第三十五話 国王は息子を忘れ、兄を殺した罪だけ覚えていました
――私は、兄を一人殺した。
血で書かれた一文を握りしめた老人は、自分を「父上」と呼んだジュリアンを、怯えた目で見つめていた。
「父上、私です」
担架から降りようとしたジュリアンの身体が大きく傾き、ミレイユが慌てて肩を支える。
「動かないで!」
「だが、父上が」
「あなたも怪我人なのよ。今ここで倒れたら、誰を助けに来たのか分からなくなるでしょう!」
「放してくれ。自分で歩ける」
「片足を引きずっている人が、どの口で言っているの!」
「少しくらいなら」
「少しで済まなかったから、担架へ乗せられたんでしょう!」
二人が言い争う間も、国王は壁へ背中を押しつけ、逃げ道を探すように視線を動かしている。
「父上」
ジュリアンが、今度はなるべく静かな声で呼んだ。
「私は、あなたの息子です。ジュリアン・アレクシス・セレスタン。王国の第一王子で、以前は王太子でした」
「知らない」
国王は即答した。
ジュリアンの顔から、血の気が引く。
「よく見てください。私は幼い頃、父上の執務室で――」
「近づかないでくれ!」
国王が血のついた紙を振り上げた。
武器でもない一枚の紙を盾にするような動作だった。
「私は、自分が誰なのかも分からない。あなたが誰なのかも分からない。それなのに、父と呼ばれても、何を返せばいいのか分からないんだ」
「何を返すかなど」
「期待しているだろう!」
老人の声が、水路へ鋭く響いた。
「その顔で分かる。思い出してほしい。息子と呼んでほしい。抱きしめてほしいのか、謝ってほしいのか、何かを望んでいる。それなのに、私は何も覚えていない」
ジュリアンは言葉を失った。
国王の指摘は正しい。
息子ですと名乗りながら、ただ事実を伝えているだけではない。
認めてほしい。
せめて名前を呼んでほしい。
自分が父の人生から完全に消えてはいないと確かめたい。
その願いが、ジュリアンの声にも顔にも出ていた。
「ジュリアン」
エステルが呼ぶ。
「今は、近づかないほうがよいと思います」
「だが」
「国王陛下は、あなたを知らない人として見ています」
「私の父だ」
「あなたにとっては」
ジュリアンの目が鋭くなる。
「君まで、父ではないと言うのか」
「そうは言っていません。あなたの記憶と、陛下の現在の認識が違うと言っています」
「同じことだろう」
「違います」
「何が違う!」
ジュリアンの声が荒くなり、国王がさらに身体を縮めた。
それを見たジュリアンは、唇を噛む。
「……すまない」
誰へ謝ったのか。
国王へか。
エステルへか。
自分の感情を抑えられなかったことへか。
本人にも分かっていないようだった。
「私は」
ジュリアンは、担架の縁を強く握った。
「父上に、私を思い出してほしい」
国王の顔が歪む。
「正直に言えば、息子だと呼んでほしい。父上が私を忘れていないと、そう言ってほしい。だが、覚えていないのなら、覚えているふりをしてほしいわけではない」
言葉を重ねるほど、ジュリアンの声が震えていく。
「だから、今すぐ信じなくていい。私は……あなたの息子だと名乗る男です。それだけで構わない」
国王は、しばらくジュリアンを見つめた。
「それだけで、本当に構わないのか」
「構いません、と言えば嘘になります」
アルブレヒトの首筋の傷は反応しない。
「構わないと思えるよう努力します」
「努力ではなく、約束しろと言われそうですね」
エステルが言うと、ジュリアンが苦い顔をする。
「今、それを言うのか」
「以前、私も同じことを言われました」
「誰に」
「父に」
父。
自分を娘として覚えていない父。
ジュリアンは一瞬黙り、やがて小さくうなずいた。
「では、約束する。思い出せないことを責めない。だが、思い出してほしいと願うことまでは、やめられない」
国王は、少しだけ身体の力を抜いた。
「それなら……分かる気がする」
「父上」
「その呼び方は、まだ怖い」
「では、何と呼べば」
「分からない」
