幕間1.初めてのご主人様
今回は何故ヒロインがあそこまで主人公を好いているのかという話
産まれ堕ちた私は、影女という役割を与えられた。
堕ちる前の記憶は、ないわけではない、という程度。
慟哭、怨嗟、逃げ惑う人々。
それを、羽虫のように握りつぶす、私ではない私。
ただノルマを達成するためだけに、消化される肉たち。
感情はなく、淡々と。
目をえぐり、喉を貫き、肺を焦がし、脚をもぎ取る。
『そういう存在』だから、その行為について、理解していないし、する必要もない。
それが、どれほど続いただろうか。
断片的な記憶は走馬燈のように流れ、時間の感覚をひどく鈍らせる。
数年か、数十年か、数百年か。
あるいは、それ以上か。
目を覚ますような感覚と共に、私は気づいた。
それまでの存在から、影女へと堕ちたのだと。
自分という意識があることに喜びを覚えた。
これで、あのようなおぞましい存在から抜け出せる。
おぞましい?
ああ、おぞましいのだ。
この白い腕も、細い脚も。
体中、穢れていないところがない。
無論、それは堕ちる前の、別の存在であったときのことだとしても。
かつてそうであったという事実が、私を苛んだ。
そもそも、私は『影女』である。
他者の模倣をすることには長けていても、創造することは随分苦手だ。論外といってもいい。
元々の姿は過去を思い出して辛いのに、別の姿を取るというただそれだけのことに何十年も気づかなかった。
毎日が後悔と焦燥と憤怒と自己嫌悪に苛まれ、呼吸をするだけで吐き気を催すほどである。
私はそれを振り払うように、手始めに、そこいらを歩いていた男に憑いてみた。
後から振り返ってみれば、特にどうということもない男であったが、そのときは誰でもいいから奉仕し、過去の別の自分と決別したと言い聞かせたかったのだ。
影女は、良い妖怪。
男に尽くし、男のために存在する。
実に甘美な響きだ。
無償の奉仕に男も喜ぶし、私も「良いことをしている」と思えて嬉しい。
しかしそれも長くは続かなかった。
良い男に憑けば、すぐに新しい番いを見つけ、私は御役御免になる。つまらない男につけば、最初は驚いていたとしても、いつしかそれを当然と受け入れ、何なら窓の桟に指を這わせ、「なってないな」などと呟くのだ。
お前は小姑かっ!
鏡なのかと思うほど全面を掃除し、貴族もかくやというほどの食事をだし、箪笥を開けばそれ一つで小さな家が建つほどの着物を入れておけば、それはそれでビビって逃げる癖にっ!
人間が、「何かはわからないが、自分に尽くしてくれている存在」に肯定できる範囲は、ことのほか狭い。あまりに強く奉じても、それに報いる何かを差し出さねばならないと考えるようで、加減を間違えればすぐに逃げ出してしまう。家だけでなく男にも憑いているので、次の住居に憑いていくことも勿論できるが、虚しさが残るだけだ。
肥大化する承認欲求が首をもたげる度、自分に恥じ入る。
きっとこれは贖罪であり、罰なのだ、と言い聞かせる。
私は、その立場を嫁か何かと勘違いしていたのだが、実際は全然違ったのだ。せいぜい、見えない家政婦が関の山。
『影女』などと大層な名で呼ばれているが、結局私は次の女への間に合わせの存在。私がどれほど相手を想ったところで、男はポッと出の女に乗り換えていく。
何から生まれたのかを思い出せ、千影、と。
千影という名前も、自分が存在すると、自然と浮かんできた名前であった。
千の影か、とあまりにもそのまま過ぎる名前に自嘲の笑みを浮かべたものだ。
そして、影女としての生も、どれだけ長くなったのかわからないほど時が経ったとき。
あの人に憑けた。
世界は科学で満ち、妖怪が駆逐されていく中、影女である私も例外ではなかった。
少し部屋を掃除しただけで、薄気味悪がり、転居する。食事の準備など論外だ。昔は良かった、などと老害のような言葉をもらしそうなほど。
私に居場所はなかった。
このまま誰に必要とされることなく、消え行く運命なのだろうと自覚した。
そんな時、見るからにやつれ、いつ死んでもおかしくない、幽鬼のような男に出会った。少なくとも目は死んでいた。
