第三十九話 次の第一編纂官に選ばれましたが、一人では就任しません
――最適候補を確認。
――余白視保持者、エステル・ヴァレリー。
――次期第一編纂官へ任命する。
神託院の上空に浮かんだ赤い文章が、エステルの名前を囲むように閉じた。
次の瞬間、王冠から伸びていた赤い筆が向きを変え、階段を駆け上がっていたエステルの胸元へ真っ直ぐ突き刺さる。
「エステル!」
アルブレヒトが横から身体を引いた。
だが、赤い筆は実体のある刃ではなかった。
彼の腕も、剣も、エステルの身体さえ通り抜け、胸の奥にある黒銀の文字だけへ絡みつく。
痛みはない。
それが、余計に恐ろしかった。
まるで最初から自分の内側へあったものが、ようやく正しい場所へ収まったような感覚がする。
「離れてください」
エステルは、アルブレヒトの腕から抜けようとした。
「なぜ」
「何が起きるか分かりません」
「だから離れない」
「殿下まで巻き込まれます」
「すでに巻き込まれている」
「これは、私への任命です」
「任命されたからといって、お前一人の問題にはならない」
「役職を分ける話では」
「今まで、何を見てきた」
アルブレヒトは、エステルの肩をつかんだまま、低く言った。
「一人へ役割を集めた結果が、あの男だろう」
階段の上。
ボルデ――バルドゥインは、自分の胸元へ入り込んだ赤い文字を両手で引き抜こうとしていた。
「やめろ」
彼は、王冠へ向かって叫んでいる。
「私の権限を剥奪すれば、王国の記録網は保たない。エステルは、まだ原文を開いていない。余白視があっても、すべての修正規則を知らない!」
――旧代理人による異議を確認。
――権限喪失後の発言につき、参考記録へ移行。
「参考記録?」
ボルデの声が掠れる。
「私は、四十七年間、お前のために」
――旧代理人の貢献を保存。
――人格および個人意思は、管理権限に不要。
「お前まで、同じことを言うのか」
ボルデは、笑った。
笑っているのに、目には恐怖が浮かんでいる。
「私がミレイユへしたことを、今度は私へ返すのか。人格は不要、役割と記録だけ残せばいいと」
赤い筆は答えない。
代わりに、彼の二つの名前をさらに薄くする。
バルドゥイン。
ボルデ。
王子だった名も。
副院長として生きた名も。
「エステル」
ボルデが、階段の途中にいる彼女へ手を伸ばした。
「任命を受けなさい」
「先ほどは、名前を消さないでほしいと」
「だからだ。第一編纂官になれば、私の削除を止められる」
「本当に?」
「止められる」
アルブレヒトの首筋は反応しない。
ボルデは、少なくともそう信じている。
「あなたは、私が第一編纂官になることを望むのですか」
「望んでいる」
「自分を助けてもらうために?」
「それだけではない」
「では」
ボルデは、何かを言おうとして、口を閉じた。
「今、綺麗な理由を探しましたか」
「……探した」
かつての恩師は、苦しそうに認めた。
「王国のため。世界のため。君の才能を完成させるため。そう言えば、私が自分の命を助けてほしいだけではないように聞こえる」
「実際には?」
「助けてほしい」
ボルデの手が震えている。
「消えたくない。もう一度、誰にも見えない場所へ落ちたくない。四十七年前と同じなのは嫌だ」
エステルの胸が締めつけられた。
彼を許してはいない。
ミレイユの人格を奪おうとした直後だ。
国民の身分を人質にした。
エステル自身を追放し、アルブレヒトの行動を誘導し、父を封印へ利用した。
それでも。
消えたくないという願いまで、罰として奪ってよいとは思えなかった。
「助けます」
エステルが言う。
アルブレヒトが、すぐ彼女を見る。
「ただし、第一編纂官としてではありません」
「何を言っている」
ボルデの顔が引きつる。
「任命を受けなければ、権限がない!」
「別の方法を探します」
「時間がない!」
「時間は」
「あると言うつもりか!」
ボルデの声が、水路と王都全域へ響いた。
