日記
新月までの残された時間は、あと1週間。
「命の犠牲なんていらない。正しく解き明かせば安全に帰れる」というサファイアたちの言葉に安堵しながらも、桃の胸の奥には静かな覚悟と、切ない切迫感が満ち始めていた。
――もし、自分が突然いなくなってしまったら。
桃は、みんなに決して悟られないよう、静かに身の回りの整理を始めた。そして小さなノートを開き、この世界で出会ったかけがえのない日々を綴っていく。その日記は、かつて同じように異世界へ来て事故に遭い、傷ついたローズに向けたメッセージでもあった。自分が急にいなくなっても、ローズが孤独に迷ったり困ったりしないように――この世界の仕組みや、みんなのこと、伝えきれなかった想いを、彼女が後から読んで困らないよう、そっと書き残していく。
そして昼間、桃が何よりも心を注いだのは「オルゴール作り」だった。
「ねえ、トパーズ。このディスクの穴、もうちょっと削った方が綺麗な音になるかな?」
「ええ、とても丁寧で素晴らしい仕上がりですわ、桃。ここをほんの少し滑らかにすれば、響きがもっと澄んでいきますのよ」
トパーズの隣で真剣な手つきで作業を進める桃の横顔を、ルビーやサファイアも温かな眼差しで見守っていた。
オルゴールの盤面に1つ1つ音を刻んでいく作業は、まるでみんなと過ごした時間を音符に変えていくような、愛おしくも切ない時間だった。
金属の削れる静かな音と、時折こぼれる小さな試聴の音色。
「あ、今の音、すごく綺麗!」
「だろ? オレがさっき微調整したんだぜ!」
「ルビー、自慢するのは完成してからにしなさい」
そんな他愛もない会話と笑い声。桃は手元に集中しながら、みんなの声を、この空気感を、胸の奥深くにしっかりと焼き付けていく。誰にも気づかれないように、ローズへの願いを込めた日記のページをながら握り締める。
新月までのカウントダウンが刻一刻と迫る中、テントのなかには張りつめた緊張感と、どこか心地よい熱気が満ちていた。
「よし……これでメインギアの噛み合わせ、コンマ一ミリの誤差もなくなったぞ」
ランプの明かりの下、サファイアが眼鏡の奥の瞳を細め、細密な設計図と手元の真鍮製歯車を見比べながら呟く。
豪華な宝石箱のような装飾も、凝った木彫りの外箱も一切ない。
今、目の前で組み上がりつつあるのは、台座の上に歯車と櫛歯、そして円盤を回す駆動部だけが露出した、余計なものを極限まで削ぎ落とした「機能だけの無骨なオルゴール」だ。
だが、その簡素な金属の塊には、4人の本気が隙間なく詰まっていた。
「ルビー、ディスクに打つピンの位置、次の音節に入るぞ」
「おう、任せとけ! 桃、削る穴の位置、指で押さえててくれ」
「うん、ここ……!」
桃の指し示す位置に、ルビーが集中した眼差しで細いタガネをあてる。カツン、カツンと小さな槌音がテント内に規則正しく響いた。ルビーの器用で正確な指先が、桃の思い描く旋律を、一枚の薄い金属ディスクの上に一音一音刻み込んでいく。
「ふふ、息がぴったりですわね」
隣でトパーズがそっと微笑みながら、音を鳴らす心臓部――金属の櫛歯を研磨していた。
極小のヤスリで金属の先端をほんのわずか削り、指先で弾いては耳を澄ませる。
ピン……
「もう少し……ほんの少し削れば、もっと澄んだ音階になりますわ」
トパーズの妥協のない耳が、一音ごとの波長を限界まで研ぎ澄ましていく。
装飾で飾る時間なんてない。見た目の美しさよりも、ただ「正確に、美しく、一音残らず思い通りの音を響かせること」だけに全員が全神経を注いでいた。
作業の合間、桃はそっと胸のポケットに収めた小さなノートに触れた。
身の回りの整理はすでに終えている。そしてそのノートには、この世界で出会ったかけがえのない仲間たちとの日々や、急にいなくなった後にローズが困らないための言葉が、誰にも気づかれないように丁寧に書き留められていた。
もし、これが本当にお別れになるのだとしたら。
この無骨な金属に刻まれる旋律こそが、自分がここにいた証明になる。
「……できたぞ。最終組み上げだ」
サファイアの声に、全員の作業が止まった。
ルビーの手によって穿たれた金属ディスクが、サファイアの組み上げた無骨なフレームにセットされる。トパーズが調音しきった櫛歯が、正確な位置でディスクと噛み合った。
装飾の欠片すらない、真鍮と鋼の無機質な姿。
けれどそこには、血の通った温かな情熱が宿っていた。
「桃、仕上げのゼンマイを巻くのは、君の役割だ」
サファイアに促され、桃はゆっくりと金属の小さな鍵を手に取った。
指先に伝わる固いゼンマイの手応え。ゆっくりと、ひとつ、ふたつと回していく。
静寂が、テントを包み込んだ。
桃がそっと手を離すと――カチリと小さなギアが噛み合い、無骨な金属の盤が静かに回り始めた。
ピロリン……ピン……
金属の爪が櫛歯を弾き、冷たいはずの真鍮の塊から、驚くほど温かく澄み切った旋律が溢れ出した。
無駄な装飾がないからこそ、音の振動がダイレクトに空気を震わせ、みんなの胸の奥深くへとまっすぐに響いていく。
「あ……」
桃の目から、不意に温かいものがこぼれそうになった。
みんなで作り上げた、世界にひとつだけの音色。
「すっげえ……めちゃくちゃ綺麗な音じゃんか……!」
ルビーが満足そうに不敵に笑い、トパーズも胸の前で手を組んで優しく目を細める。
サファイアもまた、満足げに眼鏡の位置を直しながら頷いた。
「大成功だな。飾り気はないが……音の精度は完璧だ」
「うん……すごく、すごく素敵なオルゴールだよ」
旋律が優しく響く中、桃は愛おしそうにその無骨な機械を見つめた。
新月まで、あとわずか。




