一章11 「詰碁の盤上」
僕は怯える素振りすら見えず、静かに口角を上げて一歩前へ踏み出した。
「……あ?」
ガザルが不敵に歪めた笑みを貼り付けたまま、わずかに眉をひそめる。
薄暗い地下資料室の冷たい空気のなか、彼が手元で弄んでいた自警騎士団の封蝋付き書状が、わずかに揺れた。
目の前の華奢な少年が、命を脅かされながらも微塵も動揺していないことに、動物的な勘で異質さを感じ取ったのだろう。
「ガザル副官。一つお聞きしたいんですが」
「なんだ、まだ命乞いか?」
「いいえ。騎士団長へ差し出すその報告書、もう書き終えているんですよね? 『冒険者ギルドの持ち込んだ図面を元に、我が自警騎士団が防衛網を完璧に改修した』という体裁でね」
「チッ、察しがいいじゃねえか。だったら話は早――」
「早くないですよ。……あなた方は、自ら致命的な罠に足を踏み入れている」
僕の低く静かな声に、ガザルは鼻で笑うように息を吐いた。
「罠……だと? 虚勢を張るなよ小僧」
「虚勢じゃありません。僕たちが昨日整備した北防壁の大型魔導砲と、下層の補助魔力線。あれは単体で機能する兵器じゃないんです。『星鯨がもたらす極冷の下降気流』によって生じる、大気圧の急激な変動と過酷な低温を前提に組んだ特殊な増幅構造です」
僕は手にしていた羊皮紙の図面をさっと広げ、ガザルと後ろに控える兵士たちに見えるように指で示した。
「もし星鯨が来ない単なる誤報だった場合――あなたが『自分の功績』として報告したあの魔力増幅線は、明日の領主様の巡視の際、通常の魔力負荷に耐えきれずに防壁の基底部ごと暴走・大爆発を起こします」
「な……っ!? 出まかせを並べ立てやがって……!」
「出まかせじゃありませんよ。ボルドが力技で噛み合わせたメインギアの固定角、ご覧になりましたか? あそこは常時、正確な周期で冷気魔導具による冷却を続けなければ、摩擦熱と構造負荷で数時間以内に軸が焼き切れる設計になっています。……僕の『指示書』と『連続冷却のタイムチャート』がなければ、今夜中に防壁のバリスタは完全に沈黙し、修復不可能な壊れ損になります」
「っ……!?」
ガザルの顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
専門知識のない彼らが「手柄」だけを奪おうとしても、僕が仕掛けた精巧かつ綱渡りのような物理・魔力パラメータの維持管理は、僕自身にしかコントロールできない。手柄ごと横取りしようとした瞬間、その「手柄」は即座に自分たちの首を絞め殺す猛毒へと変貌するのだ。
「さらに言えば」
僕はガザルの目前まで歩み寄り、青ざめた彼の耳元で冷ややかに囁いた。
「もし本当に星鯨が来たら……図面だけ奪って僕たちを地下牢に入れたあなたは、防衛に失敗してリュート街ごと押し潰され、最初に死ぬことになります。逆に星鯨が来なかったら、防衛兵器を破壊した責任を問われて自警騎士団長諸共、処刑台行きだ」
「ひ……っ」
「どちらに転んでも、僕たちの計画を横取りした時点で、あなたの破滅は確定しているんですよ、ガザル副官」
ゴクリと、ガザルの喉が大きく鳴った。
額から噴き出した冷や汗が、夜の激しい冷気に晒されて白く凍りついていく。
力も魔法もない僕が戦う手段は、剣を振るうことじゃない。
相手の欲望と無知を利用し、己の仕掛けた言動の罠へと自発的に飛び込ませること――これこそが、僕の戦術だった。
「……な、なら、どうしろってんだ……!」
震える声で尋ねるガザルに、僕はポケットから一筆書き添えた羊皮紙を取り出し、彼の胸元へ押し付けた。
「簡単です。報告書はこう書き換えてください。『自警騎士団は、過酷な天災に備え、優秀な民間冒険者パーティを直属の特命防衛隊として雇用・全面バックアップしている』と」
