第三十三話 「愛している」と書けば門は開く。でも、私は選びません
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。
赤い筆が、その続きを三つ並べていた。
――利用している。
――必要としている。
――愛している。
そして、青白い石板にはアルブレヒトの未完成の文章。
――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。
二つの文章が、水門の内側で脈打つように明滅していた。
外では吹雪が強まり始めている。
王都へ続く旧水路の入口は開いているが、その先の出口は、エステルが三つの候補から一つを選ぶまで閉ざされたまま。
さらに、腕を負傷したジュリアンが、ミレイユに支えられている。
時間はない。
だからこそ、第一編纂官は今、この選択を迫ったのだろう。
「どれも、完全な嘘ではありません」
エステルは赤い三つの文章を見つめた。
「利用したことはあります。殿下の地位や軍事力を頼りました。必要とも思っています。王都へ行くためにも、第十三神託を開くためにも」
「最後は?」
ミレイユが尋ねた。
「ミレイユ」
「聞かないほうが不自然でしょう!」
妹の声は大きかったが、顔には戸惑いが浮かんでいる。
「私だって聞きにくいわよ。でも、門を開けなければならないし、皇弟殿下はすぐそこにいるし、皆も見ているし、もう今さらでしょう!」
「今さら、という理由で話す内容ではありません」
「では、いつなら話すの?」
「分かりません」
「またそれ!」
「分からないものを、分かるとは言えないわ」
「でも、『愛している』を選べば門が開くのよね」
ミレイユは赤い文字を見る。
「たとえ今は分からなくても、そうなる可能性があるなら、いったん書いて、あとで訂正することは」
「できません」
エステルは即答した。
「どうして」
「今、そうだと決めていないからです」
「でも、嘘ではないかもしれないでしょう」
「未来に真実になる可能性がある文章と、現在の真実は別です」
「細かい!」
「重要です」
「分かってる!」
ミレイユは苛立ったように髪をかき上げた。
「分かっているから、腹が立つの! 今はそれどころじゃないでしょう。ジュリアン殿下は怪我をしている。王都へ急がなければ、私が代替鍵にされる。なのに、たった一文で止まってる!」
「たった一文ではありません」
「お姉さまにとっては、でしょう!」
その一言が、鋭く刺さった。
ミレイユも、言った直後に顔を強張らせる。
「ごめんなさい」
「いいえ」
「よくない。今のは、私が怖いから、お姉さまの気持ちを小さく扱った」
「時間がないのは事実です」
「だからって、小さくしていいわけじゃない」
ミレイユは、姉へ謝るように頭を下げかけた。
その身体がふらつく。
「ミレイユ」
エステルが支えようとするより先に、ジュリアンが彼女の腕をつかんだ。
だが負傷した右腕へ力が入り、ジュリアンの顔が苦痛に歪む。
「あなたは支えられる側でしょう!」
ミレイユが怒鳴った。
「倒れそうだったから」
「自分が倒れたら、二人分になるでしょう!」
「では、何もしないほうがよかったか」
「そうではなくて!」
「どちらだ」
「分からない!」
ミレイユはジュリアンの胸へ手を置き、治癒の金色を流した。
「動かないで。今は、私が支えるから」
「だが、君も」
「怖くても、誰かを支えることはできるの。お姉さまを見て、少し分かった」
「褒めているのか、心配しているのか、判断しづらいな」
「どちらもよ」
ジュリアンは口を閉じた。
以前の彼なら、聖女であるミレイユへ感謝の言葉を整えたかもしれない。
今は、言われたとおり身体を預けている。
その不格好さも、二人の新しい関係の一部なのだろう。
「エステル」
アルブレヒトが呼ぶ。
「はい」
「私の文章を読め」
青白い石板へ刻まれた未完成の一文。
――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。
「続きを、私が決める」
「殿下が?」
「私の文章だ」
「ですが、第一編纂官は私の文章の完成を要求しています」
「だから先に、私のほうを完成させる」
「どのように」
