第三十七話 王を認めないなら国民ではないそうなので、国民の定義を校正します
――バルドゥイン王の即位を承認するか。
――承認する。
――王国民資格を放棄する。
王都じゅうの窓と扉、商店の帳場、役所の受付台、路地裏の共同井戸にまで現れた白紙は、住民が目をそらしても消えなかった。
破れば、二枚になる。
燃やせば、灰の中から同じ問いが浮かぶ。
裏返しても、裏面に文字が移る。
回答しない者の住民証からは、名前が少しずつ薄れ始めていた。
旧水門を出たエステルたちの前でも、一人の女性が泣きながら夫の腕を引いていた。
「お願いだから、承認へ印をつけて。王が誰でも、今はどうでもいいでしょう。来週、薬の配給がなければ、お母さんが困るのよ」
「どうでもいいわけがない。家族を人質にして王になろうとする男へ、はいと書けるか」
「では、お母さんへ死ねと言うの?」
「そんなことは言っていない!」
「同じよ! あなたは立派なことを言って、薬を失うのはお母さんなの!」
夫婦の間には、十歳ほどの少年が立っていた。
少年の手にも白紙がある。
だが、成人していないためか、回答欄は灰色に閉じられていた。
「お父さん」
少年が、恐る恐る尋ねる。
「僕は、どちらを選べば国民なの」
父親も母親も、答えられなかった。
「子どもにも、同じ紙が届いているのですか」
ミレイユが近づく。
母親は、聖女の顔を知っていたらしく、慌てて膝をつこうとした。
「そのままで」
ミレイユが止める。
「今は儀式ではありません。それから、私に正しい答えを求めないでください。私も、まだ分かりません」
「聖女様にも、分からないのですか」
「分かりません」
ミレイユは、以前なら言わなかったであろう言葉を、今は隠さず口にした。
「ただ、この子が王を選べない年齢だからといって、今日まで国民だった事実まで消えるのは、おかしいと思います」
「でも、承認しなければ配給札が」
母親は、今にも泣き崩れそうな顔で白紙を握っている。
「私が承認を書けば、この人は私を臆病だと思う。書かなければ、母を見殺しにする娘になる。どちらを選んでも、家族の誰かに責められるんです」
夫が顔を歪めた。
「責めるつもりは」
「さっき、王へ魂を売るのかと言ったでしょう!」
「それは、怒って」
「怒ったときに出る言葉が、本音ではないの?」
「では、お前が私へ、立派なことを言って母を殺すと言ったのも本音か!」
「二人とも」
エステルが声をかける。
夫婦が同時に彼女を見る。
「あなたが、エステル・ヴァレリー?」
夫が尋ねた。
「はい」
「この混乱は、あなたが王都へ来たから始まったと聞いた」
「正確には、以前から始まっていました」
「今、言葉の正確さの話をしている場合か!」
「私に腹を立てていますか」
「立てている!」
男は即答した。
「あなたが第一王子殿下へ逆らわなければ、こんな紙は来なかったかもしれない。王が誰であれ、私たちは昨日まで普通に暮らしていた」
「あなた!」
妻が夫を止めようとする。
だがエステルは、男の言葉を遮らなかった。
「そう思うことは、記録へ残してください」
「何?」
「私が王都へ来たことで混乱が大きくなったと考えていることを」
「否定しないのか」
「私が来なければ、即位を急がなかった可能性はあります」
アルブレヒトが、エステルを見た。
「自分へ責任を集めるな」
「集めていません」
「今の言い方は、集めかけた」
「では、補足します」
エステルは夫婦へ向き直った。
「ただし、私が来なければ、バルドゥイン殿下を認めない者の国民資格を消す仕組みが存在しなかったことにはなりません。実行される時期が違っただけかもしれない」
「それは推測だろう」
「はい」
「では、あなたにも分からないのか」
「分かりません」
男は、苛立ったように頭をかいた。
「皆、分からないと言う。王も、聖女も、校正官も。そんな人たちに、国を任せて大丈夫なのか」
「分かるふりをする人へ任せるより、少しはましだと思っています」
「少しか」
「それ以上は、まだ証明できません」
男は呆れたように笑った。
「正直すぎて、安心できないな」
「よく言われます」
「それは、褒めていない」
「分かっています」
◇
王都中央塔に浮かぶ時計は、即位式まで残り二時間四十七分を示していた。
時間が減るたび、王都のどこかで悲鳴が上がる。
回答を拒んだ住民の名前が、配給記録から消える。
税を納めてきた商人の店舗証が白紙になる。
王都で生まれ、王都で七十年暮らした老人が、城門の通行記録から「入国歴なし」と再分類される。
