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『妹に聖女の座も婚約者も奪われましたが、神託の誤字に気づいたのは私だけでした 〜追放された校正官は冷酷皇弟と偽りの世界を正します〜』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第四十話 すべてを取り戻した未来の私は、今の妹を消していました

『代わりに、その不完全なあなたを、私へ渡してください』


 白い世界の中心に立つ女は、エステルと同じ顔で微笑んでいた。


 髪の長さも。


 指先へ残る、赤い校正インクの染みも。


 考えるときに、右手の親指で人差し指の爪を押す癖さえ同じだった。


 違うのは服装と、表情だった。


 第一編纂官の赤い長衣。


 王冠にも似た十三本の銀筆を頭上へ浮かべ、一つの迷いもない目でエステルたちを見ている。


 今のエステルには、あの顔はできない。


 何かを決めるたび、本当にこれでよかったのかと考える。


 誰かを助けても、別の誰かを傷つけたのではないかと振り返る。


 正しい文章を書いた直後に、書かなかった言葉のほうを気にしてしまう。


 だが目の前の女には、それがない。


 自分の答えへ、完全な確信を持っている。


 だから美しく見えた。


 そして、ひどく恐ろしかった。


「私を渡すとは、具体的に何をするのですか」


 エステルは尋ねた。


『私と一つになります』


「それでは答えになっていません」


『相変わらず細かいですね』


 未来のエステルは、困ったように笑う。


 その笑い方まで、王立神託院で後輩から細かな説明を求められたときの自分に似ていた。


『あなたが持つ記憶、感情、人格、余白視、現在までの経験を、私の中へ統合します。そして、私の判断を妨げる迷い、不安、自己否定、罪悪感を整理する』


「整理という言葉を使わないでください」


『なぜです』


「ボルデ副院長も、国王陛下の記憶を整理すると言いました」


『その結果、陛下は苦しみましたね』


「あなたは違うと?」


『私は、間違えません』


 あまりにも自然な返答だった。


 エステルは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「間違えない人間などいません」


『第一編纂官は、人間ではありません』


「あなたは、エステル・ヴァレリーなのでしょう」


『人間だった頃の名は、そうです』


 未来のエステルは、自分の胸へ手を置いた。


『私は、あなたが一人で第一編纂官を引き受けたあと、世界の全記録と接続した存在です。すべての文書を読み、すべての訂正履歴を知り、書かれなかった可能性まで比較できる。間違える理由がありません』


「それを、間違いと呼ばなくなっただけでは?」


 アルブレヒトが口を挟んだ。


 未来のエステルの視線が、彼へ移る。


 今のエステルが、何度も見つめてしまう金色の瞳。


 その視線を受けた未来の女は、懐かしい人へ会ったように、柔らかく笑った。


『アルブレヒト殿下』


「私を知っているのか」


『もちろんです』


「私が知らない過去まで?」


『あなたが失ったものは、すべて私の中にあります』


 未来のエステルが指を動かす。


 白い世界へ、黒銀色の雪が降り始めた。


 雪原。


 倒れているエステル。


 馬から降りるアルブレヒト。


 彼が外套を脱ぎ、罪人の肩へかける。


 あの日の光景が、二人の前へ再現される。


「やめろ」


 アルブレヒトが低く命じた。


『見たいでしょう』


「私の記憶を、私の許可なく見せるな」


『記憶は、すでにあなたのものです』


「今の私にはない」


『返せます』


「返すことと、勝手に流し込むことは別だ」


 未来のエステルの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


『その言葉も、以前のあなたなら言いました』


「以前の私なら?」


『でも、すべてを思い出したあなたは、もう言いません』


 雪景色の中から、もう一人のアルブレヒトが現れた。


 今の彼と同じ顔。


 だが首筋の呪い傷は消えている。


 帝国皇弟の礼装ではなく、黒銀の刺繍が施された簡素な上着を着ていた。


 未来のエステルの隣へ立ち、その肩へ自然に手を置く。


『エステル』


 彼は、迷いのない声で名を呼んだ。


『ようやく、過去の君が来たのか』


 今のアルブレヒトが、無言で剣の柄へ手を置く。


 未来のアルブレヒトは、その動作を見て少し笑った。


『警戒する必要はない。私も、最初はそうだった』


「お前は何だ」


『記憶をすべて取り戻した、あなたの完成後の姿だ』


「完成後?」


『雪原で彼女を拾ったこと。ラウゼンで契約したこと。北部離宮で共に戦ったこと。国境で守りたいと思ったこと。彼女が一人で消えようとするたび腹を立て、それでも目の届く場所へ置きたかったこと。すべてを覚えている』


