第三十二話 王都への鍵は、言えなかった告白でした
――内鍵の到着まで、残り四日と二十三時間五十九分。
鏡に浮かんだ数字が、一秒ずつ減っていく。
その下には、さらに不愉快な文章が残っていた。
――内鍵エステル・ヴァレリーが期限内に到着せぬ場合、代替内鍵ミレイユ・ヴァレリーを使用する。
「まず、この文を消せませんか」
ミレイユが鏡の前で腕を組んだ。
「名前の部分だけでもいいわ。私を代替鍵に指定できなくなれば、急ぐ必要も少しはなくなるでしょう」
「消しても、指定が解除されるとは限りません」
エステルは赤い文章の奥を余白視で確認した。
「表面の表示だけが消え、内部の命令は残る可能性があります」
「では、命令そのものを直して」
「命令の発信元は王都中央神託です。ラウゼンの鏡は、届いた文章を映しているだけなので、ここから原文までは触れません」
「何もできないの?」
「何も、ではありません」
「何ができるの」
「まだ考えています」
「さっきから、そればかり」
ミレイユは苛立たしげに息を吐いた。
責めたいのではない。
怖いのだ。
自分の中身が、扉の向こうへすべて流れ出す。
そう聞かされて、落ち着いて待てるはずがない。
「二人とも、少し離れな」
エッダが祈祷室へ入ってくる。
片手には薬湯。
もう片方には、エステルが見ただけで苦いと分かる色の粉薬があった。
「休んでいる時間はありません」
「その台詞を聞くたび、薬を二倍にしたくなるよ」
「二倍にしても、効き目が二倍になるとは」
「今は薬効の校正を頼んでない」
エッダは薬湯をエステルの前へ置いた。
「飲む」
「あとで」
「今」
「王都まで三日で行く経路を」
「声が出なくなれば、王都へ着いても何も読めない。足が動かなくなれば、鍵だろうが校正官だろうが荷物だよ」
「馬車で」
「山道へ馬車は入れない」
「簡易担架を」
「本気で担がれて行くつもりかい?」
「必要なら」
エッダが、深く息を吐いた。
「この娘を育てた人間は、どうして『休む』を敗北として教えたんだろうね」
「敗北とは思っていません」
「では休みな」
「今は適切ではありません」
「結局同じだよ」
薬湯を押しつけられ、エステルは仕方なく口をつけた。
予想以上に苦かった。
「何が入っていますか」
「喉へ効くもの」
「成分を」
「飲み終わったら教える」
「先に知る権利が」
「患者が薬草一つずつへ質問して、効く前に日が暮れたことがあるんだよ」
「私のことですか」
「ほかに誰がいる」
ミレイユが、少し笑った。
「お姉さま、飲んで」
「あなたまで」
「私は、代替鍵にされたくない。でも、お姉さまが途中で倒れて、結局私が使われるのも嫌なの」
「それは」
「私を守るためだと思うなら、飲んで」
言い返しにくい頼み方だった。
エステルは、眉間へしわを寄せながら薬湯を飲み干した。
「まずいです」
「薬だからね」
「蜂蜜を入れてもよかったのでは」
「入っている」
「これで?」
「元はもっと苦い」
「それは、味として完成していません」
「薬へ完成度を求めるな」
◇
夜明け前。
ラウゼンの町役場で、王都へ入るための経路会議が開かれた。
中央神託から切り離された町では、灯りも暖房も人の手で維持されている。
会議室の暖房弁は調整に失敗したらしく、部屋の右側だけが暑く、左側は外套を脱げないほど寒かった。
「なぜ、こんなに差がある」
グランデル侯爵が右側の窓を開ける。
「閉めて!」
左側にいたミレイユが叫んだ。
「こちらは寒いの!」
「こちらは暑い」
「席を替えればいいでしょう!」
「侯爵である私が、会議の途中で」
「今夜は役割を一つへ固定しないんでしょう!」
ラウゼンで聞いた理屈を、ミレイユが早速利用している。
グランデルは不満そうだったが、結局ミレイユと席を替えた。
「聖女を寒い側へ置いたという記録は残すな」
「すでに書きました」
王国側の記録官が答える。
「なぜだ」
「会議記録なので」
「削れ」
「都合の悪い部分だけ削るのは、今の議題に反します」
