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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第三十四話 私を忘れさせないため、皇弟殿下が国中へ私の名を叫びました

 ――国王を救う道。


 ――第一編纂官を倒す道。


 ――自分の名を取り戻す道。


 三つの道に刻まれていた赤い文字が、同時に激しく明滅した。


「私は、右へ行きたいです」


 エステルは、もう一度言った。


「皆さんを助けたいから。それから、私を忘れてほしくないからです」


 口にしたあとも、胸の奥は痛んでいた。


 他人を守るためではなく、自分が忘れられたくないという願い。


 それは、これまでのエステルなら、恥ずかしいものとして消しただろう。


 誰かが自分を覚えているために苦しむなら、忘れてもらうべきだ。


 自分一人が消えるほうが合理的だ。


 そういう文章へ、自分の気持ちを押し込めていた。


 だが今は、アルブレヒトが隣にいる。


「なら、忘れさせない」


 彼は、迷いなく言った。


「殿下」


「ただし、右の道へ飛び込む前に、本当にこの声が処分を受けている者たちのものかを確認する」


「確認している間にも、処分が進むかもしれません」


「だから、急ぐ。だが、焦って相手の望む道へ入ることと、急いで調べることは同じではない」


「違いは分かっています」


「分かっている顔ではない」


「顔で判断しないでください」


「今のお前は、右手の爪を押している」


 エステルは、自分の指へ視線を落とした。


 また親指で人差し指の爪を押していた。


「この癖は、不便ですね」


「癖のせいではない。お前が分かりやすすぎる」


「以前は、分かりにくいと言われました」


「見ようとした者が少なかったのだろう」


 何気なく返された言葉なのに、胸が詰まる。


 アルブレヒトは、記憶を失う前にも似たことを言ったかもしれない。


 だが今は比べない。


 今の彼が、今のエステルへ向けて言った。


「それで、どう確認するのですか」


 エステルが尋ねると、アルブレヒトは右側の通路に浮かぶ声の波へ近づいた。


「私の呪いは、意図的な嘘へ反応する。声の主が嘘をついている必要はない。第一編纂官が、偽りの状況を意図して作っているなら、文章のどこかへ反応する可能性がある」


「可能性だけです」


「ほかに早い方法があるか」


「余白視で、声の送り元を」


「それは、お前へ負担がかかる」


「殿下の呪いも同じです」


「では、同時に行う」


「また二人で使えば安全になるとは限りません」


「一人ずつ試して時間を失うよりはましだ」


「それは合理的ですが」


「嫌か」


 アルブレヒトは、エステルを見た。


「嫌ではありません」


「なら、決まりだ」


「私へ決めさせたようで、殿下が決めています」


「では、改めて聞く。一緒に確認するか」


「します」


「よし」


 彼は右手を差し出した。


 エステルは、その手を見る。


「なぜ手を?」


「以前、神託へ同時に触れたとき、互いの魔力がずれた」


「国境の戦時神託ですか」


「記録で読んだ」


「記憶ではないのですね」


「ああ」


 正直な答えだった。


 少し寂しい。


 けれど、今の彼は記録から学び、同じ失敗を繰り返さないようにしている。


「手をつなげば、ずれないのですか」


「分からない」


「分からないのに提案したのですか」


「今のお前から移ったのかもしれない」


「何が」


「分からないまま、試すことだ」


 エステルは少し笑った。


「悪い影響ですね」


「責任を取れ」


「どのように?」


「まず、手を出せ」


 エステルは、アルブレヒトの手へ自分の手を重ねた。


 以前の記憶を失った彼。


 以前の彼を忘れられない自分。


 それでも、今ここで握った手は、どちらの過去にも強制されていない。


     ◇


「私も行く」


 ミレイユが、二人の横へ並んだ。


「何をするつもりですか」


「分からないけれど、私の金色の力が、処分されている人たちへ届くかもしれない」


「危険です」


