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殿下、私の執事は貴方様より八つも年上でございますが、何か?  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 貴方の名前は、貴方ご自身のもの


三週間。


それが王宮の財政監査が、王太子家の懐の真実をすべて剥がすのにかかった時間だった。


長い、と感じたのは昼間だけ。

夜はいつも、思いのほか早く来た。


屋敷の書斎に、宰相府からの監査結果通達が届いたのは雨の朝だった。


封蝋を割って、私は冒頭に目を通した。

それから、息を整えるために一度、紙を裏返して机に伏せた。


王太子家の年予算は、ここ五年、慢性的に不足していた。

不足分の主要部分は、私の持参金積立から補填されていた。

五年分、積み上がった金額は、王太子家の年予算とほぼ同じ規模に達していた。


私が知らないうちに、彼らの家計を支えていた、ということだ。


ただ、それだけなら、まだ家のやりくりの話で済んだ。

通達にはもう三つ、書かれていた。


ひとつ。

妹のアンジェリカが、過去一年のうちに、王太子家の宝物庫から美術品を持ち出し、王都の質屋に流していた。

品数は九点。

原状回復はいまや不可能。


ふたつ。

クリストフ第一王太子殿下が半年前、ご自分の名で、王太子直轄領を担保に商会から借入れをされていた。

担保化承認書には殿下のご署名がある。

王の許可は得られていない。


みっつ。

リシャール侯爵閣下と取引のある複数の商会が、不自然に厚遇されており、そこから閣下個人へ利益が還流している疑いが濃厚だ。


私は机の上に、紙を裏返したまま、しばらく動かなかった。


書斎の窓の外で、雨が屋根の樋を細く伝っていた。


「ヴィオレッタ様」


ロディオンが書斎の扉を軽く叩いた。


「お入りなさい」


彼がお茶を運んで入ってきた。

タイガーリリーの香りが紙の上に乗った。

私は紙を裏返したまま、カップを受け取った。


ロディオンは私の机の前に立って、私が紙を読み返すのを待った。


「読みましたか」


「拝読いたしました」


ロディオンの返事はゆっくりだった。


「殿下のお署名のある書類のことは、私もいくらか聞き及んでおりました。ただ、確証は王宮監査の方が早く出された」


「あなた、知っていらしたのね」


「ヴィオレッタ様」


「ええ」


「私が知っていたのは、そういう話が王宮の周辺にある、という程度でございます。書類そのものは、商会の網にも引っかかってはおりませんでした」


私は頷いた。

彼は、こちらが疑いそうになる前に、線を引いた。

そういう線の引き方を、彼は十年で身につけたのだろう。


昼を過ぎてから、私は王宮へ向かった。


雨は午前のうちに上がっていた。

道はまだ濡れていて、馬車の車輪が水を撥ねた。


王太子家の別棟、殿下の私室に、私は通された。


通されるまでに、私を取り次いだ侍従の動きが奇妙だった。

急ぎすぎていた。

殿下の方が、私の訪問を待っていたのだ。


部屋に入ると、殿下は机の前に座っていた。

机の上には書類が散らかっている。

監査の結果を、もう、ご自身でも一通り、見ておられたのだろう。


私が入ったのを見て、殿下は立ち上がった。

立ち上がるのが、いつもより遅かった。


「殿下」


私は扉のそばで一礼した。


「ヴィオレッタ」


殿下が私の名を低く呼んだ。


「君」


そこで言葉が止まった。

私は続きを促さなかった。

五年付き合った相手が、いま、自分の言いたいことを見つけられていない。

それが分かるくらいには、私はこの方を知っていた。


「殿下」


私は扉のそばに立ったままだった。


「ひとつだけ、申し上げてもよろしゅうございますか」


殿下が頷いた。


「貴方様は、妹のために、ご自分が継ぐ予定の領地を、担保にされた」


殿下の眉がわずかに動いた。

やめてくれ、という顔ではなかった。

ただ、聞かなければ、という顔だった。


「それは、ご自分の未来を、妹に売り渡したことと同じでございます」


「……私は」


殿下が言いかけて止まった。

止まり方が長かった。

そばに置いた書類の角を、彼の指が無意識に折っていた。


私はもう一歩、机に近づかなかった。

近づきすぎないことが、いまは礼儀だった。


「殿下」


私は続けた。


「私は五年間、貴方様のお隣におりました。お真面目に、お国のために働いていらしたのを、見ておりました」


殿下が目を上げた。

私の方をしっかり見た。


「お気の毒だと、本当に思います」


私は最後の一言を、ゆっくり言った。


殿下が目を閉じた。

閉じてから、開けるまでにずいぶん時間がかかった。


開けたとき、殿下のお目には、五年間で初めて見る色があった。

怒りでも、驚きでもなかった。

たぶん、ご自分のための痛みだった。


「ヴィオレッタ」


殿下が低く言った。


「すまない」


短い一言だった。

殿下がその言葉を口にされるのを、私は五年間で初めて聞いた。


私は頭を下げなかった。

下げると、たぶん、私が許したことになる。