「一人ずつ直していたら、間に合いません」
エステルは白紙の文章を余白視で読みながら言った。
「では、根元を探せ」
アルブレヒトが周囲を警戒しながら答える。
「根元は中央神託です」
「今から神託院まで行けば、二時間以上かかる」
グランデル侯爵が王都の地図を広げた。
「通常の街路ならな。市場から王宮前広場までは、群衆で進めない」
「兵で道を開けるか」
アルブレヒトが尋ねる。
「できる。だが、住民を押し退けることになる」
「今は緊急だ」
「分かっている。しかし、王を認めなければ国民ではないと脅されている最中に、外国皇弟と軍隊が住民を押し退けて神託院へ向かえば、どう見えると思う」
「侵略ですね」
エステルが答える。
「お前は、少し言葉を和らげろ」
「誤解の可能性が高い武力進入」
「長くしただけだ」
「意味は正確です」
「今、それを争うな」
オズワルドは、王都の街並みを見回していた。
彼にとっては、自分が治めた都であるはずだ。
それなのに、どの通りも、どの建物も覚えていない。
「私は、この街で何年暮らした」
誰へともなく尋ねる。
「生まれてから、ほぼずっとです」
ジュリアンが担架の上から答えた。
「では、あの時計塔も知っているのか」
「父上は、あの時計が三分進んでいると毎月苦情を言っていました」
「三分くらい、よいのでは」
「以前の父上へ言ってほしかった」
「私は、そんなに細かかったのか」
「かなり」
「エステルと気が合いそうだな」
「どうして、私へ話が来るのですか」
エステルが抗議する。
「三分を気にする人間同士だからだ」
「時計は、三分でも儀式時刻へ影響します」
「ほら」
オズワルドが少し笑う。
ジュリアンも笑いかけ、すぐに痛みで顔をしかめた。
「笑うと傷へ響くなら、笑わないで」
ミレイユが治癒光を流しながら言う。
「笑うことまで禁止するのか」
「傷が開くことを禁止しているの!」
「自分では開いていない」
「そういう屁理屈を言う元気があるなら、少しは歩ける?」
「歩かせたいのか、寝かせたいのか、どちらだ」
「分からない!」
「では、担架にいる」
「最初からそうして!」
◇
エステルは、近くの共同井戸に現れた白紙へ触れた。
王国民資格。
その定義を探す。
現在の文章は、ボルデによって書き換えられている。
――王国民とは、正統な王へ忠誠を誓い、その統治を承認する者を指す。
その下に、古い修正の跡が何層もある。
建国時。
王家統一時。
神託院設立時。
貴族制度改定時。
「国民の定義は、何度も変えられています」
「最初は何と書かれている」
アルブレヒトが尋ねる。
「まだ読めません。層が多すぎます」
「急げ」
「急かすと」
「見落とす、だろう。分かっている」
「では、急かさないでください」
「残り時間も事実だ」
「それも分かっています」
「二人とも同じ会話を、何回するつもりだい」
エッダが呆れた声を出した。
「決着がつくまでです」
エステルが答える。
「つかないと思うよ」
「なぜ」
「どちらも言い分を変えないからさ」
アルブレヒトが共同井戸の縁へ寄りかかる。
「変えたことはある」
「何をです」
「お前を急かしたあと、謝るようになった」
「今も謝ってください」
「今のは必要な指摘だ」
「謝るかどうかは、殿下ご自身で判断するのでしょう」
「そうだ」
「では、私も腹を立てるか決めます」
「勝手にしろ」
「腹が立ちました」
「早いな」
ミレイユが、二人の間へ顔を出す。
「喧嘩している場合ではないでしょう」
「喧嘩ではありません」
「意見交換だ」
「同時に同じ意味の言葉へ直さないで!」
その間にも、エステルは古い文章を読み進めていた。
赤い修正のさらに奥。
王家が一つに統一される前。
まだ十二の都市が、それぞれ異なる領主と法を持っていた時代。
井戸の石へ、非常に古い言葉が刻まれている。
「ありました」
エステルの声が変わる。
全員が集まる。
――この地に住み、水を分け、道を守り、争いの裁きを受ける者を、都の民とする。
「王が入っていません」
ミレイユが言う。
「王国になる前の文章だからです」
「では、今は使えないのでは」
「今の王国民制度も、この都市民記録を基礎にしています」
エステルは、続く文章を拾う。
――都の民は、領主へ税および共同義務を負う。
――領主は、都の民へ水、道、裁きおよび外敵からの保護を負う。
――いずれかが義務を果たさぬ場合、関係を審査する。
「相互義務」
