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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第三十八話 妹を救うため王を認めろと言われたので、その救い方を拒否します

 ――聖女ミレイユの人格を保存するか。


 ――保存する場合、バルドゥインの即位を承認せよ。


 ――即位を承認しない場合、聖女の人格を王国救済のため削除する。


 王都じゅうの白紙へ浮かんだ問いを見た瞬間、エステルの頭から、周囲の怒号も、神託院の鐘も、鎖が擦れる音さえ遠のいた。


 赤い鎖に引き上げられたミレイユは、神託院の階段の中ほどで宙吊りにされている。


 エステルは妹の右手を両手で握り、アルブレヒトは二人の腕へ絡む鎖を剣で斬り続けていたが、一本を断つたび、神託院の奥から二本、三本と新しい鎖が伸びてくる。


「お姉さま、手が痛い」


 ミレイユが、苦しげに言った。


 エステルは反射的に力を緩めかけ、すぐに握り直す。


「ごめんなさい。でも、離しません」


「離してとは言ってない」


「では、なぜ痛いと」


「痛いものは痛いって言っただけ! 痛いと言ったら、すぐ手を離すか、我慢しろと言うか、その二つしかないの?」


「……ありません」


「今、考えたでしょう」


「考えました」


「正直すぎるのも腹が立つ!」


 ミレイユの声には、まだ怒る力が残っている。


 それを確かめ、エステルは少しだけ息を取り戻した。


「エッダさん!」


「見えてるよ!」


 エッダは階段下から金色の光を観察し、苛立たしげに舌打ちした。


「身体から何かを抜いているのは間違いない。ただし、魔力だけじゃない。脈も意識も今のところ保たれているが、このまま続けば、どこから壊れるか分からない!」


「どれくらい持ちますか」


「そうやって数字を聞くんじゃない!」


「目安が必要です!」


「今の状態に目安なんかあるかい! 五分で倒れるかもしれないし、半刻耐えるかもしれない。分からないものを、分かる数字にしたところで安心するだけだろう!」


「安心したいのではありません」


「なら、今の言葉を使いな。危険、継続中。それで十分だ!」


 十分ではない。


 けれど、分からない数字を作るよりは正しい。


「ミレイユ」


 ジュリアンが担架から起き上がろうとした。


「私が行く」


「来ないで!」


 ミレイユが即座に叫ぶ。


 ジュリアンの動きが止まる。


「ですが」


「その怪我で階段を上がって、途中で転んだら、私は鎖につながれたままあなたまで心配することになるのよ! 今は余計な仕事を増やさないで!」


「余計な仕事……」


「傷つくところは、そこなの?」


「いや。分かった。ここから話す」


「話すだけにして」


「約束する」


「簡単に約束して、また破ったら怒るから」


「破らない」


「今度は信じろって?」


「疑ったまま見ていてくれ」


 ミレイユは一瞬、返事に詰まった。


「……それなら、分かった」


 ジュリアンは担架の縁を強く握りしめ、歯を食いしばるようにして、自分が動き出そうとする身体を止めた。


 助けたいのに、動かない。


 何もしていないように見える選択ほど、今の彼には難しいのだろう。


     ◇


「王都の皆さんへ!」


 ミレイユの人格を人質にした問いが広がると、街のあちこちから声が上がり始めた。


『承認する! 聖女様を助けてくれ!』


『王が誰でもいい、あの子を消すな!』


『これは投票ではない! 脅迫だ!』


『でも、承認しなければ聖女が死ぬんだぞ!』


『人格を保存すると書いてある! 死ぬとは書いていない!』


