一章8 「残り三日」
冒険者ギルドの地下深くにある資料室は、カビと古びた羊皮紙の匂いが立ち込めていた。
壁に掛けられた魔導ランプの橙色の光が、揺らめく影を壁面に投じている。その無数の古文書が整然と並ぶ無垢材のテーブルを囲み、僕たちは重苦しい静寂の中にいた。
「……これが、北の空から近づいている『天穿の星鯨』の記録よ」
シーナさんが真っ青な顔で差し出した古本には、羊皮紙一面に細密なタッチで描かれた絶望の光景があった。
雲を切り裂いて悠然と空を泳ぐ巨大な鯨の影。そして、その影の下でまるで玩具のように押し潰され、粉々になって崩壊していく牙城の如き都市の挿絵。
【傲慢】――天穿の星鯨。
空そのものを領域として泳ぎ、周囲の大気を過酷なまでに凍結させながら移動する天災級魔獣。その尋常ならざる巨体が降来させる強大な圧力と暴風は、刃を振るうまでもなく、地上にあるあらゆる建造物と命を破滅へと追いやるという。
「前兆である……『塩の匂いを含んだ冷たい風』と『群青の渦雲』が観測されてから、本都市の真上を通過し、すべてを消滅させるまでの猶予は……あと七十二時間。正確に【三日】です」
シーナさんの声は途中でかすれ、かすかに震えていた。
「ふざけんな……! 俺たちは昨日、やっとの思いであの恐ろしい森を抜けて、この街にたどり着いたばかりだぞ!? なんでそんなおとぎ話に出てくるような化け物が、俺たちの頭上に降ってこなきゃいけないんだよ!」
テオが激しくテーブルを叩き、悔しそうに歯を食いしばる。テーブルの上の魔導ランプが大きく揺れた。
「テオ、落ち着いて」
アリアが静かに、しかしどこか震える声でテオの肩を制した。そして、彼女の深みのある緑色の瞳が、まっすぐに僕へと向けられる。
「……ねえ、レン。あなた、さっき街の街道で空の異変を見た時、迷わずギルドへ戻って調べようって言ったわよね。もしかして、何か嫌な予感がしていたの……?」
ボルドの鋭い視線、テオの困惑した顔、そしてシーナさんの見守る眼差しが一斉に僕に集まる。
(死のログがある、なんて言えるわけがない……)
僕は胸の奥で渦巻く冷たい記憶を押し殺し、自分のこめかみを軽く指差した。
「……はっきりとした理由は分からない。でも」
僕は慎重に言葉を選びながら紡いだ。
「あの不気味な雲と影を見た瞬間、背筋が凍りつくような悪寒がしたんだ。このまま何もせずにいたら、街も、僕たちも、全員が一瞬で押し潰されて消えてなくなる……そういう最悪の結末を、僕の直感が強く警告していたんだよ」
予知能力めいた不気味な物言いだと言われてもおかしくなかった。けれど、アリアたちはあの危険極まりない『深緑の森』で、僕が魔狼の群れを先回りし、完璧な指示で全滅を回避させた実績を身をもって知っている。
「……レンがそこまで真剣な顔で言うなら、間違いねえよ」
ボルドが丸太のような腕を組み、重々しい息を吐き出した。
「あの日、森の仕掛けを完璧に当てて俺たちの命を拾ってくれたのはお前だ。あの空の化け物が本当の天災だって言うんなら、俺たちはどう動けばいい? 迎撃するのか、それとも今すぐ街を捨てて逃げるのか?」
「……街を捨てる? どこへ逃げるっていうんだ」
僕は静かに首を横に振った。
「あいつは広大な空を渡る怪物だ。この街から南へ走って逃げたところで、空を滑る星鯨の進路から逃げ切れる保証はない。どちらにせよ、あいつがこの街の真上を通るなら、僕たちは逃走の途中で巻き込まれて押し潰される」
「じゃあ……戦うのか? あんな山みたいにでかいクジラと、人間の手で……!?」
テオが眉をひそめ、正気を疑うように吐き捨てた。
正論だ。正面から武器を構えてぶつかれば、攻撃すら届かずに踏み潰されて終わる。魔法も武力もない一般人の僕には、あいつを一刀両断するような英雄的な力なんて何一つない。
だけど――僕の手元には『記録』と『観察眼』がある。
「正面から戦うんじゃない。『罠に嵌めて封じ込める』んだ」
