。
『統治者である殿下なら、理解できるはずです。すべての者を救える選択肢などない』
「理解している」
『ならば』
「理解しているからこそ、自分の選択で傷ついた者へ責任があると知っている」
アルブレヒトは鏡へ近づく。
「お前は、計画だったと言えば、傷ついた人間の痛みを手順へ変えられると思っている」
『結果として、エステルは第十三神託を開いた』
「結果が出れば、過程は正当化されるのか」
『少なくとも、無意味ではなかった』
「無意味でないことと、許されることは別だ」
エステルは、アルブレヒトを見る。
彼は過去を覚えていない。
それでも、自分が雪原へ導かれたことを、自分の意思を奪われたと怒っている。
「ミレイユを聖女へ選んだのも、計画ですか」
エステルが尋ねると、妹の肩が強張った。
『正確には、彼女は本当に聖女の力を持っています』
「質問へ答えてください」
『はい。私が候補順位を上げました』
「私の代わりに?」
『あなたは第十三神託の鍵でした。十二神の聖女として登録すれば、二つの役割が衝突する。だから、妹君へ役割を分けた』
「私は」
ミレイユが前へ出た。
「あなたに選ばれたのですか」
『能力は本物です』
「そういう答えは聞いていません」
ミレイユの声が震える。
「私は、自分が誰よりも聖女にふさわしいから選ばれたと思っていた。お姉さまより愛されているから。神様にも、王家にも、家族にも」
『その感情まで、私が作ったわけではありません』
「分かってる!」
ミレイユが叫んだ。
「私が嬉しかったことも、お姉さまへ勝ったと思ったことも、私の感情よ。だから余計に嫌なの。あなたは、私がそう思うと分かって役割を渡したのでしょう!」
『あなたなら、受け入れると考えました』
「私を見ていたのではなく、使いやすさを見ていたのね」
『それだけでは』
「では、私が何を好きか知っていますか」
ボルデは黙る。
「私が聖女の儀式で一番嫌だった時間は?」
答えない。
「ジュリアン殿下と初めて喧嘩した理由は?」
『記録を確認すれば』
「確認しないと分からないのでしょう!」
ミレイユの頬を涙が伝う。
「お姉さまのことは、昔から知っている顔をする。小さな校正官とか、変わったとか。でも私は、聖女と妹と婚約者。それだけ」
『ミレイユ嬢』
「その呼び方も嫌!」
ミレイユは胸を押さえた。
「私を一人の人間として見ていなかった人に、今さら丁寧に呼ばれたくない!」
ボルデの表情が、ほんの少し揺れた。
傷ついたように見えた。
だが、それでミレイユの傷が消えるわけではない。
『では、何と呼べばいい』
「それを私に聞くの?」
『あなたの望む呼び方を』
「自分で考えて。間違えたら、私が嫌だと言うから」
『間違えることを前提にするのですか』
「人と話すなら、当たり前でしょう」
ミレイユは涙を拭った。
「最初から正しい呼び方を当てようとしないで。外したら聞き直して。あなたの世界には、そのやり直しがないから嫌なの」
ボルデは、長く妹を見つめた。
『……ミレイユ』
「今は、それでいい」
許したわけではない。
呼び方一つを、仮に受け入れただけだ。
ボルデには、その違いが理解できないようだった。
◇
『私が王家から消されたのは、四十七年前です』
ボルデは、突然、自分の話を始めた。
『私は現国王より五歳年上の第一王子でした。母は正妃。父である先王も、私を後継者として育てた』
鏡の向こうに、古い映像が浮かぶ。
幼いボルデ。
今より明るい銀髪。
王子の礼装。
隣には幼い弟、現在の国王がいる。
二人は同じ教師から文字を教わり、同じ庭で剣を振っていた。
『十二歳のとき、私は王家の神託にある矛盾を見つけました。王は神意によって選ばれると書かれている一方、王位継承は血統によって定められていた』
「子どもでも気づきそうな矛盾ですね」
エステルが言う。
『ええ。だから、大人たちは誰も質問しなかった』
「なぜ」
『答えれば、王家の正当性が揺らぐからです』
幼いボルデは、父王へ尋ねた。