「そこです」


 最後の声を聞いた瞬間、エステルは白紙の文面へ目を凝らした。


「何だ」


 赤い鎖を斬りながら、アルブレヒトが問い返す。


「『人格を保存する』の定義がありません」


「保存すれば、ミレイユが今のまま残るという意味ではない?」


「確認します」


「急げ」


「急かさないで」


「今は急かす」


「分かっています!」


 エステルは余白視を開いた。


 王都中へ配られた問いから伸びる、赤い文字の根を辿る。


 即位の承認。


 聖女の祝福。


 人格保存。


 代替鍵。


 それぞれが、神託院の奥で一本の文章へ接続されている。


 表層では「保存」とだけ書かれている。


 その下。


 さらに下。


 民へは見せない処理規定。


「ありました」


「読め」


 エステルは、唇を強く噛んだ。


 ――聖女ミレイユの人格を、即位王冠内の聖女記録庫へ保存する。


 ――肉体より感情、記憶、自我および個人意思を分離。


 ――分離後の肉体を、第十三神託代替内鍵として再利用。


 ミレイユの顔から、血の気が引いた。


「保存するって……私の中へ残すことではないの?」


「違います」


「王冠の中に、記録として入れるだけ?」


「はい」


「では、どちらを選んでも」


 声が震える。


「私は、空になるの?」


 エステルは答えられなかった。


 答えないこと自体が、答えになった。


「ボルデ!」


 階段下のテレサが、悲鳴のような声を上げた。


「保存すれば、聖女様は助かるのではなかったのですか!」


 王冠を戴くボルデ――バルドゥインは、騒ぎ立てる民を落ち着かせるように、両手を静かに広げた。


「人格は保存されます」


「身体から抜くのでしょう!」


「肉体は変化しますが、記憶も感情も、王冠の中へ永続的に残る。失われるわけではありません」


「それを、助かるとは言わない!」


「なぜです」


 ボルデは、本当に理解できないという顔をした。


「肉体はいずれ老い、病み、死ぬ。記憶は薄れ、感情は変化し、愛していた者を憎むこともある。王冠内へ保存すれば、現在のミレイユは永遠に損なわれません」


「変わらなくなるの?」


 ミレイユが尋ねた。


 ボルデは彼女を見上げる。


「はい。今のあなたを、完全な形で残します」


「今の私って、どの時点?」


「保存処理を開始した時点です」


「今、私は怖い。お姉さまの手が痛い。ジュリアン殿下へ動くなと怒った。あなたが嫌いだと思っている。それを永遠に?」


「不必要な苦痛は、保存前に除去できます」


「では、今の私ではないでしょう!」


 ミレイユの叫びとともに、金色の聖女石へ亀裂が走った。


「怖さを消して、怒りを消して、迷いを消して、あなたが残したい部分だけ残して、それを私と呼ぶの?」


「苦しみは、人格の本質ではありません」


「それを、あなたが決めるの?」


「苦しみたい人間などいません」


「いないかもしれない。でも、私がどの苦しみを消したいか、あなたは聞いていない!」


 ミレイユの目から、大粒の涙が落ちる。


「私は、お姉さまへ嫉妬した。聖女へ選ばれて嬉しかった。ジュリアン殿下に愛されていると思いたかった。お姉さまが傷ついた顔をしたとき、謝るより先に、自分が悪くない理由を探した」


「ミレイユ」


 エステルが名を呼ぶ。


「今、言わなくても」


「言う!」


 妹は、姉の手を強く握り返した。


「私は、そういう自分が嫌。でも、勝手に消されるのも嫌なの! 反省したいのか、忘れたいのか、まだ自分でも分からない。なのに、あなたが綺麗なところだけ残して、完成した聖女にするなんて絶対に嫌!」