「お姉さまにだけは言われたくない」


「今は、私だけで行くとは」


「皇弟殿下と二人ならいいという話ではないの!」


「では、どうすれば」


「私にも聞いて。ジュリアンにも。皆にも」


 ミレイユは、担架に横たわるジュリアンを見る。


「殿下は、どう思いますか」


「私へ聞くのか」


「王太子ではなくても、王都の記録網を一番知っているでしょう」


「そうだな」


 ジュリアンは上体を起こそうとしたが、傷へ響いたらしく顔をしかめる。


 ミレイユが肩を押し戻した。


「寝たままで話して」


「格好がつかない」


「今さらでしょう」


「君は、容赦がなくなったな」


「お姉さまの妹だからかもしれません」


「嬉しくないわ」


 エステルが言うと、ミレイユが睨む。


「今は、そこへ反応しないで」


 ジュリアンは息を整え、三つの道を見た。


「旧水路は、王都が中央神託へ統合される前の記録網でもあった。水は、家や神殿や市場を通る。昔は、水路を通して各地区の証言を集めたらしい」


「では、この声は」


「本物の記憶が、中央神託へ処分される途中で水路側へこぼれている可能性がある」


「処分される途中?」


 グランデル侯爵が聞き返す。


「中央神託が記憶を直接消すとき、完全に消える前に古い水路網へ反響する。子どもの頃、王宮の古い侍従から聞いたことがある。死者の声が水路で聞こえるという怪談だった」


「今、怪談の話をするのですか」


 ミレイユが嫌そうな顔をする。


「私も、今までは怪談だと思っていた」


「もっと早く思い出せなかったの?」


「王太子として必要のない話だと判断して、忘れていた」


「必要かどうかを、先に決めすぎるのよ」


「反省している」


「すぐ反省すると、それはそれで」


「どうすればいい」


「自分で考えて!」


 ジュリアンは本当に困った顔になった。


 それを見て、ミレイユは一瞬だけ笑いかけ、すぐに真顔へ戻る。


「声が本物なら、どう助けるの」


「水路に残った記憶を、別の記録へ移す必要がある」


「別の記録とは?」


「人だ」


 ジュリアンの答えに、エステルはラウゼンを思い出した。


 一冊の名簿ではなく、人が人を覚える。


 隣人。


 家族。


 店主。


 客。


 異なる関係へ分散する。


「この声を、私たちが受け取れば?」


「一時的には残るかもしれない。だが、処分されている人数が多すぎれば、受け取る側の精神が耐えられない」


「では、王国中へ分ける?」


「今の私たちだけでは、接続先がない」


 アルブレヒトが、右の通路を見た。


「名前を呼ぶことは、できないのか」


 全員が彼を見る。


「ラウゼンでは、お前の名を呼ぶことで処分命令を壊した」


「町一つの祈祷塔だったからです」


 エステルが答える。


「ここは旧水路網だ」


 アルブレヒトは、壁を流れる細い水へ視線を落とした。


「王都の各地区だけでなく、古い導水路を通じて北部の祈祷塔へもつながっているのだろう」


「でも、中央記録から切り離された町もあります」


「だから、同じ命令ではなく、声を送る」


「誰の?」


「一人ずつ違う声だ」


 エステルは、彼の意図を理解した。


「私の名前を、皆さんに呼んでもらうのですか」


「名前だけでは足りない。ラウゼンと同じように、それぞれが知っているお前を語る」


「私を知らない方は?」


「知らないと言えばいい」


「王国中へ?」


「届く範囲すべてへ」


「殿下」


 エステルは、ためらった。


「何だ」


「それでは、私のために大勢の方へ危険を」


「また始まったな」


「ですが」


「話を最後まで聞け」


 アルブレヒトは、エステルの手を握ったまま言う。


「これは、お前一人を守るためだけではない。第一編纂官が、都合の悪い人間を記憶する者まで処分できる前例を作れば、次は誰でも消せる」


「それは、グランデル侯爵も」


「聞いた」


「では、殿下ご自身の理由は?」


 問いかけると、彼の指へ少し力が入った。


「今、それを聞くのか」


「知りたいです」


「合理的理由だけでは不満か」


「少し」


「正直だな」


「練習中です」


「では、私も正直に言う」