「陛下では?」
グランデル侯爵が口を挟む。
「私は、本当に国王なのか」
老人は自分の寝衣を見る。
王冠もない。
王家の指輪もない。
裸足には泥と小さな傷がつき、冬の地下水で身体は冷え切っていた。
「国王なら、なぜこんな場所に一人でいる。なぜ自分の国も、息子だという男も覚えていない。私に残っているのは、兄を殺したということだけだ」
握りしめた紙が震える。
「それなら私は、王ではなく、人殺しなのではないか」
◇
「まず、診せな」
エッダが前へ出る。
国王は警戒したが、老治療官は構わず彼の前へしゃがみ込んだ。
「あんたが王だろうが罪人だろうが、今は低体温の老人だ。手を出しな」
「私は」
「名前はあと。手」
国王が、おそるおそる手を差し出す。
エッダは脈を取り、瞳を確認し、首筋と耳の後ろへ指を這わせた。
「記憶整理薬の痕があるね」
「薬?」
ジュリアンが身を乗り出す。
「神殿の高位治療で使うものだよ。強い記憶が治療を妨げるとき、一時的に感情との結びつきを弱める。ただし、普通は本人の同意を取り、薄い量から始める」
「父上は三日前から神殿の治療を受けていました」
「三日でここまで消す量なら、治療じゃない。解体だ」
エッダは、国王の腕に残る針跡を見た。
「一度に全部抜いたわけじゃない。一つずつ、記憶を選んで薄くしている」
「なぜ、兄のことだけ残したのです」
ミレイユが尋ねる。
「薬だけで、残す記憶までは選べない」
エッダは血文字の紙を顎で示す。
「神託か、暗示か。何かで、その一文へ何度も戻るようにされている」
「私は、兄を殺した」
国王が呟く。
「それだけは分かる」
「何をしたか、覚えていますか」
エステルが尋ねた。
「剣で刺したのですか。毒を飲ませた。崖から落とした。命令書へ署名した?」
「分からない」
「では、誰から聞きましたか」
「分からない」
「兄の顔は?」
「見えない」
「名前は?」
「思い出せない」
「死んだところを見た?」
「……見ていない」
「なら、今分かっている事実は『兄を殺したと思っている』だけです」
国王が、エステルを睨んだ。
「罪を軽くしようとしているのか」
「いいえ」
「では、なぜ言葉を変える」
「『殺した』という結論だけが残り、理由も行為も失われているからです。結論だけを繰り返せば、あなたはそれ以外を考えられなくなる」
「兄は消えた。私だけが王になった。なら、私が殺したのだろう」
「それは推測です」
「結果がある!」
「結果と、あなたが行ったことの範囲を分けてください」
「私を庇う必要はない!」
国王の声が荒くなる。
「庇っていません」
エステルも、はっきり返す。
「あなたに責任があるなら、正確な責任を引き受けてもらいます。していないことまで罪として背負い、自分を罰して終わることは、責任を取ることではありません」
「自分を罰することが、逃げだと言うのか」
「場合によっては」
国王の顔が、怒りと困惑の間で揺れる。
「あなたは、誰だ」
「エステル・ヴァレリーです。あなたの国で、罪人として追放された者です」
「私が追放したのか」
「あなた個人が命令したとは確認できていません」
「王なら、国で起きたことへ責任があるのだろう」
「あります」
ジュリアンが驚いたようにエステルを見る。
国王も、庇われなかったことへ戸惑っている。
「ですが、王だからすべてを自分一人の罪へまとめるのも間違いです。誰が文書を書き、誰が確認せず、誰が利用し、誰が黙ったか。それぞれ分けます」
「随分、面倒なことをする」
「よく言われます」
アルブレヒトが、小さく息を吐いた。
「そこだけは自覚があるのだな」
「殿下まで」
「今は、国王の記憶を調べろ」
「分かっています」
◇
エステルは、国王が握っていた紙を受け取った。
「離したくない」
国王が抵抗する。
「なぜです」
「これを失えば、兄を殺したことまで忘れる気がする」
「忘れたいとは思わないのですか」
「思う」
老人は、苦しそうに答えた。