「……もういい」
侯爵は諦めた。
机の中央には、王都西部までの古地図が広げられている。
公式街道を使えば、王都まで四日半。
馬を替え、夜も走り続ければ四日。
だが、第一編纂官が定めた期限は、すでに五日を切っている。
到着するだけでは足りない。
王都へ入り、神託院北棟へ到達し、存在しない部屋を開かなければならない。
「最短は、この道だ」
グランデルが地図の西端を指した。
山脈を横切る細い線。
「旧王都水路」
「水路が、なぜ山の上にあるのですか」
ミレイユが尋ねる。
「現在の王都が造られる前、山の雪解け水を旧王都へ送っていた。今の水源神託が完成してから放棄された」
「馬車は?」
「入れない」
「馬は?」
「途中までだ」
「そこから歩く?」
「およそ一日半」
「雪山を?」
「そうなる」
ミレイユは地図を見たあと、エステルを見る。
「お姉さま、歩ける?」
「歩きます」
「できるかを聞いたの」
「必要なので」
「それは答えになってない!」
「歩けないと決まったわけではありません」
「歩けるとも決まっていないでしょう!」
二人の声が大きくなる。
「エステルは、途中で私が運ぶ」
アルブレヒトが淡々と言った。
エステルとミレイユが同時に彼を見る。
「その必要はありません」
「必要になってから話すと遅い」
「殿下も負傷しています」
「お前よりは歩ける」
「比較する基準が」
「雪山で倒れかけた回数なら、私が少ない」
「一度しか一緒に雪山へ」
「その一度で十分だ」
「記憶が戻ったのですか」
エステルは思わず身を乗り出した。
アルブレヒトが、わずかに表情を曇らせる。
「断片だけだ。雪原でお前を見つけたこと。倒れたこと。細部は曖昧だ」
「そうですか」
落胆が声に出る。
「すまない」
「殿下が謝ることでは」
「今のお前が残念そうだったから、そう言った」
「慰めですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「記憶がない私に、適切な返答を求めるな」
「記憶がなくても、殿下自身の言葉はあるでしょう」
「なら、言い直す」
アルブレヒトは、少し考えた。
「私も、残りを思い出せないことが腹立たしい」
エステルの胸が、少しだけ温かくなった。
「それなら、伝わります」
「最初から、その顔をしろ」
「どの顔ですか」
「今の顔だ」
「自分では見えません」
「鏡を持ってこようか」
「会議中です」
「お前が始めた話だろう」
「殿下が」
「二人とも」
グランデルが地図を叩いた。
「王都へ着く前に、会議だけで期限が来るぞ」
◇
旧王都水路を通るには、二つ問題があった。
一つは、入口である西山水門が、公式記録から削除されていること。
もう一つは、水門が「未完成の文章」を鍵として求めることだった。
「未完成の文章とは、どういう意味ですか」
エステルが尋ねる。
マティアスが古い水路台帳を開く。
「旧王都は、王家に認められた者だけの町ではなかったらしい。名前を決められない子ども。どの組合にも属さない職人。判決を待つ罪人。行き先を決められない旅人。そうした者も、水門から入った」
「決まっていないことが、通行条件?」
「完成した文章だけを通す正門に対し、西水門は未完成の者を通す門だった」
「では、『私は何者になるか決まっていません』と書けば」
「それで開くなら苦労はない」
マティアスは台帳の一文を指した。
――結論を隠した文章は、未完成ではない。
――書き手自身にも結末が分からぬ文章のみ、門は受理する。
「判定するのは誰です」
「門だ」
「門が、人間の内心を?」
「古い神託だからね。今ほど分類は細かくないが、嘘は通りにくい」
アルブレヒトの首筋へ視線が集まる。
「私を見るな」
「殿下の呪いと似た仕組みかもしれません」
エステルが言う。
「私を鍵へ追加する気か」
「一人へ背負わせるのはよくないのでしょう」
「そう言った」
「なら、役割を分けます」
「待って」
ミレイユが不安そうに姉を見る。
「分けるって、何を?」