 アルブレヒトは、周囲の人間がいることを確認するように一度だけ視線を動かした。


「私は、お前が忘れられたくないと言ったことを、無視したくない」


 エステルの胸が熱くなる。


「それだけですか」


「まだ必要か」


「少しだけ」


「欲張りになったな」


「以前は、欲しいと言わなかっただけです」


「なら、もう一つ」


 アルブレヒトは、低い声で続ける。


「私自身が、お前を忘れたくない」


 周囲が静かになった。


 水の音だけが響く。


 エステルは返事をしようとしたが、喉が詰まった。


「何か言え」


「今、考えています」


「嫌だったか」


「違います」


 足元の黒銀の文字も、首筋の呪いも反応しない。


「嬉しいです」


「そうか」


「でも、殿下が危険になります」


「先ほどから、そればかりだな」


「嬉しいと思うと、危険を止めにくくなるので困ります」


「なら、困ったままでいろ」


「解決してくださらないのですか」


「感情のすべてを、すぐ解決する必要はないと教えたのは誰だ」


「私ですか」


「たぶん」


「たぶんを消してください」


「今は残す」


 エステルは、少し泣きながら笑った。


     ◇


「それで、誰が最初に呼ぶの」


 ミレイユが尋ねた。


 アルブレヒトが答える。


「私だ」


「なぜ」


「提案したからだ」


「それだけ?」


「私の呪いが、最初の嘘を焼ける」


「また身体を使うのですね」


 エステルが止めようとする。


「お前も余白視を使う」


「それとは」


「互いに止める。限界が来たら、どちらかが判断するのではなく、ミレイユとエッダに止めさせる」


「私が?」


 ミレイユが驚く。


「姉が無理をしているか、一番分かりやすいだろう」


「皇弟殿下は?」


「エッダが見る」


「私は二人とも止めたい」


 エッダが吐き捨てるように言う。


「今すぐ町へ戻して寝かせたいくらいだよ」


「ですが」


「分かってる。やるしかないんだろう」


 エッダは、二人へ指を突きつけた。


「ただし、声が出なくなったら終わり。立てなくなっても終わり。『あと一回だけ』は禁止。聞こえなかったふりも禁止だ」


「聞こえなかった場合は?」


 エステルが尋ねる。


「耳を引っ張る」


「治療行為ではありません」


「止めるためなら何でもする」


「殿下にも?」


「皇弟だろうが患者は患者だ」


 アルブレヒトは少し嫌そうな顔をした。


「耳はやめろ」


「では、一度で止まりな」


「努力する」


「約束しな」


「約束する」


 エッダはエステルを見る。


「お前も」


「努力」


「約束」


「……約束します」


「今の間は記録したよ」


「必要ありません」


「必要だ」


     ◇


 右の通路へ全員で入る。


 壁には、人々の声が流れていた。


 母。


 父。


 アンナ。


 ロラン。


 ラウゼンの住民。


 王都の侍女。


 エステルが名前を知らない人々。


 彼らの声は、自分の名前を言ったあと、苦しげに途切れている。


「ここです」


 エステルは、最も声が集中している壁へ手を触れた。


 余白視を開く。


 目の前の石壁が透け、その奥へ無数の文字が見えた。


 ――エステル・ヴァレリーを記憶する者。


 ――記憶内容を矛盾記録として抽出。


 ――精神より分離後、廃棄。


「記憶を消すだけではありません」


「何が違う」


 アルブレヒトが尋ねる。


「思い出を切り離す際、その人のほかの感情まで傷つけています」


 母から、出産の記憶を。


 父から、娘を守ろうとした罪悪感を。


 ロランから、雪原で見た出来事を。


 それらは、別の人生の記憶と結びついている。


 一部だけを綺麗に取り除くことなどできない。


「第一編纂官は、完全に切り離せると思っているのですか」


「思っているのではない」


 アルブレヒトの首筋が、淡く赤くなった。


「傷つくと知っている。それでも、不要な損傷として認めている」


「では、止めます」


 エステルは黒銀の文字を伸ばした。


 アルブレヒトが、壁へ手を置く。


「最初の言葉を教えろ」


「名前です」


「それだけか」