許す立場でも、私はなかった。


「殿下のお仕事を、私は戻しに来たわけではございません」


私は扉に向かって、半歩、退いた。


「ご自分のお足で、立っていらしてくださいませ」


殿下がもう一度、目を伏せた。


王宮を出ると、馬車のそばでロディオンが立っていた。


御者の隣ではなく、扉の脇。

私が出てくるのを、ずっと待っていたのが、姿勢で分かった。


私は馬車に乗った。

彼が向かいの席に座った。

扉が閉まる音が、いつもより優しく響いた。


「ヴィオレッタ様」


「ええ」


「もし、よろしければ」


ロディオンがわずかに目を伏せた。


「今夕、お連れしたい場所がございます」


旧モンセラ侯爵領は、王都から馬車で半日の距離にある。


午後の遅い時間、私たちは小さな丘の上の墓所に着いた。


石碑が三つ、並んでいた。

ロディオンの父、母、妹。

彼の家紋がそれぞれの石に、丁寧に刻まれていた。

雨に濡れて、紋様の溝が、夕日の中で銀色に光っている。


ロディオンが白い花を、束ねて持っていた。

そのうちの一束を、彼が私に渡した。


「ヴィオレッタ様」


「ええ」


「私の妹は、白百合が好きでございました」


私は頷いて、その花束を妹君の石碑の前に置いた。

私の手で置いた花束の隣に、ロディオンが自分の花束を並べた。


しばらく、私たちは何も言わなかった。


風が丘の上を低く渡った。

夕暮れの色がゆっくり、紫に近くなっていった。

丘の下の方で、刈った草を集める農夫の声が、遠く聞こえた。

墓所に来る前、村を抜けてきた時に、子どもが二人、私たちの馬車を追いかけてきたのを、私はぼんやり覚えていた。


「ヴィオレッタ様」


ロディオンが私の隣で、口を開いた。


「私は、十年、復讐を考えませんでした」


私は彼の方を見ずに聞いた。

見ない方が、彼は話せる気がした。


「家族を喪った者が、また誰かを喪うのが怖くて、何もしないことを選びました」


声が静かだった。


「それでよいと、思っておりました」


ロディオンがしばらく黙った。

墓石の上を、白い花の影が揺れた。


「貴方様が、あの謁見の間で……あれを置かれた、その瞬間に」


言葉が一度、詰まった。

彼は喉のところで、続きを探していた。


「生き直そうと、思えた、と申しますか」


ロディオンが、自分の言葉に、途中で苦笑した。

自分の言葉が、整いすぎないように、彼が選んでいる気がした。


「うまく、申し上げられません」


私は、彼の手を、自分の方から握った。


骨の固い手。

朝、私のお茶を運ぶ手。

昨日、剣を握って人を制した手。

十年前、家族を守ろうとして傷を負った手。


「ロディオン」


私はようやく、その名を呼んだ。


「言わなくて、いいわ」


私は息を整えながら続けた。


「私も、たぶん、同じだから」


ロディオンが私の手を、もう一度握り直した。


最初の握り方より、強かった。


屋敷に戻ったのは、夜の早い時間だった。


私は自分の寝室まで、階段を上がる気力がなかった。


ロディオンの部屋の扉の前で、私は立ち止まった。

立ち止まったまま、扉に軽く額を寄せた。


中で彼の足音が止まった気配があった。


扉が、内側から静かに開いた。


「ヴィオレッタ様」


「眠れる気がしませんの」


私は自分の声が、思ったより小さく出るのを聞いた。


ロディオンは何も聞かなかった。

ただ、私を、自分の部屋の中に招き入れた。


長椅子があった。

彼が長椅子の上に毛織の上着を広げた。

私はそこに横になった。

彼が長椅子の脇に椅子を引いて座った。


距離はそれだけだった。

それで十分だった。


長椅子の脇の小さな机に、読みかけの本が一冊あった。

古い物語の本だ。

ページの角が二つ折られている。

彼が、最近、何度か手に取って読んでいた本らしかった。

表題は、私の知らない外国語だった。


私はいつのまにか眠っていた。


朝、目が覚めた時、ロディオンは椅子のまま、机に頬杖をついて、まだそこにいた。

寝てはいなかった。

ただ、休んでいた、という顔だった。


私が起き上がると、彼が片手を私の頭に軽く触れた。

それから、すぐに離した。


「ヴィオレッタ様」


その朝、彼は丁寧な呼び方を選び直していた。

昨夜の墓所で「お嬢様」とは呼ばなかった。

今朝もそうしないことに、彼は決めたのだろう。


朝の食卓に、王宮からの正式な書状が届いていた。


封蝋の重みで、内容は開ける前から分かった。


私は封を切った。


「グレゴール公爵令嬢ヴィオレッタ。王太子家財政、王太子直轄領の担保化、リシャール侯爵閣下関連取引に関する大審問への、証人出廷を命ずる」


審問日は二週間後。


私は書状をゆっくり閉じた。


ロディオンが私の向かいで、静かに頷いた。


「準備の時間は、ございます」


短く、彼は言った。


「全部、お手元にございますから」


私は頷いた。


二週間。

それは、長くも短くもなかった。

私たちには、ちょうど足りる時間だった。

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