「まだ決めていない」
今度はエステルがアルブレヒトを見る番だった。
「決めていないのですか」
「お前だけが、未完成を許されるわけではないだろう」
「それは、そうですが」
「不満か」
「少し」
「なぜ」
「殿下の文章の続きを、知りたいからです」
「正直だな」
「最近、練習しています」
「では、私も正直に言う」
アルブレヒトは青白い石板の前へ立った。
「私も、お前の文章の続きを知りたい」
エステルの胸が鳴る。
「ですが、第一編纂官の用意した候補から選ぶなと」
「選ばせたいのではない。お前が自分で何を書くか知りたい」
「同じでは?」
「違う。私は、答えを強制していない」
「待っていることが、圧力になる場合もあります」
「では、見ない」
「え?」
「お前が書く間、目を閉じる」
「そういう問題ではありません」
「なら、どうすれば圧力にならない」
エステルは答えに詰まった。
アルブレヒトがいる。
皆が待っている。
期限がある。
何をしても、完全に圧力をなくすことはできない。
「分かりません」
「なら、分からないまま、できる範囲で減らす」
アルブレヒトは、自分の剣帯を外した。
剣をグランデル侯爵へ渡す。
「何をするのです」
「武器を持っている相手に答えを求められれば、強制に見えるかもしれない」
「そこまで気にしていたのですか」
「今、考えた」
さらに彼は、エステルから数歩離れた。
「これ以上離れると、何か起きたとき守れない。ここでいいか」
「私に聞くのですね」
「お前の感じ方の話だからな」
エステルは周囲を見た。
ミレイユ。
ジュリアン。
グランデル。
エッダ。
騎士と記録官。
皆が、エステルの一文を待っている。
「皆さんにも、見ないでいただけますか」
ミレイユが、すぐにジュリアンの身体ごと背を向けた。
「分かった」
「私は、まだ何も」
「いいから。お姉さまは、人に見られていると正しい答えを書こうとするでしょう」
「正しい答えは必要です」
「今は、お姉さまの答えが必要なの!」
グランデル侯爵も背を向ける。
「急がせたいのは事実だ。だが、私が見ていて早くなるとも思えない」
「それは、私の判断が遅いという意味ですか」
「今、その議論を始めるな!」
騎士たちも、記録官も、エッダも背を向けた。
アルブレヒトだけが、まだこちらを見ている。
「殿下」
「私も向こうを向く」
「その前に、一つ聞いても?」
「何だ」
「殿下は、先ほどの三つなら、どれを選んでほしいですか」
アルブレヒトの表情が固まった。
「答える必要があるか」
「知りたいです」
「私が答えれば、影響する」
「すでに影響しています」
「では、なおさら言わない」
「ずるいですね」
「お前を追い詰めないためだ」
「でも、自分の望みを隠しています」
「望みがあると決まったわけではない」
首筋の傷が、淡く赤くなる。
アルブレヒトが不機嫌そうに傷へ触れた。
「あるようですね」
エステルが言う。
「呪いが、感情まで判断するようになったのか」
「殿下が、ご自分で否定しきれなかったのでしょう」
「……そうかもしれない」
「何を望んでいるのですか」
「今は言わない」
「なぜ」
「お前が選んだあとで言う」
「それでは、あとから答えを合わせることもできます」
「そこまで信用がないか」
「記憶を失う前の殿下なら」
言いかけて、止める。
アルブレヒトの目がわずかに曇った。
「すみません」
「続けろ」
「比べないと約束しました」
「今は、何を思ったか聞いている」
「以前の殿下なら、私が望む答えを選ぶよう、自分の気持ちを隠すかもしれないと」
「今の私は?」
エステルは少し考えた。
「同じことをしそうです」
「記憶はなくても?」
「はい」
「それは、私を見た結果か」
「今の殿下を」
アルブレヒトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、信用がないというより、理解されているのかもしれないな」
「褒めていますか」
「たぶん」
「たぶんを消してください」
「今は消さない」
彼は背を向けた。
「書け、エステル。三つとも違うなら、違うと書け」
◇
エステルは、赤い筆が示す候補を見る。
利用している。
必要としている。
愛している。
どれも、一部は近い。