「忘れてしまえば楽だろう。だが、兄を二度殺すことになる」
その言葉に、エステルの胸が痛んだ。
ボルデも、そう思ったのだろうか。
誰にも覚えられないことは、二度目の死。
だから彼は、世界中の記録を一つへ統一し、二度と消されない自分を作ろうとしている。
「紙は返します」
エステルは言った。
「ただ、少し見せてください。あなたの手から離しません」
「そんなことができるのか」
「私が端を持ちます」
「子ども扱いか」
「嫌ですか」
「少し」
「では、ほかの方法を」
「いや……今は、それでいい」
国王が紙の右端を握り、エステルが左端へ触れる。
血で書かれた一文の周囲に、余白視を広げる。
――私は、兄を一人殺した。
表面上は、それだけ。
だが血の下には、削られた細い線が残っていた。
「文章が、途中で切られています」
「何が書かれていた」
「読みます」
エステルは、消された文字を一つずつ拾う。
――私は七歳だった。
国王の身体が強張った。
「七歳……」
――父と母と神官たちは、私に言った。
――お前に兄はいない。
――王家に第一王子は存在しない。
国王の呼吸が乱れる。
「やめてくれ」
「止めますか」
「……いや」
「本当に?」
「怖い。だが、読みたい」
エステルは続けた。
――部屋の隅に、銀髪の少年が立っていた。
――誰も彼を見なかった。
――彼は私の名を呼び、弟だと言った。
――私は、父に教えられたとおり答えた。
――私には兄はいない。
国王の手が震え、紙へ新しい血が落ちた。
「見える」
老人が呟く。
「部屋……大きな鏡。兄が、鏡の向こうにいるように見えた。私は、怖かった。父上も母上も、兄を見るなと言った」
「それで、言ったのですか」
「兄はいない、と」
国王は両手で頭を抱えた。
「言った瞬間、兄の声が聞こえなくなった」
アルブレヒトの首筋は反応しない。
国王は、記憶していることを話している。
「それが、最後の家族証言だったのでしょう」
エステルは言った。
「父母と弟が、第一王子の不存在を証言する。家族記録からの削除が完成した」
「私が、完成させた」
「七歳の子どもへ、意味を説明しましたか」
「覚えていない」
「断れる状況でしたか」
「父上に、国を守るためだと言われた」
「なら、七歳のあなたが一人で選んだとは言えません」
「だが、私は言った」
「言った事実は残ります。でも、命令した大人と同じ責任ではありません」
「子どもだったから、無罪だと?」
「今のところ、子どものあなたについては」
「今のところ?」
国王が顔を上げる。
「続きがあります」
エステルは紙のさらに深い層へ視線を移した。
最初の文より、後から書き加えられた文字。
血ではない。
古い王宮記録の墨。
――二十九歳。即位三年目。
――旧王宮書庫で、削除前の第一王子出生記録を発見。
国王の顔から血の気が引く。
「知らない」
「今は、忘れさせられています」
「では、私は」
――記録の公開を求めた侍従長を、地方へ異動。
――出生記録を王家機密として再封印。
――理由。王位継承の正当性が揺らぎ、内乱を招く可能性があったため。
「……私が?」
ジュリアンも、グランデルも、何も言わない。
エステルは、そこで文章を止めなかった。
――私は七歳で、兄を否定する言葉を言わされた。
――私は二十九歳で、その言葉が偽りだったと知りながら、沈黙を選んだ。
――最初は子どもだった。
――二度目は、王だった。
――私は剣で兄を殺してはいない。
――だが、世界が兄を消したあと、その空白の上へ自分の王座を置いた。
最後の部分だけが削られ。
――私は、兄を一人殺した。
その一文へ短く整えられていた。
「ボルデが、文脈を消した」
アルブレヒトが低く言う。
「国王へ罪だけを残すために」
「事実ではあるのでしょう」
国王が呟く。
「私は、大人になってから知った。それでも黙った」
「はい」
エステルは否定しなかった。
「君は、私を慰めないのだな」
「慰めてほしいですか」
「分からない」