「それだけか」


 今のアルブレヒトが尋ねた。


 未来の彼が眉を寄せる。


『何がだ』


「彼女を疑ったことは」


『もう必要ない』


「怒ったことは」


『誤解だった』


「言葉が通じず、面倒だと思ったことは」


『愛情の裏返しだったと理解した』


 今のアルブレヒトの顔から、感情が消えていく。


 エステルには分かった。


 彼が怒っている。


 大声で怒鳴るときより、はるかに強く。


「お前は、私ではない」


『記憶を失っている今のあなたが、何を根拠に』


「私なら、自分の疑いを誤解の一言へまとめない」


『真実を知ったあとも、疑いへ執着する必要はない』


「誰が、必要かどうかを決めた」


 今のアルブレヒトは、未来のエステルを見る。


「お前か」


『私は、彼の苦しみを取り除いただけです』


「私へ聞いたのか」


『聞く必要がありませんでした』


「なら、やはり私ではない」


 未来のアルブレヒトの姿が、わずかに揺らぐ。


 完全な人間ではない。


 記録から作られた再現。


 未来のエステルにとって都合のよい部分だけを残した、完成品。


「殿下」


 今のエステルが、アルブレヒトの袖をつかむ。


「何だ」


「ありがとうございます」


「何に対してだ」


「私が、あの人を見て少し安心してしまったので」


 アルブレヒトがエステルを見る。


「安心?」


「すべてを思い出した殿下が、私を疑わず、怒らず、ずっとそばにいる。そういう未来を見て、少し嬉しいと思いました」


「少しか」


「かなり」


「正直だな」


「でも、今の殿下が嫌がっているのを見て、あれを選んではいけないと分かりました」


「私が嫌がらなければ、選んだのか」


「分かりません」


「そこは否定しろ」


「嘘になるので」


 アルブレヒトは、苛立ったように息を吐いた。


「本当に面倒だな」


「はい」


「だが、今の答えでいい」


 未来のエステルが、二人を静かに見ている。


『その会話も、もう必要なくなります』


「必要かどうかは、私たちが決めます」


 今のエステルが答える。


『あなたは、その面倒さに疲れていたでしょう』


「疲れることはあります」


『彼が忘れるたび、説明する。過去の彼と比べないよう気をつける。今の彼を傷つけないよう、望みを隠す。それでも、以前の彼を戻してほしいと願う』


「はい」


『私なら、すべて終わらせられます』


 未来のエステルは、再現されたアルブレヒトの頬へ触れた。


 彼はその手へ、自分の手を重ねる。


 あまりに穏やかで。


 あまりに正しくて。


 見ているエステルの胸が、痛いほど締めつけられた。


『彼は、あなたを愛していると毎日言います』


「毎日?」


 ミレイユが思わず聞き返した。


 全員が彼女を見る。


「だって、今の皇弟殿下からは想像しにくいでしょう!」


「今、そこへ興味を持つのか」


 アルブレヒトが睨む。


「少しだけ!」


「姉が消されそうな場面だぞ」


「分かってる! でも、毎日って聞いたら、少しくらい気になるでしょう!」


 未来のアルブレヒトが、穏やかに答える。


『朝、目を覚ましたとき。執務へ出る前。戻ったあと。眠る前』


「四回ではありませんか」


 エステルが言った。


「そこを数えないで!」


 ミレイユが叫ぶ。


「毎日と言われたので、頻度を」


