第三十八話 妹を救うため王を認めろと言われたので、その救い方を拒否します
――聖女ミレイユの人格を保存するか。
――保存する場合、バルドゥインの即位を承認せよ。
――即位を承認しない場合、聖女の人格を王国救済のため削除する。
王都じゅうの白紙へ浮かんだ問いを見た瞬間、エステルの頭から、周囲の怒号も、神託院の鐘も、鎖が擦れる音さえ遠のいた。
赤い鎖に引き上げられたミレイユは、神託院の階段の中ほどで宙吊りにされている。
エステルは妹の右手を両手で握り、アルブレヒトは二人の腕へ絡む鎖を剣で斬り続けていたが、一本を断つたび、神託院の奥から二本、三本と新しい鎖が伸びてくる。
「お姉さま、手が痛い」
ミレイユが、苦しげに言った。
エステルは反射的に力を緩めかけ、すぐに握り直す。
「ごめんなさい。でも、離しません」
「離してとは言ってない」
「では、なぜ痛いと」
「痛いものは痛いって言っただけ! 痛いと言ったら、すぐ手を離すか、我慢しろと言うか、その二つしかないの?」
「……ありません」
「今、考えたでしょう」
「考えました」
「正直すぎるのも腹が立つ!」
ミレイユの声には、まだ怒る力が残っている。
それを確かめ、エステルは少しだけ息を取り戻した。
「エッダさん!」
「見えてるよ!」
エッダは階段下から金色の光を観察し、苛立たしげに舌打ちした。
「身体から何かを抜いているのは間違いない。ただし、魔力だけじゃない。脈も意識も今のところ保たれているが、このまま続けば、どこから壊れるか分からない!」
「どれくらい持ちますか」
「そうやって数字を聞くんじゃない!」
「目安が必要です!」
「今の状態に目安なんかあるかい! 五分で倒れるかもしれないし、半刻耐えるかもしれない。分からないものを、分かる数字にしたところで安心するだけだろう!」
「安心したいのではありません」
「なら、今の言葉を使いな。危険、継続中。それで十分だ!」
十分ではない。
けれど、分からない数字を作るよりは正しい。
「ミレイユ」
ジュリアンが担架から起き上がろうとした。
「私が行く」
「来ないで!」
ミレイユが即座に叫ぶ。
ジュリアンの動きが止まる。
「ですが」
「その怪我で階段を上がって、途中で転んだら、私は鎖につながれたままあなたまで心配することになるのよ! 今は余計な仕事を増やさないで!」
「余計な仕事……」
「傷つくところは、そこなの?」
「いや。分かった。ここから話す」
「話すだけにして」
「約束する」
「簡単に約束して、また破ったら怒るから」
「破らない」
「今度は信じろって?」
「疑ったまま見ていてくれ」
ミレイユは一瞬、返事に詰まった。
「……それなら、分かった」
ジュリアンは担架の縁を強く握りしめ、歯を食いしばるようにして、自分が動き出そうとする身体を止めた。
助けたいのに、動かない。
何もしていないように見える選択ほど、今の彼には難しいのだろう。
◇
「王都の皆さんへ!」
ミレイユの人格を人質にした問いが広がると、街のあちこちから声が上がり始めた。
『承認する! 聖女様を助けてくれ!』
『王が誰でもいい、あの子を消すな!』
『これは投票ではない! 脅迫だ!』
『でも、承認しなければ聖女が死ぬんだぞ!』
『人格を保存すると書いてある! 死ぬとは書いていない!』
「そこです」
最後の声を聞いた瞬間、エステルは白紙の文面へ目を凝らした。
「何だ」
赤い鎖を斬りながら、アルブレヒトが問い返す。
「『人格を保存する』の定義がありません」
「保存すれば、ミレイユが今のまま残るという意味ではない?」
「確認します」
「急げ」
「急かさないで」
「今は急かす」
「分かっています!」
エステルは余白視を開いた。
王都中へ配られた問いから伸びる、赤い文字の根を辿る。
即位の承認。
聖女の祝福。
人格保存。
