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殿下、私の執事は貴方様より八つも年上でございますが、何か?  作者: 秋月 もみじ


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5/10

第5話 殿下、私の婚約者は、王室御用達商会の筆頭でございますの


王宮の大広間にシャンデリアが点っていた。


光は新しい婚約者である妹の、天使の微笑みを上から照らしている。

アンジェリカは銀の髪に淡い空色のドレス。

殿下の腕に絡みつく姿が、絵に描いたように整っている。


絵に描いたように、というのは、たぶん悪くない比喩ではない。

本人もそう描かれることをよく知っている顔だった。


私は父と並んで、招待客の一群の中に立っていた。


立場としては、底辺だ。


「元婚約者の姉」。

昨日まで殿下の婚約者だった私が、新しい婚約者の披露宴に、家族として参列している。

誰がこの並びを設計したのかを、私は当てるのが嫌になった。

たぶんリシャール侯爵閣下のお仕事だろう。


その閣下は、会場の奥、玉座に近い壁際で、満足げに二人を見ている。

五十路を過ぎたお顔は、いつも通りの薄い微笑みを浮かべていた。

私は視線を合わせなかった。


会場の中ほどで、リネアが扇の陰からこちらに小さく目配せしてくれた。

扇の柄を一度、軽く右に振る。

「左の柱の陰、シャイヤン伯爵夫人」と、私たちの間でだけ通じる合図。

あの夫人は社交界一の噂の運び手だ。


つまり、今夜の私の振る舞いは、明日には王都の半分に行き渡る。


了解、と私も扇を一度だけ閉じて返した。

返すまでに、半拍、遅れた気がした。

リネアの合図は、たぶん、もう一つあった。

私は見逃したのだろう。

後で恨み言を言われる気がした。


前菜の皿が下げられた頃、楽団が小さく音を整え始めた。

そろそろ、殿下とアンジェリカの最初の踊りが始まる、という頃合いだった。


会場の入り口で、誰かが小さく息を呑む音がした。


私の隣で、父が視線を入り口に向ける。

父の表情がわずかに動いた。

私はそちらを見た。


白い正装の長身の男が立っていた。


夜会服の白は、貴族でもよほど立場のある者しか身につけない。

襟元には銀の小さな紋章。

私が昨日、商会本部で触れたのと同じ意匠だった。


マスター・オブ・セレモニーの声が、会場に響いた。


「モンセラ商会会頭、ロディオン・モンセラ卿のおなりでございます」


会場が一瞬、止まった。


止まった、と感じたのは最初の一拍だけ。

次の瞬間、会場の貴族の三分の一ほどが、ほとんど反射のように膝を折った。


商会と取引のある家々。

彼らはいま、会場で誰よりも先にその人物に礼を取らねばならないことを知っていた。


その動きが波のように後ろの貴族たちに伝染した。

取引のない家も、隣家がひざまずくのを見て、慌てて頭を下げた。


殿下が、アンジェリカの腕を支えたまま、固まっていた。


私の隣で、父がぽつりと呟いた。


「お前、知っていたのか」


「お父様」


私は視線を前に保ったまま答えた。


「お父様の方が、ずっとご存じだったはずですわ」


父が息を呑む音がした。


そう。

十年前、政変の夜に逃げ込んだ青年を、何も訊かずに匿ったのが父だった。

父は彼の本当の姓を、最初から知っていた。

私だけが、知らなかった。


ロディオンが会場の中央へ歩いた。


歩き方が、いつもの執事のものではなかった。

背筋の伸ばし方、靴音の置き方、視線の高さ。

十年、彼が屋敷で隠していた骨格が、今夜、初めて表に出ていた。


その歩みが、殿下の前で止まった。


「お久しぶりでございます、殿下」


低い声。


「学院でご一緒した、ロディオン・モンセラでございます」


殿下の眉がわずかに動いた。

何かを思い出そうとして、思い出した、という顔だった。


ロディオンは三十三、殿下は二十八。

学院の最終年と、入学したての頃、二人は三年ほど在籍が重なっていたはずだ。

その頃の殿下が、貧乏侯爵家の末裔と呼ばれていた青年をどう扱ったか。

殿下の今の沈黙が、その頃のことを雄弁に物語っていた。


「……君は」


殿下が、ようやく声を出した。


「君は、十年前」


「ええ。あの時のロディオンでございます」


ロディオンの口調は丁寧だった。

丁寧すぎるほど、丁寧だった。


会場の奥で、リシャール侯爵閣下の笑みが消えた。


私はその瞬間をはっきり見た。


