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一章1 「世界で一番優しい選択」

踏切の警報機が、耳障りな音を立ててバグっていた。


「……なんだ、これ」

 

高校の部活帰り、夜の十時。コンビニで買った100円の紙パックの麦茶を片手に、僕、神代蓮(かみしろ れん)は足を止めた。

 

いつも通る線路の踏切。けれど、カン、カン、カン、というその音は、まるで壊れたオーディオテープのように歪み、不気味に低く響いている。

 

おかしい。引き返そう。そう思った瞬間には、足元のコンクリートがぐにゃりと歪んでいた。

 

視界が、水の中にインクを落としたように黒く染まっていく。

 

耳を塞ぎたくなるような、金属を擦り合わせる大音響。


「しま、だ……っ!?」

 

叫ぼうとした声は、空気ごとどこかへ吸い込まれた。

 

重力の感覚が消え、僕は底のない真っ暗な奈落へと、真っ逆さまに落ちていった。


     *


「――っ、はぁっ!!!?」

 

激しい過呼吸と共に、僕は跳び起きた。

 

冷たい汗が全身から噴き出している。慌てて自分の身体を触るが、どこも怪我はしていない。制服のブレザーもそのままだ。


「夢……じゃ、ない」

 

手のひらに触れたのは、湿った土と、見たこともない赤黒いシダ植物の葉だった。

 

見上げれば、昼間だというのに空は紫色に濁り、太陽の代わりに二つの歪んだ月のような発光体が浮かんでいる。

 

周囲を囲むのは、ビルよりも巨大な、おどろおどろしい巨木の群れ。

 

現代日本の風景なんて、どこにもなかった。


「異世界、転移……?」

 

そんな、ネット小説の読みすぎのような単語が脳裏をよぎる。

 

だが、ワクワク感なんて万分の一も湧かなかった。あるのは、圧倒的な、心臓を握り潰されるような「恐怖」だけだ。

 

ズゥゥゥン……、と地響きが鳴った。

 

大気が震え、頭上の巨大な葉からバラバラと土が落ちてくる。

 

ガサリ、とビルほどの高さがある藪が大きく割れ、それが現れた。


「グルゥゥゥゥ……」

 

頭上遥か、見上げるような高所から、地鳴りのような咆哮が降ってきた。

 

そこにいたのは、家屋を丸ごと踏み潰せるほど、山のように巨大な狼のバケモノだった。

 

四足歩行の狼の輪郭をしているが、そのスケールは完全に狂っている。漆黒の毛並みは、触れた光をすべて吸い込むように暗い。そして何より悍ましいのは――その山のような巨躯の側面、そして顔面にかけて、びっしりと埋め込まれ、ドクドクと脈打つ『赤黒い水晶』だった。

 

結晶の奥では、まるで本物の眼球のような歪んだ魔力の光がギチギチと蠢き、数百もの「結晶の眼」が一斉に開き、僕を凝視する。


「あ、あ……」

 

腰が抜けた。

 

その巨大な質量が放つ「圧」だけで、呼吸が止まりそうになる。現代の高校生が、身一つで勝てるわけがない。

 

魔獣の無数の眼球結晶がギチギチと音を立てて、僕に焦点を合わせた瞬間、全身の血液が沸騰するような激痛が走った。

 

巨獣が、城門のように大きな顎を開いた。内側に並ぶ、僕の身長ほどもある鋭い牙。

 

あ、一瞬で踏み潰されるか、噛み砕かれて死ぬ。

 

そう確信して目を瞑った、その時だった。


「――光よ、我が刃となりて悪を断て!『閃光斬(フラッシュ・エッジ)』!!」

 

鋭い少女の声と共に、紫色の視界が真っ白な光で爆発した。

 

巨獣の顔面のいくつかの結晶が弾け、キャインッ! と山が鳴るような短い悲鳴を上げて、巨躯が揺らぐ。


「大丈夫ですかっ!? 立てますか!」

 

僕の前に滑り込んできたのは、銀色の軽鎧を身にまとった、一人の少女だった。

 