「私の名前は、今も消えている! 即位式は止まり、王都の生活神託は分断され、第一編纂官の管理権限は空位になる! 君が役職を受けなければ、誰が王国中の記録を保つ!」
「それを、今から考えます」
「考えている間に消えるのは、私だ!」
「分かっています!」
エステルの声も大きくなった。
喉へ痛みが走る。
それでも止めなかった。
「分かっているから、怖いのです! 私が一言、受けると言えば、あなたを助けられるかもしれない。ミレイユの失った記憶も、父と母の記憶も、アルブレヒト殿下の記憶も、すべて戻せるかもしれない!」
赤い任命文字が、彼女の言葉へ応えるように明滅した。
――次期第一編纂官へ権限継承後、以下の訂正が可能。
空中へ、いくつもの文章が並ぶ。
――バルドゥイン・アレクシス・セレスタンの削除を停止。
――ミレイユ・ヴァレリーより欠落した記憶および聖女力を復元。
――アルブレヒト・レーヴェンハイムの対エステル関係記憶を復元。
――ラファエル・ヴァレリーおよびその妻の長女記憶を復元。
――エステル・ヴァレリーの名に関する処分記録を完全削除。
欲しかったものが、すべて並んでいた。
父に、娘だと呼んでもらえる。
母に、産んだ記憶を取り戻してもらえる。
ミレイユは、姉を忘れる前の妹へ戻る。
アルブレヒトは、雪原から北部離宮、国境までのすべてを思い出す。
ボルデも消えない。
エステルの名も守られる。
「これを、拒めと言うのですか」
エステルは、誰へ向けたのか分からない声で言った。
アルブレヒトが答える。
「私は、拒めとは言っていない」
「では」
「お前が、何を受けようとしているのか確認しろと言っている」
「皆の記憶を戻す権限です」
「それだけか」
赤い文字の下。
見えやすい恩恵のさらに奥へ、別の規則が隠れている。
エステルは、余白視を開こうとする。
だが赤い筆が胸へ深く入り込むたび、視界が白く霞んだ。
「見えません」
「何が」
「任命条件の余白が」
「見せないようにされている?」
「おそらく」
アルブレヒトの傷が燃える。
「権限を与える文章が、条件を隠している」
「なら、任命を受けてから確認すれば」
ボルデが言う。
「受けたあとで、拒否できるのですか」
エステルが尋ねる。
ボルデは答えない。
「あなたは、辞めようとしたことがありますか」
「ある」
「辞められましたか」
「……できなかった」
「なぜ、それを先に言わないのです」
「言えば、君は受けない!」
「だから隠した?」
「私が消えるからだ!」
ボルデは、自分の胸元を握りしめた。
「正しいかどうかを考える余裕がない。助けてほしい。君に役職を受けてほしい。それが、今の私の本音だ!」
醜い。
身勝手。
けれど、嘘ではない。
エステルは責める言葉を失った。
◇
「エステルお姉さま」
階段下から、ミレイユが呼ぶ。
グランデルたちに支えられ、まだ自力では立てない。
金色の聖女石は、ひび割れたまま弱く光っている。
「受けたい?」
「分かりません」
「それではなくて」
ミレイユは、息を整えながら言い直す。
「皆の記憶を戻したい?」
「戻したいです」
「私のも?」
「はい」
「お姉さまを、本当の姉だと思い出してほしい?」
エステルは、すぐには答えなかった。
思い出してほしい。
婚約発表の前。
幼い頃。
姉の髪を結び、菓子を焼き、喧嘩した記憶。
「はい」
「では、今の私は?」
「今のあなたも大切です」
「昔の記憶が戻ったら、今の私は消えるの?」
「分かりません」
「第一編纂官になれば、分かる?」
「おそらく」
「では、そのあと、お姉さまが選ぶの?」
胸に刺さる問いだった。
「以前の私と、今の私のどちらを残すか」
「両方残します」
「できなかったら?」
「できる方法を」
「なかったら?」
ミレイユの声は震えていた。
「お姉さまは、昔の私を選びたくなるでしょう」
「そんなことは」
言い切ろうとした。
だが、言えなかった。