代替鍵。
それぞれが、神託院の奥で一本の文章へ接続されている。
表層では「保存」とだけ書かれている。
その下。
さらに下。
民へは見せない処理規定。
「ありました」
「読め」
エステルは、唇を強く噛んだ。
――聖女ミレイユの人格を、即位王冠内の聖女記録庫へ保存する。
――肉体より感情、記憶、自我および個人意思を分離。
――分離後の肉体を、第十三神託代替内鍵として再利用。
ミレイユの顔から、血の気が引いた。
「保存するって……私の中へ残すことではないの?」
「違います」
「王冠の中に、記録として入れるだけ?」
「はい」
「では、どちらを選んでも」
声が震える。
「私は、空になるの?」
エステルは答えられなかった。
答えないこと自体が、答えになった。
「ボルデ!」
階段下のテレサが、悲鳴のような声を上げた。
「保存すれば、聖女様は助かるのではなかったのですか!」
王冠を戴くボルデ――バルドゥインは、騒ぎ立てる民を落ち着かせるように、両手を静かに広げた。
「人格は保存されます」
「身体から抜くのでしょう!」
「肉体は変化しますが、記憶も感情も、王冠の中へ永続的に残る。失われるわけではありません」
「それを、助かるとは言わない!」
「なぜです」
ボルデは、本当に理解できないという顔をした。
「肉体はいずれ老い、病み、死ぬ。記憶は薄れ、感情は変化し、愛していた者を憎むこともある。王冠内へ保存すれば、現在のミレイユは永遠に損なわれません」
「変わらなくなるの?」
ミレイユが尋ねた。
ボルデは彼女を見上げる。
「はい。今のあなたを、完全な形で残します」
「今の私って、どの時点?」
「保存処理を開始した時点です」
「今、私は怖い。お姉さまの手が痛い。ジュリアン殿下へ動くなと怒った。あなたが嫌いだと思っている。それを永遠に?」
「不必要な苦痛は、保存前に除去できます」
「では、今の私ではないでしょう!」
ミレイユの叫びとともに、金色の聖女石へ亀裂が走った。
「怖さを消して、怒りを消して、迷いを消して、あなたが残したい部分だけ残して、それを私と呼ぶの?」
「苦しみは、人格の本質ではありません」
「それを、あなたが決めるの?」
「苦しみたい人間などいません」
「いないかもしれない。でも、私がどの苦しみを消したいか、あなたは聞いていない!」
ミレイユの目から、大粒の涙が落ちる。
「私は、お姉さまへ嫉妬した。聖女へ選ばれて嬉しかった。ジュリアン殿下に愛されていると思いたかった。お姉さまが傷ついた顔をしたとき、謝るより先に、自分が悪くない理由を探した」
「ミレイユ」
エステルが名を呼ぶ。
「今、言わなくても」
「言う!」
妹は、姉の手を強く握り返した。
「私は、そういう自分が嫌。でも、勝手に消されるのも嫌なの! 反省したいのか、忘れたいのか、まだ自分でも分からない。なのに、あなたが綺麗なところだけ残して、完成した聖女にするなんて絶対に嫌!」
王都中へ、ミレイユの声が流れていく。
白紙を前に「承認」を選ぼうとしていた人々の指が、止まり始める。
『保存しても、本人の中には残らないのか』
『聞いていないぞ』
『人格を王冠へ入れて、身体を鍵にする?』
『それでは、どちらも同じではないか!』
ボルデの穏やかな顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。
「言葉の説明が不足していたことは認めましょう」
「不足?」
テレサが笑った。
泣きながら。
「最も大切な部分を隠していたのに、不足と呼ぶのですか」
「専門的な処理を、すべて民へ説明することはできません」
「説明すれば、承認してもらえないと分かっていたからでしょう!」
アルブレヒトの首筋の傷が、激しく燃えた。
「そのとおりだ」
彼は断言した。
