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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第三十六話 第一王子が正統な王かと聞かれたので、質問を三つに分けました

 王都旧水門の向こうには、白い甲冑をまとった王国兵が、通路を埋め尽くすほど並んでいた。


 数は、およそ三百。


 先頭の兵士から最後列まで、誰一人として剣を抜いてはいない。


 代わりに、全員が胸の前へ一枚の白紙を掲げている。


 紙に浮かんでいる問いは、同じだった。


 ――第一王子バルドゥイン・アレクシス・セレスタンは、正統な王か。


 ――はい。


 ――いいえ。


 兵士たちの指先は、二つの回答の間で止まっている。


 選んだ者は、まだ一人もいない。


「質問を校正します」


 エステルが黒銀の文字を展開すると、先頭に立つ隊長が即座に片手を上げた。


「お待ちください。門前審査の問いを書き換えることは認められておりません」


「誰に認められていないのですか」


「第一編纂官代理、ならびに暫定王太子殿下です」


「同じ人物ですね」


「……はい」


「質問を作り、自分を正統な王と認めるか尋ね、回答形式まで自分で二つに限定している。審査として不適切です」


「私へ言われても困ります」


 隊長は、疲れ切った顔で答えた。


「私は質問を作った者ではありません。与えられた審査を実施するよう命令されただけです」


「命令へ疑問は?」


「あります」


 意外なほど早い答えだった。


「それでも実施するのですか」


「命令なので」


「疑問があっても?」


「軍隊が、兵士一人一人の疑問で止まれば、国は守れません」


「では、命令が国を壊す内容でも?」


「その判断を一兵士が行えば、別の兵士は違う判断をする。全員が自分の正義で動けば、軍ではなく武装した群衆になります」


 隊長は、白紙を握る指へ力を入れた。


「あなた方が国境で戦争を止めたことは知っています。しかし、すべての命令を現場で議論し直せばよいとは思えません」


「私も、すべての命令を議論し直せとは思っていません」


 エステルは答えた。


「思っていないのですか」


 隊長の顔へ、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「命令を即座に実行しなければ、多くの人が死ぬ状況はあります。火災。洪水。戦場。毎回、全員の同意を取ることはできません」


「ならば、今回は命令へ従ってください」


「今回は、今すぐ誰かを救うための命令ではありません」


「王位を確定し、国の混乱を止めるためです」


「混乱を早く終わらせることと、正しい王を選ぶことは同じですか」


 隊長は答えなかった。


 その沈黙へ、王都の上空からボルデの声が降りてくる。


『エステル。問いを複雑にすれば、答えが正しくなるとは限りませんよ』


「簡単にすれば正しくなるのですか」


『国には決定が必要です。王が存在するのか、しないのか。命令へ従うのか、従わないのか。国民であるのか、敵であるのか。最後には、どちらかへ決めなければならない』


「最後には、という部分には同意します」


『ならば』


「今が最後だとは同意していません」


 王国兵たちの白紙にある二つの回答が、赤く光る。


『期限を延ばし続ければ、結論を恐れているだけです』


「急がせ続ければ、考えられることを恐れているだけでは?」


 ボルデの声が一瞬止まった。


 隣でアルブレヒトの首筋が淡く赤くなる。


「今の言葉に、何か反応しましたか」


「ボルデは、兵士たちへ考える時間を与えたくない」


「なぜです」


「答えが変わる可能性を知っているからだ」


『皇弟殿下の呪いは便利ですが、私の内心を正確に読めるわけではありません』


「では、兵士たちへ考える時間を与えますか」


 アルブレヒトが尋ねる。


『すでに与えています』


「どれほど」


『白紙を配ってから、十分ほど』


 兵士たちの間に、小さなどよめきが走る。


「王位を決める時間が十分?」


 ミレイユが呆れた声を出した。


『十分あれば、文字を二つのうち一つへ置けます』


「文字を書く時間を聞いているのではありません!」


『聖女としてのあなたなら、神意を信じればよい』


「今は、聖女として答えません」


 ミレイユは一歩前へ出た。


「一人のミレイユとして答えます。ボルデ……いいえ、バルドゥイン殿下が、王家から消された第一王子だったことは認めます。消されたことが不当だったとも思います。でも、それだけで今すぐ王になってよいとは思いません」