 王都中へ、ミレイユの声が流れていく。


 白紙を前に「承認」を選ぼうとしていた人々の指が、止まり始める。


『保存しても、本人の中には残らないのか』


『聞いていないぞ』


『人格を王冠へ入れて、身体を鍵にする?』


『それでは、どちらも同じではないか!』


 ボルデの穏やかな顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。


「言葉の説明が不足していたことは認めましょう」


「不足?」


 テレサが笑った。


 泣きながら。


「最も大切な部分を隠していたのに、不足と呼ぶのですか」


「専門的な処理を、すべて民へ説明することはできません」


「説明すれば、承認してもらえないと分かっていたからでしょう!」


 アルブレヒトの首筋の傷が、激しく燃えた。


「そのとおりだ」


 彼は断言した。


「ボルデは、保存の意味を知れば承認が減ると理解していた。それでも、助かると誤解する文面を選んだ」


「意図的な嘘ではありません」


 ボルデが冷たく返す。


「人格は保存される」


「意味を狭め、相手が別の意味へ受け取ることを利用した。お前は、それが虚偽だと知っている」


 青白い光が、王都中の白紙へ走った。


 ――人格保存。


 その言葉の横へ。


 ――本人の肉体および意思から分離。


 隠されていた定義が、すべての紙へ浮かび上がる。


     ◇


「質問を変えます」


 エステルは、赤い鎖へ指をかけたまま言った。


「また、都合よく?」


 ボルデが尋ねる。


「都合よく結びつけられた二つを、分けます」


「即位の祝福と、聖女の人格保存は同じ儀式です」


「同じ儀式へ組み込まれただけで、同じ意思ではありません」


「聖女が王を祝福し、その力を王冠へ渡す。古くからの制度です」


「本人の同意は?」


「聖女は、国のために選ばれた存在です」


「答えになっていません」


 エステルは赤い鎖の原文を探す。


 十二神。


 聖女。


 王。


 祝福。


 長い時代の修正が、何層にも重なっている。


 現在の文章。


 ――聖女の沈黙は、神意による承認とみなす。


「沈黙が承認?」


 ミレイユが、自分の身体へ巻きつく鎖を見る。


「私が何を言っても、鎖で動けなくして、最後には黙ったことへするつもりだったの?」


「儀式中、聖女は神意を妨げぬよう、私語を禁じられます」


「私語ではありません。拒否しています」


「混乱状態の言葉は、本人の恒常的意思とは限らない」


「では、いつの私なら本物なの!」


 ミレイユの叫びが、また階段へ響く。


「あなたへ従う私? 王冠を祝福する私? 消されても笑っている私? それ以外は全部、混乱なの?」


 ボルデは答えない。


 アルブレヒトの傷が、赤く燃え続けている。


「今の彼女が混乱していて、正しく判断できないという説明も、意図的な嘘だ」


「皇弟殿下に、彼女の内心が」


「内心ではない。お前は、彼女の拒否が明確だと知っている」


「明確な意思であっても、国家の必要と反することはある」


「なら、混乱と呼ばず、国家のために無視すると正直に言え」


 ボルデの顔から、微笑みが完全に消えた。


「国家のために、拒否を無効とします」


 ミレイユの身体が強張る。


 だが彼女は、涙を拭うこともできないまま、ボルデを睨んだ。


「それなら、最初からそう言って」


「何?」


「私を助けるふりをしないで。聖女だから使う、嫌だと言っても使う、終わったら身体だけ鍵にする。そう言って!」


「言えば、何が変わります」


「私が、あなたを嫌う理由を間違えなくて済む!」


 ボルデの目が、ほんのわずかに揺れた。


 理解できなかったのではない。


 理解したくなかったのだ。


     ◇


「原文を見つけました」


 エステルは、赤い修正の下から、古い金文字を引き上げた。


 ――聖女は、王冠を祝福するか否かを、自らの声で述べる。


 ――沈黙は承認とも拒否とも扱わず、儀式を保留する。


 ――言葉を持たぬ聖女の場合、三名以上の立会人が、本人の意思を異なる方法で確認する。


「昔は、沈黙を同意にしていなかった」


 ジュリアンが、担架の上から呟く。


「はい」


 エステルは、その続きを読む。


 ――聖女の力は、本人の意思と分離して用いてはならない。


 ――祝福なき王冠は、王権を得ない。


 赤い修正が、その部分を覆っている。