「気になるところが違う!」


 今のアルブレヒトが、深くため息をつく。


「私は、そんなに言うのか」


『あなたは、彼女が不安にならないよう、必要な回数を伝えるようになりました』


「誰が、必要な回数を決めた」


『私です』


「やはり、私ではない」


 未来のアルブレヒトが、また少し薄くなった。


 未来のエステルは、それを気にする様子もなく指を動かす。


 再現された男は、文字の粒になって消えた。


「消したのですか」


 エステルが尋ねる。


『必要な説明を終えたので』


「人格は?」


『再現記録に人格はありません』


「でも、あなたへ触れ、話していた」


『人格らしく見える反応を再現しただけです』


 その言葉を聞いて。


 エステルの胸に生まれていた誘惑が、少し冷えた。


 ミレイユを王冠へ保存しようとしたボルデと同じだ。


 記憶や反応が再現できるなら、本人と呼んでよい。


 未来のエステルも、そう考えている。


     ◇


「私も、見せられるの?」


 ミレイユが、未来のエステルを睨んだ。


『何をです』


「昔の私。お姉さまを覚えていて、聖女の力も全部あって、好きな花の名前も思い出せる私」


『望むなら』


「望んでいないと言ったら?」


『あなたは望んでいます』


「勝手に決めないで」


『知りたいでしょう』


「知りたい」


 ミレイユは否定しなかった。


「でも、知りたいことと、その人へ戻りたいことは別」


『会えば、考えが変わります』


「変わるかどうかも、私が決める」


 未来のエステルが手を上げる。


 白い世界へ、金色の光が集まった。


 一人の少女が現れる。


 ミレイユ。


 今よりも少し華やかな聖女服。


 金色の髪飾り。


 胸元の聖女石には亀裂がない。


『お姉さま』


 現れた少女は、エステルを見るなり笑顔になった。


『もう、どこへも行かないでください』


 エステルの心臓が、強く鳴った。


 知っている声。


 自分を姉だと覚えているミレイユ。


 幼い頃の記憶。


 菓子を焼いたこと。


 髪を結んだこと。


 喧嘩したこと。


 全部を共有している妹。


「ミレイユ」


 エステルは、思わずその名を呼んだ。


 隣にいる今のミレイユの手が、わずかに震える。


 再現された妹は、エステルへ駆け寄ろうとする。


『私、全部思い出しました。お姉さまが大好きです。もう、嫉妬もしません。ジュリアン殿下とのことも、聖女のことも、すべて私が悪かったと分かりました』


 今のミレイユが、顔をしかめた。


「気持ちが悪い」


「ミレイユ」


 エステルが振り返る。


「ごめんなさい。昔の私なら、あんなふうに言うのかもしれない。でも、今聞くと気持ちが悪い」


 再現されたミレイユが、悲しそうな顔をする。


『どうして? 私は、あなたが失った本当のミレイユよ』


「私が本当ではないみたいに言わないで」


『でも、あなたはお姉さまを忘れている』


「忘れたから、偽物なの?」


『昔の記憶がない』


「今の記憶はある!」


 ミレイユは、声を荒らげた。


「お姉さまが都合の悪い手紙を隠そうとしたこと。皇弟殿下と話しているときだけ、少し顔が変わること。私を代替鍵にしないため、無茶をして王都まで来たこと。私が姉だと信じられないと言っても、無理に信じさせなかったこと!」