「いいえ」


 エステルは考えた。


 名前だけを何度も呼べば、第一編纂官は同一の証言としてまとめて処分する。


 必要なのは、異なる関係。


「私を、今の殿下が知っている言葉で呼んでください」


「分かった」


「でも、無理に良いことを言う必要は」


「分かっている」


 アルブレヒトは息を吸う。


 水路全体へ届くよう、低く、はっきりと声を出した。


「エステル・ヴァレリー」


 赤い処分文字が、彼の喉へ巻きつく。


 首筋の呪いが燃えた。


「私の現在の契約相手であり、契約が終わっても関係を終わらせるつもりがないと言った女」


「殿下」


 そこまで言うとは思わなかった。


「黙って聞け」


 アルブレヒトは続ける。


「報酬へ細かい。自分の命を計算から外す。都合の悪い文書を隠す。怖いときは、後になってから一緒に来てほしいと言う」


「悪い部分が多いです」


「まだ途中だ」


「はい」


「人の文章を細かく直すくせに、自分の感情には名前をつけられない。以前の私を忘れられず、今の私も消したくないと言う。面倒で、矛盾している」


 赤い文字が、彼の腕へ絡みつく。


 青白い呪いの光が、それを焼く。


「それでも、私は今の意思で、彼女を知り続けたい」


 水路の水面が大きく揺れた。


 アルブレヒトの声が、壁の奥へ流れ込む。


 王都。


 古い導水路。


 北部の町。


 中央神託から切り離されたラウゼン。


 届く先すべてへ。


 ――エステル・ヴァレリー。


 同じ名前。


 だが、第一編纂官の記録にはない説明がついている。


 契約相手。


 面倒な女。


 矛盾した女。


 知り続けたい相手。


 分類しようとした赤い文字が、途中で止まる。


 ――関係性を確認。


 ――雇用。


 ――雇用終了後の継続意思あり。


 ――分類不能。


「今です」


 エステルは黒銀の文字を書き込んだ。


 ――分類できなくても、記憶は存在する。


 赤い処分文へ亀裂が走る。


     ◇


「次は私」


 ミレイユが壁へ手を置いた。


「無理をしないで」


「お姉さまに言われたくない」


「でも」


「私が決める。危険なら、エッダさんが止める」


 ミレイユは、エステルを見た。


「何と呼べばいい?」


「あなたの言葉で」


「まだ、姉だと完全には思い出していない」


「それでいいわ」


「では」


 ミレイユは、金色の魔力を水路へ流す。


「エステル・ヴァレリー。私の姉だったと、多くの人が言う人」


 言い方が遠い。


 それでも、嘘ではない。


「話すと腹が立つ。私の誤字をすぐ見つける。自分の気持ちは保留するのに、私の答えは細かく聞く」


「そんなに聞いていません」


「今、口を挟まないで!」


「はい」


「でも、私が忘れても、もう一度話したいと思った人。姉かもしれない人。いなくなると困る人」


 ミレイユの目から涙が落ちる。


「私は、まだ昔のお姉さまを知らない。でも、今のお姉さまを忘れたくない」


 金色の光が、アルブレヒトの青白い光と重なる。


 ――姉妹関係、確定不能。


 ――ただし、現在の継続意思あり。


 ――削除不能。


 処分文字の亀裂が広がる。


 続いてジュリアン。


 担架へ横たわったまま、声を張る。


「エステル・ヴァレリー。かつて私の婚約者だった人」


 ミレイユの手が、少し強くジュリアンの肩へ触れた。


 ジュリアンは気づいたが、言葉を止めなかった。


「私は、彼女の処分文書を確認しなかった。自分に都合のよい説明を信じ、追放を止めなかった」


 赤い文字が、彼の胸へ絡みつく。


「助けたいと動いたのは、自分の署名が奪われ、自分も王太子位を失ってからだ。遅かった」


「ジュリアン」


 エステルが名を呼ぶ。


「まだある」


 ジュリアンは苦しそうに呼吸を整えた。


「彼女を傷つけた人間。それでも、今は彼女を助けたいと思っている人間。許されるかどうかは、私が決めない」


 処分文字が、ジュリアンを英雄にも、完全な加害者にも分類できず揺れた。


 ――元婚約者。


 ――加害責任あり。


 ――救助意思あり。


 ――評価未確定。


「それで十分です」


 エステルは言った。