グランデルが呟く。
「忠誠だけではないのか」
「はい。古い原文では、民だけでなく、治める側にも義務があります」
さらに後世の修正。
――領主を王へ統一。
――都の民を王国民へ統一。
そこまでは、仕組みを広げる修正だった。
問題は、その次。
――王の保護義務は、王国そのものが恒常的に履行するものとみなす。
――国民の忠誠義務は、個々人が随時証明する。
「王の側は、実際に義務を果たしているか確認せず、果たしているものとみなす」
アルブレヒトが読む。
「民の側だけ、何度も忠誠を証明させる?」
「はい」
「誰が、この修正を」
エステルは署名を見る。
古すぎて、名前の大部分が削れている。
残っているのは役職だけ。
――第三代第一編纂官。
「ボルデではありません」
「第一編纂官という制度そのものが、長い間かけて書き換えたのですね」
ミレイユの声が沈む。
「民は王へ従う。王は常に国を守っている。そういう一つの形へ」
「だから、王を認めない国民を矛盾として扱える」
アルブレヒトが言った。
「元の文章へ戻せるか」
「完全に戻すのは危険です」
「なぜ」
「現在の国は、十二都市だけではありません。古い文章では、農村、移住者、国境地域、戸籍のない者が含まれない可能性があります」
「なら、使えないのか」
「いいえ」
エステルは帳面を開く。
「原則だけを拾い、今の制度へ合わせて書き直します」
「一人で?」
アルブレヒトが止める。
「原文の校正です」
「国民の定義を、お前一人で書くのかと聞いている」
エステルの手が止まる。
正しいと思った。
王への忠誠と国民資格を分ける。
それは必要だ。
だが、必要だからといって、エステル一人が文章を完成させてよいわけではない。
「では、誰と書けばよいですか」
「その井戸を使っている者へ聞け」
アルブレヒトは、先ほどの夫婦と、周囲へ集まり始めた住民を見る。
「国民とは何か、と?」
「大げさに聞くな」
「では、どう聞きますか」
「自分が、この国の人間だと思う理由だ」
「殿下が考えたのですか」
「今、考えた」
「適切です」
「一応か」
「かなり」
「そうか」
◇
「あなたは、なぜ自分を王国民だと思いますか」
エステルが尋ねると、最初に答えたのは、先ほどの夫だった。
「生まれたからだ」
「この国で?」
「王都の南区で生まれ、四十三年暮らした。税も払った。兵役も終えた。王の顔は祭典で遠くから見ただけだ」
「では、王への忠誠は」
「あると思っていた。だが、どの王かと聞かれると、分からない」
妻は、白紙を見つめた。
「私は、薬の配給を受けているから」
「それだけですか」
「それだけではない。母がここで生まれた。夫と喧嘩した店も、息子を産んだ治療院もこの街にある。でも、今は薬が一番大切だから、最初に思いついただけ」
少年が手を上げる。
「僕は、学校へ行っているから」
「学校へ行かない子は、国民ではありませんか」
「違う」
少年は困った顔をした。
「では」
「友達がいるから」
「友達が国外へ移れば?」
「それでも……」
少年は、長く考える。
「帰ってきたいと思う場所だから」
エステルは、その言葉を記録した。
パン屋の主人。
「小麦を仕入れ、パンを売り、毎月税を取られているからだ。王へ忠誠を誓った記憶はないが、徴税官は毎月来る」
隣の老人。
「税を払えなくなった私は、国民ではないのか」
「そうは言っていない!」
「なら、税を払うことだけでは足りんだろう」
パン屋が頭をかく。
「難しいな」
「定義だからな」
「俺は、パンを焼きたいだけなんだが」
別の女性は。
「夫が戦争で死んだ。国から弔慰金を受けた。だから国民だと思う。でも、夫を死なせた命令へ今も腹が立っている」
「王へ怒っていても?」
「怒っているから国民ではないなら、私は夫が死んだ日から国民ではなかったことになる」
門前部隊のラウルも、話へ加わった。
「私は、国境を守る仕事をしているから国民だと思っていました」
「辞めたら?」
「……分かりません」
「お母さまと妹さんは?」
「兵士ではない。それでも国民です」
「では、何が共通していますか」
「同じ法律の中で暮らしている」
ラウルは、自分で答えたあと、少し驚いた顔をする。
「王が誰であっても?」
「法律まで王が変えれば」
「それでも、昨日まで受けていた権利や義務が、承認しないだけで突然消えるのはおかしい?」
「はい」
ラウルは、今度は迷わず答えた。
◇
集まった言葉は、きれいに揃わなかった。
生まれた場所。
住んだ時間。