『それは、本来の姉妹関係ではありません』


「本来って、何!」


『私たちは、幼い頃から姉妹です』


「だったのでしょうね。でも、今の私とお姉さまが作った関係まで、途中だから偽物だと言わないで!」


 再現されたミレイユの笑顔が、少しずつ崩れていく。


『私は、お姉さまを愛しています』


「私も、たぶん大切に思ってる」


『たぶん?』


「まだ分からないの! でも、分からないまま手を握った。笑った。腹が立った。それが悪いの?」


 再現されたミレイユは、未来のエステルを見る。


『お姉さま。この不完全な私は、苦しんでいます。早く私と一つにしてください』


「私は、そんなことを言っていない!」


 今のミレイユが叫ぶ。


「私の口で、勝手に助けを求めないで!」


 未来のエステルは、穏やかに説明する。


『記憶を失う前のあなたなら、統合を望みます』


「記憶を失う前の私に聞いたの?」


『記録から判断しました』


「聞いていないのでしょう!」


『過去の人格と現在の人格が対立する場合、より情報量の多い側を優先するのが合理的です』


「記憶が多いほうが、本物?」


『少なくとも、本人の人生を多く保持しています』


「なら、生まれたばかりの子どもは、人間として薄いの?」


 未来のエステルが黙る。


「昨日までの記憶を失った人は、今日の意思を持てないの? 昔の私が何を望んだとしても、今の私は嫌だと言っている!」


『昔のあなたも、今のあなたも同じミレイユです』


「なら、片方を消さずに話させて!」


 今のミレイユは、再現された自分を見た。


「あなたは、本当に昔の私なの?」


『そうです』


「ジュリアン殿下との婚約が発表された日、お姉さまの顔を見て、最初に何を思った?」


 再現されたミレイユは、すぐに答えた。


『申し訳ないと思いました』


「嘘」


『なぜ』


「手紙に書いてあった。私は、嬉しかった。選ばれたと思った。お姉さまが傷ついたのを見て、謝るより、自分が悪くない理由を探した」


『それは未熟だった頃の誤りです。今は訂正されています』


「だから、あなたは昔の私ではない」


 ミレイユの声が、静かになる。


「昔の記憶を持っていても、恥ずかしい部分を消されている。お姉さまが会いたかった私だけを集めた人形よ」


 再現された少女の身体が、金色の粒へ崩れ始める。


『お姉さま』


 最後まで、エステルへ助けを求める目を向けていた。


 エステルは、手を伸ばせなかった。


 伸ばしたかった。


 抱きしめたかった。


 昔の妹を失うようで、胸が痛かった。


 だが、隣には今のミレイユがいる。


 痛みを消さず。


 迷いを残し。


 今の意思で立っている。


「ごめんなさい」


 エステルは呟いた。


「誰に?」


 ミレイユが尋ねる。


「昔のあなたへ」


「私にも?」


「今のあなたにも」


「では、私には、あとで理由を説明して」


「今ではなく?」


「今聞くと、私も言いたくないことを言いそうだから」


「分かりました」


「それから、昔の私を抱きしめたかったことも隠さないで」


 エステルは息を呑む。


「分かったの?」


「顔で」


「私の顔は、本当に」


「今は、分かりやすいほうがいい」


 ミレイユは、エステルの手を握った。


「昔の私が戻ってきても、追い出さないで。でも、今の私も消さないで」


「はい」


「どうやって両方残すかは」


「保留します」


「今だけは、その言葉が少し好き」


     ◇


「テレサ」


 未来のエステルが、今度は白い筆を持つ少女を見る。


『あなたにも、望む未来があります』


「私にはありません」


 テレサは、すぐに否定した。


 だが未来のエステルは笑う。


『バルドゥイン殿下が、罪を認め、正しい王となる未来』


 白い世界へ、玉座が現れた。


 王冠を戴くバルドゥイン。


 穏やかな笑顔。


 その隣に、神託院長となったテレサが立っている。


『テレサ。あのとき、私を止めてくれてありがとう』


 未来のバルドゥインが言う。


『私は間違っていた。だが、君が私を見捨てず、正しい道へ戻してくれた』


 テレサの目に、涙が浮かぶ。


 彼女はバルドゥインへ救われた。


 尊敬した。


 王になってほしいと願った。


 今も、その気持ちを完全には捨てられていない。


「殿下は、本当に王になれるのですか」


 テレサが、未来のエステルへ尋ねた。


「私たちが会議で審査し、殿下が罪を償えば」


『なれます』


「国民資格を奪おうとしたことも。聖女様の人格を消そうとしたことも」


