第6話 お嬢様、と呼ぶ権利を、もう一度ください
朝、屋敷に一通の手紙が届いた。
封蝋は王太子家の御紋。
朝の食卓に、まだ朝食を出す前のロディオンが、銀の盆に乗せて私の前に置いた。
差出人は、クリストフ第一王太子殿下。
私は開封しなかった。
封蝋を見た時点で、用件はおおよそ察しがついた。
昨夜の披露宴で、殿下は何かを言いかけて、口を閉じた。
言いかけたことを、書面で、もう一度言ってくる気だろう。
「お読みにならないので?」
ロディオンが軽く尋ねた。
「読まなくても、書いてあることは分かりますわ」
私は封筒をそのまま机の脇に置いた。
ロディオンがわずかに目を伏せた。
何かを言いかけて、彼も口を閉じた。
今朝の私たちはよく似ていた。
昼前、私は街の南の市場に出かけた。
リネアと午後に約束をしていた。
リネアの母君が最近お気に入りの帽子屋で待ち合わせ、と書かれた手紙が、昨日の夜のうちに届いていた。
朝の手紙が殿下からだったのに対して、リネアの手紙はリネアらしい乱れた筆跡だった。
「ヴィオ、絶対来てね、絶対よ、絶対」と三回書いてあった。
私はその筆跡を見て、少しだけ笑った。
昨日の披露宴の話を、誰よりも先に交換しておきたいのだ、彼女は。
馬車には、御者と、ロディオンと、商会から派遣された護衛二名。
昨日までは、屋敷の使用人が一人ついてくるだけだった。
編成が変わっていた。
帽子屋に着いて、店の前で馬車を降りた、その時だった。
通りの向こうから、馬の蹄の音が急ぎすぎていた。
ロディオンの肩がわずかに動いた。
それより速く、商会の護衛が私の前に出た。
「お嬢様、店の中へ」
ロディオンの声がいつもの抑えた低さではなかった。
命令形ではなかった。
ただ、有無を言わさない響きが混じっていた。
蹄の音が店の前で止まった。
馬上の男たちは王太子直属の制服を着ていた。
四人。
ひとりが馬を降りる前に声を張り上げた。
「グレゴール公爵令嬢、ヴィオレッタ嬢。殿下のご命令にて、王宮までお越しいただく」
「殿下のご命令、ですって」
私はロディオンの背越しにそう返した。
「私はもう殿下の婚約者ではございませんが」
「無理矢理にでも、ご同行願うようにと、仰せでいらっしゃる」
私の隣で、ロディオンの息が一拍だけ止まった。
彼の体の重心がわずかに前に動いた。
私は彼の背を、まだ見ていた。
無理矢理にでも、と。
殿下がその文言で命令を下された。
その命令を、王太子直属の私兵が、いま街中で実行しようとしている。
それはもう、口論ではない。
「カイ、二人を頼む」
ロディオンが、商会の護衛のうちの一人に短く言った。
カイ、と呼ばれたのは護衛の頭らしき男で、商会副会頭の片腕の青年だった。
「会頭、お一人では」
「四人のうち二人は、お前たちに任せる。残りは、私が」
護衛の青年が頷いた。
ロディオンの正体を商会の警備員はどこまで知っているのか、私は知らなかった。
ただ、彼らが「会頭」と呼ぶのを今、私は初めて聞いた。
ロディオンが、上着の内側から薄い剣帯を引き出した。
細身の刺突剣。
執事の上着の内側に、いつから仕込まれていたのかは、私は知らなかった。
ふと、屋敷の書庫の片隅で、子どもの頃に見た古い剣の手解き本のことを思い出した。
あれは、たしか、誰かが置き忘れていったものだった。
王太子の私兵が馬を降りた。
彼らも剣を抜いた。
通りの両側で、商人や買い物客が慌てて店の中に逃げ込む音がした。
ロディオンが軽く、息を吐いた。
最初の踏み込みは、護衛の青年が先に受けた。
二人目を、もう一人の護衛が抑える。
残りの二人をロディオンが引き受けた。
私はロディオンの足の運びを見た。
五年前、いや、十年前から、私はこの男の足音を聞き続けてきた。
朝、廊下を歩く音、夜、書斎の前を通る音、馬車の隣で立つ音。
あれは全部、足の置き方の癖を、私が体で覚えていたのだと、いま気づいた。
剣を交わす音が、二度。
四度。
それきり、静かになった。
王太子の私兵が四人とも、地面に膝をついていた。
誰も深く斬られていなかった。
腕、肩、太腿。
動きを止める分の、最小限の傷。
ロディオンが剣の血を布で拭った。
その時、私は彼の左の上腕の生地が、薄く赤く滲んでいるのに気づいた。
「ロディオン」
私は声を上げた。
声が思ったより大きく出た。
彼がこちらを振り返った。
表情はいつもと変わらなかった。
「ヴィオレッタ様。馬車に、お乗りください」
「あなた、怪我を」
「擦り傷でございます」
擦り傷、と彼は言った。
そう繰り返してくれ、と私の方が無言で願っていた気もする。
擦り傷ということにしておかなければ、私は彼を、もう街に出せなくなる。
ロディオンが私の頬を、片手で一度だけ包んだ。
通りの真ん中。
人前。
十年、彼が絶対にしなかったことだった。
「絶対に、外に出ないでください」
低い声で、彼が続けた。
「貴方様の安全を、確かめるまで」
それから、彼は手を離した。
離したくなさそうに、ではなかった。
ただ、離した、というだけだった。
それが彼らしかった。
私は馬車の中に押し込まれた。
扉が閉まる音より先に、私の頬の温度の方が、ゆっくりと上がっていた。
