表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/40

第三十三話 「愛している」と書けば門は開く。でも、私は選びません

 ――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。


 赤い筆が、その続きを三つ並べていた。


 ――利用している。


 ――必要としている。


 ――愛している。


 そして、青白い石板にはアルブレヒトの未完成の文章。


 ――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。


 二つの文章が、水門の内側で脈打つように明滅していた。


 外では吹雪が強まり始めている。


 王都へ続く旧水路の入口は開いているが、その先の出口は、エステルが三つの候補から一つを選ぶまで閉ざされたまま。


 さらに、腕を負傷したジュリアンが、ミレイユに支えられている。


 時間はない。


 だからこそ、第一編纂官は今、この選択を迫ったのだろう。


「どれも、完全な嘘ではありません」


 エステルは赤い三つの文章を見つめた。


「利用したことはあります。殿下の地位や軍事力を頼りました。必要とも思っています。王都へ行くためにも、第十三神託を開くためにも」


「最後は?」


 ミレイユが尋ねた。


「ミレイユ」


「聞かないほうが不自然でしょう!」


 妹の声は大きかったが、顔には戸惑いが浮かんでいる。


「私だって聞きにくいわよ。でも、門を開けなければならないし、皇弟殿下はすぐそこにいるし、皆も見ているし、もう今さらでしょう!」


「今さら、という理由で話す内容ではありません」


「では、いつなら話すの?」


「分かりません」


「またそれ!」


「分からないものを、分かるとは言えないわ」


「でも、『愛している』を選べば門が開くのよね」


 ミレイユは赤い文字を見る。


「たとえ今は分からなくても、そうなる可能性があるなら、いったん書いて、あとで訂正することは」


「できません」


 エステルは即答した。


「どうして」


「今、そうだと決めていないからです」


「でも、嘘ではないかもしれないでしょう」


「未来に真実になる可能性がある文章と、現在の真実は別です」


「細かい!」


「重要です」


「分かってる!」


 ミレイユは苛立ったように髪をかき上げた。


「分かっているから、腹が立つの! 今はそれどころじゃないでしょう。ジュリアン殿下は怪我をしている。王都へ急がなければ、私が代替鍵にされる。なのに、たった一文で止まってる!」