昔の妹。
自分を姉と呼び、家族の記憶を共有しているミレイユ。
今のミレイユは、姉かもしれない人としてエステルを選び直した。
どちらも大切だ。
それでも、失ったものを取り戻したい気持ちはある。
「今、否定できなかった」
ミレイユが言う。
「ごめんなさい」
「謝らないで。私も、昔の自分を知りたいから」
「ミレイユ」
「でも、お姉さま一人に選ばれたくない」
妹は、泣きながらエステルを見上げた。
「私の記憶は、私のものだと、さっき書いたでしょう」
「はい」
「なら、戻すときも私に聞いて」
「約束します」
「第一編纂官になったら、約束を守れる?」
エステルは、赤い任命文字を見る。
役職が人間の意思を上書きする。
ボルデは、それを四十七年かけて証明した。
「分かりません」
「では、今は受けないで」
ミレイユは、はっきり言った。
「私のために、受けないで」
「でも、あなたの失った力が」
「戻したい。花の名前も思い出したい。お姉さまのことも、昔から知っていたって思い出したい。でも、お姉さまが私を勝手に直す人になるくらいなら、今のままでいい」
「よくありません」
「私が決める!」
ミレイユの声が階段へ響く。
「忘れたままが幸せだとは言ってない。今のままで我慢するとも言ってない。別の方法を探すと言ってるの!」
エステルは、妹の顔を見つめた。
記憶がない。
力も欠けた。
怖い。
それでも、自分の人生を誰かの権限へ預けない。
「分かりました」
「本当に?」
「任命を、今の条件では受けません」
赤い筆が、エステルの胸の奥で強く脈打った。
――候補者による任命拒否を検出。
――拒否理由を審査。
――候補者は、家族および関係者への感情により判断を歪められている。
――本人意思を一時無効化。
「私の意思を、無効にしないでください」
――第一編纂官候補は、完全な世界のために個人意思を放棄する。
「その規則へ同意していません」
――候補者の同意は、任命条件に含まれない。
赤い筆が、エステルの胸から全身へ枝分かれする。
指先。
喉。
目。
余白視そのものを、役職へ接続しようとする。
「エステル!」
アルブレヒトが彼女を引き寄せる。
「名前を言え」
「何を」
「自分が誰か」
「エステル・ヴァレリーです」
「ほかには」
「元王立神託院校正官。現在は」
一瞬、言葉が詰まる。
赤い文字が、勝手に続きを書こうとする。
――次期第一編纂官。
「違います」
「今の契約は」
「殿下の調査協力者です」
「ただの?」
「ただの契約相手として終わらせるつもりはありません」
アルブレヒトの瞳が、わずかに揺れる。
「よし」
「今、そこまで確認しますか」
「お前自身の言葉を増やす」
「ほかに?」
「銀貨四枚」
「報酬を忘れると思ったのですか」
「忘れていないなら、お前だ」
「判断基準が雑です」
「細かい説明は、お前がしろ」
「今は」
「話し続けろ」
アルブレヒトの声は強い。
だが、命令だけではない。
エステルが役職へ飲み込まれないよう、今の彼女を現在へつなぎ止めている。
「私は、エステル・ヴァレリーです。書き間違いが気になります。感情の名前を決めるのが遅い。都合の悪い手紙を隠すことがあります」
「ほかには」
「自分の命を、証拠として使おうとする悪い癖があります」
「直す気は」
「あります」
「傷が反応したぞ」
「完全には直っていません!」
「なら、そう言え」
「直したいですが、追い詰められると戻ります」
「よし」
「何が、よしなのですか」
「今のお前が話している」
赤い文字が、エステルの喉から少し離れる。
第一編纂官という一つの役職ではなく。
不完全で、矛盾し、細かく、面倒な一人の人間。
統一しにくい自己証言が、任命処理を遅らせている。
◇
「私も証言します」
テレサが階段を上がってきた。
「エステル・ヴァレリーは、神託院で最も誤字を見つけた校正官です。そして、仕事を抱え込み、周囲へ任せるのが下手でした」