「鍵です」
エステルは白髪の少女へ、心の中で問いかけた。
――内鍵を、一人ではなく複数へ分けられますか。
『昔は、そうしてたよ』
少女の答えは、あまりにも簡単だった。
――できるのですか。
『できる。でも、みんな一つの答えが好きになったから、鍵も一人になった』
「どうしたの?」
ミレイユが姉の顔を覗き込む。
「白髪の子と話しています」
「私には聞こえないのに、普通に会話を続けないで」
「説明します」
エステルは、少女から聞いた内容を皆へ伝えた。
古い第十三神託の扉は、本来、一人の人間を鍵としていなかった。
名前を失った者。
言葉にならない力を持つ者。
意図的な嘘を見抜く者。
それぞれが、鍵の一部を担っていた。
後世になり、儀式を簡単にするため、一人へ役割がまとめられた。
その結果が、エステルという内鍵。
そして代替鍵としてのミレイユだった。
「簡単にするため、人一人を空にする仕組みへ変えた?」
ミレイユの声が冷たくなる。
「おそらく」
「誰が、そんなことを」
『第一編纂官だよ』
少女の言葉を、エステルが伝える。
「最初の?」
「正確な時代は分かりません。でも、扉を開くたび複数の人間から同意を取るのは、効率が悪いと判断されたのでしょう」
「効率」
アルブレヒトが吐き捨てるように言う。
「人間を一人壊すほうが、書類上は簡単だった?」
「そういうことだと思います」
「戻せるのか」
「古い方式へ?」
「ああ」
エステルは少女へ尋ねる。
――できますか。
『三人いれば』
――誰です。
『あなた。金色の子。それから、嘘で焼ける人』
エステルは、アルブレヒトを見る。
「なぜ私を見る」
「第三の鍵が、殿下だからです」
「断る」
即答だった。
「まだ、何をするか説明していません」
「説明される前から嫌な予感がする」
「私とミレイユの負担を分けるだけです」
「その言い方は卑怯だな」
「何がです」
「断れば、お前たち二人を危険へ置くように聞こえる」
エステルは言葉を止めた。
意図していなかった。
だが、結果としてはそう聞こえる。
「申し訳ありません」
「謝る前に、説明しろ」
少女によれば。
エステルは、削除された文字を見る。
ミレイユは、言葉にならない神力を流す。
アルブレヒトは、扉が示す文章のうち、意図的な嘘を拒絶する。
三人が同時に同意した場合だけ、扉が開く。
一人でも拒否すれば開かない。
「つまり」
アルブレヒトが確認する。
「私は嘘を見抜くだけで、記憶や中身を吸われるわけではない?」
「少女は、そう言っています」
「少女本人を出せ」
「できません」
「なぜ」
「私の中にいるからです」
「その説明を聞くたび、不安が増える」
「私もです」
ミレイユが手を上げる。
「私は、何を失うの?」
「神力を使います。量は、扉の大きさによると」
「全部?」
『分かんない』
少女が、あっさり答える。
エステルは言いにくそうに黙った。
「今、何て言ったの」
「分からないと」
「分からないのに、やる話を進めていたの?」
「危険性を確認している途中です」
「確認し終わってから提案して!」
「時間が」
「時間を理由に、また私を置いていく!」
「置いていません」
「では、今の私の意見を聞いて」
「聞きます」
「怖い」
ミレイユは、はっきりと言った。
「鍵にされるのも怖い。でも、三人に分けた結果、お姉さまか皇弟殿下が壊れるのも怖い」
「私も怖いわ」
エステルが答えると、ミレイユは少し驚いた。
「お姉さまも?」
「はい」
「いつも、怖くない顔をするから」
「怖くないのではなく、言う必要がないと思っていました」
「今は?」
「言ったほうが、一人で決めにくくなるので」
「そう」
ミレイユは、少しだけ肩の力を抜いた。
「では、怖いまま考える」
「はい」
「やると決めたわけではないから」
「保留ですね」
「最近、お姉さまがそれを言うと腹が立つ」
「なぜ」
「少し嬉しそうだから」
「嬉しくは」
アルブレヒトの傷は反応しなかった。
本当に嬉しくはない。