「たった一文ではありません」


「お姉さまにとっては、でしょう!」


 その一言が、鋭く刺さった。


 ミレイユも、言った直後に顔を強張らせる。


「ごめんなさい」


「いいえ」


「よくない。今のは、私が怖いから、お姉さまの気持ちを小さく扱った」


「時間がないのは事実です」


「だからって、小さくしていいわけじゃない」


 ミレイユは、姉へ謝るように頭を下げかけた。


 その身体がふらつく。


「ミレイユ」


 エステルが支えようとするより先に、ジュリアンが彼女の腕をつかんだ。


 だが負傷した右腕へ力が入り、ジュリアンの顔が苦痛に歪む。


「あなたは支えられる側でしょう!」


 ミレイユが怒鳴った。


「倒れそうだったから」


「自分が倒れたら、二人分になるでしょう!」


「では、何もしないほうがよかったか」


「そうではなくて!」


「どちらだ」


「分からない!」


 ミレイユはジュリアンの胸へ手を置き、治癒の金色を流した。


「動かないで。今は、私が支えるから」


「だが、君も」


「怖くても、誰かを支えることはできるの。お姉さまを見て、少し分かった」


「褒めているのか、心配しているのか、判断しづらいな」


「どちらもよ」


 ジュリアンは口を閉じた。


 以前の彼なら、聖女であるミレイユへ感謝の言葉を整えたかもしれない。


 今は、言われたとおり身体を預けている。


 その不格好さも、二人の新しい関係の一部なのだろう。


「エステル」


 アルブレヒトが呼ぶ。


「はい」


「私の文章を読め」


 青白い石板へ刻まれた未完成の一文。


 ――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。


「続きを、私が決める」


「殿下が?」


「私の文章だ」


「ですが、第一編纂官は私の文章の完成を要求しています」


「だから先に、私のほうを完成させる」


「どのように」


「まだ決めていない」


 今度はエステルがアルブレヒトを見る番だった。


「決めていないのですか」


「お前だけが、未完成を許されるわけではないだろう」


「それは、そうですが」


「不満か」


「少し」


「なぜ」


「殿下の文章の続きを、知りたいからです」


「正直だな」


「最近、練習しています」


「では、私も正直に言う」


 アルブレヒトは青白い石板の前へ立った。


「私も、お前の文章の続きを知りたい」


 エステルの胸が鳴る。


「ですが、第一編纂官の用意した候補から選ぶなと」


「選ばせたいのではない。お前が自分で何を書くか知りたい」


「同じでは?」


「違う。私は、答えを強制していない」


「待っていることが、圧力になる場合もあります」


「では、見ない」


「え?」


「お前が書く間、目を閉じる」


「そういう問題ではありません」


「なら、どうすれば圧力にならない」


 エステルは答えに詰まった。


 アルブレヒトがいる。


 皆が待っている。


 期限がある。


 何をしても、完全に圧力をなくすことはできない。


「分かりません」


「なら、分からないまま、できる範囲で減らす」


 アルブレヒトは、自分の剣帯を外した。


 剣をグランデル侯爵へ渡す。


「何をするのです」


「武器を持っている相手に答えを求められれば、強制に見えるかもしれない」


「そこまで気にしていたのですか」


「今、考えた」


 さらに彼は、エステルから数歩離れた。


「これ以上離れると、何か起きたとき守れない。ここでいいか」


「私に聞くのですね」


「お前の感じ方の話だからな」


 エステルは周囲を見た。


 ミレイユ。


 ジュリアン。


 グランデル。


 エッダ。


 騎士と記録官。


 皆が、エステルの一文を待っている。


「皆さんにも、見ないでいただけますか」


 ミレイユが、すぐにジュリアンの身体ごと背を向けた。


「分かった」


「私は、まだ何も」


「いいから。お姉さまは、人に見られていると正しい答えを書こうとするでしょう」


「正しい答えは必要です」


「今は、お姉さまの答えが必要なの!」


 グランデル侯爵も背を向ける。


「急がせたいのは事実だ。だが、私が見ていて早くなるとも思えない」


「それは、私の判断が遅いという意味ですか」


「今、その議論を始めるな!」


 騎士たちも、記録官も、エッダも背を向けた。


 アルブレヒトだけが、まだこちらを見ている。


「殿下」


「私も向こうを向く」


「その前に、一つ聞いても?」


「何だ」


「殿下は、先ほどの三つなら、どれを選んでほしいですか」


 アルブレヒトの表情が固まった。


「答える必要があるか」


「知りたいです」


「私が答えれば、影響する」


「すでに影響しています」


「では、なおさら言わない」


「ずるいですね」


「お前を追い詰めないためだ」


「でも、自分の望みを隠しています」


「望みがあると決まったわけではない」


 首筋の傷が、淡く赤くなる。


 アルブレヒトが不機嫌そうに傷へ触れた。


「あるようですね」


 エステルが言う。


「呪いが、感情まで判断するようになったのか」


「殿下が、ご自分で否定しきれなかったのでしょう」


「……そうかもしれない」


「何を望んでいるのですか」


「今は言わない」


「なぜ」


「お前が選んだあとで言う」


「それでは、あとから答えを合わせることもできます」


「そこまで信用がないか」


「記憶を失う前の殿下なら」


 言いかけて、止める。


 アルブレヒトの目がわずかに曇った。


「すみません」


「続けろ」


「比べないと約束しました」


「今は、何を思ったか聞いている」


「以前の殿下なら、私が望む答えを選ぶよう、自分の気持ちを隠すかもしれないと」


「今の私は?」


 エステルは少し考えた。


「同じことをしそうです」


「記憶はなくても?」


「はい」


「それは、私を見た結果か」


「今の殿下を」


 アルブレヒトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「なら、信用がないというより、理解されているのかもしれないな」