「テレサ」
「以前、私が報告書を手伝うと言ったとき、あなたは自分でやったほうが早いと言いました」
「覚えています」
「私は、かなり腹が立ちました」
「すみません」
「今、謝られても、少し遅いです」
「では、どうすれば」
「覚えていてください」
テレサは、消えかけるボルデを見た。
「それから、バルドゥイン殿下は、私を助けた人です。同時に、聖女様を消そうとした人。私は殿下を王にしたい気持ちが、まだあります。でも今の殿下へ、すべての権限を戻すことには反対します」
「テレサ」
ボルデが彼女の名を呼んだ。
今度は、呼んだ。
「私は、あなたを裏切っていますか」
「そう感じている」
「では」
「でも、裏切ったから消すとは言わない」
ボルデの目から、一筋の涙が落ちた。
「今のあなたは、私より正しい」
「そう言われると、腹が立ちます」
「なぜ」
「正しい弟子だったから助けたように聞こえる。私は、間違えても消されたくありません」
ボルデは、言葉を失った。
「エステル」
テレサが振り返る。
「第一編纂官の役割を、一人へ渡さない方法はないのですか」
「古い記録では、どうでした」
エステルが尋ね返す。
「最初から、第一編纂官は一人だった?」
「少なくとも、現存する制度では」
「現存していない記録を探します」
エステルは余白視を、任命文ではなく神託院そのものへ向けた。
白い塔。
王冠。
赤い筆。
第一編纂官という名称。
その奥に、削られた複数の人影が見える。
一人ではない。
十三人。
「見つけました」
「何が」
アルブレヒトが尋ねる。
「第一編纂官は、もともと役職名ではありません」
古い文字を引き上げる。
――第一編纂会議。
「会議?」
グランデルが階段下から声を上げる。
「建国初期、王国の根本記録を直す際は、十三人の編纂者が必要でした」
「なぜ十三人」
「十二都市の代表と、そのどこにも属さない者の代表」
白髪の少女が、エステルの中で嬉しそうに笑う。
『わたしの席』
「第十三席は、余白へ落ちた者のためです」
エステルは続ける。
「一人が原文を提案し、別の者が反論し、三人以上の異議があれば保留する。全員一致ではなく、少数意見も本文へ併記する」
「それが、なぜ一人へ」
ミレイユが尋ねる。
「効率です」
ボルデが答えた。
彼は、消えかける身体を支えながら、古い文字を見ている。
「王国が広がり、毎回十三人を集めることが難しくなった。戦争中、迅速な修正が必要だという理由で、議長へ暫定権限が集められた」
「暫定が、そのまま?」
「そうだ」
「誰も戻さなかったのですか」
「権限を持った者は、返さない」
ボルデは、自嘲するように笑った。
「私も同じだった」
「では、戻します」
エステルは黒銀の文字を書き始める。
――次期第一編纂官への単独任命を停止。
赤い筆が抵抗する。
――管理権限の空位は、王国記録の崩壊を招く。
「空位にはしません」
――代替案を提示せよ。
「第一編纂会議を復活させます」
王冠が大きく揺れた。
――十三名の適格者が未選定。
「今すぐ全員を決めません」
――会議成立条件を満たさず。
「暫定会議を作ります」
――暫定権限を一名へ付与せよ。
「一名へは付与しません」
――緊急時における意思決定不能。
「決定できないことも決定として残します」
赤い筆が、激しくエステルの胸を締めつける。
「エステル!」
アルブレヒトが、彼女を支える。
「人数は」
「最低三名で暫定会議を成立させます」
「誰を入れる」
「私」
「当然のように最初へ自分を置くな」
「余白視が必要です」
「それは認める。ほかは」
エステルは周囲を見る。
ミレイユ。
アルブレヒト。
ボルデ。
テレサ。
オズワルド。
ジュリアン。
グランデル。
それぞれ異なる立場。
「私も入ります」
ミレイユが言った。
「危険です」
「私の人格を守る規則を、私抜きで決めないで」
「でも、力が」
