第9話 侯爵に戻る私と、商人の私と
三ヶ月。
婚約解消の日からちょうどそれだけの時間が経っていた。
夏の盛りは過ぎ、屋敷の庭の薔薇が、一度目の花を散らしかけている頃合いだった。
朝、私は書斎の窓から庭を見ていた。
薔薇の散った花弁が、敷石の上で、薄い茶色に変わっている。
昨夜の雨がまだ、軒の樋を低く伝っていた。
リシャール侯爵閣下の処分は、大審問の三日後に議会の追認が済んでいた。
辺境への馬車は、もう先月、王都を発っていた。
昨日の中庭の続きを、ロディオンは屋敷の応接間で切り出した。
雨がようやく上がった、午後の遅い時間だった。
お茶も出さずに、彼は机の前に座った。
私は向かいの椅子に腰を下ろした。
「ヴィオレッタ様」
「ええ」
「お話、二つ、ございます」
ロディオンの声がいつもよりゆっくりだった。
急がない、と決めて話している声だった。
「ひとつ目」
彼が軽く息を吸った。
「旧モンセラ家の家臣たちが、私の帰還を、十年、待っております」
私は頷いた。
「私が侯爵に戻れば、彼らに居場所が戻ります」
「ええ」
「ふたつ目」
ロディオンが続けた。
「私が侯爵家を再興する場合、私は商会会頭の職を退かなければなりません。商会で私と十年やってきた者たちにも、未来が必要でございます」
カイの顔が、ふと頭をよぎった。
副会頭のあの方は、ロディオンの正体を十年知っていた、唯一の人だった。
カイにはカイの十年がある。
そういう人は、たぶん商会の中に何人もいた。
「侯爵として、貴方様を妻に迎えれば、貴方様は侯爵夫人」
ロディオンが目を伏せた。
「社交界に戻り、私の家を支える立場になります」
「商人として生きるなら、私たちは爵位なしの裕福な商家として、自由に動けます」
「どちらにも、貴方様を縛る要素がございます」
私は口を開きかけて止めた。
止めたのは、彼が、私の答えをまだ求めていないと感じたからだ。
「一週間」
ロディオンが軽く頭を下げた。
「お考えください」
私は頷いた。
返事はしなかった。
頷いただけで、いま、彼は十分受け取った顔をしていた。
王宮の片隅に、第一王太子のための私室から移された、小さな部屋がある。
第二王子の宮の北側。
日当たりは悪い。
家具は王宮としては質素な、机と寝台と本棚がひとつ。
クリストフ・エルデアムは、その部屋の机の前に座っていた。
机の上には学院時代の名簿。
名簿の中ほどに、ロディオン・モンセラの名前が書いてある。
名簿の脇にはもう一通、古い手紙。
学院時代、同期だった青年からのもので、最近、ふと思い立って書庫から探し出したものだった。
「貴公が随分と熱心に揶揄しておられた、あのモンセラの先輩。先日、商会の事業で、わたしの実家を救っていただいた。学院の頃の見立てとは、ずいぶん違うものだ」
その手紙は一年前のものだった。
当時、自分はこの手紙をろくに読まなかった。
ロディオンの名前を、目で滑らせただけで、次の文章へ進んだ。
覚えていなかった、というよりは、覚えるに値しないと、決めつけていた。
クリストフは目を閉じた。
学院の回廊が、また、思い浮かんだ。
十六のヴィオレッタが、十二の自分にこう言ったあの日。
「リシャール侯爵閣下のなさることは、本当に正しいのでしょうか」
あの時、自分は彼女を笑った。
そして振り返り、リシャール侯爵閣下にその話をご報告した。
笑い話として。
閣下は頷いて、こうおっしゃった。
「賢いお嬢さんは、よく観察される。早めに、こちらの世界に取り込んでおかねば」
あの一言の意味を、自分は当時、正しく理解しなかった。
ヴィオレッタを婚約者に決めたのが、そのすぐ後だったことも、結びつけて考えなかった。
クリストフは目を開けた。
劣等感、という言葉が、頭の中でもう一度、浮かんで、消えた。
そんな単純な言葉だったのか、と思いかけて、それも違う気がした。
うまく言葉が選べなかった。
ただ、ヴィオレッタが、いつも先を見ていたのは、確かだった。
そして、リリアの中の「私を見上げる目」が、ちょうどよかったのも、確かだった。
そのちょうどよさを、自分は安心、と呼んでいた。
机の上の手紙を、クリストフはしばらく折り直していた。
最後まできれいに折れなかった。
途中で諦めて、引き出しに戻した。