「褒めていますか」


「たぶん」


「たぶんを消してください」


「今は消さない」


 彼は背を向けた。


「書け、エステル。三つとも違うなら、違うと書け」


     ◇


 エステルは、赤い筆が示す候補を見る。


 利用している。


 必要としている。


 愛している。


 どれも、一部は近い。


 どれも、それだけでは違う。


 利用した。


 必要としている。


 愛しているのかもしれない。


 だが、まだその言葉を選ぶ準備ができていない。


 では、何を書く。


 ――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として扱っていない。


 それなら、真実だ。


 けれど否定形でしかない。


 何ではないかを示しても、何であるかは残る。


 第一編纂官は、その余白を許さない。


 赤い筆が急かすように三つの候補を濃くする。


 ――利用している。


 ――必要としている。


 ――愛している。


「全部、消してください」


 エステルが言う。


 赤い筆は止まらない。


 ――回答拒否を、決定不能として処理。


 ――最も近似する候補を自動選定する。


「勝手に選ばないでください」


 赤い文字が、三つ目へ集まり始める。


 ――愛している。


 その一文だけが、強く光る。


 エステルの顔が熱くなった。


「お姉さま?」


 背を向けているミレイユが声をかける。


「見ないで」


「見てない! でも、何かあったでしょう!」


「自動選定が」


「何を選んだの」


「聞かないで」


「聞きたい!」


「ミレイユ」


「今は我慢する!」


 妹が両手で耳を塞ぐ。


 そこまでしなくてもよいと思ったが、今は説明している時間がない。


 赤い筆が、文章を完成させようとする。


 エステルは黒銀の文字を重ねた。


 ――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。


 そのあとへ。


 ――終わらせるつもりはありません。


 赤い筆が止まった。


 自分で書いた言葉を見て、エステル自身も息を止める。


 契約相手として終わらせない。


 では、何になるのか。


 まだ決めていない。


 友人。


 協力者。


 家族に近い何か。


 恋人。


 どれにもなりうる。


 どれにもならない可能性もある。


 だが、契約が終われば関係も終わるとは思っていない。


「これが、今の答えです」


 エステルは言った。


 水門の赤い文字が震える。


 ――分類不能。


「分類しなくてよいです」


 ――関係性の名称を要求。


「決めていません」


 ――名称なき関係は、記録不能。


「記録できないなら、空白へ残してください」


 ――空白は誤り。


「違います」


 エステルは、石板へ手を置いた。


「まだ書かれていない続きです」


 黒銀の光が広がる。


 赤い三つの候補が、一つずつ薄れていく。


 利用している。


 必要としている。


 愛している。


 どれも消えたわけではない。


 選択肢ではなく、これから確かめる可能性として余白へ戻っていった。


「殿下」


 エステルは背を向けたアルブレヒトを呼ぶ。


「もう見ても?」


「はい」


 アルブレヒトが振り返る。


 石板の文章を読む。


 ――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として終わらせるつもりはありません。


 彼は、長い間何も言わなかった。


「何か言ってください」


「今、考えている」


「嫌でしたか」


「違う」


 首筋の傷は反応しない。


「では」


「嬉しい」


 短い答えだった。


 エステルの顔が、さらに熱くなる。


「そうですか」


「ああ」


「それだけ?」


「何を求めている」


「分かりません」


「なら、今はそれでいい」


 アルブレヒトは、自分の青白い石板へ向かった。


「次は私だ」


 彼の未完成の文章。


 ――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。


 赤い筆が、今度は別の三つの候補を示す。


 ――保護する。


 ――信頼する。


 ――愛する。


「また同じような候補ですね」


 ミレイユが、いつの間にか振り返っていた。


「見ないと言ったでしょう」


「お姉さまが終わったから!」


「私の文章は見たの?」


「少し」


「どこまで?」


「全部」


「ミレイユ!」


「あとで話す!」


 アルブレヒトは、赤い候補を一瞥した。


「どれも選ばない」


「殿下」


「保護するだけなら、対象として扱うことになる。信頼は、今後変わるかもしれない。愛するは、まだ私自身が分からない」


 エステルの胸が少し沈み、同時に安心もした。


 愛すると言われたい気持ち。


 今、無理に言ってほしくない気持ち。


 両方がある。


 どちらか一つへ整理できない。


 アルブレヒトは、自分で続きを書いた。


 ――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても、今の私として知り続けたい。


 青白い光が、石板から水門へ走る。


 エステルは、その文章を何度も読んだ。


「知り続けたい」


「不満か」


「いいえ」


「顔が複雑だな」


「嬉しいです。でも」