税。
仕事。
家族。
法。
守られた経験。
守られなかった怒り。
帰りたい場所。
どれか一つだけでは、すべての人を含められない。
「書けません」
エステルが、珍しく早々に認めた。
「何を」
アルブレヒトが尋ねる。
「王国民とは何かを、一文で定義できません」
「では、複数にしろ」
「国民の定義を複数へ?」
「王位の問いを三つへ分けたばかりだろう」
「でも、法的な定義は明確でなければ」
王国側の記録官が口を挟む。
「誰が権利を持ち、義務を負うか曖昧なら、行政が動きません」
「そのとおりです」
エステルはうなずく。
「では、どうする」
「今夜、恒久的な定義を完成させません」
「また保留?」
ミレイユが尋ねる。
「はい。ただし、今起きている削除だけを止めるための暫定文を書きます」
エステルは、住民たちの証言を見ながら言葉を組み立てる。
――王国民資格は、特定の王位請求者への承認または不承認のみを理由として、失われない。
赤い神託が即座に反応する。
――王を認めない国民は、王国の統一へ反する。
「反対意見があることと、国を壊すことは同じではありません」
――統一されぬ意思は、国家判断を妨げる。
「妨げることはあります」
――ならば削除対象。
「話し合いを遅らせる者を、すべて消すのですか」
――緊急時には必要。
「誰が緊急時と判断する?」
アルブレヒトが問いかける。
首筋の傷が燃える。
「この文章を書いた者は、即位を急ぐ自分の都合を、国家の緊急事態へ置き換えている」
『王都の配給神託が止まりかけているのは事実です』
ボルデの声が空から響く。
「止めているのは、あなたです」
エステルが答える。
『私を王として承認すれば、すぐに戻します』
「それを人質と呼びます」
『王国の仕組みは、王の命令によって動く』
「では、王でないあなたが、なぜ止められるのです」
ボルデの声が止まった。
アルブレヒトの傷が、さらに強く燃える。
「自分がすでに王であるという前提と、これから承認を求める文章が矛盾している」
「循環しています」
エステルは、街じゅうの白紙へ浮かぶ文を見る。
――バルドゥイン王の即位を承認するか。
「質問の時点で、王と呼んでいる」
ミレイユが気づく。
「まだ即位していないのに?」
「はい」
「では、承認するか聞く前に、答えを文章へ入れている?」
「そういうことです」
エステルは、最初の語へ黒銀の線を引く。
――バルドゥイン王。
その「王」を消す。
――第一王子バルドゥインの即位を承認するか。
王都じゅうの白紙が震えた。
質問へ埋め込まれていた前提が外れる。
同時に、二つ目の回答。
――王国民資格を放棄する。
エステルは、その文章も確認した。
「放棄は、本人が自分の意思で行う行為です」
「何を言いたい」
グランデルが尋ねる。
「承認しない者を、神託が勝手に放棄したことへしています。でも、放棄には本人の明確な意思が必要です」
「回答欄を選べば、意思になるのでは」
「選択肢がほかにない状況で、薬や水や家族を失うと脅されて選んだ場合も?」
先ほどの妻が白紙を握る。
「私は、国民をやめたいわけではない。母へ薬を渡したいだけです」
「では、放棄の意思はありませんね」
「ありません」
「私もだ」
夫が言う。
「王を承認したくないが、国を出たいわけではない」
エステルは、二つ目の回答を書き換えた。
――即位を承認しない。
そして、三つ目を加える。
――判断を保留する。
さらに回答とは別に。
――いずれを選んでも、王国民資格を維持する。
王都中の白紙が、一斉に三つの選択肢へ変わった。
赤い神託が激しく抵抗する。
――回答形式の変更を認めない。
――国王候補への不承認者を国民として保持すれば、王権が不安定化する。
「王権の安定は、国民資格より上位ですか」
エステルが尋ねる。
――王国存続のために必要。
「国民を削除して、何が王国として残るのです」
赤い文字は答えない。
オズワルドが、白紙の前へ立った。
「私からも命令を出す」
「陛下」
グランデルが心配そうに見る。
「今の私が王だと、記録は認めているのだろう」
「ただし、兄上の継承順位が」
「王位争いに関する命令は制限される。だが、民の身分を守る命令なら出してよいのではないか」
エステルは余白を確認する。
「可能性はあります」
「また曖昧だな」
「試してみなければ分かりません」
「君の影響で、私まで無謀になりそうだ」
「慎重に試します」
「それを無謀な者は皆言う」
