第2話 契約結婚で結構でございます。ただし期限は一年と申し上げておきます
朝食の卓に、いつもより薄い香りの茶が出された。
口をつけてすぐ気づいた。
私の好みの茶葉だ。
タイガーリリーと呼ばれる、橙色の花に近い香り。
昨日まで、毎日この茶が私の前に置かれていたのは間違いではなかったらしい。
ただし、王宮にお出しする時の茶ではない。
殿下の前に並ぶのは、もっと高価で、もっと癖の強い、貴族向けの定番のものだ。
私はカップから目を上げた。
「あなた」
向かいに立つ執事に声をかけた。
昨日まで名前で呼びそうになって、今朝、なぜか呼べなかった。
昨日とは違う関係になっている。
名前を口にする前に、確かめたいことがあった。
「これは、私の好みの茶葉ね」
「左様でございます」
「殿下にお出ししたものとは別物?」
「別物でございます」
返事に迷いがなかった。
私はもう一度カップに口をつけた。
七年だ。
家督教育を母から受け継いで、十八歳で実務に入った日から、私は毎朝この香りを飲み続けてきた。
気づかなかった、というより、気づこうとしなかった。
「朝食のあと、書斎にいらして」
「かしこまりました」
朝の光が、窓のレースを通って卓に落ちている。
カップの底に、茶葉のかすかな残り香があった。
書斎の鍵を、私は自分で閉めた。
父の代から使っているこの部屋は北向きで、冬は寒い。
今は春だから、ちょうどいい肌寒さがある。
壁際の本棚は、半分が領地経営の帳簿で埋まっている。
父が読まないものばかり。
「お嬢様、お呼びでございますか」
「ええ」
私は机の向こうから振り返った。
執事は扉のすぐ内側で立っている。
両手はいつものように後ろで組まれている。
表情はいつもと変わらない。
「一晩、考えました」
「はい」
「あなたは何者ですの」
最初に出てきた言葉はそれだった。
順序を整える余裕は私にもうなかった。
「十年仕えてくれた執事の身上で、なぜ私に求婚できると言い切れるの。お返事をいただく前に、それを聞かせて」
執事はわずかに目を伏せた。
「お嬢様の前で、お話しすべきことが、二つございます」
懐から、彼が二つの物を取り出した。
一つは革張りの古い証明書。
血統印が押されている。
私が幼い頃、父の書斎で似たものを見たことがある。
貴族家の血統を、王家が認めた書類。
もう一つは銀の小さな印章。
握り柄に、見覚えのない紋様が刻まれている。
私は最初の証明書から目を通した。
旧モンセラ侯爵家。
長子、ロディオン・モンセラ。
十年前の政変で、家督預かりとなった家。
息が一拍止まった。
「……これは」
「私の本来の姓でございます」
執事の声がいつもより少し低かった。
「十年前、貴族派の粛清を逃れた折、グレゴール公爵様にお願いをして、執事として住まわせていただきました。公爵様は、私の父の学院時代のご学友でいらっしゃいます」
私は父の顔を思い浮かべた。
あの方が十年も人を匿っていたとは想像していなかった。
いや、想像していなかったのではない。
父について、私はあまり考えてこなかったのだ。
「もう一つ、こちらは」
執事が銀の印章を卓に置いた。
「モンセラ商会の、会頭印でございます」
私は息を吸った。
王室御用達商会の筆頭。
王都の奢侈品市場の、たしか三割近くを動かしている。
婚約者であった殿下も大臣たちも、その名前は耳にしていた。
ただし、会頭の正体は誰も知らない。
そういう商会だ、というのが社交界の常識だった。
「あなたが……」
「副会頭以外、私の素性を知る者は商会内におりません。九年、そのように運営してまいりました」
九年。
旧侯爵家の長子が、十年前に身を隠し、九年前に商会を立ち上げた。
そのあいだ、ずっとうちの執事として、私の朝の茶を覚えていた。
私は椅子の背に手をかけた。
力を入れていないと、立ち姿が崩れそうだった。
「なぜ、今まで黙っていたの」
「政変の主犯が、いまだ王宮におります」
執事の答えは迷いがなかった。
「リシャール侯爵閣下」
その名前が出た瞬間、私は昨日の謁見の間を思い出した。
扉を抜ける際、私の指輪を見ていたあの方の、表情のない顔。
「殿下の後見人」
「はい」
「あの方が、あなたの家を」
「十年前、母と妹を奪われました」