ただ以前より、保留を間違いだと思わなくなっただけだった。
◇
王都へ向かう者は、十二人に絞られた。
エステル。
ミレイユ。
アルブレヒト。
グランデル侯爵。
エッダ。
帝国騎士三名。
王国騎士二名。
両国の記録官が一名ずつ。
残る兵はラウゼンへ置き、中央神託から離れた町を守る。
「私まで行く必要があるのか」
グランデルが尋ねた。
「王都側へ交渉団として入るには、王国軍司令の身分が必要です」
エステルが答える。
「その身分も、ボルデに消される可能性がある」
「その場合は、命令を間違えた人として記録します」
「ほかに呼び方はないのか」
「自分で、何と呼ばれたいですか」
グランデルは考えた。
「停戦を選んだ者」
「間違えて戦争を始めかけた部分は?」
「必要か」
「両方あったほうが、消されにくいです」
「では、戦争を始めかけ、途中で止めた男」
「少し長いですね」
「お前が言わせたのだろう!」
「記録には適しています」
侯爵は、不満そうに記録官へ署名を渡した。
マティアスとグスタフ、リーナは町へ残る。
「王都へ着いたら、必ず町を中央記録へ戻してくれ」
グスタフが頼む。
「以前と同じ仕組みへ戻してよいのですか」
「それは困る」
「では、どうしたいです」
「町のことを、町で決めたい。だが、全部を人の手で動かすのも無理だ」
「都合がいいですね」
「町長は、都合のいい案を探す仕事でもある!」
「それは記録しておきます」
「悪い意味に聞こえる!」
リーナが、横から笑った。
「戻ったら、続きを考えるんでしょう」
「はい」
「戻らなかったら怒るから」
「戻らなければ、怒れないのでは」
「そういう話じゃない!」
「では、どういう」
「お姉さま」
ミレイユが、姉の袖を引いた。
「今は、分からないまま受け取って」
エステルは少し迷い、リーナへ向き直る。
「分かりました。怒られるために戻ります」
「それも少し違うけど、今はいい」
◇
一行は、夜明けと同時にラウゼンを出発した。
雪山の麓まで馬で進み、そこから旧水路へ入る。
道は、地図へほとんど残っていない。
街道ではないため、橋も休憩所もない。
午前のうちに、最初の馬が雪へ脚を取られた。
騎士たちが引き上げている間、エステルは地図を確認し続ける。
「少し休め」
アルブレヒトが言う。
「今、方角を」
「十分前にも確認した」
「雪で目印が変わる可能性があります」
「十分で山が動くのか」
「雪崩なら」
「縁起の悪いことを言うな」
「危険性の説明です」
「説明が具体的すぎる」
エステルは地図から目を離した。
アルブレヒトの左肩には、荷袋が一つ多く載っている。
「それは、私の荷物では?」
「そうだ」
「自分で持てます」
「持てるかどうかではない」
「では、なぜ」
「昨日の時点で、お前は右肩を動かすたび顔をしかめていた」
「見ていたのですか」
「今のお前を見ている」
以前の自分ではなく。
今の。
エステルは、少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「素直だな」
「合理的な配慮なので」
「礼へ理由をつけるな」
「理由のない礼は」
「今は、それでいい」
ミレイユが後ろから追いつく。
「お姉さまだけ、荷物を持ってもらっているの?」
「必要ないと言いました」
「私の荷物も持ってください」
「なぜ私が」
アルブレヒトが嫌そうに聞く。
「私は、代替鍵です」
「今、その役割を利用するな」
「では、聖女です」
「役割を変えただけだ」
「疲れている一人の女性です」
「自分で持て」
「お姉さまには持つのに?」
「エステルは肩を痛めている」
「私も、足が少し痛い」
「本当か」
「少し」
「どの足だ」
「……右?」
「今、決めただろう」
「どうして分かるの!」
アルブレヒトの傷は反応していない。
嘘と判定するまでもなく、顔へ出ていたらしい。
ミレイユは頬を膨らませ、自分の荷物を背負い直した。
「やはり、二人の間へ入れない感じがする」
「何の話ですか」
