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一章7 「石畳の街と不穏な雲」

朝日が、木上都市『リュート』の赤茶色の屋根々々を柔らかく照らし出していた。

湿り気を含んだ朝の風が、窓枠を抜けて部屋のカーテンを静かに揺らす。ベッドの上で目を覚ました僕――神代蓮は、まず自分の両手のひらをじっと見つめた。


皮膚の感触があり、血が通い、身体が温かい。


……生きている。


あの過酷な森で引き裂かれた悪夢の残影を、僕はそっと握り拳を作って振り払った。


「……よし」


小さく息を吐き出し、ベッドから起き上がって制服のシャツに袖を通す。あの日、突然異世界に飛ばされてから着続けている制服は、宿屋の女将さんが綺麗に洗濯してくれていたおかげで、泥汚れはすっかり落ちていた。


一階の酒場兼食堂へ下りると、すでに香ばしい焼き立てのパンと香草の香りが漂っていた。


「あ、レン! おはよう!」


真っ先に気づいて手を振ってくれたのは、アリアだった。


朝日を浴びて燃えるような赤髪がきらきらと輝いている。彼女は昨日までの泥まみれの軽鎧ではなく、シンプルな白いブラウスに革のパンツという私服姿だった。


「おはよう、アリア。みんな早いね」


「おう、レン! ぐっすり眠れたか?」


丸テーブルの奥で、ボルドが豪快に笑いながら、焼き立ての丸パンに蜂蜜のような黄金色のシロップをたっぷり塗って口に放り込んでいた。その横では、テオが眠そうに目をこすりながらスープをスプーンで掬っている。


「あんな死ぬ気で走ったの、冒険者になって以来初めてだぜ」


「ふふ、テオったら、部屋に入って5分でイビキかいてたもんね」


軽口を叩き合いながら笑う三人。


その笑い声を聞きながら、僕は胸の奥で静かに息を吐いた。


あの冷たくなってしまった手も、血に染まった髪も、今は嘘のように温かく僕の隣にある。


(僕が……この手で守りきれたんだ)


胸の奥から込み上げてくる熱いものを押し殺し、僕も彼らの向かいの席に腰掛けた。


「さて! 朝ご飯を食べ終わったら、約束通り冒険者ギルドへ行くわよ!」


アリアがパンを一口かじり、緑色の瞳を輝かせながら言った。


「レンの正式なパーティ登録と、それから……あの森の『百眼の魔狼(ガルム)』を撃退した報告ね!」


「討伐、と言っていいのかな。僕たちはあいつらを足止めして逃げてきただけだけど……」


「バカ言え、レン!」


ボルドがテーブルをドンと叩いて身を乗り出した。

「あの『深緑の森』の魔狼(ガルム)だぞ!? ベテランのBランクパーティですら、遭遇したら半数が全滅して帰ってくるっていう悪名高い連中だ。それを怪我人ゼロで手傷を負わせて撒いてきたんだ。立派な戦功だよ!」


「ボルドの言う通りだよ。胸を張りなよ、レン。あなたは私たちの命の恩人なんだから」


アリアが優しく微笑みかけてくれる。今こうして生きている彼らの温もりだけは、間違いなく本物だった。


      *


食事が終わり、僕たちは宿屋『眠り猫亭』を後にして、街の中央通りへと向かった。


木上都市『リュート』の街並みは、建物の多くが太い木材と赤茶色のレンガで建てられており、街の中央には石畳の広い街道が伸びていた。活気あふれる商人たちの呼び込みの声。馬車がパカパカと蹄の音を立てて通り過ぎる。


「すごいな……こんなに人がたくさんいるんだ」


「ふふ、リュートは森と街道の節目にある大きな街だからね。ギルドの本部もあるし、商人もたくさん集まるの。記憶が曖昧なら、何でも聞いてね!」


アリアが僕の隣に並んで歩きながら、嬉しそうに教えてくれる。


十五分ほど歩くと、街道の突き当たりに、周囲の建物とは一線を画す巨大な石造りの大殿堂が見えてきた。屋根には剣と盾が交差した壮麗な紋章が掲げられている。冒険者ギルドだ。