夕日のような燃える赤髪をポニーテールに結び、手には大剣を握っている。年齢は僕と同じ、高校生くらいに見えた。


「アリア! 深追いするな、こいつは上位魔獣だ!」


「分かってる! でも、放っておけないでしょ!」

 

藪をかき分けて、さらに二人、武器を持った少年と大柄な男が飛び出してくる。

 

驚いた。言葉が、はっきりと日本語として耳に届いたのだ。

 

彼女たちの連携は、見事という他なかった。

 

大柄な男が光り輝く大盾を構えて地響きのような突撃を受け止め、少年が魔術を込めた弓矢でその巨体を足止めする。その隙に、赤髪の少女――アリアが跳躍し、大剣を振るって魔獣の足首を深く切り裂いた。

 

さすがに痛手を負ったのか、巨獣は無数の結晶の眼でこちらをひと睨みすると、周囲の巨木をバキバキと薙ぎ倒しながら、凄まじい速度で森の奥へと撤退していった。


「ふぅ……。なんとか、追い払えたね」

 

アリアは剣を鞘に収めると、綺麗な緑色の瞳を丸くして、腰を抜かしている僕の前にしゃがみ込んだ。


「変な服……。あなた、どこの街の人? 怪我はない?」


「え、あ……言葉、が……」


「アリア、怯えてるだろ。よしよし、もう大丈夫だからな」


「私はアリア。こっちの盾持ちがボルド、弓手がテオ。新米だけど、一応冒険者やってるんだ。あなた、名前は?」


「か、神代……蓮。レン、です」

 

差し出された彼女の手は、剣ダコだらけで、少し泥に汚れていたけれど。

 

恐怖に震える僕に対して、世界で一番温かかった。

 

彼女たちは、怯える僕を置いていかなかった。

 

記憶喪失で行くあてがないと嘘をついた僕を、「じゃあ街のギルドまで一緒に行こう!」と快く受け入れ、僕の分の荷物まで持って、歩き始めてくれた。

 

一時間ほど歩いたところで、森の出口が見えてきた。その手前で、道が二つに分かれている。

 

右は、平坦で歩きやすそうな広い街道。

 

左は、草木が生い茂る険しい山道。


「ねえ、レン。どっちの道から行きたい? あなたの直感に任せるよ」

 

アリアが振り返り、親しげに笑いかけてくる。

 

ボルドが「おいおい、迷子に決めさせるのかよ」と笑い、テオが「アリアのそういう気まぐれ、いつものことでしょ」と肩をすくめる。

 

本当に、仲の良い、優しいパーティだった。

 

僕は、少しでも早くあの山のようなバケモノがいる森を抜けたかった。だから、迷わず、遮るもののない歩きやすそうな道を指差した。


「あっちの、右の街道が良いと思います」


「右ね! よし、じゃあ右の街道から街へ向かおう!」

 

アリアが満面の笑みで応じる。

 

それが、僕の選択だった。現代日本の、ぬるい日常で生きてきた僕の、何気ない、本当に何気ない選択。


――それが、彼女たちを地獄へ叩き落とす引き金だとも知らずに。

 

街道を進んで、わずか十分後。

 

僕たちの前に、再び『それ』が現れた。

 

先ほど逃げたはずの、あの百眼の巨獣。

 

いや、一匹じゃない。街道の左右の林から、さらに二匹、計三匹の「山」が、完全に僕たちの退路を塞ぐようにして現れた。地響きだけで、地面が激しく揺れている。


「なっ……待ち伏せ、だと……っ!?」

 

ボルドの顔から血の気が引く。

 

最初の一匹は、僕たちをこの開けた街道へ誘い出すための「餌」だったのだ。あの巨体でありながら、人間の軍隊並みの知性がある。


「ボルド! テオ!」


「クソが、やるしかないアリア!」

 

しかし、多勢に無勢だった。

 

一匹でも手一杯だった山のようなバケモノが、三匹。戦闘は、一瞬で慘劇へと変わった。


「がはっ……ぁ!?」

 

最初に倒れたのはボルドだった。横から飛びかかられたもう一匹の魔獣の巨大な前足によって、自慢の盾ごと、地面に叩き潰された。肉の弾ける嫌な音と共に、地面にクレーターができる。