「では、今は慰めません」
「厳しいな」
「ただし、七歳のあなたと二十九歳のあなたを、同じ一文へまとめることにも反対します」
「どちらも私だ」
「同じ人でも、選べた範囲が違います」
「では、私は何を償えばいい」
「それを今、私へ決めさせますか」
国王が黙った。
「正しい罰を教えてほしい。自分で考えれば、自分へ甘くなるかもしれない」
「だから、被害を受けた人へ正解を作らせるのですか」
「被害を受けたのは兄だ。君ではない」
「ですが、あなたは今、私へ答えを求めました」
国王の目が揺れる。
「……そうだな」
「まず、覚えている事実と、失われた事実を分けてください。次に、自分がしたことを公開するか決める。王位をどうするかは、そのあとです」
「王位を退けば、責任を取ったことになるのでは」
「退位して終わりたいのですか」
「終わりたい」
あまりにも率直な答えだった。
「怖い。自分が何をした王だったのか覚えていない。国も、息子も、兄も分からない。それなら、王でないほうが楽だ」
「では、退位を罰として美しく扱わないでください」
「何?」
「楽になりたい気持ちもあると、記録してください」
国王は、呆然とエステルを見た。
「君は、本当に容赦がないな」
「私も、消えれば皆が助かると考えました」
「君が?」
「はい。ですが、それは自己犠牲だけではなく、皆と話し続ける苦しさから逃げたい気持ちもあった」
アルブレヒトが、エステルを見る。
「今、そこまで認めるのか」
「国王陛下へ言うなら、自分のことも隠せません」
「そうか」
「褒めていますか」
「少し心配している」
「なぜ」
「お前は正直になりすぎると、自分を傷つける材料まで全部出す」
「隠すよりは」
「量を選べ」
「今後の課題です」
国王は二人のやり取りを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
笑ったことに本人が驚き、すぐ顔を戻す。
◇
「父上は」
ジュリアンが口を開いた。
国王の肩がわずかに強張る。
「その呼び方は、まだ」
「では……あなたは」
ジュリアンは、言い直すためにかなり長く迷った。
「私が知っている国王は、完全に正しい人ではありませんでした」
「ジュリアン殿下」
ミレイユが心配そうに見る。
「今だから言う」
ジュリアンは国王へ向き直った。
「あなたは、私へ王太子としての正しさを求めた。食事中でも報告を聞き、私の誕生日に外交使節を優先し、剣術試合で勝っても、王族なら当然だと言った」
「私は……悪い父だったのか」
「良い父だったとだけ言えば、嘘になります」
ジュリアンの声には痛みがあった。
「ですが、私が熱を出した夜、執務を抜けて朝までそばにいた。母上を亡くしたあと、泣き方が分からない私へ、無理に泣かなくていいと言った。王太子ではなく、息子として見てくれた時もあった」
「時も?」
「少なかった」
「そうか」
「でも、なかったことにはしたくない」
国王は、自分の手を見つめた。
「私は、君を愛していたのだろうか」
「たぶん」
「たぶん?」
「私にも、父上の内心は分かりません」
ジュリアンは苦く笑う。
「愛していたと思う。だが、愛していれば傷つけないわけではないでしょう。私も、それを知りました」
ミレイユが、少しだけ顔を伏せる。
「君を傷つけたのか」
国王が尋ねる。
「私だけではありません」
ジュリアンはエステルを見る。
「私は、婚約者だった人の処分を確認しなかった。自分に都合のよい説明を信じ、妹との新しい婚約を正しいと扱った。被害者になってから、ようやく自分のしたことを理解し始めた」
「私と似ているのか」
「似ている部分があります」
ジュリアンは、その言葉を嫌がらなかった。
「だから、父上――」
国王が少し身を固くする。
「……あなたを助けたいのは、親だからだけではありません。自分と似た逃げ方をした人が、罪の一文だけを残されて壊されるのを見たくない」
「助けたあとで、どうする」