「ボルデは、保存の意味を知れば承認が減ると理解していた。それでも、助かると誤解する文面を選んだ」
「意図的な嘘ではありません」
ボルデが冷たく返す。
「人格は保存される」
「意味を狭め、相手が別の意味へ受け取ることを利用した。お前は、それが虚偽だと知っている」
青白い光が、王都中の白紙へ走った。
――人格保存。
その言葉の横へ。
――本人の肉体および意思から分離。
隠されていた定義が、すべての紙へ浮かび上がる。
◇
「質問を変えます」
エステルは、赤い鎖へ指をかけたまま言った。
「また、都合よく?」
ボルデが尋ねる。
「都合よく結びつけられた二つを、分けます」
「即位の祝福と、聖女の人格保存は同じ儀式です」
「同じ儀式へ組み込まれただけで、同じ意思ではありません」
「聖女が王を祝福し、その力を王冠へ渡す。古くからの制度です」
「本人の同意は?」
「聖女は、国のために選ばれた存在です」
「答えになっていません」
エステルは赤い鎖の原文を探す。
十二神。
聖女。
王。
祝福。
長い時代の修正が、何層にも重なっている。
現在の文章。
――聖女の沈黙は、神意による承認とみなす。
「沈黙が承認?」
ミレイユが、自分の身体へ巻きつく鎖を見る。
「私が何を言っても、鎖で動けなくして、最後には黙ったことへするつもりだったの?」
「儀式中、聖女は神意を妨げぬよう、私語を禁じられます」
「私語ではありません。拒否しています」
「混乱状態の言葉は、本人の恒常的意思とは限らない」
「では、いつの私なら本物なの!」
ミレイユの叫びが、また階段へ響く。
「あなたへ従う私? 王冠を祝福する私? 消されても笑っている私? それ以外は全部、混乱なの?」
ボルデは答えない。
アルブレヒトの傷が、赤く燃え続けている。
「今の彼女が混乱していて、正しく判断できないという説明も、意図的な嘘だ」
「皇弟殿下に、彼女の内心が」
「内心ではない。お前は、彼女の拒否が明確だと知っている」
「明確な意思であっても、国家の必要と反することはある」
「なら、混乱と呼ばず、国家のために無視すると正直に言え」
ボルデの顔から、微笑みが完全に消えた。
「国家のために、拒否を無効とします」
ミレイユの身体が強張る。
だが彼女は、涙を拭うこともできないまま、ボルデを睨んだ。
「それなら、最初からそう言って」
「何?」
「私を助けるふりをしないで。聖女だから使う、嫌だと言っても使う、終わったら身体だけ鍵にする。そう言って!」
「言えば、何が変わります」
「私が、あなたを嫌う理由を間違えなくて済む!」
ボルデの目が、ほんのわずかに揺れた。
理解できなかったのではない。
理解したくなかったのだ。
◇
「原文を見つけました」
エステルは、赤い修正の下から、古い金文字を引き上げた。
――聖女は、王冠を祝福するか否かを、自らの声で述べる。
――沈黙は承認とも拒否とも扱わず、儀式を保留する。
――言葉を持たぬ聖女の場合、三名以上の立会人が、本人の意思を異なる方法で確認する。
「昔は、沈黙を同意にしていなかった」
ジュリアンが、担架の上から呟く。
「はい」
エステルは、その続きを読む。
――聖女の力は、本人の意思と分離して用いてはならない。
――祝福なき王冠は、王権を得ない。
赤い修正が、その部分を覆っている。
――聖女の力は、聖女個人に属さず、王国へ属する。
――国家危機において、王は聖女の意思を代理できる。
「王が、聖女の意思を代理する?」
ミレイユの声が低くなる。
「本人が拒否しているのに?」
「それが、現在の制度です」
「誰が書いたの」
署名。
――第七代第一編纂官。
ボルデではない。
ずっと昔から。
聖女の力は、本人のものではないとされてきた。
「ジュリアン」
エステルが呼ぶ。
「何だ」
「あなたとミレイユの婚約時。彼女へ、明確な同意を確認しましたか」