「本当に?」


「今は」


「今は、か」


「続きを、あとで話すのでしょう」


「ああ」


 ジュリアンは目を閉じた。


     ◇


 グランデル侯爵。


「エステル・ヴァレリー。王国軍へ、私の命令が書き換えられていると指摘した女。私が間違いを認めるまで、何度も言葉を変えながら問い続けた。正直に言えば、腹が立った」


「正直すぎませんか」


「お前が、良いことだけを書くなと言ったのだろう」


「続けてください」


「戦争を止める機会を与えた者。だが、私の責任まで消さなかった者」


 エッダ。


「私の言うことを半分しか聞かない患者。薬へ質問が多い。喉を壊しているのに声を使う。自分が死ぬ可能性を、治療案の一つみたいに話す」


「皆さん、悪いところから始める決まりなのですか」


「良いところだけでは、お前だと分からないからね」


「それは失礼です」


「今も口答えする。だから間違いなく本人だ」


 帝国騎士。


 王国騎士。


 記録官。


 それぞれが、エステルについて違う言葉を流した。


 直接知る時間が短い者は、短いなりに。


 ――国境で初めて見た女。皇弟殿下へ遠慮なく反論していた。


 ――死亡したと命じられたが、目の前で生きていた人。


 ――名前を書いても消えるため、旅程表で「呼称協議中」と記録した人物。


 そして、エステルをほとんど知らない王国騎士の一人は。


「私は、エステル・ヴァレリーを知らない」


 そう言った。


 周囲が彼を見る。


「ですが、知らないから存在しないとは言いません。今ここで話している人が、その名を名乗っていることだけを確認します」


 エステルは、深くうなずいた。


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどのことでは」


「知らないまま否定しないことは、簡単ではありません」


 騎士は、少し気まずそうに顔をそらした。


     ◇


 十二人の声が、水路へ流れた。


 だが、処分文字はまだ完全には崩れない。


「足りません」


 エステルは壁の奥を見る。


「何が」


 アルブレヒトが尋ねる。


「私たちが今ここで語った記憶は残ります。でも、すでに処分されかけている方たち自身の声が、戻っていない」


「こちらから呼びかけられないか」


「できます。でも、全員へ同じ言葉を送れば」


「同じ返事を求めなければいい」


 アルブレヒトが言う。


「お前を覚えているか、忘れたか。良い記憶か、悪い記憶か。答えを揃えさせるな」


「何と問いかけますか」


「自分で決めろ」


「殿下が提案したのに?」


「お前についての問いだ」


 エステルは、壁へ両手を置いた。


 母。


 父。


 ロラン。


 アンナ。


 ラウゼン。


 王都。


 名も知らない人々。


 何を求める。


 忘れないで。


 自分を覚えていて。


 そう言いたい。


 だが、記憶することを命令すれば、第一編纂官と同じになる。


 忘れたい人もいるかもしれない。


 エステルを嫌う人も。


 処分が怖くて関わりたくない人も。


「私は」


 エステルは水路へ声を流した。


「エステル・ヴァレリーです」


 喉が痛む。


 それでも、今は自分の声で言いたかった。


「私を覚えていてほしいです」


 言葉にすると、身体の奥が震えた。


 恥ずかしい。


 怖い。


 拒まれたらどうする。


 誰かに「忘れたい」と言われたら。


「でも、覚えていることを命令しません」


 エステルは続けた。


「私を嫌っていても構いません。疑っていても。知らなくても。忘れたいと思っていても、その気持ちまで誤りとは言いません」


 アルブレヒトの手が、エステルの肩へ触れる。


 支えるため。


 前へ押すためではなく、ここにいると伝えるように。


「ただ、誰かに消された結果ではなく、自分で選んでください」


 黒銀の文字が、水路全体へ広がる。


「私について、あなたが知っていることを。知らないことを。覚えていたいことを。忘れたいことを。あなたの言葉で残してください」


 水が静かになった。


 何も返ってこない。


 エステルの胸に、不安が広がる。


