さわがに
男がよく通る道に小さな小川が古くからある。
どぶ川というわけでもなく、沢蟹なども住んでいるような、そんな小川、いや、川といっていいのかもしれない。
夜中、仕事帰り。
男がその川の付近を歩いていると、道を何かが蠢いているのを発見する。
沢蟹だ。
小さな沢蟹が無数に蠢いている。
それらの沢蟹は一斉に川に向かって進んでいる。
沢蟹の大移動か、なんてことを男は考えて、少しの間だけ、足を止め、その沢蟹が移動し終わるのを待った。
まだ生まれたばかりの子蟹に思えた。
踏んでしまうのもかわいそうだと、そう思えたからだ。
それにこれほどの大量の蟹の移動だ。
男も少し興味がわいてしまっていたのもある。
ただそれほど長いこと蟹の移動は続かなかった。
五分もしないうちに蟹の移動は終わり、すべての子蟹が川へと到達したようだった。
あの蟹はどこから来たんだろう、と男が思うが、蟹が来た方向には舗装された道路しかなく、蟹が住んでいられるような場所はなさそうだった。
そこで今度は蟹が移動した先、川の方を見る。
ゴツゴツとした岩と小石があるような川だ。
幅は二メートルもないような小さな川だ。
その川の少し上流の方にまで目をやると、人が川の中で倒れているのが目につく。
男は慌てて駆け寄り、川の中で倒れている人の様子を見る。
完全に顔が水の中に浸かってしまっている。
川の流れで手足が揺れているが、自ら動いているようには見えなかった。
さらに、その倒れている人に、先ほどの子蟹が、いや、子蟹だけではない。
大きな、こぶし大くらいはあるかもしれないくらいの沢蟹などを含めた、様々な大きさの沢蟹が、その倒れている人物に群がっていた。
あの蟹の大移動はここへ集まるためのものだったのだと、男は理解した。
男は震える手でスマホを取り出し、警察に電話をする。
電話をして、警察が来るまでの間、男は震えながら川の中で倒れている人を見守る。
少し川に沿って入ってしまい、道からそれたため街灯などの明かりがない。
明かりは手に持つスマホの明かりだけだ。
そんな薄暗いなかで、自分の足元を数匹の沢蟹が通り過ぎていく。
通り過ぎていくだけではない。
靴の上にも這い上がろうとしている。
男は、ヒィ、と情けない声をあげて飛び上がる。
その瞬間だ。
川の中の人物が男の方を、川の中に浸かっている顔を、一瞬だけ上げて見てきた。
男はそれに驚いて、バランスを崩し河原で尻もちをつく。
小石ばかりで非常に痛い。
だが、それよりもすぐに沢蟹が男に集ろうと集まってくる。
尻もちをついたときに落としたスマホを拾い上げ、男は道の方まで逃げ帰った。
その時に数匹の沢蟹がそれでも男の服にしがみついていた。
数分後、警察が到着し、川に倒れていた人物の場所を警察に教える。
後から男が聞いた話では、河原を散歩中に足を滑らせてしまい打ちどころが悪かったのでは、という話だった。
ただ、その死体は沢蟹に齧られたような跡が無数にあったという話だ。
問題なのはここからだ。
男はその後、なんだかんだあったりはしたが無事に家に帰れた。
その時、男が着ていた服に一匹の沢蟹がまだ引っ付いていたのだ。
男は川で倒れていた人物、つまりは人の死体を食べていたかもしれない沢蟹を嫌い、それを摘まんで窓から外へと投げ捨てた。
男は選択を誤った。
殺しておくべきだったのだ。
生かして返してしまったため、男に居場所を沢蟹達は知ってしまった。
沢蟹達は夜な夜な大移動し、男の家まで大量に押し寄せてくることになった。
あの沢蟹達は人の味を覚えてしまったのだから。
さわがに【完】