『なぜです。私の王位継承順位は、弟より上だった』


「四十七年前は」


『時間が経てば、奪われた権利はなくなるのですか』


「なくならないものもあります。でも、四十七年間に何をしたかも、なくなりません」


 ミレイユは胸元に残る婚約鎖の赤い痕へ触れた。


「私を聖女と婚約者の役割へ押し込みました。ジュリアン殿下を消し、私の次の婚約者を勝手に決めた。アルブレヒト殿下を王太子にしようとし、それが失敗したら自分を王太子へした」


『私は、本来の場所へ戻っただけです』


「戻る途中で踏んだ人のことを、見ないのですか」


『すべてを避けて歩ける道はありません』


「避けられなかったことと、踏んだあとで謝らないことは別でしょう!」


 ミレイユの声が、門前へ響く。


 白紙を持つ兵士たちの何人かが、彼女を見た。


 聖女としてではなく。


 怒り、泣き、首に傷を残した一人の女性として。


     ◇


「質問を、三つに分けます」


 エステルは黒銀の文字で、空へ新しい文を作った。


 最初の問い。


 ――バルドゥイン・アレクシス・セレスタンは、現国王より先に生まれた第一王子として存在したか。


 王国兵たちがざわめく。


 二つ目。


 ――その存在および当時の王位継承権は、本人の同意なく不当に削除されたか。


 三つ目。


 エステルの手が、一度止まる。


 アルブレヒトが横から文章を見る。


「『現在の正統な王か』では、まだ広すぎる」


「では、どう分けますか」


「王位継承権があることと、今すぐ王権を行使できることを分けろ」


「はい」


 エステルは続きを書く。


 ――存在と旧王位継承権の回復は、現在の国王から直ちに王権を移し、バルドゥインを審査なく即位させる根拠となるか。


 ボルデの赤い文字が、黒銀の問いへ重なる。


 ――質問の改変を認めない。


「なぜですか」


 エステルが尋ねる。


『一つの問いを、都合よく分割しているからです』


「一つではありません」


『正統な第一王子なら、正統な王です』


「王位へ就く前に亡くなった第一王子は?」


『別の継承者へ移ります』


「病気で統治能力を失った場合は?」


『摂政を置く』


「犯罪を犯した場合は?」


『法に基づき審査する』


「では、第一王子であることだけでは、無条件に王権を行使できません」


 赤い文字が揺れた。


「あなた自身が、例外を認めました」


『私は病人でも犯罪者でもない』


「それを今から審査します」


『被害者へ、さらに資格を証明しろと言うのですか』


 ボルデの声へ、初めてはっきりとした怒りが混じった。


『私の弟は、私の王位を奪ったあと、何の審査もなく王になった。私は存在を取り戻しても、今度は善良さを証明しなければ戻れない。あまりに不公平ではありませんか』


「不公平です」


 エステルは否定しなかった。


『ならば』


「あなたへだけ厳しい審査を課すなら、不公平です。ですから、現国王の統治と責任も審査します」


 国王が、白い寝衣のまま一歩前へ出た。


「私も、受ける」


『弟よ』


「私は、七歳のとき兄を否定した。二十九歳で真実を知りながら再び隠した。自分の王位が、兄の消された場所へ立っていることも認める」


 王国兵たちが、国王の姿を見てどよめいた。


「国王陛下?」


「陛下が、なぜ水門から」


「王宮におられるはずでは」


 隊長が、震える声で尋ねる。


「本当に、国王陛下なのですか」


「私は、自分が国王だった記憶を失っている」


 国王は答えた。


 兵士たちの困惑が、さらに深まる。


「だが、グランデル侯爵と、息子だと名乗る男と、聖女と、複数の者が私を国王本人だと証言している。血統反応も一致した。今の私は、それ以上を自分で証明できない」


「陛下」


 隊長の白紙を持つ手が下がる。


「そのような状態で、人前へ出られては」


「王らしくないか」


「そういう意味では」


「ならば、どういう意味だ」


 隊長は言葉を探した。


「民が、不安になります」


「私が完全な王の顔をして、何も覚えていないことを隠せば安心するのか」


「少なくとも、混乱は」


「あとで真実を知れば、さらに混乱する」


「ですが」


「私も怖い」


 国王は、自分の手にある血文字の紙を見る。


「王として何をしたか覚えていない。息子も、兄も、国も分からない。このまま王宮へ戻り、王の椅子へ座れと言われても、逃げたい」


『ならば私へ王位を返せばよい』


 ボルデの声が重なる。


『弟は楽になり、私は奪われたものを取り戻す。それで何が悪い』


「楽になりたいから、王位を渡せばよいのか」


 国王は空を見上げた。


『本来、私のものだった』


「そうかもしれない」


『かもしれない?』


「兄上が存在したことは認める。先に生まれた第一王子であったことも。私より前に王位を継ぐはずだったことも、今は否定しない」


『ならば』


「だが、今の兄上が王になってよいかは、別だ」


 王都中の地下灯が、一瞬暗くなった。


『また、私を否定するのか』


「違う」


『同じだ!』


 ボルデの声が大きく響き、王国兵たちの白紙へ赤い火花が走る。


『四十七年前も、父上は国を守るためと言った。神官は王家の安定のためと言った。今度は審査のため、現在の民のため、私の行動を確かめるため。言葉を変えて、また私を王座の外へ置く!』