王宮の自室で、クリストフ第一王太子殿下は机の前に座っていた。
机の上には、書きかけの命令書が一通。
署名はまだ入れていない。
「ヴィオレッタ嬢を王宮に同行させよ。手段は問わない」とだけ書かれている。
殿下はこの一文を、ご自分の判断で書いたと思っておられた。
ただ、手元にはもう一通、別の書状がある。
朝、リシャール侯爵閣下から届いた指示書だ。
そこにはこう書かれていた。
「モンセラ家の血筋、確認すべし。ヴィオレッタ嬢を本人に確かめさせよ」
殿下はその指示書を、何度も読み返していた。
「あいつは」
殿下は低く呟いた。
「あいつは、ただの執事だろう」
声に、混乱があった。
ヴィオレッタの薬指に光った、銀の指輪。
あの紋様を、殿下は子どもの頃に一度見ていた。
学院に入る前、王宮の儀礼の場で、ある侯爵家の母君が身につけておられた。
その家は、十年前、爵位を取り上げられた。
殿下は秘書官に頼んで、学院時代の名簿を、書庫から取り寄せていた。
朝のうちに届いていたそれを、机の引き出しから取り出す。
最終学年の冬の名簿。
殿下が入学した年に、最終学年だった先輩たちの名前が並んでいる。
ロディオン・モンセラ侯爵子息。
その名前は、確かにそこにあった。
殿下は当時、その先輩を貧乏侯爵の坊ちゃんだと、笑っていた覚えがある。
誰と一緒に笑ったのか。
覚えていなかった。
覚えていない、というのが、いま、嫌な感じで胸に落ちた。
殿下は目を閉じた。
学院時代の、ある日の風景がふと浮かんだ。
回廊の隅で、十六のヴィオレッタが、十二の殿下にこう言ったことがあった。
「リシャール侯爵閣下のなさることは、本当に正しいのでしょうか」
あの時、殿下は彼女を笑った。
何が、と笑った。
彼女はそれ以上、言わなかった。
殿下は目を開けた。
劣等感、という言葉が、頭の中で何度か浮かんで、消えた。
落ち着かなかった。
机の角の折れた書類を、殿下は直そうとして、結局、直さなかった。
部屋の扉が軽く叩かれた。
「殿下」
リリアの声。
「お姉様の取り戻し方、わたくしが、お教えしてさしあげますわ」
扉が開いて、妹が入ってきた。
天使の微笑みを浮かべている。
微笑みを浮かべながら、彼女の目は笑っていなかった。
殿下の体がわずかに後ろに引いた。
リリアの目に、初めて、彼が「気味の悪さ」を見た瞬間だった。
殿下は椅子の中で思った。
私は、この令嬢の何を、信じていたのだろう。
屋敷に戻った夕方、ロディオンの上腕の傷を、私は自分の手で見た。
擦り傷ではなかった。
浅く切れていた。
ただ、骨にも腱にも届いていない。
そういう意味では、彼は嘘を言わなかった。
私は清潔な布で、その傷を縛った。
縛る間、彼は黙って腕を差し出していた。
彼の左肩には、別の、古い剣傷の跡があった。
鎖骨の下、長く伸びた、もう肉色に近い細い線。
私はその傷について、聞かなかった。
聞いたら、彼は答えるだろう。
ただ、今夜の私には、その答えを聞き取る余力がなかった。
「ロディオン」
私は布を結びながら言った。
「もう、執事ではないあなたを、私のために怪我させるわけにはいきません」
「ヴィオレッタ様」
「明日から、私も、商会の警備網の中で動きますわ」
ロディオンがしばらく、私の手元を見ていた。
それから、彼は軽く目を伏せた。
「お嬢様」
短く彼は言った。
「お嬢様、と、呼ぶ権利を、もう一度ください」
私は布を結ぶ手を止めた。
「もう、執事ではないと、言いましたわ」
「執事としてではなく」
ロディオンがゆっくり続けた。
「貴方を、守った男として」
私は彼の腕に巻いた布の端を結んだ。
結び方は、子どもの頃に乳母から習った、簡単なものだった。
ただ、結び目を整える指先が少し、震えた。
「お好きに」
私は小さく答えた。
それから、彼の頬に私の方から、片手を伸ばした。
ロディオンの目元がほんのわずかに、固くなった。
固くしていないと、何かが崩れる、という固さだった。
私はそっと手を引いた。
夜、リネアから短い手紙が届いた。
「ヴィオ、社交界、昨夜から大変よ。リシャール侯爵閣下、急にどのパーティも欠席されているの。ご病気じゃないわ、絶対」
その下に、小さく、こう書かれていた。
「あなたの婚約者の、紋章のせいだと思う」
私は手紙を机の上に置いた。
机の上には、もう一通、新しい書状が来ていた。
王宮からの正式な通達。
「グレゴール公爵家を含む、王太子家との財政取引のあるすべての家を対象に、王宮による財政監査を開始する」
差出人は宰相府。
リシャール侯爵閣下のお名前は、なかった。
意外なほど、なかった。
私はその通達をしばらく見つめた。
リシャール侯爵閣下の名前が、ない。
つまり、宰相府はもう、閣下を当てにしていない、ということでもある。
昨夜の披露宴での、あの一瞬の、表情の消え方。
あれは、私たちだけが見ていた変化ではなかった。
玉座の近くにいた、もっと多くの人々がそれを見ていた。
風が、変わり始めている。
私はその通達を、机の上でゆっくり折った。
明日からも、考えなければならないことが、たくさんある。