「でも?」


「少しだけ、ほかの言葉も期待しました」


「愛する、か」


 あまりに直接聞かれ、エステルは返事を失う。


 ミレイユが息を呑む音がした。


 グランデル侯爵は、聞いていないふりをして遠くを見ている。


「答えなくていい」


 アルブレヒトが言う。


「なぜ、聞いたのですか」


「顔に書いてあった」


「私の顔は、そこまで分かりやすいですか」


「今の私には、少しずつ」


 アルブレヒトは、石板へ手を置いたまま続ける。


「私も、その言葉を選ぶ可能性はある」


 エステルは息を止めた。


「ですが、今は?」


「今は、誰かに用意された言葉として選びたくない」


「私もです」


「なら、今は知り続けるところからでいい」


「はい」


「ただし」


「何ですか」


「契約が終われば逃げられると思うな」


「逃げるとは言っていません」


「お前は、自分が周囲を危険へ巻き込むと思うと消えようとする」


「今は、その話では」


「関係を終わらせるつもりはないと言ったのだろう」


「言いました」


「なら、終わらせるときも一人で決めるな」


 エステルは、ゆっくりとうなずいた。


「約束します」


「隠したくなったら?」


「隠したくなったと話します」


「よろしい」


「雇用主らしい言い方ですね」


「ただの契約相手ではないのだろう」


 言い返され、エステルは黙った。


 ミレイユが、小声でジュリアンへ囁く。


「皇弟殿下、記憶がなくても強いわね」


「私へ聞こえている」


「聞こえるように言いました」


「なぜ」


「少し羨ましいから」


 ジュリアンが、痛みをこらえながらミレイユを見る。


「私も、今の私として君を知り直していいだろうか」


「今、同じ言葉を使うの?」


「適切だと思った」


「借り物でしょう!」


「だが、本心でもある」


「そういうところが嫌!」


「では、別の言葉を考える」


「今すぐじゃなくていい!」


「どちらだ」


「分からない!」


 水門の中で、姉妹の声が重なった。


 赤い文字が、困惑したように揺れる。


     ◇


 二人の未完成だった文章が、それぞれ別の形で結ばれた。


 だが、関係の名称は決められていない。


 恋愛とも、友情とも、契約とも分類できない。


 第一編纂官の用意した答えではない。


 二つの石板から、黒銀と青白い光が伸びた。


 水門の奥で絡み合う。


 ――相互関係、分類不能。


 ――ただし、当事者双方による継続意思を確認。


 ――未完成状態のまま通行を許可する。


 地下深くから、重い石が動く音が響いた。


 王都側の出口が開いたのだ。


「成功です」


 エステルが息を吐く。


「まだ入口だ」


 アルブレヒトが言う。


「王都へ入る出口が開いたのですから、半分以上は」


「水路を通っていない」


「では三分の一?」


「割合を決める必要があるのか」


「進捗管理です」


「今するな」


 グランデル侯爵がジュリアンへ近づく。


「歩けるか」


「歩く」


「できるかと聞いている」


「……長くは無理だ」


「最初からそう答えろ」


 侯爵は騎士たちへ担架の用意を命じた。


「必要ない」


 ジュリアンが拒む。


「必要だ」


「王太子でもない私を、侯爵自ら」


「今は、王都内部の情報を持つ負傷者だ。役職の話をしていない」


「だが」


「お前も、自分の命を計算から外すな」


 エステルが思わずグランデルを見る。


「何だ」


「殿下と似たことを」


「お前たちの会話を聞きすぎた」


「移るのですね」


「嬉しくない」


 ジュリアンは、まだ担架へ乗ることをためらっていた。


 ミレイユが彼の前へ立つ。


「乗って」


「自分で歩ける」


「途中で倒れたら、もっと時間がかかる」


「君に弱いところを見せたくない」


「もう十分見てる!」


 ジュリアンが黙る。


「今さら格好をつけても遅いの。殴られて、逃げて、血だらけで、私に支えられているでしょう!」


「そこまで並べなくても」


「事実よ!」


「少しは、以前の私の印象を」


「以前のあなたは、正しい王太子の顔をしすぎて、何を考えているか分からなかった」


「では、今のほうがいい?」


「いいとは言ってない!」


「どちらだ」


「だから分からないって!」


 ミレイユは担架を指さした。


「乗って。あなたが何者か考えるのは、死なない程度に回復してから」


 ジュリアンは、ようやく従った。


「命令か」


「お願い」


「言い方が命令に近い」


「嫌なら、自分で歩いて途中で倒れて、皆に余計な手間をかければ?」


「乗る」


「最初からそうして!」


 人間は、正しい説明だけでは動かない。


 怒られ。


 恥を指摘され。


 少し傷つき。


 ようやく受け入れることもある。


 エステルは、それを訂正しなかった。


     ◇


 一行は水門の中へ入った。


 旧水路は、人二人が並んで歩けるほどの幅しかない。


 壁には古い名前が刻まれている。


 どの役職にも属さなかった者。


 出生記録を持たなかった子ども。


 故郷を追われ、どの国の民でもなくなった旅人。


 公式の門を通れなかった人々が、自分の名を残したのだ。


「消されていません」


 エステルは壁へ触れる。


「中央神託と接続されていないからか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「それだけではありません」