神が選ぶなら、王子として生まれたことに意味はないのではないか。
血が決めるなら、神託は何のためにあるのか。
答えは得られなかった。
代わりに、第一編纂官が現れた。
『私は、王国の根本神託へ疑義を持つ不適格な後継者と分類されました』
「それだけで?」
ミレイユが聞く。
『最初は王太子位だけを弟へ移す予定でした。しかし、私は納得せず、記録の公開を求めた。だから、存在そのものを削除された』
映像の中で、幼いボルデの肖像から顔が消える。
家族の食卓から椅子が一脚消える。
弟は、兄の名を呼ばなくなる。
母は、子どもを一人しか産んでいないと答える。
『私は王宮から追い出されたのではありません』
ボルデの声は、今も穏やかだった。
『王宮の中にいたまま、誰にも見えなくなった』
食事は出されない。
寝室は物置へ変わる。
使用人は廊下に立つ少年を避けることさえしない。
見えていないからだ。
『自分の名前を壁へ書きました。翌朝には消えました。母の部屋へ手紙を置きました。白紙になりました。弟の前で何度も叫びましたが、彼は音のした方向を不思議そうに見るだけだった』
ミレイユが唇を噛む。
父と母に忘れられたエステル。
姉を忘れたミレイユ。
同じ痛みの、さらに長く深い形。
『三日目に、私は自分の声が本当に存在するのか分からなくなった』
ボルデは、わずかに目を伏せた。
『七日目。先代の第十三校正官だけが、私を見つけました』
「第十三校正官?」
『余白へ落ちた名前を拾う者です。今のあなたと同じ』
エステルの中で、白髪の少女が身じろぎした。
『その方は私を王宮から連れ出し、ボルデ・クラウスという新しい名前を与えました。王子だった記憶を残しながら、別人として生きるために』
「助けてもらったのですね」
『はい』
「なら、なぜ同じことを他人へするのです」
エステルの問いに、ボルデは苦しそうに笑った。
『二度と、私のような人間を作らないためです』
「作っています」
『完成すれば、作られません』
「完成するまでなら、何人消してもよいのですか」
『犠牲を増やしたいわけではない』
「増えています」
『だから急いでいる!』
ボルデが、初めて声を荒らげた。
鏡が震える。
穏やかな仮面の下に押し込められていた怒りが、剥き出しになる。
『間違いが増えるたび、誰かが記録から落ちる! 王家は責任を神へ押しつけ、神殿は神託を王家へ売り、貴族は都合の悪い子どもを家系図から消す! 町は名簿にない者へ暖房を与えない! 兵は書かれた命令だけを信じ、目の前の本人を偽物と呼ぶ!』
ボルデの呼吸が乱れていた。
『あなたも見たでしょう。この世界は、曖昧さを許せば優しくなるのではない。強い者が曖昧さを利用し、弱い者へ責任を押しつける』
「それは事実です」
『ならば』
「だから、全員へ一つの答えを押しつけるのですか」
『少なくとも、同じ規則を適用できます』
「誰が規則を書くのです」
『私と、あなたです』
ボルデは鏡へ手を伸ばした。
『私だけでは足りない。私は余白を見られない。第一編纂官の原則を制御できても、削除された言葉を完全には拾えない』
「だから、私が必要?」
『あなたは、世界で唯一、原文と訂正文と余白を同時に見られる』
「私を弟子として呼んだのではなく、道具として呼んだのですね」
『違います』
「違わない」
『エステル』
「私がいなければ、あなたの世界は完成しない」
『そうです』
「それを、必要としていると言い換えただけです」
ボルデは、返事をしなかった。
エステルは自分の胸が痛むのを感じた。
道具として見られていた。
そう決めれば簡単だ。
だが、ボルデの目には本当に悲しさもある。
弟子として愛情を持っていた部分と、鍵として利用する部分。
両方なのだろう。
両方だからこそ、余計に苦しい。
「私は、あなたに感謝しています」
エステルは言った。
ボルデの目が揺れる。
「文字を教えてくれたこと。私の能力を認めてくれたこと。働きすぎたとき、休ませてくれたこと」
『ならば』
「でも、感謝した人の命令へ従う義務はありません」
