第4話 私の本当の姓を、申し上げてもよろしいですか
朝から、私は迎えの馬車に乗っていた。
御者ではなく、ロディオンが手綱を取っている。
普段、彼は屋敷の馬を走らせない。
今日に限っては御者を雇わない理由があった。
行き先を、誰にも聞かれたくなかったのだ。
馬車の中の私は、いつもより地味なドレスを選んでいた。
深い灰色の絹に、銀糸の刺繍だけ。
紋章は付けていない。
社交界の集まりに行くわけではない。
王都の中心部、商会通り。
そこに目的地があった。
モンセラ商会本部の入口は思ったよりも質素だった。
煉瓦造りの三階建て。
看板は控えめで、紋様は私が昨日見た銀印章と同じ。
扉の脇で立っていた門番が、馬車を見て静かに頷いた。
ロディオンが小さく目配せしただけで、門番は私たちを建物の脇の小さな扉へ案内した。
正面玄関ではなかった。
副会頭の客人だけが通る、通用口だ。
「副会頭が、お待ちしております」
案内の女性が廊下の先を示した。
廊下を歩く間、私は商会の中の様子を盗み見た。
帳簿を抱えた者、書類を運ぶ者、絨毯を直す者。
誰もが手早く、声を抑えている。
混雑しているのに、不思議と静かだ。
これだけの人数を、ここまで秩序立てて動かすのは、私が知る限り、王宮の財務省くらいである。
廊下の途中で、長身の男が立っていた。
四十前後。
日に焼けた肌。
平民の出だと一目で分かる手の固さ。
「グレゴール公爵令嬢でいらっしゃいますね」
男が軽く頭を下げた。
「副会頭のカイと申します。よくお越しくださいました」
カイ、と私は彼の名前を、初めて口の中で繰り返した。
私は目礼で返した。
カイの視線が、私の隣に立つロディオンに、ほんの一瞬だけ向いた。
それから、何事もなかったように戻った。
商会の中で、彼の正体を知る、唯一の人。
その目配せの仕方は、十年やってきた者の手つきだった。
「最上階の応接間に、ご案内いたします」
三階の最上階は、商会の他の階とは雰囲気が違った。
書架が壁いっぱいに並んでいる。
帳簿の背表紙、王都の地図、各国の言語の事典、海図。
窓は王都の屋根が見渡せる位置にあった。
ロディオンが私を奥の応接間に通した。
カイは扉のところで一礼して下がった。
扉が閉まる音が思いのほか重かった。
「ヴィオレッタ様」
ロディオンが応接間の机の前で立ったまま、私を見た。
「お話しすべきことが、まだ、いくつかございます」
「ええ」
私は机の前の椅子に腰を下ろした。
ロディオンが懐から銀の指輪を取り出した。
昨日、書斎で見せられたあの紋様。
いま改めて見ると、繊細な葉の意匠が丁寧に刻まれている。
机の上に、彼が指輪を置いた。
「これが、私の本当の姓です」
私は指輪に手を伸ばしかけて、止めた。
「触れても、よろしいの?」
「もちろんでございます」
私はその指輪を指先でそっと拾った。
銀は思ったよりも軽かった。
意匠はなめらかで、丁寧だった。
「綺麗な意匠ね」
「妹の墓にも、同じものを刻んでおります」
ロディオンの声がわずかに低くなった。
「妹は、貴方様と同じ年で亡くなりました」
私は指輪を持ったまま、しばらく動かなかった。
同じ年。
私はいま二十六。
あの政変は十年前。
ロディオンの妹君は十六歳で亡くなったということになる。
「……私が、貴方の中で」
そこで口が止まった。
聞いていいのか自分でも分からなかった。
ただ、聞かないままにすると、私はもう少し先へ進めない気がした。
「私が、貴方の中で、妹君の代わりだったの?」
ロディオンは首をゆっくり横に振った。
「いいえ」
短く彼は言った。
「妹は妹、貴方は貴方です。十年、別々に大切にしてまいりました」
私は指輪を机の上に戻した。
そっと、置いた。
返事はしなかった。
返事をすると、声が震える気がした。
「もうひとつ、お伝えしなければならないことが」
ロディオンが書架の方へ歩いた。
書架の中段から、一冊の薄い帳簿を抜き取って、机の前に戻った。
机に置かれたその帳簿の表紙を、私は見て、瞬きを止めた。
七年前の年号。
背表紙の字は私の筆跡。
私が初めて家令として書いた最初の月の帳簿だった。
公爵家の私の手元には、もう一冊しか残っていない。
こちらは私の控え。
「これは……」
「ヴィオレッタ様が、初めてお書きになった月の、商会への運用指示書の控えでございます。私が、私物として、保管しておりました」