「置くのではない」


『では、王だと認めろ!』


「兄上がいたと認めることと、王として従うことは別だ!」


 国王の声も、水路へ響いた。


 怯えていた老人とは思えない声だった。


 言った本人が、自分の大声へ驚いたように息を止める。


「私は……兄上を、またいないことにはしない」


 国王は、ゆっくり続けた。


「だが、罪悪感で王冠を渡すこともしない。それでは、兄上を一人の人間として見ず、奪われた王子という役割へ押し戻すだけだ」


『綺麗なことを』


「綺麗ではない。私は、王位を渡して楽になりたい。兄上へ返せば、四十七年前の罪が少し軽くなる気がする。その気持ちがあるからこそ、今の私だけで決めてはいけない」


 ボルデは答えなかった。


「兄上」


 国王は、さらに言う。


「私は、あなたを覚えていない」


『……分かっている』


「それでも、名前を呼ぶと胸が苦しい。あなたに謝りたい。許してほしい。だが、許してもらうために国を差し出すことはできない」


『私は国を奪うのではない。本来の王として正すだけだ』


「ならば、正しいかどうかを皆の前で話そう」


『王が、民へ王になる許可を求めるのか』


「少なくとも、民を王国民の定義から消す王になるなら、問われるべきだ」


 国王の言葉へ、兵士たちの間から小さな声が上がった。


「王国民の定義から……」


「本当に、そんな命令が?」


 隊長が振り返る。


「何の話です」


 エステルが、兵士たちを見る。


「皆さんは、知らされていないのですか」


「何をです」


「バルドゥイン殿下の即位を妨げる者を、王国民の定義から削除する命令です」


 隊長の顔色が変わる。


「そのような命令は、門前部隊へ届いていません」


「白紙を見せてください」


 隊長は警戒したものの、自分の紙をエステルへ向けた。


 表面には、二択の問い。


 余白視を開く。


 紙の裏側。


 肉眼では見えない赤い文字が、細かく書かれている。


 ――回答「はい」を選択した者およびその家族の王国民記録を保護。


 ――回答「いいえ」を選択した者は、王位簒奪への加担者として再分類。


 ――無回答者は、命令拒否として家族を含め審査対象へ移行。


「家族まで?」


 隊長の声が掠れる。


「皆さんは、自分の回答だけを選ぶのではありません」


 エステルは、隠された文章を黒銀の光で表面へ引き上げた。


「『はい』を選ばなければ、家族の王国民記録まで不安定になるよう設定されています」


 兵士たちが一斉に紙を裏返す。


 だが、肉眼では何も見えない。


「嘘だ!」


 後列から、若い兵士が叫んだ。


「第一王子殿下は、我々の家族を守ると」


「だから、『はい』を選べば保護すると書いています」


 エステルは答えた。


「それは脅しではない!」


 若い兵士は、自分へ言い聞かせるように声を張った。


「王へ忠誠を誓った国民を守り、反逆者を調べる。当たり前だ!」


 アルブレヒトの首筋が、赤く燃えた。


「今の兵士は、嘘をついていない」


「では」


「本人は信じている」


 アルブレヒトは、空へ向かって声を上げる。


「だが、この紙を作った者は、それが保護ではなく強制だと知っている」


『王国民である以上、王へ忠誠を求めるのは当然です』


「即位へ同意しなければ家族を消すことが?」


『王国の安定を破壊する行動には、結果が伴う』


「それを脅しと呼ばず、結果と呼び換えているだけだ」


 アルブレヒトの傷から青白い光が走り、隊長の白紙へ絡んだ赤い文字を焼いた。


 隠されていた条件が、すべての紙へ浮かび上がる。


 兵士たちの間で、怒号が起きた。


「聞いていない!」


「妻と子まで審査対象?」


「『いいえ』を選んだだけで簒奪者になるのか!」


「では、『はい』以外、最初から選べないではないか!」


 先ほどの若い兵士だけは、まだ紙を握りしめていた。


「それでも、王は必要です」


 彼は震えながら言う。


「今の陛下は記憶を失っている。元王太子殿下も、王族の記録を削られた。議会は何日も決定できず、王都の配給神託も止まりかけている。バルドゥイン殿下が王になれば、少なくとも命令は一つになる」