『私を裏切るのですか』
「裏切るという言葉は、最初から同じ側だった相手へ使います」
ボルデの顔が強張る。
「あなたは、私に何も知らせず、人生を動かした。私は、あなたの計画へ同意したことがありません」
『結果として、あなたは力を得た』
「それを、あなたへ返すために得たのではありません」
『私は返せと言っていない。一緒に使おうと言っている』
「誰かの記憶を、あなたが正しいと思う形へ整えるために?」
『苦しみだけを消すことが、なぜ悪い』
「その苦しみが、自分のものだからです」
『人は、忘れたいと願う』
「願う人もいます」
『ならば』
「忘れたくない人もいます」
エステルはアルブレヒトを見る。
「疑ったことも、怒ったことも残してほしいと言う人がいます」
アルブレヒトは黙って鏡を見ていた。
『では、本人へ選ばせればいい』
「本当に?」
『もちろん』
「断った人の記憶も、残しますか」
ボルデは答えなかった。
「あなたは、断った人を汚染者に分類する」
『全体を危険へさらす選択なら、止めなければならない』
「それは、選ばせるとは言いません」
『子どもが毒を飲もうとしたら止めるでしょう』
「大人を、全員子どもとして扱うのですか」
『正しく判断できない者を』
「誰が、正しくないと決めるのです」
『第一編纂官が』
「つまり、あなたが?」
『私だけではない。王国の原則が』
「自分が書いた原則へ、責任を隠さないでください」
エステルの声は静かだった。
ボルデの怒りより、静かな言葉のほうが鏡を強く揺らした。
◇
『一つ、見せましょう』
ボルデが右手を上げる。
巨大な書物から、細い赤い糸が伸びた。
鏡を越え、アルブレヒトの首筋へ触れる。
「下がって!」
エステルが手を伸ばす。
だが、糸はすでに傷の中へ入り込んでいた。
アルブレヒトの身体が強張る。
「殿下!」
膝をつき、片手で頭を押さえる。
エステルが支えようとすると、彼は拒まなかった。
金色の瞳が、大きく見開かれる。
「雪……」
「何が見えますか」
「雪原だ」
呼吸が荒い。
「手枷をつけた女がいる。服が破れ、血を流している。それでも、自分より先に書類を拾おうとしている」
エステルの胸が強く鳴る。
最初に出会った日。
「私です」
「分かる」
アルブレヒトはエステルの顔を見る。
今までとは違う目だった。
記録から知った顔ではない。
過去の雪原にいた女と、今のエステルが重なっている。
「お前は、助けは必要ないと言った」
「言いました」
「嘘だった」
「はい」
「私は、嘘をつくのが下手だと言った」
「殿下が?」
「覚えている」
エステルの目から、涙がこぼれた。
思い出した。
ほんの一部分でも。
「よかった」
声が震える。
「思い出してくださって」
「これが、お前の望んだ記憶か」
「はい」
「そうか」
アルブレヒトは、少し笑いかけた。
その表情が途中で歪む。
「待て」
首筋の赤い糸が動く。
「何かが、おかしい」
『記憶を整えただけです』
ボルデの声がする。
「何を消した」
『不要な警戒を』
アルブレヒトの瞳から、雪原で抱いた疑念が薄れていく。
罪人かもしれない。
罠かもしれない。
助けたあと、尋問しようと考えた記憶。
それらが黒く削られていく。
「やめてください!」
エステルが赤い糸をつかむ。
指先が焼ける。
『あなたが望んだのでしょう。殿下に思い出してほしいと』
「この形ではありません!」
『彼はあなたを助けた。あなたを気にかけた。それが重要なのでは?』
「疑ったことも、残してください!」
『なぜ苦しい部分へ執着するのです』
「殿下のものだからです!」
アルブレヒトが、自分の首へ手を当てた。
「エステル」
「はい」
「この記憶を、切れ」
「でも」
「早くしろ」
「戻ったばかりです」
「私の意思ではない形で入れられた」
「雪原の記憶自体は本物です」
「一部だけ選ばれている」
「それでも、殿下は私を」
「私が決める!」
強い声だった。
エステルの手が止まる。