これは、もう、当面開けない。
当面のあいだは、ご自分の足で立つことを、覚えなければいけない。
陛下にそう言われたわけではなかった。
ヴィオレッタにそう告げられた、その日からの宿題だった。
修道院へ向かう馬車の中で、アンジェリカは窓の外を見ていた。
馬車には書記官が一人、御者の隣に乗っているだけ。
護衛はもういない。
公爵令嬢ではなく、ただの罪人として、彼女はいま王都を離れていた。
外の景色は、夏の終わりの色をしていた。
畑の麦が、刈り取られた後の切り株を、平らに並べている。
どこかの家の煙突から、夕餉の煙が細く立っていた。
アンジェリカは左手を、自分の膝の上に置いた。
昨日、修道院の指示で、彼女のドレスは取り上げられた。
今着ているのは、灰色の麻の服。
ドレスのことを思うと、不思議と、悲しくなかった。
ドレスはもう、自分のものではない。
「お姉様は」
馬車の揺れに、声がふと漏れた。
「お姉様は、いつから、わたく――」
途中で止まった。
その後の言葉が、自分の口に合わなかった。
天使と呼ばれる時の、自分の話し方が、いま、急に嘘くさく感じた。
「いつから、私を、見下していたの」
口調を変えて、もう一度、呟き直した。
返事は誰からもなかった。
返事は、自分の中で、ぼんやり浮かびかけた。
お姉様は、私を、見下していたのではない、たぶん。
そういうことは、たぶん、なかったのだ、たぶん。
誕生日には毎年、私のために、口座から五ゴールドを、ちゃんと用意してくれていた。
私はそれが足りないと思っていた。
足りないと勝手に決めて、勝手に口座から引き出していた。
私が嫉妬していたのは、お姉様の能力なんかじゃない。
たぶん、もっと、嫌な何か。
そこから先は、まだ、自分の中で形になっていなかった。
馬車が緩やかな坂道に差しかかった。
車輪が石を一つ踏んだ。
振動が彼女の膝を軽く揺らした。
アンジェリカはもう、窓の外を見続けた。
畑の切り株が、遠ざかっていく。
夕餉の煙が、もう一本、別の家から細く立ち上っていた。
一週間目の朝。
私は朝食の前に、ロディオンを書斎に呼んだ。
書斎の窓から、薔薇はもう完全に散り終わっていた。
庭は夏の終わりの、緑の濃さに変わっている。
「ロディオン」
「はい」
「お返事、申し上げますわ」
ロディオンが机の前に立った。
彼はいつもの通り、両手を後ろで組んでいた。
組み方がいつもより、わずかに固かった。
「私は、貴方が選ぶ人生に、同行いたします」
私は彼を見上げて続けた。
「侯爵夫人になるなら、商会の経営は私が引き継ぎます。商人として生きるなら、私も商人になります。どちらでも構いません」
ロディオンの目元がわずかに固くなった。
「私が選ぶのは」
私は息を整えた。
「貴方の隣にいる、ということ。侯爵か商人かを選ぶのは、貴方ご自身です。貴方の名前は、貴方ご自身のもの……ですもの」
少し言いよどんだ。
言い切る形に整えなかった。
整えなくてよかった気がした。
ロディオンがしばらく、目を閉じた。
閉じてから、もう一度開けるまでに時間がかかった。
「ヴィオレッタ様」
低く彼が呼んだ。
「私は、侯爵家を、再興いたします」
返事に迷いはなかった。
「家臣たちに居場所を戻すのが、長子としての、私の義務でございます」
「ええ」
「ですが、商会は、閉じません」
「ええ」
「貴方様が、経営してくださるなら」
私は頷いた。
「では、二人で、やりましょう」
短い返事だった。
それで、私たちはお互いの十年と七年を、ようやく、ひとつの方向に並べたのだった。
書斎を出る前に、ロディオンがもう一言、言った。
「結婚誓約式の日取りを、決めましょう」
私は彼を見た。
「半年後の、新緑の盛りに」
ロディオンが続けた。
「よろしいでしょうか」
私は笑った。
今度は、声が漏れた。
「ずいぶん、ゆっくりですのね」
「準備のことが、いくつかございますので」
私たちは書斎の戸口で、しばらくお互いの顔を見ていた。
夏の終わりの光が、廊下から書斎の中まで、斜めに伸びていた。
その光の中で、私は彼の手を、もう一度握った。
握り返した彼の指は、今度は冷たくなかった。
新緑までの、ゆっくりした道のりが、私たちの前に開いていた。