どれも、それだけでは違う。
利用した。
必要としている。
愛しているのかもしれない。
だが、まだその言葉を選ぶ準備ができていない。
では、何を書く。
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として扱っていない。
それなら、真実だ。
けれど否定形でしかない。
何ではないかを示しても、何であるかは残る。
第一編纂官は、その余白を許さない。
赤い筆が急かすように三つの候補を濃くする。
――利用している。
――必要としている。
――愛している。
「全部、消してください」
エステルが言う。
赤い筆は止まらない。
――回答拒否を、決定不能として処理。
――最も近似する候補を自動選定する。
「勝手に選ばないでください」
赤い文字が、三つ目へ集まり始める。
――愛している。
その一文だけが、強く光る。
エステルの顔が熱くなった。
「お姉さま?」
背を向けているミレイユが声をかける。
「見ないで」
「見てない! でも、何かあったでしょう!」
「自動選定が」
「何を選んだの」
「聞かないで」
「聞きたい!」
「ミレイユ」
「今は我慢する!」
妹が両手で耳を塞ぐ。
そこまでしなくてもよいと思ったが、今は説明している時間がない。
赤い筆が、文章を完成させようとする。
エステルは黒銀の文字を重ねた。
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として。
そのあとへ。
――終わらせるつもりはありません。
赤い筆が止まった。
自分で書いた言葉を見て、エステル自身も息を止める。
契約相手として終わらせない。
では、何になるのか。
まだ決めていない。
友人。
協力者。
家族に近い何か。
恋人。
どれにもなりうる。
どれにもならない可能性もある。
だが、契約が終われば関係も終わるとは思っていない。
「これが、今の答えです」
エステルは言った。
水門の赤い文字が震える。
――分類不能。
「分類しなくてよいです」
――関係性の名称を要求。
「決めていません」
――名称なき関係は、記録不能。
「記録できないなら、空白へ残してください」
――空白は誤り。
「違います」
エステルは、石板へ手を置いた。
「まだ書かれていない続きです」
黒銀の光が広がる。
赤い三つの候補が、一つずつ薄れていく。
利用している。
必要としている。
愛している。
どれも消えたわけではない。
選択肢ではなく、これから確かめる可能性として余白へ戻っていった。
「殿下」
エステルは背を向けたアルブレヒトを呼ぶ。
「もう見ても?」
「はい」
アルブレヒトが振り返る。
石板の文章を読む。
――私は、アルブレヒト殿下を、ただの契約相手として終わらせるつもりはありません。
彼は、長い間何も言わなかった。
「何か言ってください」
「今、考えている」
「嫌でしたか」
「違う」
首筋の傷は反応しない。
「では」
「嬉しい」
短い答えだった。
エステルの顔が、さらに熱くなる。
「そうですか」
「ああ」
「それだけ?」
「何を求めている」
「分かりません」
「なら、今はそれでいい」
アルブレヒトは、自分の青白い石板へ向かった。
「次は私だ」
彼の未完成の文章。
――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても。
赤い筆が、今度は別の三つの候補を示す。
――保護する。
――信頼する。
――愛する。
「また同じような候補ですね」
ミレイユが、いつの間にか振り返っていた。
「見ないと言ったでしょう」
「お姉さまが終わったから!」
「私の文章は見たの?」
「少し」
「どこまで?」
「全部」
「ミレイユ!」
「あとで話す!」
アルブレヒトは、赤い候補を一瞥した。
「どれも選ばない」
「殿下」
「保護するだけなら、対象として扱うことになる。信頼は、今後変わるかもしれない。愛するは、まだ私自身が分からない」
エステルの胸が少し沈み、同時に安心もした。
愛すると言われたい気持ち。
今、無理に言ってほしくない気持ち。
両方がある。
どちらか一つへ整理できない。
アルブレヒトは、自分で続きを書いた。