執事はそれ以上を口にしなかった。
私はしばらく言葉を探した。
何を返すのが正しいのかは分からなかった。
ただ、お悔やみだけは違う気がした。
「あの方が王宮にいらっしゃる限り、あなたは正体を明かせない」
「その通りでございます」
「私との婚約が、あなたを危険にさらすのでは」
「お嬢様」
執事がわずかに口元をゆるめた。
「危険は、十年前から、私の隣に座っております」
それは執事の口から出る台詞ではなかった。
ただ、彼が十年前から私の隣に座って茶を出していたのも事実だった。
私は卓に置かれた血統証明書を、指先でそっと押し戻した。
「分かりましたわ」
息を整えて続けた。
「条件をひとつ、つけさせていただきます」
「どうぞ」
「契約結婚といたします。期限は一年」
執事の表情がわずかに動いた。
「そのあいだ、私はあなたを愛しているわけではないし、あなたも同じでしょう。一年が経ったとき、お互いに別の人を望むのなら、円満に離縁する。それでよろしいですか」
執事がその場に膝をついた。
「結構でございます」
短く答えて、それから続けた。
「ただし、一年後にお嬢様が別の方を望まれた時、私はもう一度求婚をいたします。それも、ご承諾ください」
私は答えなかった。
答えを保留したというより、ちょうどよい返事の言葉が見つからなかった。
返事の代わりに、私は窓の外を見た。
春の光が雲の影で陰っていた。
雨が来るのかもしれなかった。
昼前、私は中庭に出た。
書斎の空気が重かったから、というのは口実で、本当は一人で考えたいことがあった。
帽子を、私はうっかり室内に置いてきた。
最初に落ちたのは、髪に当たった一粒の冷たさだった。
顔を上げると、灰色の雲がもう低い位置まで降りてきていた。
引き返そうとした、その時に背中で足音が鳴った。
「お嬢様」
執事の声。
私が振り返るより早く、肩に何かが落ちた。
彼の上着だった。
私の髪と肩を布が覆う。
「執事の権限を、逸脱します」
私はわざと拗ねた言い方をした。
拗ねることは私の性格には合っていない。
ただ今日は、少しくらい逸脱してもいい気がしていた。
「もう執事ではないでしょう、あなたは」
「契約上は、まだ執事でございます」
返事の手堅さに私は思わず笑いそうになった。
笑わなかった。
代わりに、上着を肩で押さえて少し早足で屋敷へ戻った。
彼が半歩後ろをついて来る音がした。
父が王宮から帰ったのは夕方近かった。
玄関で出迎える前に、私は書斎で家督の鍵束を取り出した。
父の正面に立った時、その鍵束を、私は卓に置いた。
「お父様」
「ヴィオレッタ」
父の顔が昨日より少し疲れて見えた。
王宮で何があったのかは、おおよそ察しがついた。
昨日の私の振る舞いを、いま頃、誰かに皮肉られているはずだった。
「これより、家督経営は、私が代行いたします」
父が目を瞬いた。
「……お前が」
「七年前からです、お父様」
父はしばらく私の顔を見ていた。
何かを言おうと口を開けて、結局閉じた。
昨日、殿下が見せたのとよく似た顔だった。
ただ、父は最後にひとことだけ呟いた。
「俺は」
途中で止まった。
「俺は、お前に、多くを」
そこで父は深く息を吐いた。
続きは言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
私は何も返事をしなかった。
ただ、鍵束を卓の上に少し前へ押した。
父はそれを取らなかった。
取れなかったのだろう。
私は書斎を出た。
夕刻、屋敷に一通の招待状が届いた。
封蝋に、見たことのない紋様が刻まれている。
朝、書斎の卓に置かれた銀印章の紋に、よく似ていた。
差出人は、モンセラ商会副会頭。
明朝、本部へお越しください、と書かれていた。
私は一度、廊下の窓から外を見た。
雨が本降りになっていた。
招待状をもう一度読み返す。
差出人は副会頭。
彼の名ではない。
彼の名はまだ、表に出してはいけないのだった。
私は招待状を机の上に置いて、その上に手を重ねた。
封蝋の紋が、指先に少し冷たかった。
明日、私はあの人の素性を、もう半分だけ自分の目で確かめに行く。
そして、私の七年も、半分はあちら側にあった。
そのことに、私はようやく気づきはじめていた。