オズワルドは苦笑し、新しい王命を書いた。
――王位審査が完了するまで、いかなる王位請求者への承認、不承認または判断保留も、王国民資格の喪失理由としない。
署名。
――オズワルド・アレクシス・セレスタン。
金色の王命が、王都へ広がる。
ボルデの赤い文章と衝突する。
『弟よ。また私の権利を妨げるのですか』
「民を消す権利まで、兄上へ戻した覚えはない」
『王を認めない者を、王国へ残せば内乱になる』
「兄上を認める者も、認めない者も、迷う者もいる。それをすべて残したまま国を動かす方法を、私は考えたことがなかった」
『だから、この国は間違い続けた』
「そうかもしれない」
オズワルドは、逃げずに認める。
「だが、兄上の答えが正しいかは別だ」
『また、別だと』
「分けなければ、私は罪悪感で兄上へすべてを渡す。それを正しい譲位とは呼べない」
『では、私に何をしろと言う!』
「王になりたい理由と、王になったあと何をするかを、脅しなしで話してくれ」
『四十七年、待った!』
「私は、その四十七年を返せない」
オズワルドの声が震える。
「返せないからといって、今の国民から未来を奪ってよいとは言えない」
◇
金と赤の神託が拮抗した。
街じゅうの住民証から、薄れかけていた名前が一度止まる。
「止まりました!」
ミレイユが声を上げる。
「完全ではありません」
エステルは、余白に残る赤い根を見る。
「即位式が実行されれば、バルドゥイン殿下が現王権を得る。その時点で、陛下の保留命令を上書きできます」
「残りは?」
グランデルが時計塔を見る。
――二時間十一分。
「神託院へ向かう必要があります」
「道は」
「市場大通りは、すでに人で埋まっています」
門前隊長が報告する。
「裏通りも、回答をめぐる争いが起きています。兵を使えば通路は確保できますが」
「住民を押し退けることになる」
グランデルが言う。
「では、住民へ頼みましょう」
エステルは提案した。
「何を」
「道を空けてほしいと」
「全員が、お前たちを支持しているわけではない」
「支持していなくても、即位の審査を求める人はいるかもしれません」
「いなければ?」
「別の道を探します」
アルブレヒトが、少し眉を寄せる。
「悠長だな」
「住民を傷つけずに通る方法を考えろと言ったのは」
「グランデルだ」
「殿下も同意したでしょう」
「した。だから、聞け」
「では」
エステルは旧水路の水脈へ、黒銀の文字を流した。
先ほど自分の名を王国中へ届けたように。
今度は王都の人々へ。
「王都の皆さんへ」
自分の声が、共同井戸や水路、噴水を通して街へ広がる。
「私は、エステル・ヴァレリーです」
あちこちから、驚く声が返る。
「第一王子バルドゥイン殿下が存在したこと、その存在と王位継承権が不当に奪われたことを、私は認めます」
アルブレヒトが隣で、エステルの喉の状態を見ている。
長く話しすぎれば、止めるつもりだろう。
「ですが、殿下を今すぐ王へ即位させることには、審査が必要だと考えています。殿下へ反対する者を国民の記録から消す命令にも反対します」
王都から、怒鳴り声が返る。
『第一王子殿下へ王位を返せ!』
『お前が混乱を長引かせている!』
別の声。
『承認しなければ水を止められるのか!』
『神託院へ行って止めてくれ!』
『王なんて誰でもいいから、配給を戻して!』
声は、まとまらない。
エステルは、好意的な声だけを選ばなかった。
「私は、神託院へ向かいます」
水路へ伝える。
「道を空けていただきたいです」
『嫌だ!』
すぐに返事が来た。
『お前を通したら、バルドゥイン殿下の即位が妨げられる!』
「そうなる可能性があります」
『なら、通さない!』
「分かりました」
エステルは、その声へ怒らなかった。
別の通りから。
『私は即位へ承認を書いた。でも、家族を消す脅しは嫌だ。道は空ける』
『私は保留を選んだ。何が正しいか分からない。だから話を聞きたい』
『店を壊さないなら通っていい!』
『外国の兵士は入れるな!』
アルブレヒトが、声の送り元へ向かって答える。
「帝国兵は必要最小限にする。私は同行する」
『皇弟殿下も来るなら、侵略ではないのか!』
「そう見えることは理解する。だが、エステルを一人で行かせるつもりはない」
『なぜだ!』
アルブレヒトは、一瞬黙った。
「契約相手だからだ」
首筋の傷が淡く赤くなる。
王都じゅうへ、小さなどよめきが流れた。
「ただの契約相手ではありません」
エステルが思わず訂正する。
「今、それを王都全体へ言うのか」