アルブレヒトは苦痛に耐えながら、エステルを見る。
「お前へ忘れてほしくないと言った私が、他人に選ばれた記憶を受け入れると思うのか」
「でも、消せば」
「失うのは私だ」
「私も失います」
「分かっている」
「なら」
「それでも、私の記憶だ」
エステルの涙が止まらない。
ようやく戻った。
自分を雪原で見つけた彼。
最初の会話。
それを、今度は自分の手で切らなければならない。
「嫌です」
エステルは言った。
「嫌でも、やれ」
「命令ですか」
「頼んでいる」
「頼まれたら、余計に嫌です」
「では、一緒に切る」
アルブレヒトは、エステルの焼けた手へ自分の手を重ねた。
「私一人で選ばない。お前も、一人で失わない」
過去の記憶がない彼と。
その過去を取り戻したいエステル。
二人の望みは違う。
それでも今、同じ赤い糸へ手をかけた。
「切ります」
「ああ」
黒銀の文字と、青白い呪いの光が重なる。
赤い糸が切れた。
アルブレヒトの身体が大きく揺れる。
エステルは、今度こそ両腕で支えた。
「殿下」
「……覚えている」
「本当ですか」
「雪原で、お前を見つけた」
エステルの胸に、希望が戻る。
「だが、細部が曖昧だ。何を疑ったかも、助けた理由も、完全には分からない」
「それでいいです」
「いいのか」
「よくはありません。でも、誰かに整えられた記憶よりよいです」
アルブレヒトは、少しだけ目を閉じた。
「同意する」
ボルデは鏡の向こうで、二人を見ていた。
悲しそうにも、苛立っているようにも見える。
『なぜ、そこまで不完全であることを選ぶのです』
「私たちのものだからです」
エステルが答える。
『苦しいのに』
「苦しくない形へ勝手に直されるほうが、嫌です」
『いずれ、後悔します』
「後悔する権利も、私たちにあります」
ボルデは目を伏せた。
『では、王都で続きを話しましょう』
「待ってください」
『何です』
「父と、あなたが十九年前に行った封印について、すべて話してください」
『父君から聞いていないのですか』
「父も、記憶を失っています」
『そうでしたね』
「あなたは、第十三神託の封印へ何を使ったのですか」
ボルデは、すぐには答えなかった。
『私の名です』
「旧第一王子としての?」
『はい。王家から削除された名を、封印の外鍵にした』
「では、私の手形は」
『内鍵です』
エステルの足元に、黒銀の円が浮かぶ。
『第一編纂官の原文へ到達するには、二つの鍵が必要です。王国の歴史から消された者と、家族の記録から消される可能性を持つ者』
「父は、それを知っていた?」
『完全には。彼は、あなたを守るためだと信じていた』
「あなたは?」
『いつか、原文を開くためです』
やはり最初から。
エステルは、鍵として選ばれていた。
『王都北棟の存在しない部屋は、私一人では開きません』
「だから私を呼んでいる」
『それだけではない』
「何が違うのです」
『あなたに、選んでほしい』
ボルデの声が少し掠れた。
『四十七年前、私には何も選ばせてもらえなかった。名前も、家族も、王位も。だから私は、あなたへ選択肢を与えている』
「従わなければ、私を覚える人を処分するという選択肢を?」
『世界を救うには期限がある』
「それは選択ではありません」
『王都へ来れば、分かります』
「行きます」
アルブレヒトが、すぐにエステルを見る。
ミレイユも息を呑んだ。
エステルは続ける。
「一人では行きません。あなたの弟子としてでも、鍵としてでもありません」
『では、何として?』
「あなたが作った文章へ、異議を申し立てる一人として」
ボルデの目が細くなる。
『楽しみにしています、小さな校正官』
「その呼び方は、もうやめてください」
『なぜです』
「私は、あなたが知っていた頃の子どもではありません」
『では、何と呼べばいい』
「エステルと」
『それだけで?』
「今は、それで十分です」
ボルデは、ほんの少し寂しそうに笑った。
『分かりました。エステル』
鏡の映像が薄れていく。
消える直前。