ジュリアンの顔が強張った。
「今、それを聞くのか」
「今だからです」
「婚約発表の前、私は……」
彼はミレイユを見る。
「君へ、私のそばへ来てくれるかと尋ねた」
「はい」
「君は泣いて、うなずいた」
「嬉しかったからです」
「私は、それを婚約への同意だと受け取った」
ミレイユが黙る。
「違ったのか」
「分からない」
ジュリアンの顔が痛みに歪む。
「分からない?」
「あなたのそばへ行きたかった。聖女として選ばれて嬉しかった。お姉さまに勝ったと思った。婚約者になれば、皆が私を必要としてくれると思った」
「なら」
「でも、お姉さまの婚約がどうなるか、考えたくなかった。結婚したいかも、王太子妃になりたいかも、ちゃんとは考えていなかった」
「私は、確認しなかった」
「はい」
「君が泣いてうなずいたから、欲しい答えだと思った」
「私も、嫌だとは言わなかった」
「だからといって、私が確認しなくてよかったことにはならない」
ジュリアンは、息を吐く。
「私は今まで、君の沈黙を、自分に都合よく同意へ変えていたのかもしれない」
「今、全部をあなたの罪へしないで」
ミレイユが言った。
「私も、言わなかった。言えなかっただけではなく、決めなくて済むから黙った部分もある」
「それでも」
「続きは、あとで話すのでしょう」
「ああ」
「では、今は私をここから降ろして」
「分かった」
「それから、勝手に動かないで」
「……分かった」
「二度言った」
「重要だからだ」
「少しだけ、信用します」
ジュリアンは、その言葉を大切に受け取るように、ゆっくりとうなずいた。
◇
「ミレイユ」
エステルが妹を見上げる。
「あなた自身の意思を、言葉にしてください」
「さっきから言っているでしょう」
「王都中へ、儀式の正式な拒否として」
「何と言えばいいの」
「私が文章を作りましょうか」
「嫌」
即答だった。
「なぜ」
「私の意思でしょう」
「でも、神託へ通る形に」
「自分で言って、通らなかったら直して」
エステルは、少し驚いた。
ミレイユは、赤い鎖へ引かれ、聖女石の光を奪われながら、それでも自分の言葉を誰かへ預けようとしない。
「分かりました」
「間違っても、先に最後まで言わせて」
「努力します」
「約束」
「約束します」
ミレイユは、大きく息を吸った。
「私は、ミレイユ・ヴァレリーです」
王都じゅうの白紙が、一斉に金色へ揺れる。
「私は、聖女の力を持っています。でも、聖女である前に一人の人間です――と言うと、お姉さまに、順番で価値は変わらないと直されそうなので」
「今は直しません」
「まだ途中!」
「ごめんなさい」
「本当に、すぐ入ってくる!」
極限の状況でも、姉妹は言い争う。
ミレイユは泣きながら、少し笑った。
「私は、聖女でも、人間でも、妹でも、婚約者だった人でもあります。でも、そのどれか一つのために、残りを全部消されたくありません」
金色の光が強まる。
「私は、バルドゥイン殿下の即位を祝福しません」
赤い鎖が、ミレイユの身体を締めつける。
彼女の声が一瞬詰まった。
「ミレイユ!」
「言わせて!」
エステルの手を、さらに強く握る。
「私は、怖いです。消えたくない。人格だけ王冠へ保存されるのも嫌。身体だけ残るのも嫌。お姉さまに立派だったと思われて消えるのも嫌!」
「立派にしません」
「まだ途中!」
「はい」
「私は、自分を助けてほしい!」
その叫びは、聖女の言葉としては、あまりに個人的だった。
「王都の皆さんに、私のために王を承認してほしいとは言いません。でも、私を助けたいと思ってください。王を認めることとは別に、私が私のまま生きる方法を、一緒に探してください!」
ミレイユの聖女石から、これまでとは異なる金色の光が溢れた。
王冠へ吸い上げられていた光が、一瞬止まる。