「……何?」
「功績の半分は騎士団にあげます。予算も、名誉も、領主様からの評価も全てあなたのものです。その代わり――残り二十四時間、僕たちの指示に自警騎士団と衛兵隊の全戦力を従わせてください。……これなら、あなたも街を守った英雄になれますよ?」
ガザルは手渡された紙と僕の顔を交互に見比べ、ハァハァと荒い息を吐いた。
恐怖と欲。二つの感情が激しく葛藤した末――彼はガタガタと震える手で、その書状を力任せに握りしめた。
「……わ、分かった。騎士団長には……俺から上手く伝えてやる。その代わり、本当に街を守ってみせろよ……!」
捨てゼリフを残し、逃げるように兵を引き連れて去っていくガザルの背中を見送りながら、アリアはほうっと溜め込んでいた息を吐き出した。
「……すごいわ、レン。あんな横暴な相手を、言葉だけで完全に丸め込んじゃうなんて……」
「丸め込んだわけじゃないよ」
僕は地下資料室の低い天井を見上げ、小さく息を吐き出す。
「ただ、彼にとっても一番生き残る確率が高い道を選ばせただけだ」
内部の障害はこれで取り除いた。自警騎士団という最大の戦力も、名目上はこちらの管理下に置いた。
地下資料室を出て石造りの階段を駆け上がり、地上へと足を踏み出すと、夜の冷たい外気が一気に肌を刺した。
僕たちはそのまま、急ピッチで最終防衛の準備が進む北防壁の最上部へと向かった。
ガザルが回した衛兵たちが、僕の差し出した指示書に従って慌ただしく物資を運び込んでいる。
重たい金属の擦れ合う音と、兵士たちの怒号が入り混じるなか、ボルドが大型魔導砲の固定脚を叩き締めながら声を上げて笑った。
「ガハハ! おいレン、あの威張り腐ってた副官の顔見たか? まるで腐った果実を噛み潰したような顔して逃げていきやがったぜ!」
「笑い事じゃないわよボルド。でも……本当に自警団の戦力を丸ごと動かせるようになったのは大きいわね」
アリアは細剣の鞘を確かめながら、防壁の隙間から暗闇の広がる北の空を見つめている。その表情には、まだ消えない緊張と不安が陰りを落としていた。
「ねえ、レン。本当に……来るのよね? あの伝承通りの化け物が」
「ああ。大気の冷気密度、そして魔力圧の異常値上昇……計算通りなら、あと三時間もしないうちに、リュート街の真上へと到達する」
僕は胸元の冷たい薄板の手触りを確認し、頭脳に構築された防衛シミュレーションの最終確認を行う。
北防壁に配置した大型魔導砲四基。
街の周縁部に張り巡らせた、熱素反応を利用した対空集光陣。
そして、ガザルたち騎士団を配置した第一遊撃隊による、落石および迎撃用魔導砲の連続投射。
僕が思いつく限りの「数値的に正解」と言える防衛陣形はすべて組み上げた。兵力、物資、地形、環境パラメータ――持てる手札はすべて盤上に並べ終えている。
(これで防ぎきれるはずだ。……いや、防ぎきらなきゃいけない)
夜空を覆う雲が、急速に群青色から禍々しい紫黒色へと変色していく。
風が止んだ。
生き物たちの鳴き声も、街の喧騒も、すべてが氷つくような静寂に呑まれていく。
リュート街の全住民が避難施設へと押し込められ、静まり返った街の上空で、いよいよその「災厄」が産声を上げようとしていた。
ゴオン――――……。
大気を、世界そのものを震わせるような、深く低い地鳴りのような鳴き声が空から降り注ぐ。
雲を突き破り、現れたのは――街ひとつを軽々と覆い尽くすほど巨大な、青白い凍気を纏った圧倒的な巨躯。
『天穿の星鯨』
すべての生存を賭けた、僕たちの最初の決戦が、ついに幕を開けた。
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