「いらっしゃいませ。あら、アリアさん、ご無事だったのですね!」


受付カウンターへ向かうと、栗色の髪を後ろで綺麗にまとめた、知的な雰囲気の女性職員が笑顔で迎えてくれた。胸元には『シーナ』と書かれた金属のネームプレートが光っている。


「昨日は心配をおかけしました。それで……レンを私たちのパーティ『赤き一閃』の正式メンバーとして登録したくて!」


「まあ、新規の冒険者登録ですね」


シーナは促すように、カウンターの上に置かれた魔導石を僕の前に差し出した。手を重ねると、じわと微かな温もりが伝わり、シーナの手元の羊皮紙に文字が浮かび上がった。


【名前:カミシロ・レン】

【年齢:17】

【職業:なし】

【魔力適性:測定不能(極小)】

【体力:一般人級】

【筋力:一般人級】


「……ええと」


シーナが羽ペンを止めて、気まずそうに眉をひそめた。


「大変失礼ながら……レン様は、魔法の才能も、武芸の訓練を受けた形跡も……ほぼ皆無のようですね。一般的な村人の平均値と同等か、それ以下です」


「おいおいシーナさん、冗談だろ!?」


後ろからテオが身を乗り出した。


「レンはただの素人じゃねえぞ! こいつは森の中であの魔狼(ガルム)の群れを先回りして、俺たちに完璧な指示を出して追い払ったんだ!」


「魔狼(ガルム)……!? あの『百眼の魔狼(ガルム)』ですか!?」


シーナが目を見開く。周囲の冒険者たちから、疑念と嘲笑の混ざった雑音が上がり始めたが、アリアは一切怯むことなく、ギルドのカウンターに一袋の革袋を置いた。


「嘘じゃありません! これが証拠です! アリアの『閃光斬(フラッシュ・エッジ)』で叩き割った、ガルムの顔面の『眼球結晶』の破片です!」


ジャラッ、と転がり出た赤黒い水晶の破片を見た瞬間、周囲の冒険者たちの顔色が一変する。


「間違いありません。本物の生体結晶です。……信じられない」


シーナは深々と僕にお辞儀をした。


「失礼いたしました、レン様。あなたの真価は、数値では測れないもののようですね。本日より、カミシロ・レン様を冒険者として登録いたします。また、特別報酬として【大銀貨五十枚】をお支払いいたします!」


「大銀貨五十枚……!? やったーッ!!」


テオが跳び上がり、ボルドが「ガハハハ!」と大笑いして僕の背中を叩いた。アリアも飛び切りの笑顔を僕に向けてくれる。


      *


手続きを終え、大金の報酬を受け取った僕たちは、ギルドの建物を後にした。


「よーし! まずはレンの服と、防具を買うのが先だな!」


賑やかに喋りながら石畳の街道を歩く三人。その会話を聞きながら、僕はふと、空を見上げた。


時刻は昼過ぎ。本来なら、太陽の光に包まれているはずの時間帯だった。


けれど――街を囲む巨大な石造りの防壁の向こう、北の空の果てに、異様な光景が広がっていた。


「……あれは?」


僕が立ち止まって呟いた声に、アリアたちも足を止めて空を見上げた。


北の地平線の彼方。紫色の空の境目に、ドス黒く濁った群青色の雲が、まるで生き物のように渦を巻いていた。天を覆い尽くすほどのスケールで拡大し、太陽の光を遮っていく。


心地よい秋風が消え去り、ぬめりとした湿気と、わずかな『塩の匂い』を含んだ冷たい風が、僕の頬を撫でた。


「海の、匂い……?」


ボルドが怪訝そうに鼻をひくつかせた。


「おかしいな。ここは内陸の深緑の森に囲まれた街だぞ。海なんて南へ何百キロも離れた場所にあるはずだ……なんで北の空から潮の匂いがするんだ?」


見上げれば、森の方角から何千羽もの鳥の群れが、悲鳴のような鳴き声を上げながら南へと飛び去っていくのが見えた。


その時だった。


――ズゥゥゥゥン……。


地響きとも雷鳴とも違う、空の遥か高所から、空気を直接振動させるような低く重い『長鳴き』が響いてきた。生き物の声だ。


街の石畳がピリピリと微振動し、建物の窓ガラスが音を立てる。


渦巻く群青色の雲の隙間から、一瞬だけ――山一つを丸ごと飲み込むほど巨大な影の輪郭が透けて見えた。


街中が「な、なんだあの影は……!?」「鳥たちが逃げていくぞ!」と騒然となる中、僕は本能的な悪寒に身体を震わせた。


理由も、正体も分からない。だけど、あの空の影が放つ圧力を前にして、全身の細胞が「あれは人間が抗える存在ではない」と絶望的な警鐘を鳴らしていた。


「レン……? 顔色がすごく悪いよ……?」


アリアが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。緑色の瞳には、まだ何も知らぬままの笑顔がある。