 ――聖女の力は、聖女個人に属さず、王国へ属する。


 ――国家危機において、王は聖女の意思を代理できる。


「王が、聖女の意思を代理する?」


 ミレイユの声が低くなる。


「本人が拒否しているのに?」


「それが、現在の制度です」


「誰が書いたの」


 署名。


 ――第七代第一編纂官。


 ボルデではない。


 ずっと昔から。


 聖女の力は、本人のものではないとされてきた。


「ジュリアン」


 エステルが呼ぶ。


「何だ」


「あなたとミレイユの婚約時。彼女へ、明確な同意を確認しましたか」


 ジュリアンの顔が強張った。


「今、それを聞くのか」


「今だからです」


「婚約発表の前、私は……」


 彼はミレイユを見る。


「君へ、私のそばへ来てくれるかと尋ねた」


「はい」


「君は泣いて、うなずいた」


「嬉しかったからです」


「私は、それを婚約への同意だと受け取った」


 ミレイユが黙る。


「違ったのか」


「分からない」


 ジュリアンの顔が痛みに歪む。


「分からない?」


「あなたのそばへ行きたかった。聖女として選ばれて嬉しかった。お姉さまに勝ったと思った。婚約者になれば、皆が私を必要としてくれると思った」


「なら」


「でも、お姉さまの婚約がどうなるか、考えたくなかった。結婚したいかも、王太子妃になりたいかも、ちゃんとは考えていなかった」


「私は、確認しなかった」


「はい」


「君が泣いてうなずいたから、欲しい答えだと思った」


「私も、嫌だとは言わなかった」


「だからといって、私が確認しなくてよかったことにはならない」


 ジュリアンは、息を吐く。


「私は今まで、君の沈黙を、自分に都合よく同意へ変えていたのかもしれない」


「今、全部をあなたの罪へしないで」


 ミレイユが言った。


「私も、言わなかった。言えなかっただけではなく、決めなくて済むから黙った部分もある」


「それでも」


「続きは、あとで話すのでしょう」


「ああ」


「では、今は私をここから降ろして」


「分かった」


「それから、勝手に動かないで」


「……分かった」


「二度言った」


「重要だからだ」


「少しだけ、信用します」


 ジュリアンは、その言葉を大切に受け取るように、ゆっくりとうなずいた。


     ◇


「ミレイユ」


 エステルが妹を見上げる。


「あなた自身の意思を、言葉にしてください」


「さっきから言っているでしょう」


「王都中へ、儀式の正式な拒否として」


「何と言えばいいの」


「私が文章を作りましょうか」


「嫌」


 即答だった。


「なぜ」


「私の意思でしょう」


「でも、神託へ通る形に」


「自分で言って、通らなかったら直して」


 エステルは、少し驚いた。


 ミレイユは、赤い鎖へ引かれ、聖女石の光を奪われながら、それでも自分の言葉を誰かへ預けようとしない。


「分かりました」


「間違っても、先に最後まで言わせて」


「努力します」


「約束」


「約束します」


 ミレイユは、大きく息を吸った。


「私は、ミレイユ・ヴァレリーです」


 王都じゅうの白紙が、一斉に金色へ揺れる。


「私は、聖女の力を持っています。でも、聖女である前に一人の人間です――と言うと、お姉さまに、順番で価値は変わらないと直されそうなので」


「今は直しません」


「まだ途中!」


「ごめんなさい」


「本当に、すぐ入ってくる!」


 極限の状況でも、姉妹は言い争う。


 ミレイユは泣きながら、少し笑った。


「私は、聖女でも、人間でも、妹でも、婚約者だった人でもあります。でも、そのどれか一つのために、残りを全部消されたくありません」


 金色の光が強まる。


「私は、バルドゥイン殿下の即位を祝福しません」


 赤い鎖が、ミレイユの身体を締めつける。


 彼女の声が一瞬詰まった。


「ミレイユ!」


「言わせて!」


 エステルの手を、さらに強く握る。


「私は、怖いです。消えたくない。人格だけ王冠へ保存されるのも嫌。身体だけ残るのも嫌。お姉さまに立派だったと思われて消えるのも嫌!」


「立派にしません」


「まだ途中!」


「はい」


「私は、自分を助けてほしい!」


 その叫びは、聖女の言葉としては、あまりに個人的だった。


「王都の皆さんに、私のために王を承認してほしいとは言いません。でも、私を助けたいと思ってください。王を認めることとは別に、私が私のまま生きる方法を、一緒に探してください!」