「何でもない」
「あとで教えると言った話?」
「忘れて」
「忘れさせる話は、もう禁止です」
「そういう意味じゃない!」
◇
日が沈む前。
一行は、西山水門へ到着した。
崖の途中に、石造りの門が埋まっている。
扉には取っ手も鍵穴もない。
代わりに、十三枚の白い石板が並んでいた。
最上部には、古い王国語で一文が刻まれている。
――行き先を決められぬ者へ、道を残す。
「ここから旧水路へ入れる」
グランデルが周囲を確認する。
「だが、時間がない。日が完全に落ちれば、この辺りは吹雪になる」
「すぐに開けます」
エステルは、白紙を一枚取り出した。
「何を書く」
アルブレヒトが尋ねる。
「結末の分からない文章です」
「誰から」
「私が」
「また最初に自分を使うのか」
「調査です」
「違いを説明しろ」
「門が反応するか確認するだけです」
「反応した結果、何が起きるか分からない」
「では、殿下が?」
「なぜ私になる」
「最初に自分を使うなと」
「ほかの選択肢を出せ」
「私が書きます」
ミレイユが前へ出た。
「ミレイユ」
「お姉さまより、私のほうが未完成のことが多いでしょう」
「競うものでは」
「ジュリアン殿下のこと。聖女を続けるか。お姉さまを姉だと思えるか。いくらでもある」
ミレイユは紙を受け取り、しばらく考えた。
やがて、文字を書く。
――私は、ジュリアンを今も愛しているのか。
「疑問文です」
エステルが言う。
「駄目?」
「門が求めるのは、未完成の文章です。疑問文は、疑問として完成しています」
「細かい!」
「鍵なので」
「では」
ミレイユは書き直した。
――私は、ジュリアンを今も。
そこで筆を止める。
好き。
愛している。
許せない。
助けたい。
どの言葉も入りうる。
だが、今は決められない。
ミレイユが石板へ紙を置くと、十三枚のうち一枚が金色に光った。
「開いた?」
「一枚だけです」
エステルが確認する。
「全員分必要なのかもしれません」
「十二人いるのに、石板は十三枚ですね」
王国側の記録官が数える。
「残り一枚は?」
『わたし』
白髪の少女が、エステルの中で言った。
――あなたも書けるのですか。
『声を借りれば』
「十三人います」
エステルが皆へ説明する。
「少女も含めて」
「私には見えない者を人数に数えるのか」
グランデルが不安そうに言う。
「本人は、その言い方に腹を立てています」
「聞こえるのか」
「はい」
「では、すまないと」
『今のは許す』
「許すそうです」
「ずいぶん軽いな」
◇
全員が、一つずつ未完成の文章を書いた。
帝国騎士は。
――私は皇弟殿下へ忠誠を誓ったが、その命令が国を誤らせたとき。
王国騎士は。
――私は王国へ仕えている。しかし、王国の命令が民を殺すなら。
エッダは。
――私は患者を救いたい。それでも、本人が治療を拒んだとき。
「エッダさんにも、迷うことがあるのですね」
エステルが言う。
「あるに決まってるだろう。治療官を何だと思ってる」
「決断が早い方だと」
「早く見えるようにしてるだけだよ。迷ってる顔を見せると、患者が不安になることもある」
「では、私へも?」
「あんたは少し不安になったほうが休む」
「扱いが違いませんか」
「患者ごとに変える」
グランデルは長く悩んだあと。
――私は命令へ従い、戦争を始めかけた。償うために今後。
そこで筆を止めた。
「最後は決めていないのですか」
エステルが尋ねる。
「死ぬまで責任を取る、では簡単すぎる。職を辞すのか、残って制度を変えるのか、まだ分からん」
「逃げないために残る、という考えも」
「それを自分へ都合のよい言い訳にしている可能性がある」
「では、今は未完成ですね」
「だから書いた」
石板が、また一つ光る。
アルブレヒトの番になった。
彼は紙を前に、なかなか書こうとしなかった。
「思いつきませんか」
エステルが尋ねる。
「ある」
「では」
「お前は向こうを向け」
「なぜ」
「見られたくない」
「門へ置けば、見えるのでは」
「裏返す」