せっかく、勝ち取ったんだ。


みんなで笑って、冒険者としての一歩を踏み出したばかりなんだ。


理由も知らずにただ怯えていたら、またあの森の時と同じように、気づいた時には全員殺されてしまう。


「……ねえ、アリア」


僕の真剣な声に、アリアは少し驚いたように表情を引き締めた。


「あの雲と……空の影。ただの自然現象じゃない気がするんだ。……お願いだ、さっきのギルドへ戻って、あの不気味な影や北の空に関する記録があるか、資料室を調べさせてほしい!」


アリアは一瞬目を見開いたが、僕のまっすぐな瞳を見て、力強く頷いてくれた。


「分かったわ、レン! あなたの勘を信じる。みんな、もう一度ギルドに戻るわよ!」


      *


ギルドへ引き返した僕たちは、シーナさんの案内で地下にある古い資料室へと通された。


「北の空の異常と、あの巨大な影……ですか?」


シーナさんは神妙な顔つきで、埃っぽい羊皮紙の古文書を何冊もテーブルの上に広げてくれた。


「実は、ギルドの観測部からも先ほど連絡が入ったばかりなのです。北の海上から押し寄せる異様な大気圧と極寒の雲……そして、古代伝承に記された『ある災厄』の前兆と酷似している、と」


「……古代伝承の、災厄?」


僕が身を乗り出すと、シーナさんは一冊の黒革の古書をそっと開いた。そこには、群青の空を泳ぐ巨大な鯨のようなバケモノの挿絵が描かれていた。


「この世界には、人が決して抗ってはならないとされる【七大罪の天災級魔獣】と呼ばれる絶望の存在が

言い伝えられています。そして……今まさに北の空から近づきつつあるのは、その第一の災厄」


シーナさんの声が震えていた。


「【傲慢】――天穿(アポカリプス)の星鯨(セレスティア)。空を泳ぎ、通り道にある都市をその質量と暴風だけで丸ごと圧潰させる、天災そのものです」


「天穿の……星鯨……」


アリアが絶句し、ボルドとテオの顔から完全に血の気が引いた。

「嘘だろ……そんなおとぎ話の化け物が、この街に来るっていうのか!?」

「古文書の記述によれば……前兆である『潮の匂い』と『群青色の雲』が街を覆ってから、星鯨(セレスティア)が真上に到達して街を押し潰すまでの猶予は……わずか【三日】」


三日。


その決定的なタイムリミットを聞いた瞬間、僕の中で点と点がつながり、激しい衝撃が走った。


あの不気味な雲の拡大速度、鳥たちの逃走、そして空を覆う巨大な影のスケール――すべてがロジカルに噛み合ってしまったのだ。


(あと三日で……この街が丸ごと押し潰されて滅びる……!)


アリアたちが息を呑み、絶望に言葉を失う中で、僕はポケットの中にある壊れたスマホを強く握りしめた。


七大罪・第一の災厄。空を覆う天災級魔獣。


魔法も武力もない、一般人の高校生である僕にとって、これ以上ない圧倒的な「無理ゲー」だ。

だけど――敵の正体、そしてタイムリミットが三日という「確定事実」は手に入った。


(逃げても全滅するだけだ……。なら、この三日間で街の防衛設備、地形、あらゆるログを集め尽くして……あの空の化け物をハメ殺すための『討伐チャート』を構築するしかない!!)


「シーナさん、アリア……! この街の防衛兵器や、星鯨(セレスティア)に関するすべての記録を僕に見せてください!」


僕の強い眼差しに、アリアたちは息を呑み、やがて頼もしそうに微笑んで大きく頷いた。


空を覆う絶望の影の下。

七大罪を撃ち落とし、奇跡を紡ぐための本当の戦いが、静かに幕を開けた。

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