「一つになれば、内容は問わないのですか」


 エステルが尋ねる。


「問いたいです。でも、家には母と妹がいる。昨日から配給札の名前が薄くなっているんです」


 若い兵士の目に、涙が浮かんだ。


「私が『はい』を書けば、二人は守られる。なら、書くしかないでしょう」


 周囲の兵士は、彼を責めなかった。


 誰も簡単には責められない。


「お名前は?」


 エステルが聞く。


「ラウルです」


「ラウルさん。あなたが『はい』を選ぶことを、私から間違いとは言いません」


「では、通してくれるのですか」


「でも、その回答を『バルドゥイン殿下を正しい王だと信じた証言』へ使うことには反対します」


「何が違うのです」


「あなたは、母と妹を守るために選ぶのでしょう」


「はい」


「ならば、その理由も一緒に書いてください」


 ラウルは、紙を見る。


「理由を?」


「『母と妹の王国民記録を守るため、はいを選ぶ』と」


「そんなことを書けば、忠誠を疑われます」


「すでに、忠誠を強制されています」


「それでも、家族が」


「だから、消しません。あなたが怖くて選んだことも、そのまま残します」


 ラウルは、長く迷った。


 やがて、震える手で「はい」の横へ小さく文章を書く。


 ――母と妹の記録を守るため。


 赤い神託が、その追記を消そうとする。


 エステルは黒銀の文字で支えた。


 ――回答理由の削除を認めない。


 ラウルの紙が、赤でも白でもない薄い灰色へ変わる。


 ――回答「はい」。


 ――ただし、自由意思による王位承認か判定不能。


 ラウルは、その表示を見て泣いた。


「これでは、殿下への忠誠にならない」


「忠誠ではなくても、あなたが家族を守ろうとした記録にはなります」


「それで、いいのでしょうか」


「私には決められません」


「また、決めてくれないのですか」


「あなたの答えなので」


 ラウルは悔しそうに唇を噛んだ。


「ずるいですね」


「はい」


 エステルは否定しなかった。


「正しい答えを教えて、責任も取ってくれれば楽なのに」


「私も、そう思うことがあります」


「校正官なのに?」


「校正官だからです。誰かの間違いを見つけるほうが、自分の答えを選ぶより簡単です」


 ラウルは、少しだけ泣き笑いのような顔になった。


     ◇


 一枚目の紙が変わると、ほかの兵士たちも言葉を書き始めた。


 年配の兵士。


 ――バルドゥイン殿下が第一王子だったことを認める。


 ――神託院副院長として、病気の娘の治療記録を修正してくれた恩がある。


 ――しかし、家族を削除すると脅す即位には同意できない。


 別の兵士。


 ――現国王陛下の統治へ不満がある。


 ――兄の存在を隠して王位を維持した責任を問うべき。


 ――ただし、バルドゥイン殿下を審査なく王とすることにも反対。


 若い女性兵士。


 ――王が誰でも、配給を止めないでほしい。


 ――王位継承の正しさは判断できない。


 ――判断できないことを理由に、反逆者と呼ばないでほしい。


 そして、何人かは「はい」だけを書いた。


 理由を加えなかった。


 バルドゥインこそ正統な王だと、本心から信じている者たちだ。


 逆に「いいえ」だけを書く者もいた。


 王都を混乱させたボルデへ、どんな事情があっても王になる資格はないと考える兵士たち。


 誰も、完全には同じではない。