「届かなかったのでしょうか」


「待て」


 アルブレヒトが言う。


「どれくらい」


「分からない」


「処分が」


「人へ自分で考えろと言った直後に、答えを急かすな」


「ですが」


「お前自身が、感情へ名前をつけるのに時間がかかっただろう」


「今も、ついていません」


「なら、ほかの者にも時間を与えろ」


 エステルは唇を噛み、待った。


 一呼吸。


 二呼吸。


 長く感じる沈黙。


 やがて。


 水路の遠くから、小さな声が返ってきた。


『エステルお姉ちゃん』


 アンナ。


『冷たい家まで来てくれた人』


 その声は震えている。


『忘れたくない』


 次に、ロラン。


『雪原で、手枷より書類を気にしていた変な罪人の人』


『俺は、覚えていたいです』


 ラウゼンのグスタフ。


『町の名簿を勝手に全部確認した、扱いに困る調査員だ』


『忘れられるなら楽かもしれないが、借りた恩まで楽に消したくはない』


 リーナ。


『娘を助けた人。嘘をついて、謝って、また倒れた女』


『私は、忘れない。怖いけど、私が決めた』


 マティアス。


『規則違反の多い校正官』


『神託より、人間の言葉を信じるよう私へ教えた者』


 声は、一つずつ増えていく。


 王都の侍女。


『名前しか知りません。でも、名を呼ぶなと命じられたことが不気味でした』


 商人。


『追放された女と聞きました。関わりたくありません。ただ、存在しないとは言いません』


 神官。


『異端者だと思っています。しかし、異端者だから記憶から消してよいとは思いません』


 エステルを嫌う者。


 疑う者。


 知らない者。


 それでも、自分の言葉を返してくる。


 第一編纂官の処分文字が、急速にひび割れていく。


 ――記憶内容の統一不能。


 ――削除対象の確定不能。


 ――証言者の意思が不一致。


 ――精神処分を継続できず。


「止まっています」


 エステルが言う。


「完全に?」


「まだ」


 最後に、二つの声が返っていない。


 父と母。


「お父さま」


 ミレイユが水路へ呼びかける。


「お母さま」


 返事はない。


 処分文字の最深部で、二人の記憶だけが赤く縛られている。


「家族記録は、第一編纂官が最初に訂正した部分です」


 エステルは余白を見る。


「ほかの記憶より深く結びついている」


「こちらから引けるか」


 アルブレヒトが尋ねる。


「引けば、二人のほかの記憶まで壊すかもしれません」


「では、どうする」


「本人が、何かを選ぶ必要があります」


「もう呼びかけた」


「聞こえていない可能性が」


 エステルは、父と母に何を言うべきか考えた。


 娘です。


 思い出してください。


 愛していましたか。


 どれも重い。


 記憶を失った二人へ、親としての正解を求めてしまう。


「お父さま、お母さま」


 エステルは、声を絞り出した。


「私を娘だと思えなくても構いません」


 ミレイユが姉を見る。


「今は、知らない人でも」


 胸が痛い。


 本当は、娘として思い出してほしい。


 知らない人のままでよいはずがない。


「構わない、は嘘です」


 エステルは言い直した。


 アルブレヒトの傷は反応する前だった。


「思い出してほしいです。娘だと呼んでほしい。私を産んだことも、育てたことも、傷つけたことも、全部」


 涙で声が揺れる。


「でも、思い出せないのに、娘だと言わないでください」


 矛盾している。


 思い出してほしい。


 無理に言ってほしくない。


 どちらも本当だ。


「あなたたちが今、私について何を感じるかを教えてください」


 長い沈黙。


 やがて、父の声が聞こえた。


『私は、エステルという娘を覚えていない』


 胸が強く痛む。


 それでも、聞く。


『だが、その名を聞くと、守れなかったと思う』


 父の声は震えていた。


『何を守れなかったのか、分からない。それでも、忘れたままでよいとは思わない』


 母の声も重なる。


『私は、その娘を産んだ記憶がない』


『でも、知らない娘の部屋を片づけようとすると、胸が苦しくなる』


『今は、娘とは呼べない』