「殿下が、契約相手とだけ言うので」
「呼び名が決まっていない」
「だからといって、戻さないでください」
『何の話だ!』
どこかの住民が怒鳴る。
『痴話喧嘩ならあとにしてくれ!』
「痴話喧嘩ではありません!」
エステルが否定する。
アルブレヒトも同時に。
「違う」
首筋の傷と黒銀の文字が、両方とも淡く揺れた。
『違わないんじゃないか!』
「今は王位の問題です!」
『なら早く来い!』
怒られた。
エステルは、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「行きます」
水路通信を閉じる。
アルブレヒトが横から見る。
「契約相手として終わらせるつもりはない、と王都中へ説明すればよかったか」
「それは、それで困ります」
「では、どう言えばよかった」
「分かりません」
「自分で訂正しておいて?」
「未完成なので」
「便利だな」
◇
市場大通りへ入ると、群衆が左右へ分かれ始めた。
完全な道ではない。
何人かは、エステルたちの前へ立ち塞がっている。
バルドゥインの肖像を掲げた人々。
その中心には、神託院の若い校正官がいた。
「通しません」
「理由を聞いても?」
エステルが尋ねる。
「バルドゥイン殿下は、私たち下級校正官を守ってくださいました。貴族の誤記を指摘して処罰された者を復職させ、神殿の不正を訴えた書記官の記録を残してくださった」
「その行動は評価します」
「なら、なぜ即位を妨げるのです」
「良い行動をした人が、その後に何をしても王へ適していることになりますか」
「殿下が厳しい命令を出したのは、あなた方が混乱を広げたからです」
「私に責任がないとは言いません」
「なら、殿下だけを責めるな!」
若い校正官は泣いていた。
「あなたは副院長の一番弟子だった! 才能を認められ、特別な仕事を与えられた! それなのに帝国へ逃げ、今度は戻ってきて恩師の王位まで奪うのですか!」
「私は、王位を奪おうとしていません」
「同じです! 殿下を王にしないなら、また存在を奪うことになる!」
「違います」
「何が違う!」
「存在と、王位は別です」
「その言葉で、殿下が四十七年苦しんだことを片づけるのですか!」
「片づけません」
「では、王にして!」
「それはできません」
「なぜ!」
若い校正官の声が裏返る。
「殿下が王になれば、私たちはもう、貴族の都合で記録を消されない。正しいことを書いたせいで職を失わない。身分ではなく文章を見てもらえる国になるんです!」
「あなたは、そう信じているのですね」
「信じています」
「でも、今、殿下の即位へ疑問を持つ方の国民資格が消されています」
「犠牲は」
校正官は言いかけた。
言葉が止まる。
「少しの犠牲は、必要だと?」
エステルが続けた。
「あなた自身が、以前その『少し』へ入れられたのではありませんか」
「同じではない」
「どこが?」
「今度は、正しい世界を作るためです」
「以前、あなたを処罰した人も、同じように言ったかもしれません」
若い校正官の顔が歪んだ。
「あなたは、殿下の痛みを分かっていない」
「完全には分かりません」
「弟子だったのに?」
「弟子だったから、分かったふりはしたくありません」
「では、何をするつもりです」
「存在を戻す。奪われた記録を戻す。彼が受けた不正を公表する。それから、彼がしたことも公表し、王として選ぶか話し合う」
「そんなことをすれば、殿下は永遠に王になれないかもしれない」
「なるかもしれません」
「どちらなの!」
「私一人が決めません」
「ずるい!」
「はい」
エステルは、若い校正官の怒りを受け止めた。
「私は、あなたへ道を空けてほしいです。でも、命令しません」
「空けなければ?」
「別の道を探します」
「残り二時間しかないのに?」
「はい」
「私たちを恨みますか」
「腹は立つと思います」
正直に答えると、若い校正官は目を見開いた。
「責めない、と言わないのですか」
「困るので。でも、あなた方が殿下を信じる理由まで誤りとは言いません」
長い沈黙。
やがて、若い校正官が一歩だけ横へ動いた。
「通すとは言っていません」
「はい」
「私は、殿下を王にしたい」
「記録します」
「あなたを、今も裏切り者だと思っています」
「それも」
「でも、国民資格を消すことについては、殿下へ直接聞きたい」
「一緒に来ますか」
「私も?」
「殿下へ問いかける人は、多いほうがよいです」
「あなたは、自分を嫌う者まで連れていくのですか」