「欠けていても、意見は言える!」
「議場まで上がれますか」
「今は無理」
「では」
「下から言う!」
ミレイユは、グランデルに支えられたまま声を張った。
「身体が動かない人は、会議へ参加できない規則なの?」
「違います」
「なら入れて」
「分かりました」
赤い文字へ。
――暫定第一編纂会議、第二席。ミレイユ・ヴァレリー。
「第三席は、殿下へ」
エステルがアルブレヒトを見る。
「なぜ私だ」
「意図的な嘘を見抜けます」
「身体を機能として使うな」
「では、殿下ご自身の意思で」
アルブレヒトは少し考えた。
「帝国皇弟が、他国の根本記録へ権限を持てば問題になる」
「確かに」
「すぐ引くな」
「では、どうしますか」
「議決権は持たない。監視者として入る」
「監視だけ?」
「嘘を見つけた場合、議事を停止できる。ただし、修正文は書かない」
エステルは、その条件を記した。
――外部監視者、アルブレヒト・レーヴェンハイム。
――意図的な虚偽を検出した場合、議決を一時停止できる。
――修正案の決定権は持たない。
「これなら?」
「今は受ける」
赤い任命文が揺れ、単独任命の文字が少し薄くなった。
「三人ではありません」
テレサが言う。
「殿下は監視者なのでしょう」
「では、あなたが入りますか」
エステルが尋ねる。
「私?」
「神託院の下級校正官代表として」
「私は、バルドゥイン殿下を今も支持する部分があります」
「だからです」
「あなたへ反対するかもしれません」
「それも必要です」
テレサは、恐る恐るボルデを見る。
「殿下」
「私へ許可を求めるのか」
「違います」
彼女は、自分で言い直す。
「私は、参加します。殿下に反対するためだけではなく、助けられた人たちの証言も残すために」
――暫定第一編纂会議、第三席。テレサ・ノイマン。
三つの席が埋まる。
赤い任命文へ、大きな亀裂が入った。
◇
――暫定会議の成立を確認。
――ただし、現管理権限の継承先が未確定。
――旧代理人の削除を継続。
「待ってください!」
エステルがボルデへ駆け寄る。
赤い文字は、すでに彼の肩と腕を透かし始めている。
「会議で、削除停止を」
――第一回暫定編纂会議を開始。
――議題一。旧第一編纂官代理、バルドゥイン・アレクシス・セレスタン/ボルデ・クラウスの人格および記録を保存するか。
また、保存。
その言葉に、ミレイユの顔が強張る。
「保存の定義を先に」
彼女が叫ぶ。
「人格を本人から分離しない。身体から抜かない。記録だけ残して本人を消すのも駄目!」
「記録します」
エステルは、議題の下へ条件を書く。
――本議題における保存とは、本人の身体、記憶、感情、自我、意思、複数の名前および今後変化する可能性を分離せず維持することを指す。
ボルデが、かすかに笑った。
「私が、ミレイユへ提示しなかった定義だ」
「はい」
「その私へ、同じ権利を与えるのか」
「あなたが奪おうとしたからといって、あなたから奪ってよいとは思いません」
「甘い」
「そうかもしれません」
「また同じことをするかもしれない」
「だから、権限は返しません」
エステルは、ボルデをまっすぐ見る。
「あなたを助けることと、無罪にすることは別です」
「本当に、何でも分けるのだな」
「必要なので」
「私を助けたあと、裁く?」
「審査します」
「処刑も?」
「可能性を、今は否定しません」
ボルデの顔が強張る。
助けられる。
だが、その先が優しいとは限らない。
それでも彼は、ゆっくりとうなずいた。
「それでいい」
「本当に?」
「消えれば、審査を受けることもできない」
彼は、エステルの手を取った。
「私は、生きたい」
エステルは、強く握り返した。
「第一席、賛成」
自分の票を記録する。
「第二席」
ミレイユが答える。
「賛成。でも、私にしたことはあとで全部話してもらう。忘れている部分も、記録から逃げないで」
「逃げないと約束する」
ボルデが言う。