 ミレイユの聖女石から、これまでとは異なる金色の光が溢れた。


 王冠へ吸い上げられていた光が、一瞬止まる。


 ――聖女本人による明確な拒否を確認。


 ――祝福儀式、成立条件を満たさず。


 赤い文章が、強引に上書きする。


 ――国家危機につき、本人意思を王が代理。


「まだ王ではありません」


 エステルが黒銀の文字で切り込む。


 ――バルドゥインは即位前。


 ――現王権はオズワルドに残存。


 オズワルドが、震える手で王命を掲げた。


「私は、聖女ミレイユの意思を代理しない」


 金色の王命が広がる。


「本人が、すでに自分の言葉を述べた。代理する必要はない」


 赤い鎖の一部が緩む。


「兄上。民を救うためと言いながら、本人の助けてほしいという声を消すな」


『弟は、国全体より一人を選ぶのですか』


「一人を消す以外の方法を探す」


『間に合わなければ』


「その責任を、私は負う」


 オズワルドの声は震えていた。


 国王だった記憶もない。


 それでも現在の王権を持つ者として、命令を出している。


「ただし、一人では決めない。議会にも、民にも、記録を残す」


『責任を分散させるのですね』


「違う。責任を隠さず、判断を一人へ独占させない」


 兄弟の神託が衝突し、階段全体が揺れた。


     ◇


「王都の皆さんへ!」


 エステルは、水路網と街じゅうの白紙へ声を流した。


「先ほどの問いは無効です」


『無効と言われても、聖女様は鎖につながれている!』


 どこかの住民が叫ぶ。


「はい。まだ助かっていません」


『では、何を選べばいい!』


「王を選ぶことと、ミレイユの人格を守ることを分けます」


『どうやって!』


「まず、人格は保存するか削除するかを、王都の投票で決めるものではありません」


 エステルは、赤い問いを消す。


 ――聖女ミレイユの人格を保存するか。


「この質問自体が間違っています」


『助けるかどうか、皆で決めるのではないのか』


「一人の人格が、その人自身に属することへ、多数決は必要ありません」


 黒銀の文字で、新しい原則を書く。


 ――ミレイユ・ヴァレリーの記憶、感情、自我、意思および変化する権利は、ミレイユ・ヴァレリー本人に属する。


 ボルデの赤い文字が抵抗する。


 ――聖女の力は王国に属する。


「力についての議論と、人格の所有を混同しないでください」


 ――聖女の力と人格は分離可能。


「分離できることと、分離してよいことは別です」


 アルブレヒトの傷が燃える。


「書いた者は、別だと理解している」


 エステルは続ける。


 ――本人の明確な同意なく、人格を肉体から分離しない。


 ――本人の明確な同意なく、聖女の力を王冠、神託または他者へ移さない。


 赤い鎖が、また一本ほどけた。


『しかし、即位式を止めれば、王都の配給神託が』


「それも、別にします」


 エステルが言う。


「配給と即位を切り離す。水と王位を切り離す。薬と承認を切り離す。王を選ぶまで人々が生活できるよう、暫定運用へ戻します」


『誰が、そんな膨大な校正を行うのです』


「ここにいる人だけでは足りません」


『ならば不可能です』


「王都の皆さんへ頼みます」


 ざわめきが広がる。


「水路を知る人。配給所で働く人。治療院。市場。神託院の書記官。どの文章が、即位承認へ結びつけられたか教えてください」


『私たちに神託を直せと言うのか!』


「違います。暮らしを、どの文章が動かしているか教えてほしいのです」


『分かるわけがない!』


「分からないことも記録してください」


『また、それか!』


「はい」


 エステルは否定しなかった。


「全部を知る一人がいないから、皆さんへ聞きます」


 最初に声を返したのは、南区の配給所で働く女性だった。


『小麦の配給は、王冠承認ではなく、倉庫在庫と世帯人数で決めていました。今日の昼から、承認者優先へ勝手に変わっています』


「元の規定を送ってください」


『今から?』


「今です」


『子どもの迎えが』


「迎えを優先してください」


『え?』


「戻ってからで構いません」


『時間がないんでしょう!』


「子どもを一人にすることと、どちらを優先するかは、あなたが決めてください」


『そんなことを言われたら』


「急いでほしいです。でも、命令しません」


 女性は数秒黙った。


『隣の人へ迎えを頼めるか聞く。それから送る』


「お願いします」


 別の声。


『西区の井戸神託は、王命がなくても町内会の三名署名で手動運転できる!』


『治療院の薬庫は、国王印ではなく院長印で開く! 承認票は必要ない!』


『北市場の価格統制は王冠へつながっていない!』


『学校給食は、今朝から王位承認へ接続された! 元の文章を探す!』


 王都じゅうから、ばらばらな情報が集まり始める。


 即位式を止めれば国が止まる。


 ボルデはそう言った。


 だが、実際には、王の承認が不要だった仕組みまで、今日になって王冠へつなげられている。


「見つけました」


 エステルは赤い鎖の構造を見る。


「聖女の力を、王都全体の生活神託から集めています」


「どういうことだ」


 アルブレヒトが尋ねる。


「水、薬、配給、学校、暖房。王冠を通さなくても動いていた仕組みを、今朝から即位式へ接続した。住民が生活を守ろうとするたび、その不安と祈りがミレイユの聖女石へ集まり、王冠へ吸われています」