「良いことだけを言う人だけでは、審査になりません」
若い校正官は、泣いたまま笑った。
「本当に、面倒な人ですね」
「よく言われます」
「名前は、テレサです」
「覚えます」
「消されたら?」
「もう一度聞きます」
テレサは、今度こそ道を空けた。
彼女の後ろにいた者たちも、全員ではないが少しずつ左右へ分かれる。
「通ってください」
テレサは言った。
「ただし、私も神託院へ行きます」
「構いません」
「途中で殿下を攻撃したら」
「止めます」
「私の味方ではないのですか」
「あなたのすべてへ同意したわけではありません」
「そうでしたね」
テレサは、鼻をすすりながらエステルたちの列へ加わった。
◇
市場を抜ける頃。
即位式まで、残り一時間四十八分。
王都の白紙では、三つの回答が並んでいる。
承認。
不承認。
保留。
王国民資格の削除は、オズワルドの王命で一時停止していた。
それでも、ボルデの即位式が完了すれば、すべてが再開する。
「急ぎます」
エステルは歩調を上げた。
「無理をするな」
アルブレヒトが隣へつく。
「歩いているだけです」
「右足を庇っている」
「殿下も左肩が下がっています」
「私の話はしていない」
「相互事前説明条項です」
「今使うのか」
「今だからです」
「少し痛むだけだ」
「私もです」
「なら、お互い黙って進むか」
「条項違反です」
「では、どうする」
「休まず、歩調を少し落とします」
「残り時間が」
「先ほど、急かすと」
「分かっている!」
アルブレヒトは苛立ったように言ったあと、すぐに息を吐いた。
「すまない」
「今のは、適切な謝罪です」
「評価するな」
「では、受け取ります」
二人は歩調をわずかに落とした。
時間は減る。
だが倒れて到着できなければ、さらに遅れる。
分かっていても、急ぎたい気持ちは消えない。
「エステル」
「はい」
「神託院へ着いたあと、ボルデがお前へ取引を持ちかける」
「記憶を戻す話ですか」
「おそらく」
「殿下の記憶。父と母の記憶」
「ああ」
「私は、断るつもりです」
アルブレヒトの傷が、赤く燃えた。
エステルは足を止めかける。
「断るつもりです」
言い直しても、傷は消えない。
「嘘ですね」
「完全には決めていないな」
「……はい」
エステルは認めた。
「戻してほしいです。今も。整えられた記憶だと分かっていても、父に娘と呼ばれたい。母にも。殿下にも、以前のことを思い出してほしい」
「私の今が消える可能性があっても?」
「嫌です」
「なら」
「両方ほしいのです」
「欲張りだな」
「はい」
「悪いとは言っていない」
アルブレヒトは、王立神託院の白い塔を見上げた。
「取引を持ちかけられたら、一人で答えるな」
「殿下ご自身の記憶でも?」
「だからこそだ」
「私が断り、殿下が戻したいと望んだら?」
「話す」
「時間がなければ」
「時間を作る」
「作れなければ?」
「それでも、お前一人へ決めさせない」
エステルは、少しだけ笑った。
「面倒ですね」
「お前に言われたくない」
◇
王立神託院の前へ到着したとき。
即位式まで、残り一時間十二分。
正面階段には、神官と校正官が並んでいた。
その中央。
金の王太子冠をかぶったボルデ――バルドゥインが立っている。
鏡越しではない。
本人だった。
銀縁の眼鏡。
整えられた祭礼服。
穏やかな顔。
その姿を見た瞬間、同行していたテレサが膝をつく。
「バルドゥイン殿下」
ボルデは、彼女へ優しく微笑んだ。
「テレサ。戻ってきたのですね」
「私は……殿下へ、お聞きしたいことがあります」
「あとで、いくらでも」
「今、聞きたいのです」
テレサは震えながら立ち上がった。
「殿下を承認しない者の国民資格を消す命令は、本当に殿下が出したのですか」
「はい」
ボルデは隠さなかった。
テレサの顔が歪む。
「なぜ」
「あなたを二度と消されない国へするためです」
「私を守るために、ほかの人を消すのですか」
「今、消されるのは国を壊そうとする者です」
「私を処罰した貴族も、同じことを言いました」
ボルデの表情が、わずかに固まった。
「テレサ」
「私は、殿下へ救っていただいた。感謝しています。今も、殿下が王になることを望む気持ちがあります」
「ならば」
「でも、殿下のしたことへ疑問を持っただけで国民でなくなるなら、私は殿下の国でも、また消される側になります」
ボルデは黙った。
エステルが階段の前へ進む。
「質問を校正しました」
「見ていました」
「国民資格の削除も、一時停止しています」
