第8話 私が貴方様を支えていたのです、殿下
二週間の準備の末、その日が来た。
朝、屋敷を出る前に、私は書斎の窓辺に立った。
雲の少ない、よく晴れた日だった。
庭の薔薇が、もう咲き始めている。
初夏の入口だった。
昨夜のうちに磨いておいたドレスを、私は身につけていた。
紋章は今日に限ってつけている。
グレゴール公爵家の青い盾の意匠。
ロディオンは屋敷の玄関で、私を待っていた。
今日の彼は執事の正装ではなかった。
白に近い灰色の上着。
襟元には銀のモンセラ家紋。
昨夜のうちに、彼は自分の正装を仕立て直していた。
馬車には、私とロディオン、それに副会頭のカイ。
カイの膝の上には、十年分の黒革手帳と、商会の認証印が押された証拠書類の束。
私の膝の上には、七年分の帳簿の控え。
馬車の中で、私たちはほとんど話さなかった。
話すことはもう、書類の側に書き終えてあった。
今日、私たちは書類が読まれるのを、ただ王宮で待つだけだった。
王宮の大審問の間に通されたのは、午前の遅い時間だった。
天井の高い、半円の広間。
壁際に貴族評議会の席。
正面に玉座。
玉座の隣に王妃様。
玉座の脇には、宰相閣下と書記官たちの席。
私たちは証人席に通された。
被告席にはすでに、三人の方が並んでいた。
クリストフ第一王太子殿下。
妹のアンジェリカ。
そしてリシャール侯爵閣下。
リシャール侯爵閣下のお顔を、私は初めて、近くで見た気がする。
五十路の半ば、白髪混じりの髪、薄い唇。
そのお顔には、いつもの薄い微笑みがまだ貼りついていた。
ただ、お目だけが笑っていなかった。
殿下は被告席の真ん中で、背筋を伸ばして座っていた。
昨夜、ご自分でお決めになった姿勢なのだろう、と思った。
アンジェリカは隣で、すこし俯いていた。
うつむき方が、いつもと違っていた。
天使の困り顔ではなかった。
国王陛下が一度、お声を発された。
「審問を、開始する」
宰相閣下が立ち上がった。
最初に読み上げられたのは、王宮監査結果の要約だった。
すでに紙で目を通したものの、声で読まれると、また違って響いた。
「過去五年、王太子家の年間予算の不足分の主要部分は、グレゴール公爵令嬢ヴィオレッタ嬢の持参金積立から、賄われてきた」
会場の貴族たちがわずかにざわついた。
ざわつかなかった人々もいる。
あらかじめ流れを把握していた者たち。
私はその人々の顔を、目の端で覚えた。
「アンジェリカ嬢の、王太子家宝物庫からの美術品九点の持ち出しは、正式な窃盗罪にあたる」
アンジェリカが肩をわずかに震わせた。
「クリストフ第一王太子の、王太子直轄領担保化承認は、王の許可を得ぬ権限濫用罪にあたる」
殿下は微動だにしなかった。
「リシャール侯爵閣下に至っては、十年前のモンセラ侯爵家粛清の主犯であり、現在も、取引商会から不正な利益還流を受けている疑いが濃厚である」
ここで初めて、リシャール侯爵閣下の薄い微笑みが消えた。
宰相閣下が私の方を向いた。
「グレゴール公爵令嬢、証拠書類の提出を」
私は立ち上がった。
七年分の帳簿の控えを、書記官の手に一冊ずつ渡した。
ページを開いた書記官たちが、何度か書類を交換しながら、確認の声を交わした。
書記官の一人が机の上で小さく頷いた。
筆跡鑑定の専門家だった。
私の筆跡が七年分、一貫していると、彼は確認したのだ。
「次に、王太子直轄領担保化承認書」
別の書記官が、商会から押収した借入書類を読み上げた。
殿下のご署名が紙の下に大きく書かれている。
殿下は目を伏せた。
否定はされなかった。
否定するための言葉を、もうお持ちではなかったのだ。
「次に、アンジェリカ嬢の質入れ品九点の記録」
質屋から提出された、九点の記録。
品名、日付、署名。
署名はすべてアンジェリカの筆跡だった。
彼女は手元の扇を強く握った。
扇の柄がわずかに軋んだ。
書記官の長が、ここで一度、席を外した。
鑑定の最終確認に向かったらしかった。
その間、会場は静かだった。
私は王宮の硬い椅子の硬さを、初めて意識した。
午前から始まった審議が、もう昼を回っているのだろう、と思った。
喉が、思ったより乾いていた。
書記官の長が戻ってきた。
宰相閣下が再開を告げた。
「次に」
宰相閣下の声が半拍、止まった。
「リシャール侯爵閣下関連の証拠書類について。提出者は、モンセラ商会会頭、ロディオン・モンセラ卿である」
ロディオンが立ち上がった。
会場の貴族たちが、いっせいに彼を見た。
披露宴の夜、彼の正体を見た者たちもいる。
あの夜、いなかった者たちは、いま初めて彼の正装を見ている。
襟元の銀紋を、彼らは誰のものか、もう知っている。
「私は、ロディオン・モンセラ」
ロディオンが玉座に深く頭を下げた。
「十年前、貴方様の手から逃れた者でございます」
リシャール侯爵閣下の方を、彼は振り向かずに言った。