「人々が、聖女を助けたいと願う力まで?」


「利用しています」


 ボルデの顔が、わずかに歪んだ。


「私は、祈りを統一しているだけです」


「誰のために?」


「王国のために」


「今の王国とは、あなたの王冠ですか」


「王が国を代表する」


「まだ王ではありません」


「もう一時間もない!」


 ボルデが、とうとう声を荒らげた。


「議論を続けている間にも、王都の水は止まり、薬は尽き、民が苦しむ! 私が王になれば、すべてを一つの命令で動かせる!」


「あなたが止めたものを、戻す条件として王位を求めているのでしょう!」


「ほかに、誰が今すぐ動かせる!」


「皆です」


 エステルは答えた。


「一つの王冠ではなく、それぞれの場所で」


     ◇


 王都の白紙が、形を変えた。


 王への承認ではない。


 それぞれの生活神託を、王冠から切り離すための確認書。


 南区配給所。


 西区共同井戸。


 北市場。


 治療院。


 学校。


 神託院の下級書記官たちも、テレサの呼びかけへ応じた。


『私は、バルドゥイン殿下へ恩があります』


 若い校正官の声が、神託院前へ響く。


『今も殿下の存在回復を支持します。王位審査も受けてほしい。それでも、聖女ミレイユの人格を本人から奪うことには反対します』


 テレサは、自分の胸へ手を置いた。


「殿下。私は、あなたへ救われたからこそ、あなたが私を救ったときと同じことを、ほかの人へしてほしい」


「私は、ミレイユを消していない」


「今、消そうとしています」


「国のために必要なのです」


「私を処罰した貴族も、領地の秩序に必要だと言いました」


「同じでは」


「私には、同じに見えます」


 テレサは泣いていた。


「だから、説明してください。私が間違っているなら。でも、疑っただけで私の名前を消さないでください」


 ボルデは、彼女の名を呼ばなかった。


 その沈黙が、テレサへ答えを与えてしまった。


「殿下」


 テレサは震えながら続ける。


「私は、あなたを王にしたい気持ちを、まだ捨てきれません」


 周囲が驚く。


「でも、今のあなたへ、聖女の人格を預けたくありません」


 良いか悪いか。


 味方か敵か。


 テレサは、そのどちらにも自分を固定しなかった。


 彼女の証言が、神託院の下級校正官たちへ流れる。


 一人。


 また一人。


 王冠へつながる生活神託を切り離し始める。


 赤い鎖の力が弱まった。


「今です!」


 エステルが叫ぶ。


 アルブレヒトが剣を振り下ろす。


 青白い呪いの光が、一本の鎖を焼き切る。


 グランデルの兵が、残る鎖を押さえる。


 オズワルドの王命が、強制祝福を停止する。


 ジュリアンは担架の上から、王族の血を水路の石板へ流し、ミレイユの身体が王家所有ではないと証言する。


「私は、過去に彼女の沈黙を、自分に都合よく同意と扱いました」


 ジュリアンの声が、赤い鎖を震わせる。


「今度は、彼女が拒否したことを、そのまま残します」


「ジュリアン殿下」


 ミレイユが涙を流す。


「私は、あなたとのことまで、今決めたわけではありません」


「分かっている」


「本当に?」


「分かっていない部分もある。だから、あとで聞く」


「それなら……いい」


 最後の鎖が、エステルとミレイユの腕へ絡んでいる。


 姉妹を一本の役割へまとめる鎖。


 ――聖女と内鍵。


 ――言葉なき力と、訂正する力。


 ――二人のうち一人を保存し、一人を使用する。


「お姉さま」


 ミレイユが言った。


「何?」


「また、私の代わりになろうとしてない?」


「していません」


 黒銀の文字は反応しない。


「本当に?」