――聖女本人による明確な拒否を確認。
――祝福儀式、成立条件を満たさず。
赤い文章が、強引に上書きする。
――国家危機につき、本人意思を王が代理。
「まだ王ではありません」
エステルが黒銀の文字で切り込む。
――バルドゥインは即位前。
――現王権はオズワルドに残存。
オズワルドが、震える手で王命を掲げた。
「私は、聖女ミレイユの意思を代理しない」
金色の王命が広がる。
「本人が、すでに自分の言葉を述べた。代理する必要はない」
赤い鎖の一部が緩む。
「兄上。民を救うためと言いながら、本人の助けてほしいという声を消すな」
『弟は、国全体より一人を選ぶのですか』
「一人を消す以外の方法を探す」
『間に合わなければ』
「その責任を、私は負う」
オズワルドの声は震えていた。
国王だった記憶もない。
それでも現在の王権を持つ者として、命令を出している。
「ただし、一人では決めない。議会にも、民にも、記録を残す」
『責任を分散させるのですね』
「違う。責任を隠さず、判断を一人へ独占させない」
兄弟の神託が衝突し、階段全体が揺れた。
◇
「王都の皆さんへ!」
エステルは、水路網と街じゅうの白紙へ声を流した。
「先ほどの問いは無効です」
『無効と言われても、聖女様は鎖につながれている!』
どこかの住民が叫ぶ。
「はい。まだ助かっていません」
『では、何を選べばいい!』
「王を選ぶことと、ミレイユの人格を守ることを分けます」
『どうやって!』
「まず、人格は保存するか削除するかを、王都の投票で決めるものではありません」
エステルは、赤い問いを消す。
――聖女ミレイユの人格を保存するか。
「この質問自体が間違っています」
『助けるかどうか、皆で決めるのではないのか』
「一人の人格が、その人自身に属することへ、多数決は必要ありません」
黒銀の文字で、新しい原則を書く。
――ミレイユ・ヴァレリーの記憶、感情、自我、意思および変化する権利は、ミレイユ・ヴァレリー本人に属する。
ボルデの赤い文字が抵抗する。
――聖女の力は王国に属する。
「力についての議論と、人格の所有を混同しないでください」
――聖女の力と人格は分離可能。
「分離できることと、分離してよいことは別です」
アルブレヒトの傷が燃える。
「書いた者は、別だと理解している」
エステルは続ける。
――本人の明確な同意なく、人格を肉体から分離しない。
――本人の明確な同意なく、聖女の力を王冠、神託または他者へ移さない。
赤い鎖が、また一本ほどけた。
『しかし、即位式を止めれば、王都の配給神託が』
「それも、別にします」
エステルが言う。
「配給と即位を切り離す。水と王位を切り離す。薬と承認を切り離す。王を選ぶまで人々が生活できるよう、暫定運用へ戻します」
『誰が、そんな膨大な校正を行うのです』
「ここにいる人だけでは足りません」
『ならば不可能です』
「王都の皆さんへ頼みます」
ざわめきが広がる。
「水路を知る人。配給所で働く人。治療院。市場。神託院の書記官。どの文章が、即位承認へ結びつけられたか教えてください」
『私たちに神託を直せと言うのか!』
「違います。暮らしを、どの文章が動かしているか教えてほしいのです」
『分かるわけがない!』
「分からないことも記録してください」
『また、それか!』
「はい」
エステルは否定しなかった。
「全部を知る一人がいないから、皆さんへ聞きます」
最初に声を返したのは、南区の配給所で働く女性だった。
『小麦の配給は、王冠承認ではなく、倉庫在庫と世帯人数で決めていました。今日の昼から、承認者優先へ勝手に変わっています』
「元の規定を送ってください」
『今から?』
「今です」
『子どもの迎えが』
「迎えを優先してください」
『え?』
「戻ってからで構いません」
『時間がないんでしょう!』