「ボルドーッ!!」

 

テオが狂ったように弓を引くが、その巨体から放たれる質量攻撃には追いつかない。上空から振り下ろされた尾の一撃で、身体を真っ二つにされ、大量の鮮血を撒き散らして崩れ落ちた。


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 

僕は頭を抱えて叫んだ。僕のせいで。僕がこっちの道を指差したせいで、みんなが。


「走って、レン!!」

 

アリアの声が響いた。

 

振り返ると、アリアは全身から血を流しながら、大剣を構えて二匹の巨獣の前に立ちはだかっていた。その足は、圧倒的な体格差の恐怖でガタガタと震えているのに。


「あなたは……私が、守るから……っ!」

 

魔獣の巨大な爪が、アリアの小さな身体を深く切り裂いた。

 

赤い髪が舞い、彼女の身体が、糸の切れた人形のように地面に転がる。緑色の瞳から、急速に命の光が失われていく。


「アリアァァァァァァァァァッ!!!」

 

喉がちぎれるほど叫びながら、僕は彼女の元へ駆け寄ろうとした。

 

だが、視界が強烈にスピンした。

 

遅れて、激痛。

 

気づけば、僕の視界は地面に横倒しになっていた。首から下が、動かない。僕の身体は、魔獣の巨大な足に踏み荒らされ、無惨に引き裂かれていた。

 

あぁ、僕が殺した。

 

僕の無知が、僕の甘えが、彼女たちを殺したんだ。

 

ごめんなさい。ごめんなさい。

 

もし、もう一度やり直せるなら。今度は僕が、命に代えても――。

 

視界が、急速に冷たくなっていく。

 

心臓の音が止まる。

 

その完全に意識が途切れるコンマ数秒前。

 

僕の魂の奥底で、ドクン、と黒い何かが脈打った。


【――条件達成。禁忌書物『星蝕の魔導書(グリモワール)』を定着。ログの記録を開始します】

 

無機質な声が響き、僕の意識は、強烈な逆風に吹き飛ばされるようにして、過去へと引き戻された。


     *


「――っ,はぁっ!!!?」

 

激しい過呼吸と共に、僕は跳び起きた。

 

冷たい汗が噴き出している。


「夢……?」

 

いや、違う。手のひらには、先ほどアリアから触れられた、あの温かさの残韻がはっきりと残っている。

 

頭痛がするほどクリアな、仲間たちが肉塊に変わったあの記憶。

 

呆然とする僕の前で、ズゥン、と地面が揺れ、ビルほどの高さの藪が割れた。

 

現れたのは、あの脈打つ赤黒い水晶をびっしりと生やした、あの圧倒的な巨獣。


「あ、あ……」

 

恐怖で歯の根が合わない。

 

だが、その魔獣の遥か頭上に、現代日本のゲームのUIのような、不気味な【黒い文字】が浮かび上がっているのが見えた。


『百眼の魔狼(ガルム):危険度・災厄級。12秒後、アリアの閃光斬により右側の眼球結晶3つを破損、後退。その後、森の出口の街道にて他2個体と合流し、待ち伏せを行う――』


「百眼の、魔狼……ガルム……」

 

脳内に直接流れ込んでくるような情報。

 

それが、僕が今さっき体験した『未来の記録(ログ)』であり、この世界の理不尽な巨獣の正体だった。


「光よ、我が刃となりて悪を断て!『閃光斬(フラッシュ・エッジ)』!!」

 

視界が真っ白に染まる。

 

光の向こうから、あの赤髪の少女が、僕を救うために飛び出してくる。

 

まだアリアは生きている。ボルドも、テオも生きている。

 

僕は、ガタガタと震える拳を、爪が肉に食い込むほど強く握りしめた。

 

「変えるんだ……。今度は僕が、みんなを救う……!」

 

普通の高校生だった僕の、終わりのない『無理ゲー攻略』の幕が、静かに上がった。

少しでも面白い、先が気になると思ってくださったら、

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作者の執筆スピードが格段にアップします!

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