「二人とも鍵にならない方法を探すと、約束しました」


「なら、一緒に切る」


「危険です」


「お姉さまだけなら安全なの?」


「それは」


「二人で危険になるのが嫌なら、二人で止める方法を考えて!」


「今?」


「今!」


 エステルは、妹の手を握ったまま、鎖の原文を見る。


 言葉なき力。


 訂正する力。


 本来、どちらも一人へ集める必要はなかった。


 ミレイユが金色の力を流す。


 エステルが、黒銀の文字で鎖の定義を書き換える。


 ――姉は妹の代替ではない。


 ――妹は姉の代替ではない。


 ――聖女は鍵ではない。


 ――校正官も鍵ではない。


 赤い鎖が抵抗する。


 ――扉を開くには、内鍵を要する。


「人間を鍵として使うこと自体を、審査します」


 ――審査中、扉は開かない。


「今は、それで構いません」


 白髪の少女が、エステルの中で笑う。


『やっと言った』


 ――何をですか。


『扉を開けなくてもいいって』


 エステルは息を呑んだ。


 急いで王都へ来た。


 第一編纂官の原文へ到達するため。


 世界を直すため。


 だが、扉を開けること自体が、誰かを空にする仕組みなら。


 今すぐ開かなくてもよい。


「第十三神託の扉は、保留します」


 エステルは宣言した。


「内鍵も、代替鍵も使用しません」


 赤い鎖へ、決定的な亀裂が走る。


 ミレイユが叫ぶ。


「私の力は、私が持ちます!」


 二人の光が重なり。


 最後の鎖が砕けた。


 ミレイユの身体が、階段から落ちる。


「ミレイユ!」


 エステルも引かれ、体勢を崩す。


 アルブレヒトがエステルの腰を抱えて受け止め、グランデルと王国兵がミレイユを受け止めた。


 金色の聖女石は、光の大半を失っている。


 それでもミレイユは目を開けていた。


「お姉さま」


「分かりますか」


「質問が曖昧」


「自分の名前は?」


「ミレイユ・ヴァレリー」


「私のことは?」


「姉かもしれない、ものすごく面倒な人」


「覚えていますね」


「そこを証拠にしないで!」


 エステルは泣きながら、妹の額へ自分の額をつけた。


「よかった」


「まだ、全部は分からない」


「何が?」


「力が、半分くらいない気がする。それから……好きだった花の名前が思い出せない」


 エステルの胸が冷えた。


「ほかには」


「今、全部聞かないで。怖くなるから」


「ごめんなさい」


「あとで、一つずつ」


「はい」


「約束」


「約束します」


     ◇


 即位式の時計が、残り二十八分で停止した。


 王冠へ流れる聖女の祝福が途絶えたためだ。


 王都の水と配給も、完全ではないが地区ごとの手動運用へ移り始めている。


 ボルデは、神託院の最上段で立ち尽くしていた。


「なぜ」


 声が掠れている。


「なぜ、止めるのです」


 エステルはアルブレヒトに支えられながら、階段の上を見る。


「本人が拒否したからです」


「それだけで、王国全体を危険へさらす?」


「それだけ、ではありません」


「では何です」


「あなたの即位を、まだ審査しているからです」


「承認が最も多かった!」


「脅しを止めたあとも、あなたを支持する方はいます」


「ならば」


「支持者がいることと、即位条件を満たしたことは別です」


 ボルデの顔が歪む。


「また、別。別。別……」


 穏やかな恩師の声ではなかった。


「私の存在と王位は別。私の被害と今の行動は別。私の正しさと、民の承認は別。いつまで分ければ、私は一つの人間として戻れるのです」


「分けることは、あなたを壊すためではありません」


「私は、四十七年も分けられていた!」


 ボルデが、自分の胸を押さえる。


