一章10 「蠢く暗雲と強欲」
北側防壁に取り付けられた巨大な対空大型魔道砲の基礎調整を終えた僕たちは、夜通しで街の主要な連絡路や補助魔力線の点検に奔走していた。
空の色はすでに鉄色からドス黒い群青へと変貌を遂げ、街の木造建築や石畳を覆う冷気は、呼吸をするだけで肺の奥が焼けるように痛むほどに研ぎ澄まされている。
樹上都市リュートを支える巨大な大樹の樹皮ですら、凍てつく突風にしなってギチギチと不気味な悲鳴を上げていた。
「レン、北西の第3観測塔から緊急連絡よ!」
アリアが夜風を切り裂くように走って戻ってきた。
その美しい頬は極度の寒さと不眠の疲労で痛々しく赤く染まっているが、その深い緑色の瞳には一歩も引かない強い意志の光が宿っていた。
「観測塔の魔導計器が、見たこともないような異常魔力反応を捉えたわ。星鯨の進路……そこから這いずるように伸びる『極冷の領域』の先端が、すでに街の外壁から十五キロの地点にまで到達しているって!」
「……予定より、少し早いな」
僕は凍える指先でペンを強く握り直し、手元の羊皮紙のチャートに新たな時間修正値を書き込んだ。
北の空を見上げれば、群青色の濁った雲がまるで渦を巻く巨大な口のように広がっている。
残り時間は、あと二十四時間。
空そのものを領域として泳ぐあの巨大な天災が、この樹上都市リュートの真上を通過し、すべてを凍結・粉砕するまで、もはや一刻の猶予も残されていない。
「ボルドとテオの様子はどうだ?」
「ボルドは南側の住民避難ルートの最終確認を行ってる。下層の住民たちは『急な冷え込みだ』とパニックになりかけているけれど、ボルドが大声で誘導してくれているおかげで、なんとか混乱を抑え込めているわ。テオは防壁下層の補助魔法陣の刻印増強を手伝ってる。……手は血とにじんだ油でボロボロなのに、『レンが弾き出した数値なら間違いねえ』って笑いながら作業を続けてるわ」
「そうか……みんな、本当に助かるよ」
アリアの言葉を聞きながら、僕は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
特別な武力も魔法も持たない高校生の僕が導き出した、泥臭く緻密な生存戦略。
誰もが極限の疲労と底冷えする寒さに震えながらも、僕の言葉を心から信じ、自分の役割を全うするために命を削って動いてくれている。
彼ら一人一人の人間としての粘り強さこそが、理不尽な天災を覆すための唯一無二のピースだった。
「さっきから手のひらの上で、見慣れない薄い護符をずっと握りしめているでしょう?」
「大丈夫だよ、アリア。僕の仕事は、この作戦の歯車が一つでも狂わないように監視し続けることだからね」
僕は制服のポケットの中にある冷たいガラスの感覚に意識を向け、思考を冴え渡らせた。
気流の乱れ、防壁の強度、大型魔道砲の発射角度、そして街の構造材にかかる物理的な負荷――すべてのパラメータが、僕の頭の中に構築された立体図面の上で刻一刻と変化している。
すべてが、狂いのない完璧な歯車のように順調にかみ合っているはずだった。
あの男が、陰鬱な気気と数人の兵士を引き連れて、地下資料室の階段を足音荒く下りてくるまでは。
「おいおい、新参の青二才ども。随分と熱心にコソコソやってるじゃねえか」
背後からかけられた、ねっとりと低く不快な声に、僕は走らせていたペンを止めた。
振り返ると、そこに立っていたのは衛兵隊の副官を務める男――ガザルだった。
バルト隊長の側近であり、昨日から僕たちの防壁整備を最も嫌な顔で見下し、陰でせせら笑っていた男だ。
その背後には、槍を携えた自警騎士団の精鋭兵が四人、威圧するように控えている。
「……何の用ですか、ガザル副官。今は星鯨の接近に伴う最終防衛ラインの構築で、一秒すら惜しい状況なんですが」