――私は、エステルを、以前の記憶が戻らなくても、今の私として知り続けたい。
青白い光が、石板から水門へ走る。
エステルは、その文章を何度も読んだ。
「知り続けたい」
「不満か」
「いいえ」
「顔が複雑だな」
「嬉しいです。でも」
「でも?」
「少しだけ、ほかの言葉も期待しました」
「愛する、か」
あまりに直接聞かれ、エステルは返事を失う。
ミレイユが息を呑む音がした。
グランデル侯爵は、聞いていないふりをして遠くを見ている。
「答えなくていい」
アルブレヒトが言う。
「なぜ、聞いたのですか」
「顔に書いてあった」
「私の顔は、そこまで分かりやすいですか」
「今の私には、少しずつ」
アルブレヒトは、石板へ手を置いたまま続ける。
「私も、その言葉を選ぶ可能性はある」
エステルは息を止めた。
「ですが、今は?」
「今は、誰かに用意された言葉として選びたくない」
「私もです」
「なら、今は知り続けるところからでいい」
「はい」
「ただし」
「何ですか」
「契約が終われば逃げられると思うな」
「逃げるとは言っていません」
「お前は、自分が周囲を危険へ巻き込むと思うと消えようとする」
「今は、その話では」
「関係を終わらせるつもりはないと言ったのだろう」
「言いました」
「なら、終わらせるときも一人で決めるな」
エステルは、ゆっくりとうなずいた。
「約束します」
「隠したくなったら?」
「隠したくなったと話します」
「よろしい」
「雇用主らしい言い方ですね」
「ただの契約相手ではないのだろう」
言い返され、エステルは黙った。
ミレイユが、小声でジュリアンへ囁く。
「皇弟殿下、記憶がなくても強いわね」
「私へ聞こえている」
「聞こえるように言いました」
「なぜ」
「少し羨ましいから」
ジュリアンが、痛みをこらえながらミレイユを見る。
「私も、今の私として君を知り直していいだろうか」
「今、同じ言葉を使うの?」
「適切だと思った」
「借り物でしょう!」
「だが、本心でもある」
「そういうところが嫌!」
「では、別の言葉を考える」
「今すぐじゃなくていい!」
「どちらだ」
「分からない!」
水門の中で、姉妹の声が重なった。
赤い文字が、困惑したように揺れる。
◇
二人の未完成だった文章が、それぞれ別の形で結ばれた。
だが、関係の名称は決められていない。
恋愛とも、友情とも、契約とも分類できない。
第一編纂官の用意した答えではない。
二つの石板から、黒銀と青白い光が伸びた。
水門の奥で絡み合う。
――相互関係、分類不能。
――ただし、当事者双方による継続意思を確認。
――未完成状態のまま通行を許可する。
地下深くから、重い石が動く音が響いた。
王都側の出口が開いたのだ。
「成功です」
エステルが息を吐く。
「まだ入口だ」
アルブレヒトが言う。
「王都へ入る出口が開いたのですから、半分以上は」
「水路を通っていない」
「では三分の一?」
「割合を決める必要があるのか」
「進捗管理です」
「今するな」
グランデル侯爵がジュリアンへ近づく。
「歩けるか」
「歩く」
「できるかと聞いている」
「……長くは無理だ」
「最初からそう答えろ」
侯爵は騎士たちへ担架の用意を命じた。
「必要ない」
ジュリアンが拒む。
「必要だ」
「王太子でもない私を、侯爵自ら」
「今は、王都内部の情報を持つ負傷者だ。役職の話をしていない」
「だが」
「お前も、自分の命を計算から外すな」
エステルが思わずグランデルを見る。
「何だ」
「殿下と似たことを」
「お前たちの会話を聞きすぎた」
「移るのですね」
「嬉しくない」
ジュリアンは、まだ担架へ乗ることをためらっていた。
ミレイユが彼の前へ立つ。
「乗って」
「自分で歩ける」
「途中で倒れたら、もっと時間がかかる」
「君に弱いところを見せたくない」
「もう十分見てる!」
ジュリアンが黙る。
「今さら格好をつけても遅いの。殴られて、逃げて、血だらけで、私に支えられているでしょう!」
「そこまで並べなくても」
「事実よ!」
「少しは、以前の私の印象を」
「以前のあなたは、正しい王太子の顔をしすぎて、何を考えているか分からなかった」
「では、今のほうがいい?」
「いいとは言ってない!」
「どちらだ」
「だから分からないって!」
ミレイユは担架を指さした。