『すべて反省しました』


 未来のバルドゥインは、玉座から降りる。


 テレサの前へ膝をついた。


『私は、自分を救ってくれた君を、疑っただけで消そうとした。許してほしい』


「殿下」


 テレサの手が伸びる。


 触れる直前。


 彼女は、手を止めた。


「許すと、誰が決めたのですか」


『君です』


「今の私は、まだ決めていません」


『未来のあなたは許しました』


「未来の私に、いつ聞いたのです」


 未来のエステルが答える。


『彼女の人生を、最も幸福にする選択を比較しました』


「比較?」


『バルドゥインを憎み続ける未来。処刑へ賛成し、後悔する未来。彼を許し、国を共に直す未来。その中で、幸福と社会的利益が最大になるものを選んだ』


「私が決めたのではない」


『あなたのために決めました』


「それは、私の未来ではありません」


 テレサは涙を拭った。


「私は、殿下に王になってほしい。今も、少しそう思っています。でも、許せるかは分からない。罪を償えば王になれるかも、今の私は決めていない」


『迷い続けたいのですか』


「迷う時間を奪わないでください」


 未来のバルドゥインが、悲しそうにテレサを見る。


『君は、私を見捨てるのか』


「その言い方をしないで!」


 テレサは耳を塞いだ。


「殿下本人なら、言うかもしれない。助けてくれと。王にしてくれと。私を裏切るなと。私は、きっとまた苦しくなる。でも、本人の言葉なら、怒れる。反論できる」


『これは、本人が言う可能性の高い言葉です』


「可能性と、本人は違います!」


 テレサが叫ぶと、玉座も、王冠も、未来のバルドゥインも白く崩れた。


     ◇


 三つの完成した未来が消える。


 白い世界に残ったのは。


 今のエステル。


 今のミレイユ。


 今のテレサ。


 記憶を失った今のアルブレヒト。


 そして、迷いのない未来のエステル。


『理解できません』


 未来のエステルは、初めて本当に困惑した表情を浮かべた。


『皆、欲しかったものを得られるのに』


「得られていません」


 エステルは答える。


『妹は記憶を取り戻した。アルブレヒト殿下はあなたを愛し、バルドゥイン殿下は正しい王となった』


「私たちが望んだ結果へ見えます」


『ならば』


「でも、そこへ至る途中の選択がありません」


『結果が同じなら』


「同じではありません」


 エステルは、未来の自分へ近づいた。


「殿下が私を愛していると言うことと、私がそう言う殿下を作ることは違います。ミレイユが昔の記憶を戻すことと、私が今のミレイユを消して昔の妹へ置き換えることも違う。テレサがバルドゥイン殿下を許すことと、幸福になるからとあなたが許させることも違います」


『選択の過程で、苦しみが増えるだけです』


「増えます」


『間違える可能性も』


「あります」


『失う可能性も』


「あります」


『それでも、なぜ』


「私たちの人生だからです」


 未来のエステルは、自分と同じ顔をした今の女を見る。


『あなたは、皆を失っても同じことを言えますか』


 白い床へ、四つの映像が浮かぶ。


 ミレイユが、残った聖女力まで失う未来。


 テレサが、ボルデを助けられず泣く未来。


 アルブレヒトが、過去を思い出さないまま帝国へ戻る未来。


 父と母が、最後までエステルを娘と呼べない未来。


『あなたが一人で第一編纂官になれば、すべて防げた』


「そうかもしれません」


『それでも拒む?』


 エステルは、すぐには答えられなかった。


 未来の自分が見せるものは、誘惑だけではない。


 現実に起こりうる喪失だ。


 別の方法が見つからない可能性。


 時間切れになる可能性。


 誰かが死ぬ可能性。


 自分が役職を拒んだために。


「私は」


 声が震える。


「皆を失いたくありません」


『ならば』


「第一編纂官の権限が欲しいです」


 アルブレヒトが、エステルを見る。


 ミレイユも。


 テレサも。


「お姉さま」


「最後まで言わせて」


 ミレイユは口を閉じた。


「記憶を戻したい。誰も消したくない。正しい文章をすぐに書ける力が欲しい。私が決めれば皆が助かるなら、決めたい」


 未来のエステルが、ようやく微笑む。


『それが、本当のあなたです』


「はい」


 エステルは否定しない。


「私は、一人で決めたいと思う部分があります。話し合えば時間がかかる。反論されると腹が立つ。間違いを説明し続けるのも疲れる。私の見える文字を皆が見られないことへ、苛立つこともあります」