 エステルは目を閉じた。


『それでも、もう一度話したい』


 赤い拘束が切れた。


 父と母の記憶が、完全に戻ったわけではない。


 だが、処分されずに余白へ残る。


 ――家族関係、確定不能。


 ――現在の対話意思あり。


 ――削除を保留。


「終わりました」


 エステルの身体から力が抜ける。


 アルブレヒトが支えた。


「立てるか」


「立っています」


「私が支えている」


「では、半分ほど」


「座れ」


「まだ道が」


「約束しただろう」


 エッダが近づき、エステルの耳へ手を伸ばす。


「座ります!」


「聞き分けがいいじゃないか」


「耳を引っ張ろうとしたので」


「手段は結果を出した」


「正当化しないでください」


 エステルは壁際へ座った。


 アルブレヒトも、その隣へ膝をつく。


「殿下も顔色が悪いです」


「お前ほどではない」


「比較ではなく」


「分かっている」


 エッダが二人を交互に見る。


「皇弟殿下も座る。治療が終わるまで、次の道を選ぶ話は禁止」


「時間が」


 エステルとアルブレヒトが同時に言う。


 エッダが二人の耳へ両手を伸ばした。


「座ります」


「従う」


 二人は同時に答えた。


 ミレイユが、呆れたように笑う。


「やはり似ていますね」


「似ていません」


「似ていない」


 また声が重なる。


 今度は首筋の傷も、黒銀の文字も反応しなかった。


 似ているかどうかは、嘘ではなく意見の違いらしい。


     ◇


 精神処分は停止した。


 だが、三つの道はまだ残っていた。


 右側の道から流れていた悲鳴は消え、代わりに無数の異なる証言が水音へ混ざっている。


 その声が壁を震わせるたび、三つの通路を分けていた赤い境界線が薄くなっていった。


「なぜ、道が戻らないのでしょう」


 エステルは薬を飲みながら尋ねた。


「目的を一つにしろという命令は、まだ残っているからでは?」


 記録官が答える。


「でも、私たちは右の目的を優先しました」


 ミレイユが言う。


「国王と第一編纂官を捨てたわけではありません」


「その違いを、文章へする必要があります」


 エステルは立とうとした。


 エッダの手が耳へ伸びる。


「座ったまま書きます」


「よろしい」


 エステルは帳面を膝へ置いた。


 ――私たちは、自分の名を取り戻す道を先に選んだ。


 そこまで書く。


「先に?」


 アルブレヒトが尋ねる。


「優先順位です」


「先に選んだということは、あとでほかの道へ戻る?」


「はい」


「なら、それを書け」


 ――ただし、国王の救助および第一編纂官への異議を放棄しない。


 赤い文字が反応する。


 ――一度に一つの道しか進めない。


「同意します」


 エステルが答える。


「お姉さま?」


「身体は、一つの道しか歩けません」


「では」


「でも、目的を一つへ減らす必要はありません」


 エステルは続けて書いた。


 ――行動の順番と、目的の価値は同一ではない。


 ――後に選んだものが、重要でないとは限らない。


 グランデル侯爵がうなずく。


「戦場でも同じだ。先に負傷者を運ぶからといって、敵への警戒を捨てたわけではない」


「政治でも」


 ジュリアンが担架から言う。


「今、父上を助けに行けないからといって、息子として見捨てたことにはしたくない」


「私も」


 ミレイユが続ける。


「今はジュリアン殿下より、自分を鍵にされないことを優先したい。でも、それは殿下がどうでもいいという意味ではない」


 ジュリアンが少しだけ笑う。


「それで十分だ」


「勝手に満足しないで。あとで、もっと腹が立つかもしれないから」


「分かった」


「すぐ分かったと言わないで!」


「どうすればいい」


「自分で考えて!」


「難しいな」


「今さらでしょう!」


 人間の優先順位は、感情の順位表ではない。


 今すぐ助ける人。


 あとで向き合う人。


 怒りながら心配する人。


 許していないが、生きていてほしい人。


 一つの数字へ並べることはできない。


 赤い境界線が崩れた。


 三つの道が、ゆっくりと一つへ戻る。