「これでは、部隊としてまとまらない」


 隊長が苦しそうに言う。


「兵士同士で王への判断が違えば、次の命令を誰から受ける」


「それを決めるための暫定命令が必要です」


 エステルが答える。


「誰が出すのです」


 全員の視線が、記憶を失った国王へ向いた。


 国王はたじろぐ。


「私が?」


「現時点の王国記録では、国王陛下です」


「だが、私は何も覚えていない」


「すべてを決める必要はありません」


 アルブレヒトが言った。


「今ここで必要な命令だけを出せ」


「何が必要だ」


「門前で血を流さないこと。王位の審査を行う者たちを王都へ入れること。それ以上は決めるな」


「兄を敵と認定する必要は?」


「ない」


「私を正統な王と宣言する必要は?」


「ない」


「ジュリアンを王太子へ戻す?」


「今は関係ない」


 ジュリアンが担架から、少し不満そうに顔を上げる。


「関係ないと、そこまで明確に言われると複雑だな」


「今は負傷者だ」


「分かっている」


「なら寝ていろ」


「あなたは、以前から私へそういう話し方だったのか」


「覚えていない」


「そうだったな」


 ジュリアンは諦めて担架へ背中を戻した。


「私は」


 国王が、自分の血文字の紙を見た。


「王として何をしたか覚えていない。それでも、命令を出してよいのか」


「出さなければ、ここにいる隊長が決めなければなりません」


 グランデル侯爵が答える。


「一部隊の隊長へ、王位継承争いの判断を背負わせるのですか」


「それは……できない」


「では、今の陛下が、今分かる範囲で命じてください」


「間違えたら」


「記録し、あとで責任を問います」


 エステルが答える。


「やはり厳しいな」


「間違えないと言えば、嘘になります」


「そうだな」


 国王は、隊長から新しい紙を受け取った。


 かなり長い間、筆を持ったまま動かなかった。


 誰も急かさない。


 やがて。


 ――王位継承および国王本人の身元に重大な疑義あり。


 ――審査完了まで、門前部隊へ攻撃停止を命ずる。


 ――バルドゥイン・アレクシス・セレスタンの存在回復を認める。


 ――ただし、即位および王権移行は保留する。


 ――異議申立人、証人、負傷者の入城を許可する。


 国王は、最後に自分の署名を書こうとして止まった。


「名前が分からない」


 水路へ、重い沈黙が落ちる。


 国王としての記憶を失い、自分の個人名さえ思い出せない。


 ジュリアンが起き上がる。


「父上の名は、オズワルド・アレクシス・セレスタンです」


「オズワルド」


 国王は、その名を口の中で何度か繰り返した。


「私の名前か」


「はい」


「君が決めた名ではない?」


「違います」


「本当に?」


「複数の記録官と、グランデル侯爵に確認してください」


 ジュリアンは、父に信じろとは言わなかった。


 国王――オズワルドは、グランデルを見る。


「陛下のお名前で間違いありません」


「隊長は?」


「オズワルド陛下です」


「私は、その名を信じてもよいのか」


 エステルが答える。


「今すぐ自分のものだと感じなくても、複数の証言がある名前として使えます」


「借りるのか」


「思い出すまで」


「思い出せなければ?」


「今のあなたが、使い続けるか決めてください」


 国王は、少しだけ苦笑した。


「自分の名まで、自分で選び直すのか」