「乗って。あなたが何者か考えるのは、死なない程度に回復してから」
ジュリアンは、ようやく従った。
「命令か」
「お願い」
「言い方が命令に近い」
「嫌なら、自分で歩いて途中で倒れて、皆に余計な手間をかければ?」
「乗る」
「最初からそうして!」
人間は、正しい説明だけでは動かない。
怒られ。
恥を指摘され。
少し傷つき。
ようやく受け入れることもある。
エステルは、それを訂正しなかった。
◇
一行は水門の中へ入った。
旧水路は、人二人が並んで歩けるほどの幅しかない。
壁には古い名前が刻まれている。
どの役職にも属さなかった者。
出生記録を持たなかった子ども。
故郷を追われ、どの国の民でもなくなった旅人。
公式の門を通れなかった人々が、自分の名を残したのだ。
「消されていません」
エステルは壁へ触れる。
「中央神託と接続されていないからか」
アルブレヒトが尋ねる。
「それだけではありません」
「では」
「同じ書式で書かれていない」
大きな字。
小さな字。
旧王国語。
帝国文字。
絵だけを刻んだ者もいる。
一つの名簿ではないため、一括で削除できない。
「ラウゼンと同じですね」
「逆だ」
「何がです」
「ラウゼンが、こちらと同じ方法へ戻った」
「そうですね」
新しい仕組みだと思っていた。
だが、人間はもともと、統一された一冊の記録だけで互いを覚えていたわけではない。
家の壁。
手紙。
傷。
呼び名。
異なる場所へ、異なる形で残していた。
便利さを求め、一つの中央記録へまとめた結果、そこを書き換える者が世界を支配できるようになった。
「エステル」
アルブレヒトが歩きながら呼ぶ。
「はい」
「先ほどの文章だが」
「何でしょう」
「契約相手として終わらせない、の続きを考える期限はあるか」
エステルは足を止めかけた。
「今、聞くのですか」
「今後の確認だ」
「急がせないと言ったでしょう」
「期限の有無を聞いただけだ」
「ありません」
「本当に?」
「今のところは」
「では、私も急がない」
「殿下も、続きを決めていないのですか」
「知り続けたい、で文章は完成した」
「その先です」
「お前と同じだ。まだ決めていない」
「少し安心しました」
「なぜ」
「私だけが遅いのではないからです」
「競争ではない」
「分かっています。でも、殿下が先へ答えを決めていたら、追いつかなければと思いそうなので」
「追いつかなくていい」
「待ってくださるのですか」
「違う」
アルブレヒトは、少し考えた。
「私も歩いている途中だ」
その表現が、エステルは好きだった。
待つ者と、待たせる者ではない。
同じ道で、歩く速度が違うだけ。
「今の言葉は、記録へ残しても?」
「嫌だ」
「なぜ」
「恥ずかしい」
「殿下も、そう思うのですね」
「私を何だと思っている」
「冷酷皇弟」
「誰がそう呼んだ」
「各国の記録です」
「消せ」
「事実の一面なので」
「なら、お前の記録にも『感情の話になると歩みが遅い』と加える」
「脅しですか」
「相互記録だ」
「公正ではありません」
「どこが」
二人の言い争いに、前方を歩くミレイユが振り返る。
「静かにして。ジュリアン殿下が眠ったところなの」
「その担架で眠れるのか」
アルブレヒトが見る。
ジュリアンは、揺れる担架の上で本当に目を閉じていた。
だがミレイユの手だけは、離さず握っている。
「眠っています」
「手は?」
「私が離すと起きるの」
「では、握っているのか」
「それが何?」
「何でもない」
ミレイユは少し顔を赤くし、前を向いた。
「姉妹ですね」
アルブレヒトが小声で言う。
「何がです」
「自分のことは分からないのに、他人からは分かりやすい」
「殿下もです」
「何がだ」
「言いません」
「今、言え」
「急がせないでください」
「それをここで使うな」
◇
水路へ入って二刻ほど。
外の吹雪の音は聞こえなくなった。
代わりに、水の滴る音と、担架の軋む音だけが続く。
先頭を行く帝国騎士が、急に足を止めた。
「殿下」
「どうした」
「分かれ道です」
地図にはない分岐だった。
水路が、三つに分かれている。
中央の壁には、新しい赤い文字が刻まれていた。
――王都へ入る者は、目的を一つに定めよ。
左。
――国王を救う道。
中央。