「子どもを一人にすることと、どちらを優先するかは、あなたが決めてください」
『そんなことを言われたら』
「急いでほしいです。でも、命令しません」
女性は数秒黙った。
『隣の人へ迎えを頼めるか聞く。それから送る』
「お願いします」
別の声。
『西区の井戸神託は、王命がなくても町内会の三名署名で手動運転できる!』
『治療院の薬庫は、国王印ではなく院長印で開く! 承認票は必要ない!』
『北市場の価格統制は王冠へつながっていない!』
『学校給食は、今朝から王位承認へ接続された! 元の文章を探す!』
王都じゅうから、ばらばらな情報が集まり始める。
即位式を止めれば国が止まる。
ボルデはそう言った。
だが、実際には、王の承認が不要だった仕組みまで、今日になって王冠へつなげられている。
「見つけました」
エステルは赤い鎖の構造を見る。
「聖女の力を、王都全体の生活神託から集めています」
「どういうことだ」
アルブレヒトが尋ねる。
「水、薬、配給、学校、暖房。王冠を通さなくても動いていた仕組みを、今朝から即位式へ接続した。住民が生活を守ろうとするたび、その不安と祈りがミレイユの聖女石へ集まり、王冠へ吸われています」
「人々が、聖女を助けたいと願う力まで?」
「利用しています」
ボルデの顔が、わずかに歪んだ。
「私は、祈りを統一しているだけです」
「誰のために?」
「王国のために」
「今の王国とは、あなたの王冠ですか」
「王が国を代表する」
「まだ王ではありません」
「もう一時間もない!」
ボルデが、とうとう声を荒らげた。
「議論を続けている間にも、王都の水は止まり、薬は尽き、民が苦しむ! 私が王になれば、すべてを一つの命令で動かせる!」
「あなたが止めたものを、戻す条件として王位を求めているのでしょう!」
「ほかに、誰が今すぐ動かせる!」
「皆です」
エステルは答えた。
「一つの王冠ではなく、それぞれの場所で」
◇
王都の白紙が、形を変えた。
王への承認ではない。
それぞれの生活神託を、王冠から切り離すための確認書。
南区配給所。
西区共同井戸。
北市場。
治療院。
学校。
神託院の下級書記官たちも、テレサの呼びかけへ応じた。
『私は、バルドゥイン殿下へ恩があります』
若い校正官の声が、神託院前へ響く。
『今も殿下の存在回復を支持します。王位審査も受けてほしい。それでも、聖女ミレイユの人格を本人から奪うことには反対します』
テレサは、自分の胸へ手を置いた。
「殿下。私は、あなたへ救われたからこそ、あなたが私を救ったときと同じことを、ほかの人へしてほしい」
「私は、ミレイユを消していない」
「今、消そうとしています」
「国のために必要なのです」
「私を処罰した貴族も、領地の秩序に必要だと言いました」
「同じでは」
「私には、同じに見えます」
テレサは泣いていた。
「だから、説明してください。私が間違っているなら。でも、疑っただけで私の名前を消さないでください」
ボルデは、彼女の名を呼ばなかった。
その沈黙が、テレサへ答えを与えてしまった。
「殿下」
テレサは震えながら続ける。
「私は、あなたを王にしたい気持ちを、まだ捨てきれません」
周囲が驚く。
「でも、今のあなたへ、聖女の人格を預けたくありません」
良いか悪いか。
味方か敵か。
テレサは、そのどちらにも自分を固定しなかった。
彼女の証言が、神託院の下級校正官たちへ流れる。
一人。
また一人。
王冠へつながる生活神託を切り離し始める。
赤い鎖の力が弱まった。
「今です!」
エステルが叫ぶ。
アルブレヒトが剣を振り下ろす。
青白い呪いの光が、一本の鎖を焼き切る。
グランデルの兵が、残る鎖を押さえる。
オズワルドの王命が、強制祝福を停止する。
ジュリアンは担架の上から、王族の血を水路の石板へ流し、ミレイユの身体が王家所有ではないと証言する。