「読めなければ、門が」
「門には読めるだろう」
「私も確認を」
「必要ない」
「重要な鍵です」
「だからこそ、私の言葉で書く」
エステルは納得できなかった。
だが、本人が見せたくない文章を、鍵だからと読む権利はない。
「分かりました」
背を向ける。
背後で、ペンが紙を走る音がした。
一度止まり。
また短く動く。
「終わった」
「見てよいですか」
「駄目だ」
「では、石板へ」
アルブレヒトは紙を裏返したまま置いた。
石板が青白く光る。
門は、未完成の文章として受理した。
「何を書いたの?」
ミレイユが尋ねる。
「言わない」
「お姉さまのこと?」
「なぜそうなる」
「顔が、少しだけ」
「顔の話をするな」
アルブレヒトは、明らかに不機嫌になった。
エステルは気になった。
とても気になった。
だが、聞けば嫌がる。
「今、読みたいと思っただろう」
「思っていません」
首筋の傷が淡く赤くなる。
「エステル」
「……思いました」
「正直でよろしい」
「見せる気は?」
「ない」
「一部だけ」
「交渉するな」
ミレイユが呆れた顔をする。
「二人とも、今それをする?」
◇
最後に、エステルの番が来た。
十二枚の石板が光っている。
白髪の少女も、エステルの手を借りて一文を書いた。
――わたしは、人になりたいのか、神でいたいのか、それとも。
十三枚目を開くために、残るのはエステルの文章だけ。
紙を前にする。
書けない。
「どうした」
アルブレヒトが尋ねる。
「未完成のことが多すぎて、どれを書くべきか」
「一番、答えが出ていないものを書け」
「それが分かれば、答えが出ています」
「面倒だな」
「はい」
エステルは、候補を考えた。
父を許すのか。
母を、もう一度母として受け入れるのか。
ミレイユと、どのような姉妹になりたいのか。
ジュリアンをいつか許すのか。
ボルデを恩師と思い続けるのか。
世界を正すのか、壊すのか。
どれも決まっていない。
だが、紙へ書こうとすると、どれも文章として整えたくなる。
「お姉さま」
ミレイユが隣へしゃがんだ。
「正しく書こうとしすぎてない?」
「鍵ですから」
「未完成の文章が鍵なんでしょう」
「だからといって、意味が通じなくてもよいわけでは」
「門にしか見せないのよ」
「皆さんもいます」
「私たちは、見ない」
ミレイユは立ち上がる。
「後ろを向いて」
皆へ声をかけた。
「なぜ私たちまで」
グランデルが尋ねる。
「皇弟殿下だけ秘密にできて、お姉さまだけ全員に見られるのは不公平でしょう」
「私は、公開しても」
「本当に?」
エステルは口を閉じた。
「見せたくないことも、あるでしょう」
「……あります」
「では、隠していい」
「隠すことと、嘘をつくことは」
「違う。お姉さまが、私に教えたんでしょう」
全員が背を向けた。
アルブレヒトだけが、最後までエステルを見ている。
「殿下」
「一つだけ確認する」
「何を」
「お前が書くことで、危険はないか」
「文章を書くだけです」
「本当に?」
「分かりません」
「正直だな」
「最近、練習しています」
「なら、書け。何か起きたら呼べ」
彼も背を向ける。
エステルは、白紙と向き合った。
自分の中で、最も答えが出ていないこと。
思い出してほしい。
忘れた今の彼も消したくない。
名前を呼ばれると嬉しい。
ミレイユとの婚約が嫌だった。
目の届かない場所へ行かれると困ると言われ、胸が温かくなった。
それを、どの言葉へ続けるのか。
エステルは、ゆっくりと書いた。
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。
そこで手が止まった。
見ている。
思っている。
扱えない。
終わらせたくない。
どの言葉を入れても、今の気持ちすべてにはならない。
文章を完成させられなかった。
「書けました」
声をかける。
全員が振り返る前に、紙を裏返して石板へ置いた。
最後の石板が、黒銀色に光った。
西山水門の奥で、重い音が響く。