 アルブレヒトが、静かに聞いている。


「だからこそ、私一人へ渡してはいけません」


 未来のエステルの笑顔が止まる。


「欲しくないから拒むのではありません。欲しいから、分けます」


『矛盾しています』


「はい」


『権限が必要だと思いながら、受けない?』


「一人では」


『誰かと分ければ、間違いが増える』


「私一人でも、間違います」


『私は間違えない』


「あなたは、間違いを間違いと認識できなくなっています」


 未来のエステルの瞳が、赤く染まる。


『証明してください』


「今、私たちの望みを見せました」


『はい』


「でも、その未来の私たちへ、一度も本当の意味で尋ねていない。記録から幸福を計算し、最も良い結果へ置いた」


『正しい結果です』


「今のミレイユは、昔の自分へ統合されたくないと言った。テレサは、許すか自分で決めたいと言った。殿下は、疑いや怒りを消したくないと言った」


『現在の不完全な判断です』


「その言葉です」


 エステルは、未来の自分の胸元を指した。


「あなたは、自分と違う答えを、すべて不完全と呼んでいる」


『不完全だからです』


「では、あなたが間違ったとき、誰が止めるのですか」


『私は間違えない』


「それが答えです」


 白い世界へ、黒銀の亀裂が走った。


     ◇


 未来のエステルの赤い長衣が、風もないのに揺れ始める。


『これは、あなたのための試験です』


「誰が作ったのですか」


『原文保護機構』


「あなたは、本当の未来ではありませんね」


 未来のエステルは答えない。


「未来へ行った私が、過去へ話しかけているのではない」


『可能性としては、本物です』


「可能性を、人間として名乗らないでください」


『私は、あなたが一人で任命を受けた場合に、最も高い確率で到達する人格です』


「つまり、未来予測」


『完成予測です』


「私が選んでいない未来を、確定した自分のように見せた」


『選べば現実になる』


「選ばなければ?」


『あなた方は不完全な世界へ戻る』


「戻します」


 エステルは即答した。


 未来のエステルの顔へ、怒りが浮かぶ。


 今のエステルと同じ怒り。


 自分が正しいと信じている文章を、理由もなく否定されたときの怒り。


『あなたは後悔します』


「します」


『妹を失ったときも?』


「後悔します」


『アルブレヒト殿下が、最後まであなたを思い出さなくても?』


「後悔します」


『父母に、娘と呼ばれないまま終わっても?』


 エステルの喉が詰まる。


「後悔します」


『それでも?』


「後悔しないよう、今から皆と方法を探します」


『見つからなければ』


「そのとき、また話します」


『時間切れになれば』


「それも、隠さず話します」


『答えになっていない!』


 未来のエステルが叫んだ。


 完璧な女の声が崩れる。


 エステルは、その怒りに見覚えがあった。


 相手が望む形で答えない。


 保留する。


 分からないと言う。


 その人間へ、早く正解を出してほしくて苛立つ。


 かつての自分だ。


「あなたも、私なのですね」


『当然です』


「なら、怖いのでしょう」


『何が』


「間違えることが」


 未来のエステルの唇が震えた。


『私は間違えない』


「一度でも自分が間違うと認めれば、あなたの世界すべてが崩れる。だから、私たちの違う答えを残せない」


『黙りなさい』


「嫌です」


『私は、皆を救った!』


「あなたが救った形へ、皆を直した」


『同じです!』


「違います」


 未来のエステルが、赤い筆を振り上げる。


 白い世界へ、命令が浮かぶ。


 ――不完全人格エステル・ヴァレリーを、完成予測人格へ統合。


 ――抵抗する関係者の意思を一時停止。


「エステル!」


 アルブレヒトが剣を抜く。


 だが、今度の赤い文字は彼の身体を狙わない。


 頭の中へ。


 失われた記憶の空白へ流れ込んだ。


「殿下!」


 アルブレヒトが膝をつく。


 両手で頭を押さえ、苦しげに息を吐く。


 雪原。


 ラウゼン。


 北部離宮。


 国境。


 消されたすべての記憶が、激流のように彼へ戻り始める。


『思い出せば、彼は私の側へ来ます』


 未来のエステルが言う。


『彼が愛したのは、不完全なあなたではない』


「やめてください!」


『彼は、すべてを正すあなたを選ぶ』


「殿下へ選ばせて!」


『選択は、すでに記録されています』


 アルブレヒトが顔を上げた。


 金色の瞳に、これまでなかった膨大な記憶が流れている。


「エステル」


 彼は、今までとは違う声で名を呼んだ。


 雪原から彼女を知る男の声。


 エステルの胸へ、喜びと恐怖が同時に押し寄せる。


「思い出したのですか」


「ああ」


 アルブレヒトは、ゆっくりと立ち上がった。


 エステルの頬へ手を伸ばす。


 懐かしむように。


 愛おしむように。


 指先が触れる直前。


 彼は、その手でエステルを強く突き飛ばした。


「殿下?」


「逃げろ」


 アルブレヒトの首筋から、これまでで最も激しい青白い光が噴き出す。


「この記憶は、本物だ」


 彼は未来のエステルを睨んだ。


「だからこそ、今の私へ無断で入れたお前を、私は絶対に信用しない」


 赤い文字が、彼の全身へ絡みつく。


 アルブレヒトは剣を構える。


「エステル。今の私が、記憶を取り戻した私なのか、それとも記憶に上書きされた別人なのか、私自身にもまだ分からない」


「殿下」


「だから、今は私を信じるな」


 未来のエステルが微笑む。


『それでも、彼はすべて思い出しました』


 アルブレヒトの剣先が、今のエステルへ向いた。


 彼の腕が、赤い文字に引かれるように震えている。


『記憶を取り戻した彼が、どちらのエステルを選ぶか』


 白い世界の床へ、最後の問いが現れた。


 ――アルブレヒト・レーヴェンハイムは、完成したエステルと不完全なエステルのどちらを保護するか。


 ――完成したエステル。


 ――不完全なエステル。


 未来のエステルは、穏やかに告げる。


『今度は、あなたではなく彼に選んでもらいましょう』


 そしてアルブレヒトの剣が。


 二人のエステルの間で、ゆっくりと動き始めた。


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