僕が努めて静かに尋ねると、ガザルはせせら笑いながら顎をしゃくった。
「忙しいのはこっちも同じだ。だがねぇ……お前らが勝手に進めているその『防衛計画』とかいう怪しげな代物、上に正式な報告を通したら、今ごろ騎士団の上層部ですごい大問題になってるのさ」
ガザルは不敵で浅ましい笑みを浮かべ、懐から一枚の重々しい封書を取り出した。
その封蝋には、この街の治安と行政権を一手に握る自警騎士団の紋章が刻印されている。
「自警騎士団長様がこう仰ってたぜ。『正体不明のよそ者の冒険者が、勝手に防壁の防衛兵器や魔導陣をいじり回している。これは重大な密謀であり、テロの温床になりかねん。今すぐ全ての作業を停止させ、関わった者を即座に拘束・尋問しろ』ってな」
アリアの顔色が一瞬で真っ白になり、息を呑んだ。
「なっ……! そんな馬鹿な話があるか! 私たちはこの街と住民を全員守るために、寝る間も惜しんで……!」
「黙れ、身知らずの赤毛の娘。お前らがやっているのは、ただの許可なき独断専行の工作活動だ。騎士団の法に照らせば即刻投獄ものなんだよ」
ガザルは楽しむようにアリアの狼狽を見つめると、ゆっくりと歩み寄り、僕の手元にある羊皮紙の束。
全作戦の要である図面とチャートへ泥ついた視線を這わせた。
「……だがまあ、俺も鬼じゃない。話の聞き分け次第で『見逃してやる』こともできなくはないがね」
「聞き分け……ですか」
「ああ」
ガザルは卑しい笑みを深め、顔を近づけて低く囁いた。
「お前が持っているその『街の全構造データと罠の配置図』の原典、それから今後の整備手順を記した全資料を、今ここで俺に渡せ。
そうすれば、騎士団への報告は『我が部隊の指導のもとで行わせた過剰な自主訓練』として処理し、見逃してやる」
――あまりにも私利私欲に満ちた、汚く卑劣な脅迫。
ガザルの狙いは最初から明白だった。
天災の恐怖に怯えながらも、僕たちが作り上げた防壁の補強成果や最新の魔力伝導路の技術を見て、「これは使える」と踏んだのだ。
ギルドの知恵と僕の計算が詰まった資料を力ずくで横取りし、自衛騎士団と自分の手柄として領主へ提出することで、莫大な金と昇進を手に入れようとしている。
世界が崩壊するかもしれない瀬戸際だというのに、目の前の男が見ているのは「自分の評価」と「手柄」、そして「利権」だけだった。
人間の醜い強欲さは、いつだって最悪のタイミングで脚を引っ張り、積み上げた努力を根底から破壊しにやってくる。
「断ったら……どうなるんですか?」
僕が感情を押し殺した声で問うと、ガザルは待ってましたとばかりに下品な笑みを弾けさせた。
「簡単な話だ。即座にお前たち全員を『兵器損壊および反逆の容疑者』として地下牢へ叩き込む。作業途中の大型魔道砲も全て元の固定状態に戻させてもらうぜ。……まあ、大人しく図面を置いて街から逃げ出すなら、命だけは助けてやるがな?」
アリアは激しい怒りと絶望で拳を強く握り締め、爪が皮膚に食い込んで血が滲んでいた。
(ここでデータを取り上げられ、僕たちが拘束されたら……明日すべての罠が機能不全に陥り、リュート街は星鯨の一撃で跡形もなく消滅する……!)
吹き抜ける冷たい夜風の中で、僕の脳裏に最悪のバッドエンドの残響が恐ろしい真実味を帯びて過った。
だが――僕の胸の中にあったのは、焦りでも恐怖でもなかった。
(……浅い。あまりにも浅すぎる)
僕の思考は、ガザルが突きつけてきたこの愚かな脅迫を完全に分析し、逆手に取って詰みへと追い込むための「最適解」を、すでに静かに導き出していたのだった――。
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