 その先には、王都へ続く一本の水路。


 壁には新しい文章が浮かんでいた。


 ――複数の目的を保持したまま、現在の行動を選択。


 ――通行を許可。


「今度こそ進めます」


 エステルが言う。


「治療が終わってからだ」


 アルブレヒトが止める。


「殿下も座っているではありませんか」


「だから待っている」


「珍しいですね」


「耳を引っ張られたくない」


 エッダが満足そうにうなずく。


「学習が早い患者は助かるね」


     ◇


 治療を終え、一行が再び歩き始める直前。


 水路全体へ、最後の声が響いた。


 低く、穏やかで、エステルがよく知る声。


『見事です』


 ボルデ。


 アルブレヒトが立ち上がり、エステルの前へ出る。


『記憶するかどうかを、各人へ選ばせた。私が用意した三つの道も、一つへ戻した。やはり、あなたは私の弟子です』


「違います」


 エステルは、アルブレヒトの背中越しに答えた。


『否定する必要はありません。師から離れても、教えは残る』


「影響を受けたことは認めます。でも、今の選択を、あなたの成果へしないでください」


『では、誰の成果です』


「皆のものです」


『責任が曖昧になりますよ』


「成功だけを自分のものにするよりは、ましです」


 ボルデが、微かに笑う。


『あなたを記憶する者への処分は停止しました』


「解除ではなく?」


『停止です。中央神託へ到達するまで』


「また期限を使うのですか」


『期限がなければ、人は決めません』


「決めないことも、選択です」


『それでは、世界は進まない』


「進まなくてもよい時間があります」


 ボルデの声が、少し冷たくなる。


『では、王都へ着くまで保留を続けなさい』


 水路の先で、金属が擦れる音がした。


 新しい門が開く。


 その向こうから、王都の地下灯が見えた。


『ただし、次は保留できません』


「何をするつもりです」


『国王陛下の記憶を、完全に整理します』


 ジュリアンが担架の上で身体を起こす。


「父上をどうする!」


『現国王は、判断へ迷いが多すぎる。弟として、楽にして差し上げます』


「弟?」


 ジュリアンの顔が歪む。


「あなたは父上の兄だと」


『記録上は、兄です』


 ボルデは、妙に静かな声で言った。


『ですが、陛下は私を兄として思い出していない』


 その言葉には、四十七年間消えなかった痛みがあった。


『ならば私も、彼を弟として扱う必要はないでしょう』


「それは、違う」


 エステルが言う。


『何がです』


「思い出してもらえなかった痛みと、相手の記憶を奪うことは同じではありません」


『王都で聞きましょう』


 ボルデの声が薄れていく。


『あなたが、父に忘れられても同じことを言えるのか』


「もう、忘れられています」


『では、その状態が一生続いても?』


 エステルは答えられなかった。


 父に思い出してほしい。


 母にも。


 ボルデが記憶を戻す方法を持っているなら。


 完全でなくても。


 整えられた記憶でも。


 誘惑が、今も胸のどこかにある。


『王都で待っています、エステル』


 声が消える。


 地下灯の向こうに、王都旧水路の出口が見えた。


 そして出口の直前。


 一人の老人が、壁へもたれて座っていた。


 白い寝衣。


 裸足。


 王冠も、護衛もない。


 だが、ジュリアンが担架から転げ落ちそうな勢いで身を乗り出した。


「父上!」


 聖王国国王だった。


 老人は、ゆっくりと顔を上げる。


 ジュリアンを見ても、息子を見る目ではない。


 ミレイユも。


 グランデルも。


 誰一人、分からないようだった。


「あなたたちは……誰だ」


 国王は怯えた声で尋ねた。


 その手には、血で書かれた一枚の紙が握られている。


 ――私は、兄を一人殺した。


 ――だが、その兄の名前を思い出せない。


 ボルデは国王の記憶を整理したのではない。


 四十七年前。


 兄が消された日の真実だけを残し、それ以外のすべてを奪っていた。


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