「責任を聞きます」
「厳しい息子だ」
「父上の教育かもしれません」
「覚えていない」
「では、今の私から知ってください」
ジュリアンは、ゆっくり手を差し出した。
「触れなくても構いません。ただ、私はここにいます」
国王は、差し出された手を見る。
すぐには取らなかった。
長い沈黙のあと、指先だけをジュリアンの手へ触れさせる。
「息子だとは、まだ思えない」
「はい」
「だが、私に似た、面倒な若者だとは思う」
「それは、あまり嬉しくありません」
「すまない」
「謝るところですか」
「分からない」
「では、今はそのままで」
二人の指先は、完全には握り合わなかった。
それでも離れなかった。
◇
「国王陛下の身元を、今の状態で固定する必要があります」
エステルは記録官へ紙を求めた。
「何と書く」
王国側の記録官が尋ねる。
「『国王』では不安定です」
「本人が覚えていないからか」
「それだけではありません。公式記録上、国王陛下は王宮にいることになっている可能性があります」
「では、ここにいる人は偽物と」
グランデル侯爵が言いかけ、口を閉じる。
国境でエステルへ向けた言葉と同じだ。
公式記録と矛盾する生身の人間。
「私は、この方を国王陛下だと証言する」
グランデルは、はっきりと言った。
「北方軍司令として、何度も謁見した。声、顔、左手の古傷、歩くとき右足へわずかに重心を置く癖。間違いない」
「私も」
ジュリアンが続ける。
「父だと証言する。ただし、本人は私を息子として記憶していない」
ミレイユも手を上げる。
「聖女の任命式でお会いしました。国王陛下だと思います。でも、話した回数は少ないので、絶対とは言いません」
アルブレヒトは、国王を見た。
「私は本人をほとんど知らない」
「外交会議で会っているでしょう」
ジュリアンが言う。
「エステルに関係する時期の記憶が消えている」
「では、何も証言できない?」
「今ここで、兄を消した罪だけを記憶している老人がいる。血統や地位は判断できない」
国王が、少し安心したようにアルブレヒトを見る。
「君は、私を国王として扱わないのか」
「現時点では、聖王国側の証言により国王である可能性が高い人物として扱う」
「不敬だぞ」
グランデルが言う。
「不確かな敬意で、本人へ役割を押しつけるほうが不敬だ」
「帝国皇弟らしい物言いだな」
「褒めているのか」
「今は、半分ほど」
「半分を消せ」
「嫌だ」
記録官が、全員の証言をまとめる。
――聖王国国王本人と推定される男性。
――複数の王国関係者が、身体的特徴および過去の面識から本人と証言。
――本人は地位、家族、国政に関する記憶を失っている。
――第一王子削除への関与を示す断片記憶あり。
――身元および責任の最終判断を保留。
「最後が、逃げているように見える」
国王が言う。
「今すぐ断罪されたいのですか」
エステルが尋ねる。
「それが正しいなら」
「正しいか判断する材料が足りません」
「では、私はいつまで待つ」
「材料が集まるまで」
「その間、罪を抱えたまま?」
「はい」
「厳しいな」
「忘れて楽になる方法を、ボルデは提案するかもしれません」
「兄は……私へ、そうしてほしいのか」
「分かりません」
「君は何も決めてくれない」
「あなたの人生なので」
「それが、一番怖い」
国王は小さく呟いた。
「誰かに罰を決めてもらえば、従うだけで済む。自分で考えろと言われるほうが、怖い」
「私も、そうでした」
エステルは答える。
「今も、怖いです」
「それでも、自分で決めるのか」
「一人では決めません」
アルブレヒト。
ミレイユ。
エッダ。
グランデル。
皆と話し、反論され、時には怒鳴り合う。
「決めることを、誰かへ全部渡さないだけです」
国王は、その言葉を何度も確かめるように繰り返した。
「全部、渡さない」
「はい」
◇
国王を水路の出口から王都へ連れ戻すには、問題があった。
王都側の出口には、王家の血を確認する古い封印がある。