「王子だった私。ボルデとして生きた私。神託院の副院長。第一編纂官代理。どれも私なのに、誰も全部を認めなかった!」


「私は認めます」


「嘘だ!」


 アルブレヒトの傷は反応しない。


 エステルの言葉は嘘ではない。


「あなたは、バルドゥイン殿下です。王家から不当に消された第一王子。ボルデ・クラウスとして生き、私へ校正を教えた恩師。多くの下級書記官を助けた人」


 テレサが泣きながら顔を上げる。


「そして、私を追放する計画を立て、ミレイユを役割へ押し込み、アルブレヒト殿下の行動を誘導し、国民の身分を人質にし、妹の人格を奪おうとした人です」


「すべてを並べて、何になる」


「あなたを、どれか一つだけにしない」


「それで、私は救われるのですか」


「分かりません」


「では、何のために!」


「少なくとも、都合の悪い部分を消した王にはしません」


 ボルデは、長い間エステルを見つめた。


 その瞳の中に。


 怒り。


 悲しみ。


 裏切られた痛み。


 そして、ほんのわずかな安堵。


 すべてがあった。


「私は」


 ボルデが口を開く。


「ただ、自分を一つに戻したかった」


 その瞬間。


 彼の頭上に浮かぶ金冠から、赤い筆が伸びた。


 ボルデの頬が強張る。


「何だ」


 赤い筆が、彼の名前へ線を引く。


 ――バルドゥイン・アレクシス・セレスタン。


 次に。


 ――ボルデ・クラウス。


 両方の名前が、同時に薄れ始めた。


「やめろ」


 ボルデが王冠へ手を伸ばす。


「私は、第一編纂官代理だ。命令を停止しろ」


 王冠の奥から。


 人間ではない声が返った。


 ――代理人の感情汚染を確認。


 ――王位完成への障害と判定。


「私は、汚染されていない!」


 ――代理人は、対象エステル・ヴァレリーの言葉により、判断へ迷いを発生。


 ――完全な世界を完成させる意思が不安定。


 ――管理権限を剥奪する。


「待て」


 ボルデの顔に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。


「私は、お前を四十七年育てた。王国の記録を統一し、原文を開く準備をした。私がいなければ」


 ――代理人は交換可能。


 赤い文字が、ボルデの胸へ入り込む。


「エステル!」


 彼は、階段下へ手を伸ばした。


 今まで何度もエステルを利用し、追い詰めた男が。


 助けを求める子どものような顔で。


「私の名前を、消さないでくれ」


 エステルは、反射的に階段を上ろうとした。


 アルブレヒトが腕をつかむ。


「待て」


「でも」


「罠の可能性がある」


「分かっています」


「助けたいのか」


 エステルは、消え始める恩師を見る。


「はい」


「許したから?」


「違います」


「なら」


「消されてよい人ではないからです」


 アルブレヒトは、数秒だけエステルを見た。


 それから腕を離す。


「私も行く」


「危険です」


「一人で決めるな」


「……はい」


 二人が階段を駆け上がる。


 その頭上で。


 王冠から現れた赤い筆が、ボルデの名前を消しながら、新しい文章を書き始めた。


 ――第一編纂官代理、再選定。


 ――適合候補を検索。


 赤い光が、神託院前にいる全員をなぞる。


 オズワルド。


 ジュリアン。


 ミレイユ。


 アルブレヒト。


 そして。


 エステルの前で止まった。


 ――最適候補を確認。


 ――余白視保持者、エステル・ヴァレリー。


 ――次期第一編纂官へ任命する。


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