巨大な書物へ、新しい赤い文章が浮かんだ。
――内鍵エステル・ヴァレリーが、王都への来訪を承諾。
「承諾ではありません!」
エステルが叫ぶ。
『言葉は、受け取る者によって意味が変わります』
「だから、勝手に一つへ決めないでください!」
通信は切れた。
鏡に残った文章だけが、赤く光っている。
――内鍵の到着まで、残り五日。
その下へ。
――内鍵が期限内に到着せぬ場合、代替鍵を使用する。
「代替鍵?」
ミレイユが鏡へ近づく。
次の一文が、ゆっくりと現れた。
――代替内鍵、ミレイユ・ヴァレリー。
「私?」
ミレイユの顔から血の気が引く。
エステルの中で、白髪の少女が叫んだ。
『駄目!』
これまで、どこか楽しそうに世界の変化を見ていた少女が、初めて本気で怯えている。
『金色の子を鍵にしたら、十二神と十三番目がぶつかる』
――どうなるのですか。
『扉は開くよ』
少女の声が震えた。
『でも、あの子の中身が全部、扉の向こうへ流れてなくなる』
エステルは、ミレイユの腕を強くつかんだ。
「お姉さま?」
期限は五日。
エステルが王都へ着かなければ。
第一編纂官は、妹を人間ではなく、扉を開くための代用品として使う。
「予定を変更します」
エステルはアルブレヒトを見る。
「五日ではなく、三日で王都へ入ります」
「通常の街道では無理だ」
「通常ではない道を使います」
「どこだ」
「ジュリアンが逃げた旧水路です」
グランデル侯爵が地図を開く。
「入口は王都西水門だ。ここから三日で行くなら、休憩をほとんど取れない」
「行きます」
「エステル」
アルブレヒトの声が低くなる。
「危険性の説明をしろ」
「雪崩の多い山道を通ります。王国軍の検問も避けられません。負傷者や馬が耐えられない可能性があります」
「それだけか」
「私の喉と魔力も、王都へ着くまで持つか分かりません」
「他人事のように言うな」
「ほかに方法が」
「あるかもしれない。今から全員で考える」
「時間がありません」
「三日ある」
「三日しか」
「三日あると言い直せ」
エステルは口を閉じた。
以前、グランデルにも言われた。
同じ時間でも、言葉の置き方で見え方が変わる。
「三日あります」
「それでいい」
アルブレヒトは地図へ手を置いた。
「一人で道を決めるな。ミレイユを助けるのも、王都へ入るのも、全員の問題だ」
「でも、代替鍵は私の妹です」
「だから、お前だけの問題ではない」
ミレイユが、エステルのつかんだ手を見た。
「痛い」
「ごめんなさい」
エステルが力を緩める。
「離してとは言ってない」
ミレイユは、姉の手を握り直した。
「私は、鍵になるつもりはない。でも、お姉さまが代わりに壊れればいいとも思わない」
「私は本来の鍵です」
「本来って、誰が決めたの」
エステルは答えられない。
「ボルデでしょう。お父さまでしょう。第一編纂官でしょう。私たちではない」
「では、どうするの」
「二人とも鍵にならない方法を考える」
「そんな方法が」
「分からない」
ミレイユは、姉の手を握ったまま言った。
「だから、王都へ着くまでに考えるの。お姉さま一人で答えを完成させないで」
エステルは、妹の顔を見た。
記憶は戻っていない。
それでもミレイユは、自分を姉としてではなくても、今ここにいる一人として止めている。
「分かったわ」
「本当に?」
「隠したくなったら、隠したくなったと話します」
「そこまで細かく言うの?」
「必要でしょう」
「面倒」
「あなたも言うようになりましたね」
「殿下たちが毎日言うから移ったのよ!」
三日。
王都までの道。
エステルとミレイユ、二つの鍵。
そして、先に王都地下へ逃げ込んだジュリアン。
全員が壊れずに扉へ到達する方法は、まだない。
それでも、ないから一人を差し出すとは、もう決めなかった。
鏡の赤い期限が、一日分だけ進む。
――残り四日と二十三時間五十九分。
第一編纂官は、秒単位で世界を完成へ近づけている。
だからエステルたちは。
完成させないための旅を、始めることにした。