ジュリアンの血でも開くはずだったが、王太子位と第一王子記録を削られたため、今の神託が彼を王族として認識するか分からない。
国王本人なら。
そう考え、老人が出口の石盤へ手を置いた。
反応はない。
「私が国王ではないからか」
「違います」
エステルは余白視で封印文を確認した。
「現在の王家記録では、国王陛下は王宮内にいると固定されています。この場所へいるあなたを、同じ人間として認識できていません」
「また偽物か」
グランデルの声が苦くなる。
「どう直す」
アルブレヒトが尋ねる。
「古い水門は、役職ではなく家族証言を使っています」
「誰が証言する」
「ジュリアン」
全員が彼を見る。
「私が?」
「王子としてではありません。息子として」
「父上は、私を息子と認識していない」
「一方だけの証言でも、血縁の確認はできます。ただし、陛下ご本人が拒否すれば開きません」
国王が、ジュリアンを見る。
「私は、君を息子だと覚えていない」
「分かっています」
「それでも、血を受け入れろと?」
「息子として愛せ、という意味ではありません」
エステルは説明する。
「この人が自分の血縁者である可能性を、調査の間だけ否定しない。それで十分です」
「保留のまま、門を開くのか」
「古い仕組みは、それを許していたようです」
「今の神託より、よほど人間らしいな」
国王は苦笑した。
ジュリアンが石盤の片側へ手を置く。
「私は、この人を父だと記憶しています」
古い文字が光る。
「良い父だったとだけは言いません。私を愛した時も、王太子としてしか見なかった時もある。私は今、この人を助けたい。同時に、兄を二度消した責任について、あとで話を聞きたい」
「血縁の証言へ、そこまで必要ですか」
ミレイユが尋ねる。
「良いことだけでは、父上だと証明しにくい」
ジュリアンは答えた。
「エステルから学んだ」
「私が教えたことになっているのですか」
「今の君から」
その言い方に、エステルは少しだけうなずいた。
国王も、反対側の石盤へ手を置く。
「私は、この男を息子だと覚えていない」
文字は消えない。
「だが、私の悪い部分を知り、それでも助けたいと言う。私に似た逃げ方をしたと、自分の恥まで話した」
国王の声が震える。
「息子かもしれないと思う。今は、それ以上は言えない」
二つの光が重なる。
――父子関係、双方の記憶が一致せず。
――血統反応、一致。
――関係の確定を保留。
――通行を許可。
石造りの出口が、ゆっくりと開く。
冷たい夜風。
遠くに見える王都の灯り。
だが、門が完全に開く直前。
国王の血文字の紙が、強い赤色へ変わった。
「エステル」
アルブレヒトが警告する。
余白に、新しい文章が浮かぶ。
――弟が兄を否定した時、第一王子削除の外封印は完成した。
――外封印を解除するには、同じ弟が兄の存在を証言せよ。
「外封印」
ミレイユが息を呑む。
「ボルデが言っていた、存在しない部屋の外鍵?」
「ボルデ自身の消された名前が鍵だと聞きました」
エステルは文章を読み進める。
「でも、その名前を鍵として使うには、先に王家の家族記録へ第一王子の存在を戻す必要がある」
「私が、兄はいたと言えばいいのか」
国王が尋ねる。
「言うだけでは足りません」
「では」
「名前が必要です」
国王の顔が青ざめる。
「覚えていない」
紙の上へ、血の文字が増える。
――第一王子の名を、弟は一度だけ呼んだ。
――削除直前の家族記録へ、音の断片が残る。
「思い出せるのですか」
ジュリアンが尋ねる。
「分からない」
国王は頭を押さえた。
「銀髪。鏡。兄が、私の名を呼んだ。私は……父上に教えられた言葉を言う前、兄の名を呼んだ気がする」
「無理に思い出さないでください」
エッダが止める。
「記憶が壊れかけている。強く引けば、ほかまで切れる」
「だが、名前が必要なのだろう」
「今ここで思い出せなければ、別の記録を探します」
エステルが言う。
「時間は」
国王が問い返す。
「第一編纂官の期限まで、四日以上あります」