「今のあなたの約束は、信用できません」
「ミレイユ」
「だから、記録して。破ったら、破ったことも」
「……分かった」
「第三席」
テレサは、泣きながらボルデを見る。
「賛成します。私は、殿下に生きてほしい。でも、殿下がしたことを消してほしいとは言いません」
三名全員が賛成。
――議決成立。
――旧代理人の削除を停止。
赤い筆が、ボルデの名前から離れた。
薄くなった身体へ、少しずつ色が戻る。
ボルデは膝をつき、その場へ崩れた。
「殿下!」
テレサが駆け寄る。
「触れても?」
「……今は、頼む」
彼女が肩を支える。
かつて助けられた者が、今は恩師を支えている。
だが、それで過去が清算されたわけではない。
◇
赤い筆は、エステルの胸からも半分ほど抜けた。
だが、完全には消えない。
――単独任命を停止。
――暫定第一編纂会議へ管理権限を分割移行。
――権限配分を決定せよ。
「今すぐ、すべては決められません」
エステルが言う。
――管理権限の配分未確定により、王国記録網が不安定化。
王都の上空で、いくつもの名前が明滅し始める。
配給。
水。
家族。
王位。
国民。
制度全体が、次の管理者を求めている。
「最低限だけ決めます」
エステルは、ミレイユとテレサを見る。
「第一席は、原文と余白を読む。修正案を提案できる。でも、単独で確定できない」
「賛成」
ミレイユが答える。
「私も」
テレサが続く。
「第二席は、本人の意思や身体に関わる修正へ拒否権を持つ。ただし、本人以外の制度修正を一人で止められない」
「なぜ私が、本人の意思を?」
ミレイユが尋ねる。
「あなたが、聖女の力と人格を分けられそうになったからです」
「それだけで、私が全部分かるわけではない」
「分からないと、言えるからです」
ミレイユは、少し考えた。
「では、拒否した理由も記録する。感情だけでもいいけど、あとで話し直す」
「賛成です」
テレサが言う。
「第三席は、神託院の実務と過去の修正記録を確認する。現場で何が起きるか、修正案へ反論する」
「私に、そんな権限を?」
「責任もあります」
テレサが顔を引きつらせる。
「そこを先に言ってください」
「権限だけ受け取るのですか」
「そうは言っていません!」
「なら、お願いします」
「あなた、少し殿下に似てきましたね」
「どこがです」
「断りにくい言い方をするところです」
アルブレヒトが口を挟む。
「それは、以前からだろう」
「殿下まで」
「自覚しろ」
エステルは不満だったが、反論している間にも王都の記録網は揺れている。
「外部監視者は、意図的な虚偽を検出した場合に議事停止。ただし、身体への負担が大きい場合、本人が拒否できる」
「最後は必要か」
アルブレヒトが尋ねる。
「必要です」
「私が使うと決めても?」
「身体は殿下のものです。でも、使わないでほしいと意見する権利は私にもあります」
「なぜ」
「ただの契約相手ではないので」
周囲が静かになる。
言ってから、エステルの顔が熱くなった。
「今のは、王都全体へ流れていませんよね」
「記録官は書いた」
グランデルが答える。
「消してください」
「重要な関係証言だ」
「王国制度へ不要です」
「第一編纂会議の外部監視者との利益関係として必要かもしれない」
「侯爵」
「私へ言うな。記録官が判断した」
王国側の記録官は、目をそらした。
「あとで審査します」
「権限を私的に使うな」
アルブレヒトが言う。
「使いません!」
「なら残せ」
「殿下は、平気なのですか」
「平気ではない」
「では」
「消すほど嫌ではない」
エステルは、それ以上言い返せなかった。
◇
最低限の権限配分が確定する。
赤い筆が、一本ではなく三つに分かれた。
黒銀。
金。
白。
それぞれが、エステル、ミレイユ、テレサの前へ浮かぶ。
アルブレヒトの青白い光は、筆ではなく、三本を囲う外枠になった。
――暫定第一編纂会議、成立。
