一章9 「氷結の予兆」
北の空から降り降りてくる冷気は、刻一刻と樹上都市リュートの熱を奪っていた。
息を吐けば白く濁り、街道を走る人々や行商人の肌を鋭く刺す。昼間だというのに太陽の光はすりガラスを通したように暗く鈍く、街全体には得体の知れない不穏な気配と動揺が、目に見えない毒のようにじわじわと広がり始めていた。
「おい、新参の冒険者ども! 責任者を呼んでこい!」
北側防壁の広場に、腹の底から響くような怒号が轟いた。
僕とアリアが急ぎ足で駆けつけると、そこには頑丈な鉄の胸当てを着けた大柄な男――北防壁の防衛責任者であるバルト隊長が、眉間に深いシワを寄せて立ち塞がっていた。その背後には、長い年月放置され、錆と埃にまみれた手入れ不足の対空大型魔導砲が、まるで打ち捨てられた巨獣のように重々しく鎮座している。
「あ、レン……! 入らせてもらえないの……!」
アリアが困惑と焦りの混じった表情で振り返る。
「シーナさんから、冒険者ギルドとしての正式な協力要請書は渡っているはずですが……」
僕が努めて静かな声で尋ねると、バルト隊長は鼻で重く笑い、手にしていた羊皮紙の書状を容赦なく石畳の地面へ投げ捨てた。
「ギルドの古いおとぎ話だか何だ知らんがな! 空の雲が少々怪しいからと言って、配下の兵を動かして全バリスタの点検だの、固定金具の解体調整だのを行えるか! 明日は領主様の直属察査官による巡視があるんだ。無駄な作業で兵士を徒に疲弊させるわけにはいかんのだよ!」
「無駄じゃありません!」
アリアが強い足取りで一歩前に出、バルト隊長を真っ直ぐに見据えて言い返した。
「あと二日もしないうちに、あの空から街を跡形もなく押し潰すほどの天災が来るんです! 今のうちに滑車やギアの固着を外し、可動域を確保しておかないと、いざという時に狙いすらつけられなくなります!」
「ハッ、駆け出しの娘っこがでかい口を叩くな! 魔狼の数匹を運良く追い払った程度の青二才どもが、防衛の専門家である俺たち衛兵隊に口出しするんじゃねえ!」
周囲にいた衛兵たちから、嘲弄混じりの下品な笑いが伝染するように広がる。
テオが激昂して拳を強く握りしめ、ボルドが巨大な斧の柄に手をかけて前に出ようとしたが、僕は静かに手を出して二人を制した。
感情的になって争うのが一番のタイムロスだ。相手は「前例のない天災」という未知を恐れて直視したくないだけであり、彼らの立場を守る合理的な理由と利害の一致さえ提示できれば、人間は必ず動く。
「バルト隊長。固定金具の解体ではなく……『有事を想定した臨時構造点検』という名目に変更しませんか」
僕は地面に落ちた書状を静かに拾い上げ、手払いで砂を落としてから再提示した。
「明日、領主様の巡視があるなら尚更です。もし巡視の最中に空の異常現象が激化し、防護兵器の点検不備や動作不良が明るみに出れば、真っ先に厳しく責任を問われるのは隊長ご自身ではありませんか?」
「……なんだと?」
バルト隊長の鋭い視線が僕に刺さる。
「僕たち冒険者パーティが無償で全対空大型魔導砲の整備と油挿し、可動部の調整を手伝います。もちろん、本日の作業成果はすべて『バルト隊長指揮下の防衛兵力による未然の功績』として報告していただいて構いません。僕たちが求めているのはただ一つ……後でどんな高度や角度から敵が来ても、即座に対応できるよう『照準の稼働域が確保された状態』にしておくことだけです」
バルト隊長の太い眉がぴくりと動いた。自分の立場と名誉を完璧に守りつつ、一切のコストなしで兵の作業量を補える条件。
「……ちっ、口ばかり達者なガキだ。いいか、日没までに終わらせろ。少しでも防壁や兵器を傷つけてみろ、即刻投獄して叩き出すからな!」
「柔軟なご決断、感謝いたします」
すれ違いざまに吐き捨てられた捨て台詞を意に介さず聞き流し、僕はすぐさま巨大な対空大型魔導砲の脚部へと駆け寄った。
*
そこからの作業は、まさに時間との苛烈な戦いだった。
アリアが手際よく魔力伝導路の傷を魔法塗料で修復し、ボルドが持ち前の規格外の怪力で何年も固着していた巨大な金属ギアを強引に回し、テオが狭い隙間に潜り込んで滑車へ高潤滑の油を注入していく。
「レン! 照準の基本位置はどうセットしておくの? まだクジラがどの高さからどんな軌道で突っ込んでくるのか、正確には分からないんでしょ?」
アリアが額の汗を袖で拭いながら、真剣な眼差しで尋ねてくる。
「ああ。現時点では高度も風速も正確な値は確定できない。だからこそ、上下三十度、左右四十度まで滑らかに動く『稼働域の開放』が最優先なんだ。角度の最終決定は、限界ギリギリまでデータを取り切った後に行う」
僕はポケットからスマホを取り出し、その冷たい手触りを感じながら頭の中で膨大な計算を回した。
星鯨がこの街の真上を通過する際、大気の屈折と過酷な冷気によって強烈な下降気流が発生する。高度が未確定であっても、樹上都市の地形風と気圧変化のパターンから「進入可能な最低高度」の限界線は確実に弾き出せるはずだ。
(……高度およそ八百メートル。通過予定時刻まで、あと四十四時間……)
その時だった。
ふと見上げた北の空の雲が、まるで生き物のように不気味にぐにゃりと歪んだ。
直後、強烈な潮の匂いが突風と共に吹き荒れ、防壁に取り付けられた鋼鉄の金具が一斉に『キィィィン!』と悲鳴のような甲高い音を立てて凍りついていく。
「ひっ……!? な、何だ今の音……!?」
「手、手が……金属にくっついて離れねえ……!?」
作業を行っていた周囲の衛兵たちが、急激な超低温に青ざめて悲鳴を上げ、後ずさった。
「落ち着け! 来たんだ……前兆の第二波だ!」
星鯨はただ空を移動しているだけではない。その周囲に展開する広大な『極冷の領域』を広げながら、刻一刻とこのリュート街を呑み込みつつあったのだ。
防壁の兵士たちの顔から余裕が消え、いよいよ本物の死の恐怖が感染症のように伝染し始める。
「みんな、作業の手を止めるな!」
僕の鋭い切破の声に、アリアたちが弾かれたように意識を取り戻し、凍える手で工具を握り直す。
「最初の障害は越えた。だけど本当の試練はここからだ……絶対に、この手で防衛線を完成させるぞ!」
冷たく狂おしい風が吹き荒れる中、僕たちの泥臭い準備作業は二日目の夜に向けてさらに熱を帯びていった。
だが――僕はこの時、まだ気づいていなかったのだ。
準備がどれほど完璧に進もうと、人間の『裏切り』と『恐怖』という不確定要素が、この防衛計画の足元を根底から突き崩しに来るということを。
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