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殿下、私の執事は貴方様より八つも年上でございますが、何か?  作者: 秋月 もみじ


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第1話 殿下、私の執事は貴方様より八つも年上でございますが、何か?


「君のような行き遅れの二十六歳より、十七歳のリリアのほうが妻に相応しい」


王宮の謁見の間で、五年間の婚約者がそう言ったのは、定例の春の公務報告が一区切りついた、ちょうど正午過ぎだった。


シャンデリアの影が、磨いた大理石の床に細く落ちている。

窓のひとつが、午前から開けっ放しなのだろう。

庭の木に止まった鳥の声が、場違いに澄んで聞こえた。


私は深く頷いた。


「左様にございますか」


声は思ったより落ち着いて出た。


クリストフ第一王太子殿下が片眉を上げる。

そのお顔の作りは、五年前に婚約した日と変わっていない。

変わったのは、隣で腕に絡みつく令嬢の顔だけ。


私の妹のリリア。


公的にはアンジェリカ・グレゴール公爵令嬢。

天使と呼ばれている、十七歳。


殿下の腕の上に乗ったその指の関節が勝ち誇って白く反っているのに、私は気づいた。

気づきたくはなかった。


会場の貴族たちが、一斉に息を呑む気配。

扇の動きが止まる音。

私を見ているのは分かる。

誰も声を出せていないのも分かる。


「ご明察にございます」


私は続けた。


「私は二十六歳でございますもの。お解消、謹んでお受けいたします」


殿下の眉の動きが止まった。


そういう反応をされるのは想定済みである。

五年間、私はこの方の隣で議事録の数字を確認し続けてきた。

ご自分の言葉に対する相手の反応を、後から考える癖があるのも知っている。


私は左の薬指から指輪を外した。


王家の借受品。

青い宝石が一粒。

意匠は美しいが爪が少し甘くて、たまに引っかかる。

ここ五年、それを内緒で直してくれていたのは屋敷の執事だった。

殿下ではない。


その指輪を目の前の卓にそっと置いた。


返却。

それだけで済む話。


「ただ」


ここで私はわずかに顔を上げた。


「年齢でお決めになるのでしたら、ひとつだけ、申し上げてもよろしゅうございますか」


「……なんだ」


殿下の声が、初めて少しだけ小さくなった。


私は微笑んだ。

たぶん、五年間で初めての本物の微笑みだった。


「私の執事は、貴方様より八つも年上でございますが、何か」


会場がどよめいた。


殿下が口を開けた。

そして閉じた。

何かを言おうとして、それが見つからない、という顔。


リリアが私を見た。

天使の微笑みが、わずかに崩れている。


国王陛下が片手を上げられた。

退出を許す合図。

私は深く頭を下げ、踵を返した。


謁見の間の扉を抜ける際、奥の壁際に立つお方の視線をふと感じた。


リシャール侯爵閣下。

殿下の後見人で、宰相補佐の重鎮。

五十路を過ぎても貴族派の中心にあり続ける、王国の裏向きの実力者。


その方が、私が指輪を置いた卓をじっと見ておられた。


なぜか、お顔に表情がなかった。


私は扉の向こうへ抜けた。


王宮を出ると、屋敷から迎えに上がった馬車が噴水の脇に控えていた。

御者ではなく、執事のロディオンが扉を開けて待っている。


「お早いお戻りでございましたね、お嬢様」


「ええ。少し、予定が変わりましたの」


私は乗り込んだ。

扉が閉まる。

馬車が動き出す。

車輪が石畳を踏む音が、間延びして耳に届いた。


向かいの席にロディオンが座る。

慣例ではない。

普段、彼は御者の隣に乗る。


何も言わずに、私は窓の外に目を逃がした。


街路樹の若葉が、ちょうど色を深めている季節。

五年前、婚約発表の馬車に乗ったのも今くらいの時期だった。

あの日も私は窓の外を見ていた気がする。

見ていた、というよりは見るふりをしていた、という方が正しい。


「お嬢様」


「なに」


「お手が、震えておいでです」


膝の上に置いた手を、私は見下ろした。


確かに震えている。


なぜと問われれば、たぶん悲しみではなかった。

怒りでもなかった。

五年分の何かが出口を間違えただけ。


ロディオンの手が伸びた。


主人の手に執事の手が触れる。

許されないことではないが、十年仕えていて初めての触れ方だった。


一礼の動きに見せかけて、彼の指が私の指を確かに絡めた。


私は彼の顔を見られなかった。

見たらもう一度、何かが崩れる気がしたから。


「お嬢様」


「……なに」


「僭越ながら、申し上げてもよろしいでしょうか」


私は頷くしかできなかった。


ロディオンが息を吸った。

それが妙に長くて、十年そばにいる男の息の癖を、私は今初めて意識した。


「私はお嬢様より、八つ年上の三十三歳でございますが」


馬車が揺れる。


「それでも、妻にしていただく自信がございます」


私は彼の手を強く握り返した。


それしかできなかった。


馬車の窓の向こうで、街路樹の若葉が流れていく。

彼の指は骨が固い。

剣を握ったことのある手だ。

執事の手ではない。

そう思った瞬間に、ようやく私は彼の方を見た。


ロディオンはまっすぐ私を見ていた。


五年前の婚約発表の夜、彼が屋敷の裏庭にひとりで立っていたのを、私は窓から見たことがある。

長い時間、彼はそこに立っていた。

あれは何だったのか、当時の私は深く考えなかった。


ふと思い出すまで、忘れていた。


「お返事は」


ロディオンが静かに続けた。


「明朝で、構いません」


屋敷の門前で、馬車が止まる。


御者が降り、扉に手をかけた。

ロディオンが先に降りて、私の手を取る。

動作の手順は十年と変わらない。


ただ、彼が私の手を離そうとした、その間がほんの少し長かった。


私は玄関へ歩く前に立ち止まった。


「ロディオン」


「はい」


「お返事は、明朝でなくて結構ですわ」


彼の手が止まった。


「……お嬢様」


「いま、いただきます」


風が一度、屋敷の庭の若葉を揺らした。

門柱の影に午後の光が斜めに入っている。


「お受けします」


私はそう言って、それから少しだけ笑った。


笑い方を間違えたかもしれない。

五年ぶりに本気で人に何かを言ったから、加減を忘れていた。


ロディオンが目を伏せた。

睫毛が、思ったよりも長かった。


「……かしこまりました」


短い返事だった。


それから彼はもう一度、私の手の甲に唇を寄せた。

執事として、十年やってきた仕草。

ただ、今日のそれは、たぶん最後の一回。


明日からは別の意味になる。


そのことを私たちは口に出して確認しなかった。


王宮の卓に置いてきた指輪のことを、ふと思い出した。


あれは五年間、なんだったのだろう。


屋敷の扉が、内側から開く。


「お嬢様、お早いお戻りで……」


家令の声が途中で止まった。


私と、ロディオンと、私たちのまだほどけていない手を。


家令は賢明にも、何も言わずに頭を下げた。


私は門をくぐった。


ふと、王宮を出る間際の、リシャール侯爵閣下の顔がもう一度脳裏をかすめた。


なぜ、あの方は表情を消されていたのだろう。


夕刻の光は、まだ遠い。

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