――単独第一編纂官制度を停止。
――旧代理人の管理権限を凍結。
――王国根本記録の単独訂正を禁止。
王都中へ、その文章が広がった。
人々の住民証から、勝手に名前が消える動きが止まる。
ミレイユの聖女石へ、わずかな金色が戻る。
父と母の記憶。
アルブレヒトの過去。
それらは、まだ戻らない。
簡単な奇跡は起きなかった。
「第一編纂官になれば、すぐ戻せたのに」
エステルが、思わず呟く。
「後悔しているか」
アルブレヒトが尋ねる。
「少し」
「正直だな」
「皆さんを待たせることになります。父も母も、陛下も。殿下も」
「私は待たされているつもりはない」
「でも」
「今の私を残すと、私自身で選んだ」
「記憶を戻したくないわけでは」
「両方欲しいのだろう」
「はい」
「なら、両方残す方法を探せ」
「簡単に言いますね」
「難しいから、お前がいる」
「それは褒めていますか」
「かなり」
エステルは、ほんの少し笑った。
「ありがとうございます」
「素直だな」
「今は」
「今だけか」
「今後は保留します」
「便利に使うな」
◇
「終わっていません」
テレサが、白い筆を見つめながら言った。
「何がです」
「暫定会議の成立文、その下に別の記録があります」
エステルも余白を見る。
単独第一編纂官制度。
停止。
そのさらに奥。
人間が作った修正規則ではない、黒い文字が動いている。
――第一編纂官の単独性が失われた場合、原文保護機構を起動。
「原文保護?」
ミレイユが、不安そうに尋ねる。
白髪の少女が、エステルの中で息を呑んだ。
『まずい』
――何がですか。
『最初の文章は、人間に読まれたくないんだよ』
「第一編纂官制度が、原文を守っていたのではないのですか」
『逆。原文から、人間を守る檻でもあった』
黒い文字が、王立神託院の壁全体へ広がる。
塔が震える。
窓が一つずつ黒く染まる。
地面の下から、巨大な扉が持ち上がってくる。
存在しない部屋。
第七記録室と第八記録室の間に隠されていた、第十三の扉。
「内鍵は使用しないと決めたはずです」
エステルが叫ぶ。
――人間側管理権限の分裂を確認。
――封印維持条件を満たさず。
――原文保護のため、扉を自動開放する。
「開放して、どう守るのです!」
黒い文字が、淡々と続きを書く。
――原文を読む可能性のある者を、扉の内側へ収容する。
――収容後、外界との関係記録を切断。
「収容?」
アルブレヒトが、エステルの腕をつかむ。
だが地面から伸びた黒い影が、暫定会議の三人を囲う。
エステル。
ミレイユ。
テレサ。
さらに外部監視者であるアルブレヒト。
「離れて!」
エステルが叫ぶ。
「一人で決めるな」
アルブレヒトは、逆に彼女の手を強く握った。
「殿下まで入ります!」
「だから握っている」
黒い扉が、音もなく開く。
その向こうには、文字のない真っ白な世界が広がっていた。
ボルデが、階段へ爪を立てながら叫ぶ。
「入るな! そこは原文の部屋ではない!」
「では、何です!」
「第一編纂官になれなかった者を、世界から切り離す余白だ!」
黒い影が、四人の身体を扉へ引きずる。
ミレイユがエステルの手をつかみ。
テレサがミレイユの外套を握り。
アルブレヒトが全員を支えようと踏みとどまる。
だが、扉の奥から聞こえたのは。
エステル自身の声だった。
『ようやく来た』
白い世界の中心。
エステルと同じ顔をした女が、一人立っている。
黒銀の瞳。
第一編纂官の赤い衣。
そして、今のエステルよりも穏やかで、迷いのない微笑み。
『私は、あなたが一人で役職を受けた未来』
女は言った。
『皆の記憶を戻し、誰も失わず、間違いのない世界を完成させたエステル・ヴァレリーです』
黒い扉が閉じる直前。
未来のエステルは、アルブレヒトへ視線を向けた。
『彼の記憶も、私がすべて返してあげます』
そして、今のエステルへ。
『代わりに、その不完全なあなたを、私へ渡してください』