ロディオンが私の方へ歩いてきた。


会場の視線が一斉に動く。

私は自分の心臓が、思ったより落ち着いているのに気づいた。

震えていてもよかった気がしたが、どうも、震える気にならなかった。


ロディオンが私の前で軽く頭を下げた。


「ヴィオレッタ様」


呼び方は、屋敷の廊下で聞いたものと同じだった。

それを彼は、会場の真ん中ではっきり発音した。


「殿下に、私の契約上の婚約者を、ご紹介してもよろしいでしょうか」


「契約……?」


殿下の脇で、アンジェリカの声が鋭く上がった。

妹の眉が、初めて崩れていた。

その崩れ方は、彼女が普段、社交界で見せる「天使の困り顔」とは別のものだった。


ロディオンは妹の方を見なかった。


「グレゴール公爵令嬢、ヴィオレッタ様。一年契約の婚約者でございます」


会場の空気がまた、変わった。


契約、という言葉が、貴族たちの間で奇妙に転がっていく。

取引と縁談の境を熟知した人々ほど、その言葉の意味を深く受け取る。


結婚を急がない、という意思表示。

家と家の格を、お互いに値踏みしている、という意思表示。

言い換えれば、軽くは結ばない、ということ。


シャイヤン伯爵夫人が、扇の影で、すこし瞳を見開いた。

その夫人が「この縁談は重い」と判断した瞬間を、私は確かに見た。


明日の社交界に、その評価が広まる。


私はロディオンに会釈を返した。


「殿下」


それから、殿下の方に向き直った。

五年間、私はこの方の隣で、無数の社交儀礼を覚えてきた。

今夜は、その全部を使うつもりだった。


「お久しゅうございます。本日はお祝いに駆けつけました」


殿下が何かを言いかけて、口を閉じた。


会場の奥から小さな拍手がひとつ、起きた。

それが二つになり、十になり、最後には会場の三分の二ほどが、控えめな拍手を送っていた。


商会と取引のある百家。

そして、その隣家、その後ろの家。


私のためではない。

ロディオンへの礼として、彼らは手を打ったのだ。

ただ、その手が、結果として私への祝福にもなった。


父が隣で深く息を吐いた。


楽団が最初の曲の冒頭を、静かに弾き始めた。


殿下とアンジェリカが、本来なら最初に会場の中央へ進む。

それが披露宴の開始の合図だった。


しかし、今夜は違った。


ロディオンが私に手を差し出した。


「ヴィオレッタ様。一曲、お相手を願えますでしょうか」


私は彼の手に、自分の手を重ねた。


中央の床に、私たちが先に出た。

殿下とアンジェリカが、ようやく一拍遅れて、私たちの後ろから歩み出る。

順序が逆になっていた。


それを訂正できる権限は、いま、誰の手にもなかった。


楽団の音に合わせて、私はロディオンと向かい合った。

彼の手は、屋敷で握ったときと同じ固さだった。

ただ、いつもより少し温かかった。


「ヴィオレッタ様」


踊りの一拍目に、彼が囁いた。


「十年前から、貴方様と、この曲を踊りたかったのです」


私は足を止めなかった。

止めたら、たぶん、表情が崩れた。


「ずいぶん、気の長い方ね」


私は静かに返した。


ロディオンが口元だけで、わずかに笑った。

笑った、というよりは、笑いを呑み込んだ、という方が正しい。

それを呑み込めるところが、彼らしかった。


二曲目の半ばで、私たちのすぐ脇に、誰かが歩み寄ってきた。


殿下だった。


アンジェリカを、別の貴族に預けて、一人で。


「ヴィオレッタ」


殿下が、私の名を低く呼んだ。

五年付き合った相手の声で、いま、初めて、不安が混じっていた。


「君のその指輪は……」


殿下の視線が、私の薬指に落ちている。


私の左の薬指には、銀の指輪が一つ、はまっていた。

昨日の夜、屋敷で、ロディオンが私の手に通したもの。

旧モンセラ侯爵家の、母君の形見の指輪。


会場の奥で、リシャール侯爵閣下の視線が、ぴたりとその指輪に止まったのを、私は感じた。


ロディオンの母君の。

リシャール侯爵閣下が十年前に奪った家の。


殿下は、言葉の続きを、うまく見つけられなかった。


私は踊りの足を止めなかった。

止めずに、ただ、軽く首を傾けた。


「殿下、ご存じでいらっしゃいまして?」


私は微笑んだ。


「これは、私の婚約者のお母様のものでございます」


殿下が、息を止めた。


会場の音楽は、まだ続いていた。

リシャール侯爵閣下の笑みは、もう戻ってこなかった。

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