「名前を失った人は、そうすることもあります」


 ボルデも。


 バルドゥインという王子の名を失い、ボルデ・クラウスとして生きた。


 オズワルドは、ゆっくりと署名した。


 ――オズワルド・アレクシス・セレスタン。


 文字は消えなかった。


 国王の血。


 複数の証言。


 そして現在の本人が、仮にでも受け入れた名前。


 古い水門が、命令を正式な王命として認識する。


 ――現国王命令を受理。


 だが、すぐにボルデの赤い文章が重なる。


 ――第一王子の王位継承順位は、現国王より上位。


 ――現国王による即位保留命令を無効化。


 二つの王家の光が衝突する。


 オズワルドの金。


 バルドゥインの赤。


 門前の兵士たちの紙が、激しく揺れた。


「どうなるのです」


 ミレイユがエステルの腕をつかむ。


「王命が二つ、同時に存在しています」


「どちらが勝つの?」


「分かりません」


「また?」


「今度は、本当に制度側も分かっていません」


 古い水門へ、これまで見たことのない文章が現れた。


 ――王位継承順位と現王権が矛盾。


 ――単独の正統性を確定できず。


 ――王位異議申立て手続きへ移行。


 門前の白紙が、一斉に裏返る。


 そこには新しい役割が記された。


 ――門前部隊は、いずれの王位請求者にも属さず、審査終了まで王都住民の安全を優先する。


 隊長が、その文章を読む。


「どちらの命令にも、直ちには従わない?」


「軍が王を選ぶのではなく、審査が終わるまで民を守る役割へ変わりました」


 エステルが答える。


「しかし、何をもって民の安全とするか、現場で判断することになる」


「はい」


「先ほど、兵士一人一人の判断で軍が動けば、武装した群衆になると言ったばかりです」


「ですから、一人で判断しないでください」


「誰と」


「部隊の中で話してください。記録官も入れる。住民の代表も。緊急時は隊長が決め、理由を残す」


「遅くなる」


「速く間違えるよりは、ましな場合があります」


「すべての場合ではない」


「はい」


「あなたは、何でも話し合えばよいとは言わないのですね」


「言いません」


 隊長は、少しだけエステルを見る目を変えた。


「もっと、理想だけを語る方かと思っていました」


「私は、理想を語っているつもりはありません」


「では」


「面倒な現実の話をしています」


 隊長は、疲れたように笑った。


「確かに、面倒だ」


「よく言われます」


     ◇


「門前部隊、通路を開け!」


 隊長が命じた。


 兵士たちは、すぐには動かなかった。


「今の命令は、誰のためです」


 ラウルが尋ねる。


 隊長は一瞬、言葉を失う。


 そのあと、答えた。


「負傷者を王都へ入れ、王位審査の証人を通し、門前での戦闘を避けるためだ」


「バルドゥイン殿下への反逆では?」


「そう判断される可能性はある」


「家族は」


「私にも妻と息子がいる」


 隊長は、白紙を胸元へしまった。


「怖くないとは言わない。だが、家族を守るためだと言って、ほかの家族へ剣を向ければ、誰かが同じことを繰り返す」


「それでも、私は母と妹が」


「ならば、ここへ残ってもよい」


「命令違反には?」


「今の命令は、通路を開けることだ。全員が同じ位置へ立つ必要はない」


「隊長」


「私は、お前へ勇敢であれとは言わない。家族のもとへ行きたいなら、それも記録する」