この若さでここまで追いつめられた人間に会うのは何百年ぶりだろうか、と振り返ってみたくなるほどだった。
生きているのが不思議なんじゃない。
死んでいないのが不思議な男だった。
その男は、自分の住居に戻ると、それこそ死んだように眠り、携帯のアラームが鳴ると仕事に向かう。それだけを繰り返す人形のように思えた。
憑こうか。
いや、考えるまでもなく、憑いた方が良い。
目の前に、生きながらにして死地へと赴く男がいる。
それを救わずに、影女と呼べるのかと、私の中の矜持が叫んだ。
しかし、あまりに早く手を出せば、かつてのように気味悪がられるだろう。それが最後の一押しとなり、そのまま、なんてことになれば笑えやしない。
私はまずその男の部屋を少しだけ掃除してみた。本当は精のつくものでも作って食べさせたいが、あまりにも露骨だろう。
八日ぶりに自宅に帰った男は、最初その部屋を胡乱なものを見る目で眺めた。ダメか、と思ったが、そのままベッドにダイブした。
あの反応は、確かに気づいたはずだ。以前と、部屋の様子が違うことに。
それを許容するだけで、数十年ぶりだった。
私は次に、冷蔵庫に料理を忍ばせた。
あからさまに手作り料理を入れておけば不審がるので、スーパーで惣菜を入れていたパックを洗い、そこに詰めた。
やはりしきりに首を捻っていたが、男はそれを結局食べた。
追いつめられているのだ。食わなければ死ぬのなら、食うしかない。
それがわかっていても、不思議なことに抵抗を覚えれば、それから逃れようとする。
逃げは死なのに。
私は、これまでの経験を生かし、さじ加減を間違えないようギリギリを攻めた。
男はそうして、ついに自分では確実に作らないだろう肉じゃがの入った鍋にも手を伸ばした。100%おかしいと気づいているが、それを受け入れたのだ。
私はパクついた瞬間両手を挙げて喜び、その夜一人で晩酌した。感覚としては野生動物への餌付けに成功したようなものである。
目が覚めたとき、男はいつものように会社へと向かった後だった。私は充実感とともに、さてこれがいつまで続くだろうと考えた。
元気になればいつかは私を拒絶し、この部屋を出ていくだろう。それはとても寂しいことだが、仕方がない。
ずっと繰り返してきたことなのだ。
男の、世界全てを恨んだような目つきも慣れたのに勿体ないな、と小さく笑った。
出会いがあまりにも最悪だったので、今の彼を見てもどうということはない。むしろ、精悍な目つきは仕事の男という感じで、かっこいいとすら思えた。
私は立ち上がり、一度背伸びをし、肉じゃがを入れていた鍋を洗おうとした。
「あら。本当にきれいに食べて……」
私は鍋をのぞき込み、声が止まった。
そこには、「いつもありがとう」と、汚い文字で書かれた紙が一枚置かれていた。何度も書き直した跡が残っているが、結局シンプルにしたらしい。
「……っふ」
影女として新たな生を受けて数百年。
『影女』を認識した男は、まず驚き、次に危険物のように距離をとる、もしくはつま先で安全を確かめ、危険がないとわかると「何か知らないが自分に尽くしている奴がいるらしい」と態度を尊大に変えていた。
「ふえっ……」
そこには「ラッキーだ」と思うことはあっても、「ありがたい」と思う男はいなかった。当然だろう、私が勝手に憑き、勝手にやり始めたことなのだから。
そこを責める気はないし、仕方ないと諦めていた。
でも、あの人は!
あの人は違ったのだっ!
「うわあぁああっ! あぁっ! あああぁああぁあぁああぁぁっ!!」
私は泣いた。
生まれて初めて、悲しみじゃなく、喜びの涙を流した。
心が、こんなにも温かい。
私の中の汚いものが、涙とともに外へと流れ出ていくようだった。諦めていた世界は、こんなにも輝いている。
ああ、もう無理だ。
私は、あの人なしでは生きられない。あの人の与えてくれるすべてが愛しい。あの人に、私の全てを捧げてしまいたい。
私の、『初めて』の、ご主人様。
例え世界がそれを拒絶しても。
私は、あなたを愛することを諦めない。
少しでも気に入ってもらえれば嬉しいです。
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