僕はテーブルの上に広げられたリュート街の精細な羊皮紙の全体図を引き寄せ、羊皮紙の真ん中に指で一本の直線を描いた。
「残り時間は七十二時間。諦めてただ絶望を待つか、それとも僕たちの手で可能性をこじ開けるか……答えは決まってるだろ?」
*
その言葉を皮切りに、僕たちの防衛準備が始まった。
作戦を進める上で一番重要なのは、役割分担と確実な動線の確保だ。
「アリア、ボルド、テオ。やることは分かってるね?」
「おう! ギルドの連中や防衛部隊への根回しは俺とボルドの仕事だな。新人の俺たちの言うことをいきなり信じる奴は少ないだろうが、『百眼の魔狼を退けた赤き一閃』の名と、レンが算出した防壁の構造データを突きつければ、衛兵隊長も無駄口を叩かずに耳を傾けるはずだ!」
テオが羊皮紙の写しを大事そうに懐へ収め、力強く頷く。
「アリアは?」
「私は街の北側……防壁の上にある『対空用の大型魔導砲』の点検ね。発射用の魔石の在庫と、滑車や弦の状態を一つ残らず確かめてくるわ。レンが後でどんな狙い方を指示してくれてもすぐ調整できるよう、頑固な軍属の職人さんにも絶対に掛け合ってみせる!」
アリアが赤い髪を揺らし、頼もしい笑みを浮かべた。
特別な力の何一つない僕の言葉を、みんなが一切の疑いもなく信じ、命を預けて走ろうとしてくれている。彼ら一人一人の行動力と強い信頼こそが、僕の脳内にある抽象的な作戦を、現実の『防衛計画』へと変える唯一の希望だった。
そして、僕自身の仕事は、この木上都市リュートの地理と構造を完璧に把握し、星鯨の進行ルート上にあるわずかな『隙』を見つけ出すことだった。
ギルドから借り受けた街の構造図面を広げ、街中を張り巡らされた巨大な木製跳ね橋、石造りの防壁の耐久値、風の抜け道を徹底的に調査した。
初日の調査と各所への根回しを終え、夜の帳がしんしんと下りる頃。僕たちはリュート街で最も高い東側の見張り塔の最上階に立っていた。
木造の欄干越しに外を見上げれば、昼間よりも明らかに群青色の濁った雲が低く垂れ込め、街全体を冷たくぬめりとした潮の匂いが覆い尽くしている。
ヒュゥゥ、と夜風が吹くたび、皮膚がピリピリと麻痺するような冷気が頬を撫でる。星鯨が放つ圧倒的な
冷気と異常な気圧の歪みが、刻一刻とこの街へと近づいている証拠だった。
残された時間は、もう四十八時間を切ろうとしている。
「……ふう」
僕は寒さに身を縮めながら、制服のポケットから画面のバグったスマートフォンを取り出した。
ディスプレイには相変わらず意味をなさないノイズが走っているだけで、電波も届かなければ、便利なチート機能が立ち上がるわけでもない。ただの冷たいガラスと金属の塊――異世界への持ち込み品に過ぎない。
だけど、この無機質な冷たさを手に感じていると、あの過酷な森での記憶――油断すれば一瞬で全員が死に追いやられるという痛烈な現実が、僕の頭脳を冷徹なまでに冴えわたらせてくれた。
(力や魔法が僕になくたっていい。どれほど理不尽な天災であっても、現象である以上、そこには必ず物理的な『法則』と『隙』が存在するはずだ)
星鯨がこの都市の真上に到達した時、その巨大な質量と冷気が何を引き起こすのか。
防壁のどの位置に負荷がかかり、どの瞬間にあいつの体勢が崩れるのか。
すべての要素を計算し、アリアたちが準備してくれるすべてのピースを、狂いなく完璧なタイミングで噛み合わせる。
「……最初の難所。絶対に、全員生還させてみせる」
遥か北の空の闇から、地鳴りのような鯨の長鳴きが低く重く響いてきた。
迫り来る圧倒的な天災に対し、無力な高校生が紡ぐ反撃の設計図は、いま静かに動き出そうとしていた。
「……行こう」
ポケットの中でスマホを強く握りしめ、僕は見張り塔の冷たい風の中を振り返った。
残された時間は、あと四十八時間。
空を覆う天災の脅威に立ち向かい、全員で生き残るための過酷な三日間が、いよいよ幕を開ける――。
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