「私は、過去に彼女の沈黙を、自分に都合よく同意と扱いました」
ジュリアンの声が、赤い鎖を震わせる。
「今度は、彼女が拒否したことを、そのまま残します」
「ジュリアン殿下」
ミレイユが涙を流す。
「私は、あなたとのことまで、今決めたわけではありません」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっていない部分もある。だから、あとで聞く」
「それなら……いい」
最後の鎖が、エステルとミレイユの腕へ絡んでいる。
姉妹を一本の役割へまとめる鎖。
――聖女と内鍵。
――言葉なき力と、訂正する力。
――二人のうち一人を保存し、一人を使用する。
「お姉さま」
ミレイユが言った。
「何?」
「また、私の代わりになろうとしてない?」
「していません」
黒銀の文字は反応しない。
「本当に?」
「二人とも鍵にならない方法を探すと、約束しました」
「なら、一緒に切る」
「危険です」
「お姉さまだけなら安全なの?」
「それは」
「二人で危険になるのが嫌なら、二人で止める方法を考えて!」
「今?」
「今!」
エステルは、妹の手を握ったまま、鎖の原文を見る。
言葉なき力。
訂正する力。
本来、どちらも一人へ集める必要はなかった。
ミレイユが金色の力を流す。
エステルが、黒銀の文字で鎖の定義を書き換える。
――姉は妹の代替ではない。
――妹は姉の代替ではない。
――聖女は鍵ではない。
――校正官も鍵ではない。
赤い鎖が抵抗する。
――扉を開くには、内鍵を要する。
「人間を鍵として使うこと自体を、審査します」
――審査中、扉は開かない。
「今は、それで構いません」
白髪の少女が、エステルの中で笑う。
『やっと言った』
――何をですか。
『扉を開けなくてもいいって』
エステルは息を呑んだ。
急いで王都へ来た。
第一編纂官の原文へ到達するため。
世界を直すため。
だが、扉を開けること自体が、誰かを空にする仕組みなら。
今すぐ開かなくてもよい。
「第十三神託の扉は、保留します」
エステルは宣言した。
「内鍵も、代替鍵も使用しません」
赤い鎖へ、決定的な亀裂が走る。
ミレイユが叫ぶ。
「私の力は、私が持ちます!」
二人の光が重なり。
最後の鎖が砕けた。
ミレイユの身体が、階段から落ちる。
「ミレイユ!」
エステルも引かれ、体勢を崩す。
アルブレヒトがエステルの腰を抱えて受け止め、グランデルと王国兵がミレイユを受け止めた。
金色の聖女石は、光の大半を失っている。
それでもミレイユは目を開けていた。
「お姉さま」
「分かりますか」
「質問が曖昧」
「自分の名前は?」
「ミレイユ・ヴァレリー」
「私のことは?」
「姉かもしれない、ものすごく面倒な人」
「覚えていますね」
「そこを証拠にしないで!」
エステルは泣きながら、妹の額へ自分の額をつけた。
「よかった」
「まだ、全部は分からない」
「何が?」
「力が、半分くらいない気がする。それから……好きだった花の名前が思い出せない」
エステルの胸が冷えた。
「ほかには」
「今、全部聞かないで。怖くなるから」
「ごめんなさい」
「あとで、一つずつ」
「はい」
「約束」
「約束します」
◇
即位式の時計が、残り二十八分で停止した。
王冠へ流れる聖女の祝福が途絶えたためだ。
王都の水と配給も、完全ではないが地区ごとの手動運用へ移り始めている。
ボルデは、神託院の最上段で立ち尽くしていた。
「なぜ」
声が掠れている。
「なぜ、止めるのです」
エステルはアルブレヒトに支えられながら、階段の上を見る。
「本人が拒否したからです」
「それだけで、王国全体を危険へさらす?」
「それだけ、ではありません」
「では何です」
「あなたの即位を、まだ審査しているからです」
「承認が最も多かった!」