「四日しか」
アルブレヒトが国王を見る。
「四日ある」
国王は、少し驚いた顔をした。
「そう言い直せと?」
「時間の見え方が変わる」
「君も、校正官なのか」
「違う。影響を受けた」
「悪い影響です」
エステルが言う。
「自覚があるなら直せ」
「必要な部分なので」
国王は、ほんの少し笑った。
その直後。
紙の血文字が、自ら形を変え始めた。
最初の一文字。
バ。
国王の唇が震える。
「バ……」
次。
ル。
「バル……」
ド。
ゥ。
イ。
ン。
消された第一王子の本当の名前が、四十七年ぶりに血の上へ現れた。
――バルドゥイン・アレクシス・セレスタン。
「兄上」
国王が、初めてその名を呼んだ。
「私には、兄がいた」
王都中の鐘が、一斉に鳴り響いた。
宮殿。
神殿。
王立神託院。
すべての記録塔へ、同じ文章が流れる。
――削除済み第一王子の存在証言を確認。
――王家家族記録を再審査。
――第一王子バルドゥイン・アレクシス・セレスタンの生存可能性を認定。
「ボルデの王位継承権が」
グランデル侯爵が青ざめる。
「戻りました」
エステルは王都の空を見る。
これまで暫定王太子にすぎなかったボルデ。
だが今、国王自身が兄の存在を証言したことで、彼は正式な第一王子として王家の記録へ戻った。
赤い神託が、夜空を覆う。
――現国王より先順位の王位継承者を確認。
――第一王子バルドゥインの即位手続きを開始する。
「私が兄を戻したことで」
国王が震える。
「彼を王にしてしまったのか」
「兄の存在を認めることと、即位を認めることは別です」
エステルは即答した。
「また、分けるのか」
「はい」
王都中央部から、巨大な金色の冠が浮かび上がる。
その中心には、ボルデの穏やかな顔。
そして、王国全土へ響く声。
『ありがとう、弟よ』
国王の身体が強張る。
『四十七年ぶりに、私を兄と呼んでくれた』
声には、偽りのない喜びがあった。
だからこそ、その次の言葉が恐ろしかった。
『これで、私は正しく王になれる』
「正しくはありません」
エステルは王都へ向かって言い返す。
『何が正しくないのです、エステル』
「存在を奪われたことへの回復と、王位を得ることは別です」
『私が本来の第一王子だった事実は戻った』
「王になる資格が現在もあるかは、戻っていません」
『では、誰が判断するのです』
「国王陛下。議会。国民。そして、あなた自身の行動です」
『曖昧ですね』
「必要な曖昧さです」
『ならば、王都へ入りなさい』
王都旧水門の出口が、完全に開く。
その先には、白い甲冑を着た王国兵が何百人も並んでいた。
剣は抜かれていない。
代わりに、全員が一枚の白紙を胸の前へ掲げている。
『彼らは、まだあなた方を敵とも味方とも決めていません』
ボルデの声が、優しく響く。
『王都へ入る資格があると証明できれば、通しましょう』
兵士たちの白紙へ、同じ問いが浮かぶ。
――第一王子バルドゥインは、正統な王か。
――はい。
――いいえ。
また二つの答え。
そのどちらかを選ばなければ、王都へ入れない。
エステルは、隣のアルブレヒトを見る。
「選ぶな、と言うのでしょう」
「ああ」
「ですが、今回は兵士全員が」
「なら、全員へ別の答えを聞く」
「時間がかかります」
「時間はある」
「四日と」
「数字を先に言うな」
アルブレヒトは、エステルの前へ一歩出た。
「王が正統かどうかを、はいといいえだけで決めさせるな。存在を認めること。王位継承権を認めること。今すぐ即位させること。それぞれ分けろ」
エステルは、王都の空へ浮かぶ二択を見上げた。
ボルデは存在を奪われた。
その不正は、正さなければならない。
だが、正された被害者が、ただちに正しい王になるわけではない。
「分かりました」
エステルは黒銀の文字を展開する。
「まず、質問を校正します」
王都の門前で。
第一王子の存在を取り戻した直後。
今度は、その王位そのものをめぐる校正が始まろうとしていた。