私は帳簿に手を伸ばしかけて、止めた。
七年前のあの月。
家令のセドリクが亡くなって、私は十八で実務を引き継いだ。
父にも、妹にも、誰にも相談できなかった。
最初に動かした金額は、たしか、ささやかなものだった。
ロディオンが、そばにいた。
ただ、それだけだったと、私は思っていた。
「どうして」
「特に理由はございません」
ロディオンの返事はいつもの調子に戻っていた。
「ただ、捨てる気には、なれませんでした」
私はしばらくその帳簿を見つめていた。
紙の角が、すこし丸くなっていた。
七年のあいだに、何度か手に取られた跡だった。
聞きたいことはいくつかあった。
聞かないことに、私は決めた。
聞いたら、私の声がもう一度、震える気がしたから。
「こちらが、ヴィオレッタ様の七年でございます」
ロディオンが別の薄い帳簿を、机の上に並べた。
最後のページに数字。
私がぼんやり覚えていた残高の、ちょうど十倍だった。
「……これは」
「七年で、十倍」
ロディオンが淡々と数字をなぞった。
「公爵家の年予算の、三倍にあたります」
カップを口に運ぼうとした私の手が止まった。
カップは、いつのまにか執事ではない誰かが、机に置いていた。
たぶん、入室を許されていない誰かが、こっそり気を利かせたのだろう。
お茶の表面が、わずかに揺れていた。
公爵家の三倍。
それはつまり、私一人の財で、公爵家三軒分の暮らしが、何年でも回せる、ということだった。
父に頼らなくても、夫に頼らなくても、私は生きていける。
昨日まで、私はそんな現実を考えたこともなかった。
「私は、自分の力で、これだけのものを、持っていたの?」
ロディオンが軽く頷いた。
「ご指示は、すべてヴィオレッタ様のお手で出されました。判断も、ご決断も、ヴィオレッタ様のものでございます」
私は椅子の背に深く身を預けた。
七年前のあの月、私はただ家を支えるためにこの仕事を始めた。
家を、支える。
それは本当は、私を支える、ということでもあったらしい。
その事実に、私はようやく、いま、追いついた。
応接間を出る前に、ロディオンがもうひとつ、机の上に置いたものがあった。
黒い革の手帳。
中身は見えなかったが、厚さで十年分だと察しがついた。
「これは、私が十年かけて集めたものでございます」
ロディオンの声がいつもより、また少し低かった。
「リシャール侯爵閣下の、悪事の記録」
私は手帳に触れなかった。
触れる気にならなかった。
「一年契約の間に、これを使う機会が、必ず参ります」
ロディオンが続けた。
「その時、私は自分の正体を、公の場で明かさなければなりません。だから、それまでの一年だけ、私の素性は、商会の外に出さずにおいてください」
私は頷いた。
頷くしか、なかった。
「ヴィオレッタ様」
ロディオンが軽く頭を下げた。
「貴方様を、巻き込む形になります。お詫び申し上げます」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「巻き込まれるのではなく、私が、選んだのです」
ロディオンの目元がわずかに緩んだ。
それを彼は、急いで隠した。
帰りの馬車の中で、私はまだ息を整えていた。
商会通りを抜けて、貴族街に入った頃、屋敷の方角から別の馬車が私たちの方へ向かってきた。
王宮の御紋。
御者がすれ違いざまに、書状を一通、私たちの馬車に手渡した。
封蝋は王宮のもの。
差出人は王太子家。
私はそれを開いた。
クリストフ第一王太子殿下と、アンジェリカ・グレゴール公爵令嬢の、ご婚約発表披露宴。
グレゴール公爵およびご家族へのご招待。
ご家族。
「ご家族」という宛名に、妹の名前と、私の名前が、同列で書かれていた。
私は書状をゆっくり閉じた。
ロディオンが馬車の中で、私の表情を見ていた。
「ヴィオレッタ様」
私は書状を彼に差し出した。
「いらっしゃるのよね、私たち」
ロディオンが書状を一読して頷いた。
「ええ。お受けいたしましょう」
馬車の窓の向こうで、夕方の光が屋根を赤く染めかけていた。
私は今日、自分の七年と、彼の十年の半分を見せられた。
残りの半分はまだ、向こう側にある。
そして、私の妹の名前と、私の名前が並んだ書状が、いま私の膝の上にある。
行かなければならない場所が、もう、決まっていた。