「脅しを止めたあとも、あなたを支持する方はいます」
「ならば」
「支持者がいることと、即位条件を満たしたことは別です」
ボルデの顔が歪む。
「また、別。別。別……」
穏やかな恩師の声ではなかった。
「私の存在と王位は別。私の被害と今の行動は別。私の正しさと、民の承認は別。いつまで分ければ、私は一つの人間として戻れるのです」
「分けることは、あなたを壊すためではありません」
「私は、四十七年も分けられていた!」
ボルデが、自分の胸を押さえる。
「王子だった私。ボルデとして生きた私。神託院の副院長。第一編纂官代理。どれも私なのに、誰も全部を認めなかった!」
「私は認めます」
「嘘だ!」
アルブレヒトの傷は反応しない。
エステルの言葉は嘘ではない。
「あなたは、バルドゥイン殿下です。王家から不当に消された第一王子。ボルデ・クラウスとして生き、私へ校正を教えた恩師。多くの下級書記官を助けた人」
テレサが泣きながら顔を上げる。
「そして、私を追放する計画を立て、ミレイユを役割へ押し込み、アルブレヒト殿下の行動を誘導し、国民の身分を人質にし、妹の人格を奪おうとした人です」
「すべてを並べて、何になる」
「あなたを、どれか一つだけにしない」
「それで、私は救われるのですか」
「分かりません」
「では、何のために!」
「少なくとも、都合の悪い部分を消した王にはしません」
ボルデは、長い間エステルを見つめた。
その瞳の中に。
怒り。
悲しみ。
裏切られた痛み。
そして、ほんのわずかな安堵。
すべてがあった。
「私は」
ボルデが口を開く。
「ただ、自分を一つに戻したかった」
その瞬間。
彼の頭上に浮かぶ金冠から、赤い筆が伸びた。
ボルデの頬が強張る。
「何だ」
赤い筆が、彼の名前へ線を引く。
――バルドゥイン・アレクシス・セレスタン。
次に。
――ボルデ・クラウス。
両方の名前が、同時に薄れ始めた。
「やめろ」
ボルデが王冠へ手を伸ばす。
「私は、第一編纂官代理だ。命令を停止しろ」
王冠の奥から。
人間ではない声が返った。
――代理人の感情汚染を確認。
――王位完成への障害と判定。
「私は、汚染されていない!」
――代理人は、対象エステル・ヴァレリーの言葉により、判断へ迷いを発生。
――完全な世界を完成させる意思が不安定。
――管理権限を剥奪する。
「待て」
ボルデの顔に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。
「私は、お前を四十七年育てた。王国の記録を統一し、原文を開く準備をした。私がいなければ」
――代理人は交換可能。
赤い文字が、ボルデの胸へ入り込む。
「エステル!」
彼は、階段下へ手を伸ばした。
今まで何度もエステルを利用し、追い詰めた男が。
助けを求める子どものような顔で。
「私の名前を、消さないでくれ」
エステルは、反射的に階段を上ろうとした。
アルブレヒトが腕をつかむ。
「待て」
「でも」
「罠の可能性がある」
「分かっています」
「助けたいのか」
エステルは、消え始める恩師を見る。
「はい」
「許したから?」
「違います」
「なら」
「消されてよい人ではないからです」
アルブレヒトは、数秒だけエステルを見た。
それから腕を離す。
「私も行く」
「危険です」
「一人で決めるな」
「……はい」
二人が階段を駆け上がる。
その頭上で。
王冠から現れた赤い筆が、ボルデの名前を消しながら、新しい文章を書き始めた。
――第一編纂官代理、再選定。
――適合候補を検索。
赤い光が、神託院前にいる全員をなぞる。
オズワルド。
ジュリアン。
ミレイユ。
アルブレヒト。
そして。
エステルの前で止まった。
――最適候補を確認。
――余白視保持者、エステル・ヴァレリー。
――次期第一編纂官へ任命する。