 ラウルの顔が歪む。


「そんなふうに言われたら、逃げにくくなるではありませんか」


「すまない」


「謝らないでください」


「では、どう言えばいい」


「分かりません!」


 ラウルは泣きながら、自分の持ち場へ戻った。


「私は残ります。でも、バルドゥイン殿下を否定したわけではありません」


「記録する」


「家族を守りたいことも」


「記録する」


「怖いことも」


「それもだ」


 隊長の命令が、今度こそ部隊へ伝わる。


 三百人の兵士が、左右へ分かれた。


 全員が納得したわけではない。


 何人かは、バルドゥインの即位を拒むエステルたちへ敵意を向けている。


 何人かは、国王オズワルドへ失望している。


 何人かは、ただ早く勤務を終え、家族の安否を確かめたそうだった。


 それでも、今は剣を抜かなかった。


「通れます」


 グランデル侯爵が言う。


 エステルたちは、王都側へ足を踏み出した。


 国王オズワルドは、兵士たちから敬礼を受けても、自分が何を返せばよいのか分からず、ぎこちなく頭を下げた。


「国王は、兵へ頭を下げるものなのか」


 小声で尋ねる。


「状況によります」


 グランデルが答える。


「今は、どうだった」


「悪くはありません」


「良くもない?」


「評価は保留します」


「皆、そればかりだな」


 オズワルドは困ったように笑った。


 ジュリアンの担架が門を通る。


 兵士たちの何人かが、彼を見て声を失った。


「王太子殿下」


「もう、王太子ではない」


 ジュリアンが答える。


「では、何と」


「今はジュリアンで構わない」


「呼び捨てには」


「私も慣れていない」


「では、元殿下?」


「それは嫌だな」


「では、ジュリアン様?」


「少し落ち着かない」


 ミレイユが呆れた顔で担架を見下ろす。


「何でもいいでしょう!」


「君が言うのか」


「今は負傷者!」


「それは呼び名ではない」


「面倒!」


「エステルの妹らしくなったな」


「今、それを言うと担架から落としますよ」


「冗談だ」


「冗談に聞こえません!」


 兵士たちの間から、わずかな笑いが起きた。


 王位継承争いの真ん中でも、人間はくだらない言い争いをする。


 それを不謹慎だと訂正する必要はない。


     ◇


 エステルが門を通ろうとしたとき、隊長に呼び止められた。


「エステル・ヴァレリー」


「はい」


 名前を呼ばれても、処罰文字は現れなかった。


「一つ、聞いてよいでしょうか」


「何ですか」


「あなたは、どちらの王を支持するのです」


 周囲の兵士たちも、返答を待っている。


 オズワルドか。


 バルドゥインか。


 現在の王か。


 消された第一王子か。


「今は、どちらも無条件には支持しません」


 エステルは答えた。


 オズワルドの顔に、少し痛みが浮かぶ。


 王として認められなかったことへの痛み。


 だが、彼は反論しなかった。


「オズワルド陛下には、兄の存在を隠した責任があります。それ以外の統治についても、記憶を取り戻し、調べる必要があります」


「バルドゥイン殿下は?」


「王家から消された被害を回復すべきです。第一王子として存在した記録も戻すべきです。でも、他人の記憶を奪い、同意しない国民の身分を削除すると脅した行動は、王として審査されなければなりません」