「では」


「同じ書式で書かれていない」


 大きな字。


 小さな字。


 旧王国語。


 帝国文字。


 絵だけを刻んだ者もいる。


 一つの名簿ではないため、一括で削除できない。


「ラウゼンと同じですね」


「逆だ」


「何がです」


「ラウゼンが、こちらと同じ方法へ戻った」


「そうですね」


 新しい仕組みだと思っていた。


 だが、人間はもともと、統一された一冊の記録だけで互いを覚えていたわけではない。


 家の壁。


 手紙。


 傷。


 呼び名。


 異なる場所へ、異なる形で残していた。


 便利さを求め、一つの中央記録へまとめた結果、そこを書き換える者が世界を支配できるようになった。


「エステル」


 アルブレヒトが歩きながら呼ぶ。


「はい」


「先ほどの文章だが」


「何でしょう」


「契約相手として終わらせない、の続きを考える期限はあるか」


 エステルは足を止めかけた。


「今、聞くのですか」


「今後の確認だ」


「急がせないと言ったでしょう」


「期限の有無を聞いただけだ」


「ありません」


「本当に?」


「今のところは」


「では、私も急がない」


「殿下も、続きを決めていないのですか」


「知り続けたい、で文章は完成した」


「その先です」


「お前と同じだ。まだ決めていない」


「少し安心しました」


「なぜ」


「私だけが遅いのではないからです」


「競争ではない」


「分かっています。でも、殿下が先へ答えを決めていたら、追いつかなければと思いそうなので」


「追いつかなくていい」


「待ってくださるのですか」


「違う」


 アルブレヒトは、少し考えた。


「私も歩いている途中だ」


 その表現が、エステルは好きだった。


 待つ者と、待たせる者ではない。


 同じ道で、歩く速度が違うだけ。


「今の言葉は、記録へ残しても?」


「嫌だ」


「なぜ」


「恥ずかしい」


「殿下も、そう思うのですね」


「私を何だと思っている」


「冷酷皇弟」


「誰がそう呼んだ」


「各国の記録です」


「消せ」


「事実の一面なので」


「なら、お前の記録にも『感情の話になると歩みが遅い』と加える」


「脅しですか」


「相互記録だ」


「公正ではありません」


「どこが」


 二人の言い争いに、前方を歩くミレイユが振り返る。


「静かにして。ジュリアン殿下が眠ったところなの」


「その担架で眠れるのか」


 アルブレヒトが見る。


 ジュリアンは、揺れる担架の上で本当に目を閉じていた。


 だがミレイユの手だけは、離さず握っている。


「眠っています」


「手は?」


「私が離すと起きるの」


「では、握っているのか」


「それが何?」


「何でもない」


 ミレイユは少し顔を赤くし、前を向いた。


「姉妹ですね」


 アルブレヒトが小声で言う。


「何がです」


「自分のことは分からないのに、他人からは分かりやすい」


「殿下もです」


「何がだ」


「言いません」


「今、言え」


「急がせないでください」


「それをここで使うな」


     ◇


 水路へ入って二刻ほど。


 外の吹雪の音は聞こえなくなった。


 代わりに、水の滴る音と、担架の軋む音だけが続く。


 先頭を行く帝国騎士が、急に足を止めた。


「殿下」


「どうした」


「分かれ道です」


 地図にはない分岐だった。


 水路が、三つに分かれている。


 中央の壁には、新しい赤い文字が刻まれていた。


 ――王都へ入る者は、目的を一つに定めよ。


 左。


 ――国王を救う道。


 中央。


 ――第一編纂官を倒す道。


 右。


 ――自分の名を取り戻す道。


「また三択?」


 ミレイユが怒った。


「本当に、ほかの形式を知らないの?」


 エステルは三つの道を見る。


 国王を救う。


 ジュリアンの父。


 王国の統治者。


 記憶を奪われた一人の人間。


 第一編纂官を倒す。


 ボルデの計画を止める。


 王国全体の記録を守る。


 自分の名を取り戻す。


 エステルを覚える人々を救う。


 どれも必要だ。


「一つへ決めれば、ほかの二つを捨てることになります」


 グランデルが言う。


