第3話 お父様、公爵家の帳簿は七年前から私が書いておりますの
朝食の支度を待つ間、書斎から低い声が漏れてきた。
父の声だ。
苛立っている時の、低くて短い口調。
私は廊下の途中で足を止めた。
「ロディオン! ロディオンはおるか」
父が誰かを呼んでいる。
朝早くからこの呼び方をされた経験は、五年に一度もない。
「お呼びでございますか、公爵様」
執事の声。
普段と変わらない、滑らかな低音。
「これだ、これ。今期の領地収支の報告がここに置いてあるが、何が書かれているのか、わしには」
父が言葉を詰めた。
「読めない」とは言いたくないのが、声の止まり方で分かる。
「公爵様」
「なんだ」
「私はもはや、執事ではございません」
書斎の中で、父が一拍黙った気配があった。
私はその一拍の長さで、父がいま何を理解したかを察した。
理解した、というより、理解させられた、と言うべきか。
私が静かに歩を進めようとした時、玄関の方から別の声がした。
「ヴィオ、いる?」
リネアの声。
応接間に通すよう使用人に伝えて、私は書斎の扉を、軽く三度叩いた。
「ヴィオ」
リネアは扉を閉めるなり私の手を握った。
香水ではなく、馬の匂いがほのかにする。
朝早く乗ってきたのだろう。
「王宮の話、聞いたわ。社交界の半分はあなたを擁護してるって伝えに来たの」
「半分?」
私は少し笑った。
「思ったよりは、多いですわね」
「思ったよりは、ね」
リネアも苦笑した。
私と彼女は十年来の付き合いだ。
学院に入った最初の冬、雪の中で滑った私を、隣のクラスから見ていて笑わずに手を貸してくれたのが彼女。
それ以来、ふたりとも、相手に綺麗な言葉だけを使うのはやめている。
「具体的には、どなたが私を」
「アシュベルの父と、デリエ伯爵家、それからグランブール公爵閣下のご一派」
リネアが指を折って数えた。
「殿下の年齢の話ね、あれを許せないって人は、思ったより多かったの。自分の娘もちょうど二十代の方が、けっこういらしたから」
「なるほど」
「あ、それから、アシュベルの父、来週から第二王太子殿下のお茶会に呼ばれそうなのよ。あなたへの援護にもなるはず」
「リネア」
私は彼女の手を握り返した。
「ありがとうございます」
「やめてよ。十年友達やってきて、お礼を言うのは、なんか、よそよそしいわ」
リネアが笑って、それから真面目な顔に戻った。
「殿下、いま王宮で笑われてる。具体的にね」
私は紅茶のカップに目を落とした。
湯気がまだ上がっている。
カップの底の茶葉は、タイガーリリー。
私はそれを口にしなかった。
言うには、まだ整理がついていない。
「リネア」
「ん?」
「今日、私、書斎で父に話をしますの。よろしければ、聞いていてくださいませんか」
リネアがほんの少し眉を上げた。
それから頷いた。
「保護者役なら、わたしのほうが向いてるわ。あなたのお父様、ちょっと苦手なのよ」
書斎の扉を、私は自分で開けた。
父は机の上に積まれた紙の前で、片手を額に当てていた。
その向かいに執事が静かに立っている。
私の姿を見て、父が顔を上げた。
助けを求めるような目だった。
「ヴィオレッタ。これを、見てくれ」
「お父様」
私は執事に目で合図をして、書斎の本棚から束ねた帳簿を取り出した。
七年分。
背表紙に年号が書いてある。
父はこの棚の本に触れたことがない。
「これらは、全て、私が書きました」
机の上に、年号順に並べていく。
「妹のドレス代も、お父様の社交費も、王太子家への持参金の積立も、商会経由での運用も、全て、私の管理でございます」
父が目を瞬いた。
「お前が……いつから」
「お母様の遺言で、十五歳の頃から、家令の補佐に入っておりました。十八の時、家令のセドリクが病で亡くなった年、私が引き継ぐしかありませんでした」
「セドリクが」
父の声がわずかにかすれた。
家令の名前は、覚えていらしたらしい。
「ロディオンに、財務面の補佐をお願いしました。それから七年でございます」
執事が軽く頭を下げた。
リネアが扉のそばに静かに立っている。
私の言葉を遮らないように、息を浅くしているのが分かる。
「私が、知らない間に」