ただ、声がはっきり、閣下に届く向きで発せられた。
「そして、王室御用達商会、モンセラ商会の会頭でございます」
会場が静まり返った。
ロディオンが副会頭カイの方に、軽く合図をした。
カイが十年分の黒革手帳と関連書類の束を、書記官の机に並べた。
書類の数は、思ったより多かった。
「私は、本日」
ロディオンが続けた。
「私の名と、私の血と、私が十年かけて集めた記録を、ここに捧げます」
書記官たちが書類をめくり始めた。
最初の数枚で、複数の書記官が目を見合わせた。
十年前のモンセラ侯爵家粛清の、内部指示書の写し。
複数の商会から、リシャール侯爵閣下への、利益還流記録。
閣下のご署名が何枚も出てきた。
リシャール侯爵閣下が立ち上がった。
「これは、捏造である」
そうお声を上げた。
声に、いつもの低さがなかった。
裏返り気味の高さに近かった。
「閣下」
宰相閣下が低く呼んだ。
「ご署名の鑑定は、すでに本日の午前のうちに、書記官の手で済ませてある」
リシャール侯爵閣下がもう一言、何かを言いかけた。
言葉は出てこなかった。
私は被告席のあの方の表情を、初めて、ゆっくり見た。
お顔から微笑みが消え、それから表情そのものが抜け落ちていた。
お顔が、椅子のサイズに合わなくなっていた。
会場の奥で、誰かが息を呑んだ。
国王陛下が片手を、お挙げになった。
「審議を、判決に進める」
陛下のお声は静かだった。
「クリストフ。第一王太子の継承順位を、返上せよ。王太子直轄領担保化の権限濫用罪に対する処分とする」
殿下がゆっくり立ち上がった。
頷いて、深く頭を下げた。
何も申し開きされなかった。
それだけが、ご自分のために、いまできることだったのだろう。
「アンジェリカ・グレゴール。王太子家宝物庫からの窃盗罪、ならびに姉君の口座からの横領罪に対し、修道院での三年間の謹慎を命ずる」
アンジェリカが震えた。
震えながら、立ち上がる気力もなさそうだった。
書記官が肩に手をかけて、彼女を立たせた。
「リシャール侯爵」
陛下のお声がここで低くなった。
「貴卿の爵位を剥奪し、辺境への流刑に処する処分を、議会の追認に付す。十年前のモンセラ侯爵家粛清の主犯としての罪、ならびに、商会からの不正な利益還流に対する処分とする」
リシャール侯爵閣下は立ち上がらなかった。
もう、立つ理由を、ご自分で見つけられないのだろう。
「ロディオン・モンセラ卿」
陛下が最後に、ロディオンの名を呼ばれた。
「旧モンセラ侯爵家の再興申請を、王室として承認する」
ロディオンが深く片膝をついた。
その動作は、執事として十年やってきたものとは違った。
今度は、貴族として礼を捧げる動作だった。
「謹んで、お受けいたします」
短い返事だった。
陛下が頷かれた。
それで審問は終わった。
審問の後、王宮の中庭に、私たちは出た。
午後の光が噴水の水面に揺れていた。
私の隣にロディオンが立っていた。
中庭にはほかに、二、三組の貴族がまだ残っている。
誰もが私たちの方を、ちらちらと見ていた。
ロディオンがふと、私の前で片膝をついた。
私は息を止めた。
止めて、それからすぐ、整え直した。
中庭の貴族たちの視線が、一斉にこちらに集まった。
「ヴィオレッタ・グレゴール公爵令嬢」
ロディオンがまっすぐ、私を見上げた。
「一年契約の婚約者から」
声がわずかに震えていた。
震えていることを、彼は隠さなかった。
「生涯の伴侶へ。契約を、変更していただけますでしょうか」
私は笑った。
声は出さなかった。
「謹んで、お受け……」
そこまで言いかけた時、彼が片手を軽く挙げた。
「いえ」
ロディオンが続けた。
「お受けくださる前に、お話ししなければならないことが、ひとつ、ございます」
私はロディオンの手を、自分の手で取った。
彼の指が、いつもより冷たかった。
冷たい指を、彼がそのまま握り返した。
指先が、わずかに汗ばんでいた。
私のだったか、彼のだったか、自分でも分からなかった。
私は続きを、せかさなかった。
彼がいま何を言いかねているのかは、たぶん私にも察しがついていた。
ただ、それは今日の中庭で聞く話ではなかった。
今日は、ここまで。
中庭の向こうで、書記官たちが、判決の写しを何枚も書き写し始めていた。
書き写されたその紙は、明日、王都中の貴族家に届く。
リシャール侯爵閣下の処分は、議会の追認を経て、数日後に確定するはずだった。
そのうちの一枚が、グレゴール公爵家の屋敷にも届くはずだった。
父がそれを、どんな顔で読まれるかは、私にはまだ分からなかった。
私はロディオンの手を、もう一度だけ、強く握った。
「お話、明日、お聞きしますわ」
私はそう言った。
「今日は、もう、ここまでにいたしましょう」
ロディオンが立ち上がった。
立ち上がりながら、彼は私の手を離さなかった。
離さないまま、私たちは中庭をゆっくり歩いた。