「時間的には、一つずつしか進めない」


「でも、目的まで一つにする必要はありません」


 エステルが赤い文字へ近づく。


「また書き換えるのか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「いいえ」


「では」


「目的は、それぞれ違うまま進みます」


 エステルは一行を見回した。


「ジュリアンは国王陛下を助けたい。私は第一編纂官の原文へ異議を申し立てたい。ミレイユは、自分を代替鍵から外したい。殿下は?」


「帝国への脅威を止める。それから」


 アルブレヒトは一瞬、エステルを見る。


「今の契約相手を、世界から削除させない」


「ただの契約相手ではありません」


「まだ呼び名がない」


「では、そこは保留で」


「便利だな」


「必要です」


 エステルは三つの道の中央へ、一文を書いた。


 ――私たちの目的は、一つではない。


 ――同じ道を進む者も、同じ理由で進むとは限らない。


 赤い文字が反応する。


 ――複数目的は、判断を遅らせる。


「遅くなることもあります」


 ――国家的危機においては、目的の統一が必要。


「誰の目的へ統一するのですか」


 ――最も重要な目的。


「誰が、重要性を決めますか」


 赤い文章が止まる。


 アルブレヒトの首筋が淡く燃えた。


「書いた者は、自分の目的へ統一するつもりだ」


「では、従いません」


 三つの道が揺れる。


 壁が崩れ、分かれていた通路が再び一つへ戻り始める。


 だが、完全に一つになる直前。


 右側の「自分の名を取り戻す道」から、細い声が聞こえた。


「エステル……」


 母の声。


 続いて、父。


「エステル」


 ラウゼンのアンナ。


「エステルお姉ちゃん」


 ロラン。


 多くの人々が、エステルの名を呼んでいる。


 その声に混じり。


 一つずつ、悲鳴へ変わっていく。


「何ですか、これは」


 エステルが右の道へ近づこうとする。


 アルブレヒトが腕をつかむ。


「待て」


「皆さんの声が」


「本物か分からない」


「でも」


「確認する」


 彼の首筋の傷は、反応していない。


 声が遠すぎて、嘘を判定できないのか。


 あるいは、本当に誰かが苦しんでいるのか。


 右の道の奥へ、新しい文字が浮かぶ。


 ――エステル・ヴァレリーを記憶する者への精神処分を開始。


「期限は、まだ四日以上」


 ミレイユが青ざめる。


「前倒しです」


 エステルの手が震える。


 ラウゼンで一度、処分を前倒しされた。


 今度は町だけではない。


 エステルを覚えている、すべての人。


「進路を変えます」


 エステルは右の道を指した。


「名前を取り戻す道へ」


「今、一人で決めるな」


 アルブレヒトが止める。


「でも、皆さんが」


「だから全員へ聞け」


「聞いている時間が」


「ある」


「今も処分が」


「焦らせるための声かもしれない」


「本物なら?」


「それでも、私たち全員で決める」


 エステルは拳を握った。


 一刻も早く右へ走りたい。


 自分を覚えている人を助けたい。


 だが、その選択は国王を、第一編纂官の原文を、ミレイユの鍵を後回しにする。


「私は、右へ行きたいです」


 エステルは、まず自分の望みだけを言った。


「理由は、皆さんを助けたいから。それから……私を忘れてほしくないからです」


 最後の言葉は、言うのが怖かった。


 他人を救うためではない。


 自分が忘れられたくない。


 その個人的な願いを、初めて隠さず口にした。


 アルブレヒトが腕を離す。


「分かった」


「殿下は?」


「私も右へ行く」


「帝国の脅威より?」


「今ここでお前を失えば、ほかの目的へ進む鍵も失う。合理的判断だ」


 首筋の傷が、淡く赤くなる。


「ほかにも理由があるようですね」


「今、言う必要があるか」


「知りたいです」


「お前が、忘れられたくないと言ったからだ」


 アルブレヒトは、まっすぐに答えた。


「なら、忘れさせない」


 三つの道の赤い文字が、同時に激しく明滅した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