何百年も動いていなかった石扉が、ゆっくり左右へ開いていく。
冷たい地下水の匂い。
王都へ続く、暗い水路。
「開いた」
ミレイユが息を吐いた。
「行きましょう」
エステルは、自分の紙を回収しようとした。
だが、石板から剥がれない。
「なぜ」
文字が、紙から石へ転写されている。
アルブレヒトの文章も。
ミレイユの文章も。
全員の未完成の言葉が、門の内側へ記録されていく。
「これは」
マティアスが残した台帳の一文を、記録官が読み上げる。
「『水門へ預けた文章は、書き手が結末を選ぶまで、王都の余白へ保存される』」
「では、誰かに読まれる可能性が?」
エステルが青ざめる。
「お前は、何を書いた」
アルブレヒトが尋ねる。
「言いません」
「私の文章を知りたがっただろう」
「それと、これとは別です」
「同じだ」
「殿下も教えてくださるなら」
「交渉するな」
「では、私も言いません」
ミレイユが、二人を見比べる。
「もしかして、同じようなことを書いたの?」
「違う」
「違います」
二人の返事が重なった。
アルブレヒトの首筋の傷が、淡く赤くなる。
エステルの足元でも、黒銀の文字が震えた。
「二人とも、完全には違わないみたいだけど」
「ミレイユ」
「何も言ってない!」
そのとき。
開いた水門の奥から、足音が聞こえた。
全員が武器へ手を伸ばす。
暗闇の向こうに、一つの灯りが揺れる。
「誰だ」
アルブレヒトがエステルの前へ立った。
「その声は……皇弟殿下か」
疲れ切った男の声。
灯りが近づく。
現れたのは、泥と血にまみれたジュリアンだった。
右腕を吊り、片足を引きずっている。
「ジュリアン殿下!」
ミレイユが駆け出す。
「待て!」
アルブレヒトが止めるより早く、ジュリアンは膝から崩れた。
ミレイユが身体を支える。
「どうしたの。王宮から逃げたあと、何があったの!」
「旧水路で……待つつもりだった」
「では、どうしてこちらまで」
「ボルデが、水路の出口を閉じた」
ジュリアンは息を切らしながら、エステルを見る。
「王都へは……この道のままでは入れない」
「なぜです」
「第一編纂官が、西水門の鍵を変えた」
「今、開きました」
「外から入る鍵ではない」
ジュリアンは震える手で、一枚の赤い紙を差し出した。
「王都側の出口を開けるには、内鍵の一人が……未完成の文章を完成させなければならない」
エステルの胸が冷える。
「どの文章を?」
「今、水門へ預けたものだ」
ジュリアンは、開いた石扉を見た。
「しかも、第一編纂官が結末の候補を三つ用意している」
門の内側へ、赤い文字が浮かび上がった。
――エステル・ヴァレリーが、未完成の文章を完成させるまで、西水門出口を封鎖する。
エステルの書いた文が、その下へ現れる。
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。
赤い筆が、勝手に続きを書き始めた。
第一の候補。
――利用している。
第二の候補。
――必要としている。
第三の候補。
――愛している。
全員の視線が、エステルへ集まる。
「なぜ、皆さん見るのですか」
声が掠れた。
アルブレヒトだけは、赤い文章ではなく、エステルの顔を見ていた。
「選ぶな」
彼は低く言った。
「どれかを選ばなければ、王都へ入れません」
「第一編纂官が用意した言葉から選ぶな」
「でも、時間が」
「答えがないなら、ないまま通る方法を探す」
「そんな方法が」
「ある」
アルブレヒトは、自分の石板へ向き直った。
「私の未完成の文章も使え」
「何と書いたのですか」
彼は、しばらく黙った。
「今は言う」
青白い石板へ、裏返されていた文章が浮かび上がる。
――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。
その先はない。
エステルは息を止めた。
アルブレヒトが、赤い筆を睨む。
「私たち二人の文章を、一つの答えへまとめさせるな」
水門の奥で、十三枚の石板が再び震え始めた。




