くるまいす
夜、男が仕事帰りの途中で、車椅子を見かける。
車椅子には誰も座っていない。
そんな車椅子が道の真ん中、しかも電灯の下にぽつんと置かれている。
男はなんとなく不気味に思いつつも、どうしても電灯の下で目立つので目が行ってしまう。
本当に何の変哲もない車椅子だ。
大きな病院で見るような、そんな車椅子だ。
車椅子の前を横切る時、男はなんとなく視線を感じる。
他に誰もいないのに、視線のようなものを感じたのだ。
辺りを見回すがやはり誰もいない。
男は車椅子の前を横切り、自然と少し早歩きになる。
スタスタと男が歩いていると、ギィギィと金属が軋むような音が背後から聞こえてくる。
慌てて、男が振り返ると車椅子の方向が変わっており、男の方を向いていたのだ。
ゾクゾクとした寒気が男の背筋に走る。
男はその車椅子を見たまま後ずさりし、そして、ある程度距離を取ったところで振り返り全力で走りだした。
息切れするまで走り、そして、膝に手をついて呼吸を整える。
そして、振り返って絶句する。
かなりの距離を走ったはずなのだが、一番近くの電灯の下にあの車椅子があったのだ。
しかもガタガタと独りでに揺れている。
今にも男の方へと向かってきそうなのだが、揺れているだけで向かってくることはない。
それでも男は逃げるように走り出す。
もうまともに息ができず、歩くのとそれほど速度が変わらなかったが、男は必死に走った。
精も根も尽きたというところで、男はもう走れないと、立ち止まる。
その場所は、ちょうど電灯の下だった。
そう、電灯の下だったのだ。
男は思い出す。最初に見た時も、二度目に見た時も、あの車椅子は電灯の下にあったと。
不意に男の背後に誰かがいるような気配を感じる。
振り返ると、そこにはあの車椅子があった。
今はガタガタと震えていない。
男は恐怖に恐れ戦くが、車椅子の駐車用ブレーキが掛けられていることに気づく。
だから、揺れるだけで前に進めはしないのだと、男は唐突にそれが分かる。
そして、自分はその駐車用ブレーキを解除しなければならないのだと、そう唐突に感じ始める。
恐らく良くないことが起こる。
それが分かっていても、男は車椅子の左右にある駐車用ブレーキを両方解除してしまう。
すると、これでいつでも会いに行ける、という男とも女ともつかない声が男のすぐそばから聞こえてきた。
男はそれを聞いて、飛び上がり、その場からよろつきながらも何とか逃げ出していった。
振り返ってももう電灯の下に車椅子はない。
ないのだが、ふとした時に男は見るようになった。
視界の端に映る、誰も乗っていないはずの車椅子を。
くるまいす【完】