父が机の縁に手をついた。
「お前は、私の」
「お父様」
私は言葉をひとつ挟んだ。
「これは、責めているのではありません。ご報告でございます」
父が私を見た。
何かを言おうとして、口を閉じた。
昨日と同じだった。
殿下が、謁見の間で見せたのとよく似た顔。
私は机の上の帳簿を、もう一冊開いた。
「もうひとつ、ご報告がございます」
ページの真ん中に挟んであった、薄い紙片を取り出す。
妹の名前と、署名。
「リリアは、私の個人口座から、衣装代を無断で引き出しておりました。私が許可していたのは、年に一度の誕生日プレゼントの予算のみ。今期は、その十倍を超えております」
父がその紙片を凝視した。
「これは、横領にあたります」
私がそう続けた瞬間、書斎の扉が乱暴に開いた。
「お姉様!」
リリアだった。
朝食を取る前なのだろう。
寝間着の上から薄い肩掛けを羽織ったままの、髪も整えていない姿。
天使と呼ばれている顔が、いま、赤い。
「それは、家族の助け合いではありませんの!?」
「リリア」
私は彼女の名前を、いつも通りに呼んだ。
「あなたの婚約者になられた方は、これから王家の財務を担われるお方です」
リリアの顔から赤が引いた。
顔色の変化がゆっくりだった。
「あなたが、家族のお財布を、ご自分のものとして扱う癖が、もしも王太子家でも続いたら」
私は紙片を彼女の前に押した。
「王家の財政が、傾きます。今のうちに、お直しになったほうが、よろしいかと」
リリアの唇が震えた。
何かを言おうと、口が動いた。
しかし、出てきた言葉はなかった。
出せなかったのではなく、出すべき言葉を、彼女が一度も習っていないのだ、と私は気づいた。
私はそれ以上、彼女に何も言わなかった。
父も何も言わなかった。
書斎の中に、紙の擦れる音だけがした。
リネアが、扉のそばで、ぽつりと呟いた。
「ヴィオ。あなた、本当に殿下と婚約解消できてよかった」
私は頷かなかった。
ただ、リネアの方を見て少しだけ微笑んだ。
リネアも苦い顔で笑い返した。
書斎を出た廊下の窓から、午後の光が差していた。
雨は夜のうちに上がっていた。
執事が半歩後ろを歩いている。
「ロディオン」
私は振り返らずに、その名を呼んだ。
返事が一拍だけ遅れた。
彼の足音が止まったのだ。
「ヴィオレッタ様、と」
執事がいつもより少しだけ低い声で続けた。
「申し上げても、よろしいでしょうか」
「もう、その『様』も、いらない気がしますわ」
私は振り返った。
廊下の窓を背にした執事は、逆光で表情が見えにくかった。
ただ、目元だけがわずかに伏せられているのが分かった。
「いえ」
短く彼が言った。
「契約期間中は、『様』を、つけさせてください。私の、最後の矜持でございますので」
私は笑いそうになって、笑わなかった。
矜持、という言葉を執事の口から聞いたのは初めてだった。
彼が十年、その言葉を呑み込み続けていたのだろうことは、想像がついた。
「では、お好きになさって」
私は廊下の先へ歩き出した。
「ヴィオレッタ様」
後ろで、その呼び方が一度、確かに鳴った。
慣れない呼び方を、彼はわざとゆっくり発音したように聞こえた。
私は振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん頬が赤い。
それを彼に見せるには、まだ、契約から二日しか経っていなかった。
夜になって、屋敷の二階で悲鳴が上がった。
リリアの部屋。
「お姉様! わたくしの、今期のドレス代は、どこから出るの!?」
私は自分の寝室で、その悲鳴を聞いた。
窓の外で雲が薄くなって、月が一度だけ顔を出した。
返事はしなかった。
リリアが今日、初めて自分のお金が「どこから来ていたのか」を考えた、というだけのことだった。
答えは、彼女が今夜、自分で見つけるしかない。
ドレス代の心配を彼女がここまで真剣にしたのは、たぶん生まれて初めてだった。
私は机の上の家督の鍵束を、指で軽く弾いた。
鍵がぶつかる音が、思ったより乾いていた。
明日、私は商会本部に行く。
まだ、終わっていないことが、たくさんある。