――第一編纂官を倒す道。
右。
――自分の名を取り戻す道。
「また三択?」
ミレイユが怒った。
「本当に、ほかの形式を知らないの?」
エステルは三つの道を見る。
国王を救う。
ジュリアンの父。
王国の統治者。
記憶を奪われた一人の人間。
第一編纂官を倒す。
ボルデの計画を止める。
王国全体の記録を守る。
自分の名を取り戻す。
エステルを覚える人々を救う。
どれも必要だ。
「一つへ決めれば、ほかの二つを捨てることになります」
グランデルが言う。
「時間的には、一つずつしか進めない」
「でも、目的まで一つにする必要はありません」
エステルが赤い文字へ近づく。
「また書き換えるのか」
アルブレヒトが尋ねる。
「いいえ」
「では」
「目的は、それぞれ違うまま進みます」
エステルは一行を見回した。
「ジュリアンは国王陛下を助けたい。私は第一編纂官の原文へ異議を申し立てたい。ミレイユは、自分を代替鍵から外したい。殿下は?」
「帝国への脅威を止める。それから」
アルブレヒトは一瞬、エステルを見る。
「今の契約相手を、世界から削除させない」
「ただの契約相手ではありません」
「まだ呼び名がない」
「では、そこは保留で」
「便利だな」
「必要です」
エステルは三つの道の中央へ、一文を書いた。
――私たちの目的は、一つではない。
――同じ道を進む者も、同じ理由で進むとは限らない。
赤い文字が反応する。
――複数目的は、判断を遅らせる。
「遅くなることもあります」
――国家的危機においては、目的の統一が必要。
「誰の目的へ統一するのですか」
――最も重要な目的。
「誰が、重要性を決めますか」
赤い文章が止まる。
アルブレヒトの首筋が淡く燃えた。
「書いた者は、自分の目的へ統一するつもりだ」
「では、従いません」
三つの道が揺れる。
壁が崩れ、分かれていた通路が再び一つへ戻り始める。
だが、完全に一つになる直前。
右側の「自分の名を取り戻す道」から、細い声が聞こえた。
「エステル……」
母の声。
続いて、父。
「エステル」
ラウゼンのアンナ。
「エステルお姉ちゃん」
ロラン。
多くの人々が、エステルの名を呼んでいる。
その声に混じり。
一つずつ、悲鳴へ変わっていく。
「何ですか、これは」
エステルが右の道へ近づこうとする。
アルブレヒトが腕をつかむ。
「待て」
「皆さんの声が」
「本物か分からない」
「でも」
「確認する」
彼の首筋の傷は、反応していない。
声が遠すぎて、嘘を判定できないのか。
あるいは、本当に誰かが苦しんでいるのか。
右の道の奥へ、新しい文字が浮かぶ。
――エステル・ヴァレリーを記憶する者への精神処分を開始。
「期限は、まだ四日以上」
ミレイユが青ざめる。
「前倒しです」
エステルの手が震える。
ラウゼンで一度、処分を前倒しされた。
今度は町だけではない。
エステルを覚えている、すべての人。
「進路を変えます」
エステルは右の道を指した。
「名前を取り戻す道へ」
「今、一人で決めるな」
アルブレヒトが止める。
「でも、皆さんが」
「だから全員へ聞け」
「聞いている時間が」
「ある」
「今も処分が」
「焦らせるための声かもしれない」
「本物なら?」
「それでも、私たち全員で決める」
エステルは拳を握った。
一刻も早く右へ走りたい。
自分を覚えている人を助けたい。
だが、その選択は国王を、第一編纂官の原文を、ミレイユの鍵を後回しにする。
「私は、右へ行きたいです」
エステルは、まず自分の望みだけを言った。
「理由は、皆さんを助けたいから。それから……私を忘れてほしくないからです」
最後の言葉は、言うのが怖かった。
他人を救うためではない。
自分が忘れられたくない。
その個人的な願いを、初めて隠さず口にした。
アルブレヒトが腕を離す。
「分かった」
「殿下は?」
「私も右へ行く」
「帝国の脅威より?」
「今ここでお前を失えば、ほかの目的へ進む鍵も失う。合理的判断だ」
首筋の傷が、淡く赤くなる。
「ほかにも理由があるようですね」
「今、言う必要があるか」
「知りたいです」
「お前が、忘れられたくないと言ったからだ」
アルブレヒトは、まっすぐに答えた。
「なら、忘れさせない」
三つの道の赤い文字が、同時に激しく明滅した。