「それも」
「では、即位式を延期してください」
「拒否します」
「審査が終わっていません」
「終わっています」
ボルデは、王都じゅうの白紙へ手をかざした。
空中へ、回答の集計が現れる。
――承認、四十二万八千百六名。
――不承認、九万四千二百三十一名。
――保留、十三万七千八百九名。
「承認が最も多い」
ボルデは言った。
「よって、民意は私の即位を支持しています」
「三つの中で最大であることと、過半数であることは違います」
「承認しない者同士が、意見を一つへまとめられなかっただけです」
「だから、保留まで不承認と同じ扱いに?」
「私は、承認した者の意思を尊重します」
「不承認と保留の意思は?」
「国を止める少数意見です」
「合わせれば、承認より多いです」
「異なる意見を、都合よく合算しないでください」
エステルの言葉を、そのまま返された。
「それぞれ違うから、一つへまとめてはいけない。あなたが教えたのでしょう」
「違う意見を残すことと、最大の一群へ全権を与えることは別です」
「では、何票なら王になれますか」
エステルは答えられない。
過半数。
三分の二。
全員。
そもそも王位を投票で決める制度ではない。
「決まっていないのでしょう」
ボルデが言う。
「ならば、現在ある制度へ従います。私は第一王子。王位継承順位は最上位。さらに、最も多くの承認を得た」
「回答は、国民資格を失う脅しの中で行われました」
「あなたが脅しを止めたあとも、承認票は増え続けています」
「それは事実です」
「ならば、認めなさい」
ボルデは、エステルへ片手を差し出した。
「私が王となることを」
「認めません」
「なぜ」
「まだ、あなたの行動への審査が終わっていないからです」
「それだけですか」
「それから」
エステルは、階段の上に立つ恩師を見る。
「あなたは、国民へ王を選ばせたのではありません」
「何?」
「承認、不承認、保留を集計した。でも、選択肢に別の王も、王を置かない期間も、議会統治もない。あなたを王にするか、それ以外かしか聞いていません」
「王位継承者は、私です」
「だから、それを審査しているのです」
「また、結論を遅らせる」
「必要なので」
ボルデの穏やかな顔から、少しずつ感情が消える。
「分かりました」
彼は差し出していた手を下ろした。
「では、弟子としてではなく、内鍵としてあなたを迎えます」
神託院の扉が開く。
内部から、十三本の赤い鎖が飛び出した。
「エステル!」
アルブレヒトが剣を抜く。
だが鎖は、エステルではなく。
ミレイユの胸元へ絡みついた。
「え?」
金色の聖女石が、強制的に輝く。
「ミレイユ!」
エステルが妹の腕をつかむ。
ボルデは、静かな声で宣言した。
「即位式に必要なのは、民の承認だけではありません」
赤い鎖が、ミレイユを神託院の階段へ引き上げる。
「聖女による、王冠への祝福です」
「私は祝福しません!」
ミレイユが叫ぶ。
「あなたの意思は、現在混乱状態として保留されています」
「また、それ!」
「ご安心を」
ボルデは微笑んだ。
「あなたの中にある聖女の力だけを使います」
「力だけ?」
エステルの中で、白髪の少女が悲鳴を上げた。
『止めて! 金色の子から力だけを抜いたら、代替鍵が完成する!』
ボルデは最初から、即位だけを目的にしていなかった。
ミレイユの聖女の力を王冠へ流し、その空になった身体を、第十三神託を開く代替鍵へ変える。
「お姉さま!」
ミレイユが、引き上げられながらエステルへ手を伸ばす。
エステルは、その手を握った。
赤い鎖が二人の腕へ食い込み、皮膚を焼く。
「離しなさい、エステル」
ボルデが言う。
「妹を助けたいのでしょう」
「だから離しません!」
「あなたが手を離せば、彼女の命は残します」
「中身を空にして?」
「苦しみも、迷いも、姉への嫉妬も、王太子への未練もなくなります」
「それを生きているとは言いません!」
アルブレヒトが赤い鎖を斬る。
一本。
二本。
だが斬った先から、さらに鎖が増える。
ボルデの頭上で、即位式の時計が進む。
――残り一時間。
そして、王都じゅうの白紙へ、新しい問いが現れた。
――聖女ミレイユの人格を保存するか。
――保存する場合、バルドゥインの即位を承認せよ。
――即位を承認しない場合、聖女の人格を王国救済のため削除する。
王を認めるか。
妹を人間として残すか。
ボルデは、王都中の人々へ。
今度こそ、拒めない一つの答えを突きつけていた。