「では、王がいない状態を望むのですか」


「望んではいません」


「でも、今は決めない?」


「王が必要だから、急いで誰かを王にすればよいとは思いません」


「国は待てません」


「だから、王位を決めるまでの運営方法を作ります」


「誰が作るのです」


「王だけではなく、王都の議会、軍、神殿、町の代表。可能なら、王都の外の人々も」


「時間がかかる」


「かかります」


「その間に、配給が止まれば?」


「暫定の命令を出します」


「誰が」


「今の王権を持つオズワルド陛下。ただし、王位争いに関わる命令は制限する。バルドゥイン殿下の意見も記録する。でも拒否した者を消す権限は認めない」


 隊長は、しばらく考えた。


「複雑ですね」


「はい」


「兵士としては、もっと簡単な命令が欲しい」


「分かります」


「それでも、簡単にしない?」


「簡単にして、誰かを消すことになるなら」


「そうですか」


 隊長は通路を空けた。


「私は、あなたの答えを支持するか、まだ分かりません」


「それで構いません」


「嫌ではないのですか」


「支持してほしいです」


「え?」


「でも、支持を命令しません」


 隊長は目を瞬いたあと、少し笑った。


「あなたは、本当に面倒な言い方をする」


「よく言われます」


     ◇


 全員が門を越えた。


 その瞬間。


 王都の中央塔から、四方へ赤い光が走った。


 街の時計塔。


 市場。


 神殿。


 王宮。


 すべての建物へ、同じ数字が浮かぶ。


 ――バルドゥイン・アレクシス・セレスタン即位式まで、残り三時間。


「三時間?」


 ミレイユが空を見上げる。


「期限は、まだ四日以上あったはずです」


 エステルが余白を確認する。


「内鍵の期限とは別です。即位式だけを前倒ししています」


「なぜ」


 ジュリアンが担架の上で顔を歪める。


「私たちが王都へ入ったからだ」


 王都中の家々へ、白い紙が配信される。


 窓。


 扉。


 住民の手。


 誰も触れていないのに、白紙が一枚ずつ現れる。


 そこには、新しい問いが書かれていた。


 ――バルドゥイン王の即位を承認するか。


 ――承認する。


 ――王国民資格を放棄する。


「承認しない、ではない?」


 グランデル侯爵が低く呟く。


「王になることへ反対する者を、最初から王国民ではないことにするつもりです」


 エステルの声が震える。


 空に、ボルデの金冠が現れた。


『門前の問いは、見事に分割しましたね』


「次は、国籍を人質にするのですか」


『人質ではありません』


「では、何です」


『王を認めない者が、その王の国民であり続ける矛盾を解消するだけです』


「王を批判する国民は、存在してはいけないのですか」


『批判と否認は別です』


「その境界を、あなたが決める?」


『王が決めます』


「だから、王になる前に決めているのでしょう!」


 王都のあちこちから、悲鳴と怒号が上がり始めた。


 白紙を破ろうとする者。


 家族へ「承認」を選べと迫る者。


 王都を出る荷物をまとめる者。


 そして、何の迷いもなく承認へ印をつけ、安堵する者。


 ボルデは、王冠だけを求めているのではない。


 自分を王と認める人間だけで、王国そのものを作り直そうとしている。


『三時間後』


 ボルデの声が、王都全域へ穏やかに広がる。


『私は、二度と誰も消されない国の王になります』


 エステルは、街じゅうに浮かぶ二択を見上げた。


 その言葉の下で。


 ボルデを王と認めない人々が、国民の名簿から一人ずつ消え始めていた。


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